溢れ始めたこと・3
目を覚ますとカーテンの外はまだ暗いままだった。
冬にしては高かった気温のせいか、枕や布団に熱が籠もり、自身の体温だというのに鬱陶しく感じてしまう。少なくとも目を覚ましたという事で得体の知れない息苦しさから解放されたような心地で起き上がり、何度か深く呼吸をした。
嫌な夢を見たような気がするが、そんな物は何も見ていないような気もする。無理矢理起こした身体もやけに重苦しく感じられ、何の変哲もない自室の空気にさえ押し潰されてしまいそうである。
ここ最近はずっと頭の片隅に理由の判らない切迫感がずっと燻っており、こんな風に寝覚めが悪いのはそいつが関係しているに違いないと思った。
時計を見るとまだ四時前で、日の出には程遠い時間である事が判る。眠っても眠ってもこんな風に中途半端な時間に目が覚めて、十分な休息を取ることが出来ないままいつも起きる時間を迎える。そんなのが一週間程続いているのだ。
仕方なく寝返りを打って布団を被り直し、息を吐いて目を閉じる。一度覚めてしまった身体が再び眠りにつくのは簡単ではなく、結局はそうして寝返りを繰り返しながら次の微睡みを迎える事になる。
医療機関に行く迄もなく神経性の何かであると断言出来る。原因もきっかけも判り切っているだけに、却ってどうする事も出来ずにいた。
「おはようカズくん。ご飯どの位にする?」
階下へ降りた一尚の姿を見るなり、すっかり着物姿が馴染んだ忍がキッチンから顔を出してそんな事を言う。それに挨拶を返しながら「味噌汁だけでいい」と簡潔に答えてみても、彼女はムッとしたように「またそんな事言って! 朝はいっぱい食べないとダメなのに!」と言ってさっさとキッチンに引っ込んでしまった。
構わず洗面所へ向かい、適当に髭を剃って顔を洗う。鏡に映る自分の顔が少し青白いような気はしたが、市販の保湿剤を顔全体に塗れば摩擦で多少はマシになる。今日は休日だからまた後で少し多めに寝られるし、平日だけ何とか持てばそれでいいかと思い直した。
「う」
「……何だ、どうした」
温かそうな食事の匂いがしたと同時に、胃の辺りにモッタリとした不快感が湧き上がる。不愉快なその感覚に思わず呻いて口元を押さえた一尚に、既に食卓に着いていた父が新聞から顔を上げて怪訝そうな顔を向けた。
咄嗟に口を押さえた手を話し、「何でもない」と返して何とか食卓に近付いて席に着く。それと同時に目の前に米飯をよそった茶碗と湯気の立つ汁椀を置かれ、忍と母も食卓に着いて皆で「いただきます」と手を合わせた。
男女ぞれぞれに向き合って座った構図と、食卓に並んでいる人数分の食事、たったそれだけの光景で心臓の鼓動が僅かに乱れ、呼吸が苦しくなったような気がした。
「んー、忍ちゃん、今日のお味噌汁美味しいわ。具の切り方も上手になったわね」
「当然です、先生が良いですから」
「まあ、上手ねえ」
「卵も丁度いい焼き加減で美味いよ。最初の頃真っ黒にしてたのが嘘みたいだ」
「やだ、おじさまったら。あれは忘れて下さい。本当に何も判らなかったから、思い出すと私も恥ずかしいんです」
「この短期間で随分上達したよ。私の塩分の事まで気遣ってくれて、ありがとうね」
「うふふ」
食卓を囲んで繰り広げられる穏やかな会話にさえ、この頃は息苦しさ感じずにいられない。忍と共に夫婦である両親と向かい合って食事を摂るという、この状況が耐え難い物になりつつあるのは全く想定外の事だった。
幸いな事に、『お嫁さんになる』と言い出した割に忍は喚く以外のコミュニケーションを取って来なかった。要求を聞いて貰おうと多少まとわり付いて騒ぐ事はあっても、彼女は全く男女の関係を期待している風ではなく、今の所は接触も一尚の許容範囲内に収まっている。婚約をチラつかされた最初の頃はどうした物かと悩みはしたが、最近は本当にただ親戚の子を預かっているだけなのではないかと思う位である。このままの状態ならば頃合いを見計らって濱村家に返しても構わないだろうと、しばらくは様子を見るつもりでいた。
ただ。忍が少しずつ家の中の事が出来るようになるにつれ、親の方が彼女の虜になって行ってしまったのは計算外だった。
他の兄弟とは違って誰とも連れ添うつもりがない一尚には、当然ながら両親に義理の娘を可愛がるという楽しみを提供出来ない筈だった。なのにこうして押しかけてきた忍と触れ合う事で、彼等は擬似的にでも長男の結婚生活を体験してしまったのである。
考えてみればこれまで付き合った女性を家に連れて来た事は無いから、忍は一尚が実質初めて家に連れ込んだ女性という事になる。それにいくらイレギュラーな事態だったとはいえ、一尚には兄弟の嫁を除いて忍以上の距離感でやり取り出来る女性もいない。それならば多少の因縁があっても家族ぐるみの付き合いがある彼女に嫁いで貰うのが良かろうと、両親がそう考えるようになったって何もおかしくはなかった。
日々繰り返される穏やかなやり取りを聞きながら、自分は何と考えが足りない人間なのかと悔やむばかりである。彼女を家に置くようにしたのは失敗だった。しかしあの時の一尚に他の選択肢があっただろうかと考えると、現状に至ってしまうのも仕方のない事のように思える。
『この調子ならホントに結婚してくれても構わんぞ』
と。少し前に父が言っていた言葉をこんなに重く捉える日が来るとは思わなかった。
「忍、これをやる」
何とか食事を終え、洗い物を終えてすぐ位に鞄に仕舞ってあった封筒の存在を思い出し、部屋から取って来て忍に手渡す。素直に受け取って「何これ?」と言った忍が小さな封筒を裏返したり透かしたりしているのを見ながら、「毎日の弁当代だ」と言って食器拭きを手に取った。
「大して入れてやれなくて悪いけど、先週給料日だったし」
「カード? あ、電子マネー!」
「それならこの近所である程度使えるだろ。それで何でも好きな物を買ったら良い」
「良いのっ? ありがとう!」
すぐに一尚の意図を理解したらしい忍は、封筒を開けて中に入っていた電子マネーのカードを両手で掴んで嬉しそうに眺めている。「おお、良かったなあ忍ちゃん」とその姿を見た父が笑って言うと、同じ様な表情をして彼女を眺めた母が「良かったわねえ忍ちゃん、ウチのお父さんなんて一回もそういうのくれた事ないわ」と冗談めかして言って父を狼狽えさせた。
「な、お、お、俺だってカードを渡してるじゃないか」
「でも、一尚みたいに面と向かって言葉を掛けてくれた事なんてあったかしら。今の若い人って皆奥様に優しくて羨ましいわ」
「ん、んむぅ……」
「母さん。そうやってあんまり誂うと心臓に良くない」
「えっ、か、誂われてたのかっ」
「うふふっ、そうなの、冗談よ。ごめんねパパ」
「勘弁してくれ……」
「ごめんごめん、ごめんなさい」
がっくりと項垂れる父の肩に腕を回した母が優しい調子でそう言って笑う。ずっとこの調子で連れ添った二人を見て穏やかな気持ちになる反面、自身は一生その姿をなぞる事がないのだと思い、頭の隅が冷たく冴えていく。二人から目を逸らして食器の水滴を拭う作業に戻ると、カードを帯に挟んだ忍が傍に立って一尚が拭いた食器を受け取った。
さっきまでとは違って少し真剣な顔をした彼女が「仲良しなのね」と小さく零した声は、後ろでお喋りしている二人には届かなかったようだ。
「ねえ、カズくん。私買い物に行きたい」
「……、今か?」
一尚の腕ではなく捲くったシャツの袖を掴み、忍がまた小さく言う。顔も合わせずに告げられたのはこれまでの我がままとは少し毛色が違った要望のように聞こえ、思わず手を止めて尋ね返してしまう。それに静かに頷いた忍は、「今……じゃ、なくてもいい」と言って手を離し、そのまま俯いてしまった。
隣に立った忍に何を言うでもなく、一尚は目の前の食器を拭いて彼女に手渡す作業に専念する。粗方拭き終えて食器拭きをタオルハンガーに掛け、一箇所に纏められた食器類を棚に仕舞い込んでから顔を上げても彼女はまだそこに突っ立ったままで、所在なさ気な様子を少し気の毒に思った。楽しそうにお喋りを続ける両親を一瞥して「何処に連れて行けばいい」と言って横に立つと、下を向いていた忍はその言葉を聞いてパッと顔を上げた。
「良いのっ?」
「良いよ。でもあんまり遠くはダメだ、……仕事で疲れてる」
「良い! この間のショッピングモールに行きたい!」
グッと両手を握って主張する忍がそう主張する声を聞き、奥で話していた両親がようやくこちらを向いた。「あらお出掛け? 広い所に出掛けるならお洋服に着替えましょうか」と言った母が頬に手を当てて小首を傾げ、忍の肩に手を添えてそっと廊下へと押し出して行く。
「ちょっと型は古いけど、ワンピース位ならあると思うわ。ああでも、上着は……」
「上着は自分のがあるので、大丈夫ですっ」
「そうね、なら大丈夫ね」
いそいそと外出の用意をしに行く彼女たちを見送り、自分も出掛ける用意をしようと廊下へ向かう。歩き出した途端父がパッとこちらを見て「一尚」と声を掛けて来たので、呼ばれた一尚は振り返って「はい」と父の方を見た。
「ああ、いや、その……お前、何処か具合でも悪いのか。忍ちゃんの事があるとはいえ、この頃全然出掛けてないし、酒も飲んでいないようだし……」
恐らく痒くもない顔周りを掻きながら、言いづらそうに父が口にした言葉を聞いてドキリとする。すぐに言葉を返す事は出来なかったが、顔に出すのは何とか避けられたと思いたい。何か尤もらしい言い訳を考えてみても、こういう時に咄嗟に何か言えるだけの語彙力を持ち合わせてはいないらしい。これでは図星を突かれた反応そのものだと考えながら、口から出たのは「特に何も無いよ」という味気ない返答だけだった。
「あの……そう、寒暖差のせいか最近あんまり疲れが取れなくて。飲んだら具合悪くなりそうだったから」
「そう、か……。だったら別に良いんだ」
小さく息を吐いた父がその返答に納得したかどうかは判らない。一尚もわざわざそれを見届ける事なく廊下へ出て、真っ直ぐ階段を上って自室に戻った。
プライベートでよく着ている上着を取ろうとして、それが少し埃被っている事に気付いた。その上着は父が言った通り、忍が家に来てからあまり袖を通していない。近所に行くのならフリースを羽織るだけで十分だし、不必要な外出をして体力を消耗したくはない。思えば自分は元々そんなに頻繁に外出する方でもなかった筈だと、その埃を手で払いながら考えた。
『貢ぐオンナもいないし趣味も特に無いし、どうせ貯め込んでんだから』
確か年の瀬頃に言われた言葉が脳裏に蘇り、あれは中々に的確な指摘だったと考える。あの場でああ言い放った彼と出会う前は自分はずっと家の中にいて、こんなにもつまらない余暇を過ごしていたのだ。




