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或る社会人の取るに足らない話  作者: 佐奈田
本編
26/60

ほろ苦い思い・2

「うーん……ああいや、さすがにそれは……。午後には出勤できるようにするから……。ホントに申し訳ない、課長にも伝えておいて貰えれば……、うん」


 翌朝。トイレの中からそうして会社に電話を掛けている啓介の声を聞きながら、章弘はお玉に取った味噌を鍋の中に溶き入れ、刻んだ長ネギを放り込んだ。

 昨晩、平日の夜にも関わらず無茶な飲み方をして潰れた啓介は、そのまま章弘のマンションに担ぎ込まれてピクリともせずに夜を明かした。何とかスマホのアラームで身体を起こしたは良いが、予想通りひどい二日酔いに襲われて吐き気が治まらず、立ち上がる事を諦めて午前休を取る事にしたようである。

 電話に出たのはどうやら同期の社員だったらしく、急な休みの理由を正直に二日酔いだと申告して誠心誠意頭を下げている。受話器から漏れ出る軽やかな笑い声に釣られて気持ちが明るくなりそうなものだが、今の彼は残念ながらそれ所ではないらしい。「じゃあごめん、マジで気持ち悪いから切る」と言ってすぐ電話を切った啓介はまたひとしきり嘔吐き続け、結局それからもたっぷり三十分程トイレに籠もって出て来られなかった。




「ほんと言うと俺、石井さんの事も最初はそんなに好きじゃなかったんだよ」

「……そうなの?」

「うん。ハッキリ言って嫌いだったと思う」


 遅い時間に朝食を終え、使った食器を泡まみれにしながら啓介がしっかりとした口調でそう言った。言われた言葉を意外に思いながら泡の付いた食器を濯ぎ、水切りカゴに適当に伏せて水気を切る。そうしている内にコーヒーメーカーが静かになり、カップに注がれた中身のいい香りが周囲を包んだ。


「石井さんって家柄は良いし金はあるし顔は良いし、性格今よりちょっと捻くれてたけど面倒見は良いし、生まれた瞬間から何もかも全部持ってる人って感じで。ああいう人見てるとカミサマってホント不公平だよねって思うからあんまり関わらないようにしてた」

「……アンタ嫌いなヤツ多過ぎなんじゃない。そんなんでよく結婚出来たわね」

「うんまあ、嫁さんは別っていうかね。……けど、……山口さんっていたでしょ。年末に店に来た人、てっぺん薄くなってる」

「……いたわね」

「あの人石井さんと仲良かったのに、爽やかそうなフリして石井さんが付き合ってた彼女取っちゃってさ」

「はああ?」

「なのに誰も味方してくれる人がいなくて……そういうの見てたら何かほっとけなくてね、気付いたら声掛けてた訳」


『あいつの事は一度裏切ったのに』と、あの晩カウンターに座って話していたひょろ長い男の顔が浮かぶ。道理で一尚の足が遠のいた筈だと、クスリの件が起きるまでの空白の期間を思い出した。

 考えてみればあの男と偶然店で会って話をした時、一尚は少し様子が変だった。向こうはもしかしたらそういうのも含めて『やり直し』たかったのかも知れないけれど、当事者である彼はまだその時の出来事を咀嚼する事さえ難しいのだろう。

 ……個人的には、その一件は別に咀嚼してやる必要も無いと思うのだが。


「聞いたら、石井さん彼女に全然手ぇ出さなかったんだって。それで不安になった彼女が山口さんに相談し出して、何回も会ってる内にとうとうヤッちゃったみたいな、そういう話でさ。片方では人生賭けて就活してるっていうのに、構ってくれないとか気持ちが確かめられなくて不安とか、そういう理由で親友に彼女取られちゃった上に、女を取られる方もカッコ悪いなんて、周りが山口さん側に付いちゃって。石井さんが彼女さん大事にしてたのは伝わってたからマジ見てらんなかったし、先輩達の頭ン中どうなってんのって感じだった」

「何、そのムカつく話」

「でしょ、そう思うでしょ。あの人達口では友達だなんて言ってたけど、本心は絶対違う。何でも持ってる石井さんが大事な物を取られて落ち込んでるのを見て、影で笑って痰飲下げてただけだ。山口さんだって物分りの良い優しそうな顔してたけど、石井さんから彼女奪い取って有頂天だったと思う。その人結構美人だったし、これ見よがしに連れ歩いてたの、俺覚えてるよ。ま、卒業したらそんなに持たなかったみたいだけど」


 不快そうに顔を歪めた啓介が口にする言葉を受けて、それまでロクに見ようともして来なかった一尚の事が、章弘の中で少しずつ型取られていくようだった。

 一尚の存在に周囲が劣等感を刺激されるというのも判らない話ではない。ちょっと前の世代に比べればまだマシだったといっても、就職難のピークを僅かに抜けた世代である彼らが普通に就職するには、それなりの苦労があった筈である。誰もがやりたい仕事に就ける訳ではないし、何かの資格がなければ卒業前に仕事が決まるかも、一年後の自分がその仕事をしているのかも判らない。そういう中で生まれも育ちも安定している彼を目の当たりにしてしまったら、本人がどれだけ努力をしていたとしても真っ直ぐに見る事が出来ず、穿った見方で接してしまうのも無理はないのかも知れない。


 多少出来が良いのは良い所の御曹司だから。

 見た目が良いのは昔から金を掛けているから。

 性格が良いのは家業の評価を落とさない為。

 女が寄ってくるのは本人より財産が目当て。

 簡単に手を出さないのは家に相応しい女じゃないから。

 一人二人横取りしたって、次の女に困る事はない。

 と。そんな風に思われて軽んじられたフシが無いとは言い切れない。実際彼は人目を引くし、この間クスリを使った女のように、そういう毛並みの良い人間を貶したいと思う輩も少なくはない。


 周りに何をどう言われようが、不当な扱いには真っ向から抗議すべきだったのだ。あまりの衝撃でそれが出来なかった一尚は、親しかった筈の人が一斉に掌を返したその出来事を恥ずべき事として自身の内側に封じ込めたに違いない。信頼していた人に裏切られた事は何より悲しかっただろうに。自分のしてきた努力を軽んじられて悔しかっただろうに。一人だけ黙って固く鍵を掛けたまま、誰も信じる事が出来ないまま、出会った人には付かず離れず、深入りし過ぎる事のないように接して来たのだ。痛み続ける身がまた同じ様に引き裂かれる事の無いように。


 もっと早くそれを知ってたら山口のヤツ、迷わず警察に突き出してやったのに。


 そんな事を思いながら洗い物を終えて手に付いた水滴を拭い、コーヒーメーカーから啓介の分のカップも手に取ってこたつに向かう。同じ様に手を拭いた啓介が後に付いてくるのを見ている章弘に、彼は「今思うと、石井さんってちょっと叔父さんと似てるんだよね」と言って長座布団の上に胡座をかいた。


「……そうかしら」

「面倒見が良いトコとか、居て欲しい時に居てくれる所とか。頼もしいんだけど、気が付くと一人でいるトコも、変に深入りしない所もおんなじ。だから余計にほっとけなかったのかも」


 そう言ってカップを持つ啓介を眺めていると、彼はコーヒーを少しだけ啜って息を吐き、こたつに潜り込んでグテンと寝転んでしまう。「ここで寝る気?」と尋ねる章弘に、啓介はギュッと目を瞑って「昨日から色々吐き出して、ちょっと疲れたの。動きたくない」と不貞腐れたようにこたつ布団を被った。


「昼前に起こして」

「ええ? 面倒くさいわね、アラーム設定して寝なさいよ」

「だってアラーム鳴ったって消して寝るもん」

「威張って言う事じゃないでしょ。も~しょうがない子ねえ」


 寝転んだまま起き上がる気配のない啓介を尻目に、こたつから這い出してリビングの隅に置いたブランケットを取りに行く。それを広げて身体に掛けてやり、すっかり寝る態勢に入った甥っ子を見ながら昼食のメニューを考えた。


 冷蔵庫の中身を思い起こしながら、ほんの少し前、啓介と同じ場所に寝転んでいた一尚の姿を思い描く。普段滅多に身体を触らせない彼が見せたあの行動が何のサインだったのか、章弘は考えもしなかった。


 限局性恐怖症は不安障害の一種であると、あの時吉武が言っていた。一尚のあれは病気とは言えないごく軽度の物かも知れないが、その片鱗が見えているという事はつまり、彼にとって誰かに触れるという行為そのものが不安や恐怖に結び付くという事である。


 彼が誰かに触れるという事はどういう意味を持って、どんな所が怖いのだろう。一体いつから、彼は人の身体に触れる事が怖くなったんだろうか。

 そして。

 あんなに苦しくなる程怖い筈の事を何故、あの時は許してくれたのだろう。

 触れた髪は整髪料が付いていた事もあって決して柔らかい物ではなかったが、一度も染められたことがない美しい真っ黒な髪だった。章弘ほど多くは無いながらちらりと覗いていた白髪がやけに印象的で、彼がそれなりに忙しい、年の割にストレスの溜まる日々を送ってきた事を物語っていたように思える。


 近くで啓介が寝息を立て始めたのを聞き、その寝顔を見て自身がしばらく抱えていた感情の渦に思いを馳せた。


 付かず離れず、深入りし過ぎず。そういう付き合いを望んだのは章弘も同じ事だ。一度痛い目に遭った事が悔しくて恥ずかしくて、消え入りたい程辛くて。二度と同じ過ちを繰り返すまいと、自身を取り巻く全てから距離を取って境界線を引いた。せっかく引いた線を飛び越えようとする物は何であっても切り離し、全ての物から目を逸らして自分だけを守って生きて来た。そうやって無為に時間を過ごして気付いたのは、そういう生き方を選んだ事で、身近にいた大切な誰かを傷付けていたという事だけだった。

 奮起して向き合ってみたら相変わらず痛くて苦くて放り出したい位だったけれど、辛抱強く待っていてくれた味方が意外と近くにいたりして、もう少しだけ踏ん張ってみようという気になれたものだ。


 今、一尚が同じ様に必死で自分を守っているとしたら。その彼に必要なのは、どんな彼をも待っている存在、或いはそういう存在がいるという事への気付きなのかも知れない。しかし章弘には、未だ切ない最中にいる彼にそれをどう伝えれば良いのか見当もつかなかった。

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