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或る社会人の取るに足らない話  作者: 佐奈田
本編
24/60

溢れ始めたこと・2

『あ、カズくん? お仕事もう終わりでしょ。週末のデートに連れてって。私、夜景が見える所がいい』

「馬鹿か。そんな用件でいちいち代表番号にかけて来るな」

『だって携帯にかけても出てくれないでしょ! 大体彼女とのデートをそんな事って』

「残念ながらまだ仕事中だ。切るぞ」


 一方的な主張が繰り広げられる電話を一方的にガチャ切りしてパソコンのディスプレイに向き直り、読んでいたメールの返信作業を再開する。そんな様子の一尚を目の当たりにして、終業時間を回ったばかりのフロア内でシラッとした空気が流れていた。


『お嫁さんになる』宣言の後。着の身着のまま田舎を飛び出してきた忍を実家に連れ帰り、事と次第を本人から父母と濱村家に説明させてからもう数日が経つ。これまで甘やかし放題してきた濱村家に帰すと本当に何をするか判らない為、彼女は花嫁修業という名目で石井家に置かれる事となった。

 そしてそのたった数日の間にやらかしてくれた珍事で、忍の立場は意図せず周囲に知れ渡った。


『皆様、お疲れ様です~。一尚の婚約者の濱村忍と申します。一尚がいつもお世話になっております』


 まずは初日。昼休み前に弁当と称した重箱を提げて現れた彼女に、フロアの面々が固まったのは言うまでもない。着替えなど全く持って来なかった為に母からウールの着物と羽織を借りて現れた彼女が、『普段お世話になっているお礼に』と言って空きテーブルに重箱を広げ出したのを見て目眩がし、阻止したら腹を立てて『皆に食べて貰おうと思ったのに!』と文句を言いながら足音荒く帰って行った。帰宅後に大層文句を言われたような覚えはあるが、言い負かした一尚のダメージはゼロだ。持ち帰った重箱の中身はその日の酒の肴になった。


 その翌日は普通に弁当を届けに来た体で、午後も一尚の隣でスマホを弄りながら終業時間まで待つつもりのようだった。仕事をしない奴は邪魔だから出て行けと言ったらまた怒り出したが、構わず外へ放り出した。帰って地団駄を踏まれたのは言うまでもない。


 昨日の日中は何事もなく過ぎたのだが、終業時間ぴったりに現れてデートに連れて行けとひとしきり騒ぎ、一尚の仕事が終わるまでブーブー言いながらそのまま隣に居座った。結局その後ショッピングモールに立ち寄り、何も買わない買い物に小一時間付き合う羽目になった。


 そして今日はこの通りの有様である。彼女も一応濱村工務店では従業員の一人であった筈なのだが、果たして向こうではどんな勤務態度だったのだろうと考えずにはいられない。彼女は人や会社の都合を全く考えておらず、自分が経営する側の人間であるという事をまるで判っていないようである。

 社長の長男はまたエラいのを嫁にする気のようだという、良くない評判は瞬く間に社内に広まった。と同時に稲葉に対する女性社員のやっかみがピタリと止んだので、そこは忍の唯一の功績である。


「石井さん、マジであんなのと結婚する気ですか」と不躾に尋ねて来たのは公私共に付き合いのある畑中だ。週末の定時退社を決めに来た彼は、ちょうど総務課で打刻していて今の電話のやり取りを聞いていたらしかった。電話の内容など細かい所は当然判らなかっただろうが、キンキンと電話の向こうで喚く忍の声は周囲にも聞こえていた筈である。

 あからさまに嫌そうな顔で言った彼への返答に、耳を傾けているのは周囲の社員も同じだろう。万一そうなったとしたらあの傍若無人な女が上の立場になって君臨するという事であり、畑中でなくてもそんなのは御免被りたい話だろう。


「……向こうの態度次第だ」

「悪いけど、あの人と籍入れるってんなら俺、石井さん切って他所に移りますからね」

「……そうだろうな」


 きっぱりと言い切られた言葉に頷いている社員が何人かいる。おおよそ似たような思いを抱いているらしい他の誰よりも、畑中が一尚に向ける言葉と視線には厳しい物が含まれており、見つめ返すこちらが居心地の悪い思いをした。

 彼の性格からしてそうかも知れないとは思ったが、面と向かってハッキリと告げられると辛い物がある。兄弟や忍との付き合いを除けば、畑中は学生時代から関係が続く数少ない人間だ。時に耳に痛い言葉を吐く彼だが、裏表のない率直さは評価すべき長所であり、一尚もその率直さに何度も救われて来た。章弘が進み始めた事でさえグラついているのに、忍の事がきっかけでその彼が離れて行ってしまうというのは、考えるだけでも堪える話である。


「……まあ、しばらくは様子見ますけど」


 押し黙った一尚を見た畑中がそう言い、ムスッとした表情のまま鞄を手に取る。それに顔を向けられず「すまん」と答えると、彼は「良いですよ」と返してさっさと退勤して行った。




 章弘を裏切るのなら関係ごと切る、と。迷いなくそう言い切れる彼が羨ましく思える。

 仕事の関係者や利害関係のある輩が相手なら兎も角、普段の自分には到底真似出来ない選択であり、出来た所でしばらく何も手に付かなくなるのは目に見えている。

 例えどんな経過であれ、どんな理由であれ。人が自分から離れて行くのは恐ろしい。距離が出来るのが不安で仕方がない。隙間が空いたような違和感に心がざわつく。距離が広がれば傾けた気持ちごと切り離されて行くようで、引き裂かれるように身が痛む。去って行った人が戻る事はなく、痛む身体を引き摺る自身だけが一人残される。


 大切な誰かの為になら、学生の頃から続く関係だってきっぱり切ってしまえる。畑中のようなそういう強さを昔は持っていたような気がするけれど、いつの間にか何処かへ置き忘れて来てしまった。




----------




 遣る瀬無い感情を抱いたまま帰宅すると、車の音を聞き付けた忍が玄関に仁王立ちで待っていた。


「……遅い」

「ただいま」


 怒り心頭というより不貞腐れた様子の彼女に構わず、ランチバッグを差し出すと鼻息荒く引っ手繰られる。それに「今日の卵焼きは美味かった」と言って靴を脱いで上がり、マフラーを外して上着を脱ぐ。その言葉に一瞬綻んだ表情はすぐにまた仏頂面になり、「そ、そんな事で誤魔化されないんだから!」という大声に耳が痛んだ。


「どうして電話に出てくれないの! どうして毎日毎日家の中で家事ばっかりしてないといけないのよ! 私は家政婦じゃないのよ!」

「お前が掃除一つ出来ない女だからだ。自分の事くらい自分で出来るようになってからでないと、偉そうにしたって滑稽なだけだぞ」

「だからお前って言わないで! だってそういうの全部やらなくていいって言ったのはパパなのよ! 私が何にも出来ないんだとしたら、それはパパのせいだもん!」

「そんなだから見合いの話が無かった事になるんだろうが。親のせいは勿論だが、それに甘えて自立しなかったお前も十分悪い。悔しかったら自立しろ」

「私は悪くない! カズくん、嫌い!」

「はいはい、嫌いで結構ですよ」


 ダンダンと地団駄を踏むお嬢様らしからぬ彼女と、そういう不毛なやり取りをするのももう日課になりつつあるのだから、慣れという物も恐ろしい。この程度の事では最早溜息さえ出ない。


「お帰り一尚」

「ただいま」

「帰ったばっかりの所悪いんだけど、お醤油切らしちゃったの。忍ちゃんとちょっと行って買って来てくれないかしら」


 一通りのやり取りを聞いていただろう母は、キッチンから顔を出して完全に笑いを堪えた顔でそんな事を言う。醤油なんか別に明日でも良さそうだが、その言葉で忍の目がキラリと光ったのを一尚も見逃さなかった。誰に言われる迄もなく「行く!」と言った彼女が一尚の腕に纏わり付いて「ねえ良いでしょ! 買い物! 買い物!」と騒ぎ始める。それをリビングで聞いていた父もブフッと噴き出したのが聞こえ、母と似たような顔で現れて「帰るまでの腹の足しに」と言ってリビングの茶菓子の中から金つばをいくつか差し出して寄越した。


「……行くか」

「やったぁ!」


 仕方なくそう言って上着を着直した一尚を前に、忍が両手を上げて弾んだ声を上げる。その様だけを見ると確かに可愛らしくはあり、濱村家の父や兄弟が甘やかしてしまう気持ちも判らないではない。だからと言ってこれまでの扱いが変わる事はないのだが。

 早速支度をしに行った忍を見送り、父が腕を組んで満更でもなさそうに「これはこれで良いかも知れないな」と口にしたのが聞こえる。


「最初は心配だったが、お前あの子と相性良さそうじゃないか。巧くいなしてるようだし、この調子ならホントに結婚してくれても構わんぞ」

「勘弁してくれ……。何で家でまで人材育成しないといけないんだ」

「そんな事言わないの。気性は激しいけど、言った事はちゃんと聞いてくれる良い子よ。手先は不器用だけど覚えは良いし、ああやって我がまま言うのが段々可愛く思えてくるわ」

「母さんまで」


 嬉しそうにそんな事を話す両親に、ここでも居心地の悪い思いをする。何故なら一尚の独り身を案じる両親にとっては、忍の存在は煩わしいどころかこの上ない僥倖であったのだ。

 芳尚が結婚して家を出て行ってしまってから、石井家にはどこか落莫とした静けさが満ちていた。家族の会話はあるといっても皆が皆四六時中喋っている訳ではないし、残念な事に芳尚と違って一尚も尚徳もそんなに喋る方では無かった。そしてあまり喋る方ではなかったとはいえ、尚徳の方も家を出てしまってからは家の中には両親と一尚の三人だけで、賑やかさとはかけ離れた生活を送ってきた。そういう所に忍という大きな子供が入って来た事で、両親は元の賑やかな生活を思い出してしまったのだ。


 忍はカッとなる所はあっても思っていた以上に人の言う事を聞く女で、周りの人間の行動もきちんと見ている。その証拠に一度止めろと言ったら会社には来なくなったし、一尚が自分を放り出す気がないと判ってからは章弘の事も一切言わなくなった。

 ……要求通りに動かない事に関しては今も不満タラタラではあるが。


 最初の内は昔ほど我がまま放題ではないその姿を意外に思って見ていたのだが、何の事はない。彼女は生まれ落ちた所がそれなりの所だったから、今までは騒ぐだけで周りが勝手に動いて何とかしてくれていただけなのだ。そういう経験を積み重ねて来たから困ったら取り敢えず騒いでいるに過ぎず、騒ぎたくなるような問題も解決方法をきちんと提示してやれば、案外簡単に事態を脱却してケロッとしている。相変わらずギャーギャーと大騒ぎをする所はあるが、たった数日でもあの手この手を使って自分で抜け出そうとするようになった所は見ていて飽きない点である。ただその大騒ぎに自分を巻き込むのだけは、心の底から止めていただきたいとは思う。


 もしかしたら『お嫁さんになる』というのはただの建前で、彼女はただ変わりたくて一尚の所へ来たのではないだろうか。忍を大騒ぎの我がまま放題な女に育てた環境は一見するととても恵まれているように見えるけれど、そういう環境に長く置かれる事で、彼女は自分で立ち上がる力さえ根こそぎ奪われて囚われて来たのかも知れない。


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