彼は誰時・1
再就職の内定を貰って間もなく、研修用の資料を渡したいという名目で電話が入り、電話を寄越した担当から『それと、実は折り入ってお伺いしたい事がありまして。ご都合がよろしければ一緒にお食事でも』という話が来て、正直言って内定の辞退をしようかどうか少し迷った。
会社を離れてまで聞きたい内容だなんて、どう考えたって章弘の身辺に関わる事に決まっている。その最たる物は地元での噂話で、身に覚えのあるような無いような話があれば、金に困っているとか、なってもいない感染症に罹っているとか、あからさまに悪意を含んで囁かれている話も存在する。特に、昔同じ学校に通っていたという人達が喋るとそういう話に尾ひれを付けて様々な憶測にまで言い及ぶので、例え面接の時に好感触だったとしても、そういう噂を聞いたらしい担当者から後日”お祈り”の連絡が来て落胆するというのがこれまでのパターンだった。
『行ったら良いじゃありませんか。呼ばれたからには向こう持ちでしょうし、別に取って食われやしないでしょうに』
電話の向こうで事も無げにそう言った一尚に「そ~なんだけどぉ」と返し、焼いていた肉の塊を返してフライ返しでフライパンに押し付ける。その音を聞いて『ひどい飯テロですね』と唸った一尚の後ろでは駅の構内放送が鳴り響いており、彼がまだ昼食にはありつけない環境である事を物語っていた。
『最悪そこがダメだったって次頑張ったら良いだけの話です。章弘さん資格あるんですし、下手な新卒より求人あると思いますよ』
「そんな簡単に言わないでよ……、狭い世界で断られてると結構ダメージ大きくて。断った側でまた何言われてるかも判んないし、そっからまた話が広がるかと思うと、ねえ……」
『そうかも知れませんけど……。ちょっとやそっと断られたからって死にやしないですし。章弘さんだって業界は違ってもこれまで人の為に動いて来たと思うので、ちゃんとご縁は回って来ると思いますよ』
「ご縁、ねえ……」
『それに人の噂を真に受けるような場所なら、案外最初に断られた方が良かったというか。そういう所って入った後も苦労しそうですし』
「そうかしら」
『そうですよ。就活に関しては章弘さんより場数踏んだんですから、ちょっとは信用して下さい』
そうして笑い混じりに言われた言葉にまた唸って返すと、駅のホームに電車が入る旨を伝える放送が聞こえ、一尚からも『じゃあ電車が来るようなので、また』と言われて間もなく電話を切った。
ふっと息を吐いてスマホを手放し、肉の焼き加減を確認して皿を用意しにかかる。ついでに何か付け合せをと考え始めた所でスマホが何かのメッセージを受信した音がして、ロックを解除してすぐに一尚の名前が見えた。
そこには『風邪でもないのにウジウジしてるのなんて初めて聞いたので、章弘さんもちゃんと人の子なんだなと思いました』という茶化すようなメッセージが入っており、チョイスされた顔文字のゆるさに破顔した。
この間啓介に言われた通り弱音を吐いてみたのは良いが、自己開示の気恥ずかしさと照れ臭さに慣れるまでには少し掛かりそうだ。そんな章弘とは相反して嬉しそうな様子だった一尚は、章弘が返事をする前にパッとスタンプまで送って寄越し、グッと親指を立ててエールを送る動物の絵を前に噴き出さずにいられなかった。
どうしようも無くたって、口に出す事で変わる事もあるのか。
頭の隅にある漠然とした不安が完全に無くなる日はまだ遠いのかも知れないが、取り留めのない話でも言葉にする事で頭は整理され、聞いて貰えた事で気分も随分違う。石井の長男坊は会社で頼られているだけあって流石の聞き上手で、こちらの言いたい事を上手く要約してきちんと受け止めてから意見を言ってくれる。声音のせいか率直で飾らない意見には安定感があり、多少強引とも取れるアドバイスも抵抗なく受け入れる事が出来た。
考えてみれば確かに、これまでは周囲の話を鵜呑みにしたであろう人達はいても、わざわざ場を設けてまで話を聞いてくれるという担当者もいなかった訳だ。彼の言う通り数少ない機会ではあるから、行ってきちんと話をして来るのもきっと悪くはなさそうな話である。どうせ隠していたって影でコソコソ言われているのだ。それなら自分の口できちんと事実を話したってバチは当たるまい。
最も、章弘の場合はその事実を直視するのが辛かったりするのだけれど。黒歴史をほじくり返して他人様の前で喋らなければいけないなんて、一体どんな罰ゲームなんだろう。
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指定された卯月という料亭に向かって歩道を移動していると、急に「おい」と声を掛けられた。声の方を見ると、路肩に停めた高級車に寄り掛かっている男がいる。このご時世に勇敢にも路上喫煙で何かを待っていた様子の彼は、章弘の顔を見るなり「乗れ」と言って助手席側を顎で示し、吸っていた煙草をポケットから出した携帯灰皿に押し付けた。
「……?」
「乗れって言ってんだろうが、早くしろ」
「はあ、失礼ですがどちら様でしょう」
「卯月に行くんだろ、送ってやる」
「今時、小学生でも知らない人の車には乗らないと思うんですけど」
「うるせえな、俺が知ってるから別に良いんだよ」
「どんな屁理屈よ、それ……」
「良いからさっさと乗れ、面倒くせえな」
心底嫌そうに舌打ちした彼はそう言い捨て、前後を確認して運転席側に回って行ってしまう。どう考えても怪しげな男ではあるが、車の車種や身なりからいってそれなりの出生の人間であるという事だけはハッキリしている。一応護身用の道具もポケットや鞄に入っているし、これだけ言葉足らずで警戒心を煽る人攫いもいないだろうと判断して仕方なく助手席のドアを開ける。乗り込んだ車内には嗅ぎ覚えのある香りが漂っており、フロント部分には見た事のある芳香剤の瓶が鎮座していた。思わず隣を見ると彼は涼しい顔でエンジンを掛け、道路状況を確かめてスムーズに車を走らせ始める。色付きのレンズが入った眼鏡を掛けた横顔はよく見ると、この芳香剤を使っている男の顔に似ているように思えた。
「……貴方、もしかして石井さん家の人?」
「そうだ」
「呆れた、だったら最初っからそう言いなさいよ。どんなヘンタイの人攫いかと思ったじゃないの」
「ハァッ? なんで俺が四十過ぎた男を攫うんだよ、ヤり過ぎて頭湧いてんじゃねえのかテメエ」
「初対面で結構なご挨拶ね。否定はしないけど。っていうか何、私の就職ってもしかして貴方達が噛んでるの?」
「いいや? ウチの会社じゃないが、旧い付き合いの所なんだよ。心配しなくても一尚には何も言ってない。お前は黙って座ってろ」
明らかに苛ついた様子の彼からは、さっきまで外で吸っていた煙草の香りが漂っている。しかし乗り込んだ車内には染み付いたようなヤニ臭さは殆ど感じられない。運転先側のドリンクホルダーに小型の空気清浄機が収まって稼働しているのを見て納得し、そこまでする位なら煙草を止めればいいのにと呆れ返って腕を組んだ。
大通りを左折してすぐに赤信号に引っかかり、それに嘆息した彼が「着くまで暇だろ、良いモン見せてやろうか」と言って車載ホルダーにセットされているタブレットの画面に触れる。メディアの一覧を表示させた所で前の車が動き出したのを見た彼は、「動画だ、その暗いヤツ」とニヤついた顔で言って章弘にそれを操作するよう促した。
……あ。
言われるままに背景の暗い動画を全画面に表示させ、映っている映像を前に全身から血の気が引くのを感じた。全体的に暗くて判り難い映像だが、画面を半分埋め尽くすように映されているのは名札用のプラスチックカードだ。しっかりと映されているその写真には当然覚えがあり、目にした画像だけで噎せ返るような匂いも苦い記憶も、押し寄せる洪水のように頭の奥から蘇るようだった。
「遠慮すんな、見てみろよ」と言った彼が容赦無く画面をタップし、程なくその映像が動き出してしまう。それを止めようとして伸ばした手は運転中の筈の彼に掴まれ、ギリギリと強く締め上げられて骨が軋む。痛みに気を取られている間にタブレットは”あれ”の時の声を再生し始め、荒っぽいやり取りと卑猥な言葉が不愉快に鼓膜を揺らす。それによって表情を歪めた章弘を、彼は慈しむように眺めて掴んだ手を離した。
やけに長い事顔を見ていると思い、周囲を見るといつの間にか料亭の近くの駐車場へ来ている。そんなことにも気付かない位動揺していた事に驚き、急いで車を降りようとシートベルトを外した所で同様に自由になった彼に髪と顎を捕んで抑え込まれ、「逃げる事ねえだろ」と映像を流し続けるタブレットの画面をまざまざと見せ付けられた。
「これ、撮ったヤツがネットに疎くて良かったな。新しいのに移す方法も判んねえって、ご丁寧に端末ごと持ってやがったよ。野郎でなんか抜けねえと思ったけど結構クるもんだ。オラ見ろよあんなに咥え込んで、さぞ気持ちよかったろうなあ?」
「……っ悪趣味な人ね」
「ハ、さっきより良い顔になったじゃねえか。ずーっと逃げ回ってた癖に、今更まだこんなモンが怖いのか」
「当たり前でしょ」
「そんなに怖いならいっその事、地の底まで堕ちて何も判らなくなっちまえば良かったのに。身体は堕ちても性根までは堕ちねえってか? お綺麗な精神だなあ」
「っ、いつ、までっ、触ってんのよ!」
心の底から楽しそうに言い放った彼を押し退けると、髪を掴んでいた手はすぐに離れ、身体を押さえ付けていた腕の力もスッと抜ける。替わりとばかりに気色悪い程優しく頭や頬を撫でられ、思わず振るった指先がキレイに彼の頬を打ち、嬌声が響く車内に大きくバチンと乾いた音が響いた。




