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或る社会人の取るに足らない話  作者: 佐奈田
本編
25/60

ほろ苦い思い

 平日の早い時間。珍しく店に姿を見せた啓介は不機嫌そうな顔をして章弘の前の席に陣取り、「もうマジ最悪」と言うなりバーボンを注文して上着を脱いだ。


「何よ辛気臭いわねぇ。奥さんと喧嘩でもしたの」

「してないよ、何でそうなるのさ。仕事で何かあったのかも知れないでしょ」

「まさか。アンタそういうのは図太いもの、仕事で落ち込むような玉じゃないわ。イジケてる時は大体周りの事って決まってるの。何年面倒見て来たと思ってんのよ」

「……ああ、ヤダヤダ。身内ってこれだから」

「何よ、判ってて飲みに来たんでしょ。私がここに立つ日ももう何日も無いんだし、折角だから吐いて置いて行きなさい。我慢は健康に悪いわよ」

「……」


 言いながらおしぼりを渡してナッツとチョコレートを並べたプレートを用意し、バーボンを注いだグラスをチェイサーと共に向かいのテーブルに置いてやる。それを受け取った啓介はまだ渋い顔をしたままで、出したばかりのグラスの中身をグッと煽って一息に飲み干してしまった。

 俯いたまま二杯目を注文し、ムスッとした様子で「仕事決まったの」という彼の言を聞き、調理担当のスタッフが買い物に出て来るねと告げてエプロンを外し始める。それに合掌してゴメンと目配せすると、彼は頷きながらさっさと上着に袖を通して表から外へ出て行った。


「来月から一般企業で保健師をするの。一ヶ月は本社で研修ですって」

「来月って……年度末に? また随分半端な時期に……」

「確かに新年度からなら新卒者もいるし、研修にはちょうど良かったんだけど。検診が五月だから一足早く業務を引き継ぎたいって、来月からになったのよ」


 ブランクや素行の問題で自分が望むような場所に転職出来るまで、思った以上に時間が掛かりそうだと思い始めた矢先。月初に運良くポンと出て来た求人に応募した所でトントン拍子に話が進み、あれよあれよという間に次月からの事が決まったのが先の週末の事。そうやって次の仕事に関わる事を決めたのは良いが、ここ数日はオーナーが風邪で不調を訴える日が続いており、調理担当のスタッフと共に代打で店を回しているような状況だった。

 オーナーの不調もそうだが、啓介が一人で店の方にフラッと訪れるというのも滅多にない話で。この頃噂されている件に関わる事だろうかと頭の中で思いながら、二つ目のグラスを用意してバーボンを注ぎ込んだ。


「石井さん、結婚するかも知れないって」

「濱村工務店のお嬢さんとでしょう。噂は聞いてるわ」


 苦々しい口調で言った啓介にそう返すと、彼はバッと顔を上げて「噂って何、何で知ってるの」と章弘を見た。「そりゃこういう仕事だし、石井家の跡取りなんて噂の的だもの」と言って空になったグラスを回収し、新しい方をプレートの近くに並べてやる。いつも通りにそうしたつもりであったが、啓介はその『いつも通り』の様子に呆れたように、開いていた目を半目にして頬杖を付いて見せた。


「ちょっと、叔父さんはそれ聞いて何とも思わない訳」

「……、まあ……おめでたい話、なんじゃないかしら」

「全っ然おめでたくなんかないよ。バカじゃないの叔父さん、あんな訳の判らない女に石井さんが取られるんだよ?」

「何に苛ついてんのよ。カズちゃんは良い所のボンボンだし男前だし、年考えたらそりゃ結婚くらいするでしょ」

「それが嫌だって言ってんの。あの人、所帯持つつもりなんかこれっぽっちも無かった癖に、叔父さんが動き出した途端こんな……。……だから何かガッカリしたって言うか、ムカついた」

「……何によ」

「石井さん。……と、石井さんにそういう事させた叔父さんに!」

「私ぃ? 何でそこで私が出て来るのよ」

「今判った。叔父さんが悪い! 石井さんがあんな訳判らない事してるの、絶対叔父さんのせいだから!」


 不機嫌そうに言い切ってはああ、と深く息を吐いた啓介がテーブルに突っ伏し、吐いた息と同じ分だけ上体が沈んでいく。それをカウンター越しに眺めて腕を組んだ章弘は、急に自分に矢印が飛んできた事に驚きを隠せずにいた。ちらりと年明けからの自身を振り返り、自分の行動の結果何がどうして一尚が結婚する話に行き着くのかを考える。しかしこれと言って思い当たる事は無く、腕組みをして頭の右上を見上げたまましばらく固まる事になった。

 少しして頭を上げた啓介が、二杯目の中身も飲み干してまた深々と息を吐く。ほんのりと赤く染まった頬は彼が飲んだアルコールが回り始めた事を示しており、そのせいか今日の彼はやけに感情的で饒舌である。


「叔父さんさ……、年明けから石井さんとちょっと距離置いてたでしょ」

「ああ。ちょっと迷惑かけちゃったから、仕事決まるまではあんまり甘えないようにしようと思っていたんだけど……それがどうかしたの?」

「したんだよ。あの人は仲良くしてる人から距離置かれるのが一番しんどいの」

「ええっ? だって、これまでだって忙しくて連絡取らなかった事くらいあるじゃないの。それが何で今回に限って私が悪いのよ」

「状況が違うじゃん。ただ忙しくて連絡出来ないのとは違って仕事が変わるんなら付き合い方だって変わるし、会える時間だって周りの環境だって、全部今まで通りじゃいられなくなる。叔父さんの事だからどうせ、石井さんには何も言わないで自分一人で決めて動いてたんでしょ」

「そりゃ……そういうのは私が決める事だもの。わざわざカズちゃんに言う必要も……」

「だから、そういうトコだよ!」


 声を荒げた啓介がテーブルに拳を振り下ろし、テーブルがダン! と大きな音を立てる。思った以上の衝撃でチェイサーの水が少し飛んで溢れていたが、それを気にしていられるような状況ではないらしい。


「叔父さんは昔っからずっとそう。そうやって何にも言わないで自分だけ先に行っちゃうから、置いて行かれる方はいっつも不安なんだよ」


 成程。と啓介の言を受けて他人事のように章弘は思う。そういう事なら確かに不安になりそうなものだ。でもだからといっていきなり婚約だの結婚だのというのも考えてみればおかしな話である。

 不安だからといってあの男がすぐに結婚する気になるとは思えない。あの体質で結婚したって、すぐに自分が辛くなる事は判り切っていた筈だ。普段の彼なら迷わず払い除けそうな話なのに、いつもと違って本人に否定される事のない噂話は、この短期間で随分と広がってしまっている。

 何か急ぐような事態でも起きたのだろうか。父が余命宣告されて、一刻も早く孫の顔を見せなければならないとか。経営が上手く行かなくて濱村とのパイプが必要だったとか。小さい頃の婚約を盾に無理に迫られた、とか。石井一尚というのは本来、そんな風に切羽詰まったような状況にならない限り結婚なんかしないような男である。


 今は考えても判らない話だし、それはそれとして目の前の啓介だ。空きっ腹にいきなり強めの酒を二杯も飲んだ事で、あまり酒に強くない彼の動作が早くも緩慢になり始めている。

 カウンターから出て啓介の隣の席に移動し、椅子に腰を落ち着けて水が入ったままのグラスを手に持たせる。その手がグラスを傾け、中身がきちんと彼の喉の奥に流し込まれるのを見守ってから、章弘もテーブルに頬杖をついて息を吐いた。


「……ねえケイ。もしかして、私アンタの事も不安にさせてたの」


 静かに口にした言葉に返答はなく、しゃんと伸びていた筈の背中は再び丸くなり、テーブルの上に突っ伏して顔が見えなくなってしまう。足元にコツンと音が立ったのでそちらを見ると、つい今し方まで啓介が手にしていたグラスが絨毯の上に転がっていた。その絨毯に中身が飛び散っている事はさして大きな問題ではない。章弘が真剣に考えなければいけないのは、何年も前にしでかした事と同じ過ちを、今また彼らを相手に繰り返そうとしているという点についてだ。

「俺、叔父さんが好きだよ」と、テーブルに伏せったままで啓介が言った。


「親が別れた時、俺が訳判んない感じになってた時、寝られない時……。こうやって黙って隣に居てくれたの、今でも覚えてる。叔父さんが居てくれなかったら俺、多分一生誰も信用出来なくて、結婚も出来なかったと思う」

「そう……」

「だけど叔父さんは、自分が辛い時はいつも一人だ」


 くぐもった声で吐かれた言葉を受けて、喉の奥が締め付けられるように痛んだような気がした。


「仕事の事とか自分の事とか、俺や母さんが想像出来ないような大変な事はたくさんあったと思う。俺達も自分の事だけで大変だったし、弱ってたから頼りにならなかったのは判ってる。……けどだからって全然頼って貰えないのも、手出し出来ないのも、そういう姿見せて貰えないのも結構、辛くて。俺だって叔父さんと家族になりたかったのに」

「うん」

「でも、でも正月に石井さんが部屋に居たから、叔父さんもやっと頼る人が出来たんだと思って、ちょっとホッとしてたんだよ。……なのに……」


 テーブルに伏せったままの身体とくぐもった声が少し震え始めた事に気付き、頬杖をついていた腕を彼の肩に回してやる。肩を摩ってやると少しずつ震えが収まって行ったが、ゆっくりと顔を上げてこちらを向いた啓介の目はとろりとして焦点が合わず、重たそうな瞼が今にも閉じてしまいそうだった。


「俺、叔父さんが一人になるのはいやだ……」

「……うん」

「ちゃんと…………しゃーわせになってほしい」

「うん」

「あと……、……あと…………」

「起きたらちゃんと聞くわ。ごめんねケイ、ありがとね」


 力が抜けて傾きかけた身体を引き寄せ、肩を貸してしばしの間体重を預かる。それから完全に閉じた瞼からツッと一筋雫が流れ落ちたのを見て、バツの悪さに身が竦む思いだった。


 甥っ子泣かして、怒られて。私一体何やってるのかしら。


 そのまま寝息を立て始めた啓介をあやすように背中に手を添えていると、外へ出ていたスタッフが買い物袋を提げて戻り、「寝ちゃったの?」と静かに声を掛けてきた。


「潰れちゃったわ。弱い癖に、空きっ腹でバーボンなんか煽るから」

「どうする? タクシー呼ぼうか?」

「終わったら連れて帰るわ。それまで転がしといていいかしら」

「ならそっちに寝かしといてあげたら。風が行かない分カウンターよりは温かいだろうし」

「そうさせて貰うわ。ケイ、ちょっと動かすわね」


 声を掛けてもウンウン唸るだけの啓介の肩と膝に手を回し、何とか席から引き離す。そうしてテーブル席の古臭い柄のソファに横たえ、大晦日の晩に自分も似たような事をして貰った事を思い出した。


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