溢れ始めたこと
遅い時間に会社に戻り、外出していた時間分のメールチェックを終えた頃だ。早々に帰り支度をした所で夜間には珍しく内線が鳴り、出ると先月入ったばかりの若い警備員が『あの、時間外なのにすみません』と困ったような声で言った。
「どうかしましたか」
『それが……今、守衛室に濱村工務店のお嬢様がおいでになってまして。石井常務に取り次ぐようにと言って聞かないんです』
「濱村……」
考えるまでもなくその名には覚えがあった。
一般住宅だけでなく、公共工事や施設建設等の請負実績のある濱村工務店はそこそこ大きな会社組織である。その会社とは祖父の代からの付き合いで、父同士も公私共に交流のある相手だった。
現社長の濱村が、父と結託して末弟の尚徳に充てがおうとしたのが今アポイントも無く来ている娘の忍だった。その目論見は尚徳自身の手によって白紙にされたのだが、プライドの高い彼女にはそれが我慢ならなかったようだった。
自分の会社の若い人間を使って報復をしようとしていた所を阻止し、弁護士を挟んで多少の迷惑料を頂戴した上で、隠居した前社長と共に田舎に引っ込んで貰ったのが去年の秋の事だ。
あの時は確か、財布もカードも全部目の前で破棄させた上での強制送還だった筈なのだが。その後何がどうなって彼女がここまで辿り着いたのかは不明である。
「……今降ります。そこで待たせて置いて下さい」
『わか……じゃない、承知いたしました』
慌てて言い直した彼に構わず受話器を置き、必要な物を纏めて椅子に掛けておいたコートに袖を通した。鞄を手に提げてフロアの明かりを落とし、普段より薄暗い階段を降りて通用口の方へ向かう。通常ならばいない筈の人がいるそちらに近付くにつれ、段々と騒々しい声が聞こえて来るようになった。
「もう、いつになったら来るの! 早く会わせて! いるのは判ってるんだから!」
「ですから濱村様、もう少々お待ち下さいませ。今参りますので」
「さっきからずっと待ってるじゃない! 私を誰だと思ってるのよ!」
「まあまあ、抑えて抑えて」
「アンタ達、そうやって私を彼と会わせないつもりじゃないでしょうね! 警備会社に言いつけてやるから!」
守衛室の前で最初から激昂状態の忍を目の当たりにして軽い目眩と頭痛がする。そんな様子で近寄って行く一尚に気付いたのは年配の警備員の方で、彼は全く動じていない様子で一尚のいる方を掌で示し、「ほら、今参られましたよ」と人の良さそうな笑みを浮かべた。若い方の警備員はもうずっと怒鳴られていたのか、シュンとして気の毒な程項垂れているのが見えた。
背中まである艷やかな髪とエレガントな質感のコートという、見るからに人目を引きそうな装いの彼女は、残念な事にそんな外見が台無しになってしまいそうな程の怒りのエネルギーに満ちている。
「遅い!」
開口一番にそう言った忍に、一尚も憚る事無く溜息を吐く。呼び出しにすぐ応じなかった上に遅れた事を素直に謝らなかったからか、彼女は酷い形相でツカツカと寄って来て片手を振り上げて見せた。
「暴行罪」
「……っ!」
その一言でピタリと動きを止めた彼女が、キッと一尚を睨み付けて悔しそうに歯噛みする。そんな様子に構わず「他にも警備員に対する脅迫、暴言」と続けてさっさとその横を通り過ぎ、守衛室前のカメラを示した。
「全てそこのカメラに証拠として残ります。今度は被害届を取り下げるなんて優しい事はしませんよ」
「脅すつもり、この卑怯者! 誰のせいでこんな事になったと思ってるのよ!」
「それを言うならご自身の責任でしょう。先に失礼をしたのは確かにウチの父かも知れませんが、謝罪はしましたし、それなりに誠意ある対応をさせていただいたと思うんです。その上で金を使って人を動かして報復しようとした癖に、どこをどうしたらそんな被害者ヅラ出来るんでしょうか」
「……っ、ひどい……!」
ひどいのはお前の頭の中だ、と半ば本気で考えた所で息を吐き、苛ついた頭の中を整理して何とか冷静になる。例えどんなに失礼な態度であっても、仮にも付き合いのある会社の社長令嬢だ。他に社員がいない上に疲れている所を喚き立てられたのもあって、我ながらかなりキツイ言い方をしてしまったと口に出さずに少しばかり反省した。
恐らく想定以上の言われ様で息を飲んだ忍が、誰を憚る事なくワッと泣き出した様子を見て、何をどうしたらこんなにこじれた人間が出来上がるのかと息を吐く。泣き喚く彼女を前に『面倒な』と思いはしたが、その泣き声を聞いて困ったようにこちらを見ている警備員達の方が却って気の毒になった。
「あとは引き受けますので」
「はあ、石井さんも大変ですねえ……」
「とんでもない、お騒がせしました」
仕方なく鼻を啜っている忍に顔を向け、「用があるならさっさと来い」とだけ言って通用口を出ると、涙で滲んだ目でまだこちらを睨む彼女がトボトボと歩いて付いて来た。
「……あんな謝罪で……あれっぽっちのお金で気が済む訳ないでしょ……っ」
「…………」
「……っ、何でよぉ……っ、何で皆私だけ悪いみたいに言うの……っ? 何でナオちゃんは勝手に婚約なんてしちゃうの……っ? 大学行ってやっと帰って来たのにっ、やっと結婚できると思ってたのにっ、ずーっとずーっと一緒に居られると思ってたのにっ!」
本当はそのまま何処か落ち着ける場所へと考えていたのだが、年甲斐もなくワンワン泣きながらそう言う忍を引き連れて外を歩く気にはなれず。仕方なく涙を拭いていない方の手を取って、車を停めた場所まで引き摺って歩いた。
先述の通り濱村家とはそれなりに付き合いがある。当然一尚達と忍も幼少期から面識はあり、自分達兄弟とは丸っきり勝手が違う彼女を敬遠していた。
男性が多い家族と会社で猫っ可愛がりされて育った忍は我慢が出来ず、誰に対しても我がまま放題のお嬢様だった。気に入らない事があるとすぐに大声を出して喚く彼女が煩わしく、逃げ回っていたのは一尚も芳尚も同じである。でも二人よりも幼くて自分の意見を言えなかった尚徳は巧く逃げる事が出来ずに彼女の大のお気に入りとなり、会うといつも引き回されていた。それが幼いなりにかなりのストレスだったのだろう。彼女に会うと必ず夜泣きが酷くなるから、両親もそれを察して徐々に距離を置かせてはいたのだ。
忍の方はこんなに執着しているけれど、恐らく尚徳本人は彼女の事を覚えてさえいない筈だ。
忍を車に乗せて近くのコーヒーショップへ行き、まだ泣いている本人を車に残して適当に飲み物だけを買って戻る。日中の暖かさが嘘のように冷え切った外から運転席へ戻って「ほら」と甘い方の飲み物を手渡そうとすると、ティッシュの箱を抱えた彼女にまたキッと睨まれた。
「そんなの飲める訳ないでしょ、脂と砂糖の塊じゃない」
「…………」
その一言で心底面倒くさくなり、買って来たカップは助手席側のドリンクホルダーに乱暴に突っ込む。自分用に買ったカップに口を付けて「で、何しに来た」と言ってシートにもたれると、忍はムスッとした顔のまま「責任取って貰いに来た」と口にして入って来た外気に身震いし、結局ドリンクホルダーのカップに手を伸ばした。
「はあ? 何のだ」
「私をその気にさせてドン底に突き落とした責任! ナオちゃんとはダメだったけど、この際カズくんで我慢してあげる。付き合ってる人もいないみたいだし、私カズくんのお嫁さんになる」
宣言された言葉を耳にして、脳が理解する事を拒んだように思えた。忍が何を言っているのか本気で判らず、カップの飲み口部分を開ける彼女を黙ったまましばらく眺めていた。
「……お前頭は大丈夫か」
「お前って言わないで!」
「他にどう呼べと」
「忍って名前がちゃんとあるでしょ!」
「全く何も忍べてないんだが」
「もう、うるさい。カズくんは何でそんな意地悪ばっかり言うのっ」
やっとの思いで口にした言葉には、忍が条件反射のように怒って寄越す。それを気にするどころではない心境の一尚は、まだ熱いカップを運転席側のドリンクホルダーに置いて大きく深呼吸をした。いつもとは異なり、車内に置いた芳香剤とは少し違う匂いが僅かに鼻を突く。他の誰を乗せてもそんな風に空間を侵食された事はなく、親しい人は皆匂いのキツイものを身に着けない人達だったのだと気が付いた。
ぶちぶちと文句を言いながら甘いホットチョコレートを口にした忍は、険しい表情のまま「ウンって言わないとバラしちゃうから」と言ってスマホを出した。
「? 何をだ」
「カズくんのお友達の事」
提示されたスマホの画面には何故か章弘の写真が表示されている。予想外の所から出て来た彼の事に驚いて忍に向き直ると、ようやく動いた一尚の表情を見て『してやったり』という顔をし、フンと鼻を鳴らして白い指をスマホの上に滑らせた。
スマホに収まっているのは章弘が喫茶店で誰かと何かを話している写真や、先日のようなきっちりした格好で何処かへ歩いて行く写真、この間の医師と並んで歩いている写真、一人で渋い顔をして信号が変わるのを待っている写真……。そのどれもがそう遠くない距離から撮られた物だ。
殆ど追放に近い扱いを受けたというのに、忍の声でまだこれを撮りに動くような人間がいて、そういう輩が章弘の近くにいるという事実を前に一気に総毛立った。
「この人今仕事探してるんでしょ。昔の厭らしい”交友関係”が元で病院を追われた上に、最近まで水商売してたなんて噂が立ったらどうなると思う?」
そうは言っても、普段から素行に問題があるこんな女が何を喚いた所で章弘も世間も気にしないだろう。その辺りについての心配はしていない。ただ、周りが忍の言葉を気にしなかった事がきっかけで、さっきのように激昂した彼女が章弘に何をするかの方がずっと気がかりだ。
「黙っている替わりに嫁にしろと?」
「そうよ。簡単な事でしょ」
「…………判った」
何が簡単な物かと頭の中でボヤき、目も会わせないままシートベルトをしてハンドルに手を掛ける。そうして車を石井家の方へ走らせれば、やっと我がままを聞き入れて貰って満足気な忍がスマホを仕舞ってカップを傾けた。
どうせすぐ逃げ出すだろうと、その様子を見て一尚は思う。嫁になると言われても別段甘やかすつもりはないし、こういう手合いはむしろ近くに置いた方が行動を観察しやすく、何かと都合が良さそうだ。
章弘はもう動き始めている。せっかく新しい所へ向かって行く人の顔に泥を付けるような真似など許してはならない。
ぬるま湯のようにずっと浸っていた関係も、章弘が先に進んでしまえば時期に終わってしまうだろう。彼は魅力的だ。すぐに親しい人が出来て交流も増え、一尚の事など忘れてしまうに違いない。
そう、忘れる。全部忘れられてしまう。
自分で考えた顛末に抱いた恐ろしさについて、共有できる人はもういない。その事実に喉の奥が詰まり、胸が穿たれたように痛む。
せめて隣にいる忍にそれが伝わらないよう、黙ったまま標識と信号に従って車を走らせた。




