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或る社会人の取るに足らない話  作者: 佐奈田
本編
22/60

ふきのはなさく

 あまり人との付き合いは持たない方だが、最近は転職活動でよくスマホが鳴る。

 その日も自堕落に三度寝に入った所で聞き慣れた着信音が響いたのを聞き、どうせまた何処かからの”お祈り”の電話だろうとこたつで寝転んだまま受けると、電話の向こうの人は『よう、俺だ』と聞き覚えのある軽快な声を出した。


『今良いか? この間の話、専門の先生達に聞いて来てやったぞ』

「……吉武先生」


 予想外の人物からの電話で思わず起き上がり、居住まいを正してメモ用のペンを取る。殆ど寝起き状態の章弘の声を聞いた吉武は、電話の向こうで苦笑して『何だよお前、寝てやがったな?』と呆れたように言ってバタンと何かのドアを閉めた。


「……しょうがないでしょ。先月からもう何っ回も”活躍をお祈り”されてんだから」

『へっ、そうやってしょぼくれたままずーっと家に籠もってんだろ。カビ生えるぞ』

「るっさいわね」

『っはは、元気は元気だな』


 章弘の記憶が正しければ、一応彼は振られた身である。振った側である章弘相手にはもう電話も掛かって来ないだろうと踏んでいたのだが、堂々と掛けて来た上に微塵も気まずさを感じさせない態度で、きっぱりと切り離した章弘の方が拍子抜けした位だ。

『ちょっと出て来いよ』と言った彼の向こうでエンジン音がしたのを聞き、音を立てて閉めたのは車のドアだったのかと思った。




----------




 身支度を整えて外へ出ると、立春を間近に控えたからなのか思った以上に気温は高い。それでも体に吹き付ける風はまだ冬の冷気を帯びており、冬用のコートとマフラーで防寒対策を取ったのは正解であると思わせた。

 何かが降って少し湿ったアスファルトの上を歩き、途中バスを使って移動し、目的の場所へと近付いて行く。そこまでしてようやく体は腹が減っていた事を思い出し、同時に喉も乾いているのだと訴えた。

 電話を掛けてきた男とは何処で落ち合うとも決めていないが、バスターミナルから真っ直ぐ喫煙所に向かうだけで難なく合流する事が出来た。この寒さの中を一人突っ立って電子たばこを吹かしていた吉武は、章弘の姿を認めて大きな掌を二、三度ひらひらと振って見せた。

「振られ男からの電話でビビったろ」というご挨拶に「まぁね」と返し、隣に立つとポケットから出した缶コーヒーを手渡される。まだ仄かに温かいそれの飲み口を服の裾で拭き、封を開けると黒いパッケージからは想像も付かない甘い香りが漂ってきた。


「何これ、甘いヤツじゃない」

「ああ? 悪い、帰る時守衛さんに貰ったヤツなんだ。こっちがブラックだから両方そうかと思った」

「もう信じらんない。缶コーヒーの砂糖って案外ばかにならないのよ」

「俺の飲みかけで良けりゃやるぞ」

「いらないわよそんなの」

「ひっでえなあ」


 苦笑した吉武が吸い終わったスティックを灰皿の中へ押し込み、自身が開けていた缶コーヒーを呷って残りの液体を流し込む。それに倣って甘いコーヒーを一息に流し込んだ章弘は、空になった缶を吉武の手からも掻っ攫ってゴミ箱に押し込んだ。

「じゃあ行くか」と言って車の鍵を鳴らした吉武を前に、眉根を寄せて「乗る訳ないじゃない」と答える。彼はそれを聞いて怒った様子もなく「だよなあ」と笑い、すぐに鍵を仕舞って駅前通りへ出て行った。


「この間のアレな、朝医局で精神の先生達と会ったから聞いてきた」


 駅前の広い歩道を歩きながらそう口にした吉武を見て、何と返事をして良いか判らなくなった。

 あの手の感情は扱い切れない程重く深く、理性で制御する事も難しく、理解出来ない理屈で人を振り回して時に誰かをドン底にまで陥れる。一度抱いてしまったそういう感情をハイそうですかで切り離せる程人は強くないし、ほんの二、三週間経ったからといってその感情を抑えられるとも思えない。


「……まさか、あの後調べててくれたなんて思わなかった」


 思わず正直に漏らした言葉には、吉武も乾いた笑い声で返す。並んで歩いているせいでまともに表情を見る事は叶わなかったが、その声を聞く限り、やはりまだ完全に吹っ切れた訳では無いのだと感じられた。

「まあ、それはそれ、これはこれなんだ」と言った彼が立ち止まり、目の前にあるランチメニューと書かれた看板に見入っている。一緒になってそこに書かれている文字を見てはみたが、その文字が意味する言葉が頭に入って来る事はない。


「あの時バッサリ振ってくれたお陰で後腐れはナシ。正直まだちょっと燻ってはいるけど……絶対越えられない境界線みたいなのがあるのは何となく判ってたし? だからって別にお前に当たってどうにかなるとも思わない。こっから先は俺の問題なんだわ」


 それはどうやら吉武の方も同じだったようで、目が滑る文字列をサラッと眺めるのみで、次の看板に近寄って同じ様に眺めている。それに付いて歩きながら、彼の口にする言葉にひたすら耳を傾けた。


「多分俺はお前が思ってる以上にお前が好きなんだ。強情で口八丁でクソビッチで、気分屋で弱っカスで寂しがりで、ちょっと考え過ぎる所があって……」

「ちょっと。全部悪口じゃないの」

「はははっ。あと、努力家で気が利いて、土壇場では意外と度胸があって俺より頼りになって、バカみたいに人が好きで。そういう所、ホント良いなって思ってる」

「……そうなの」

「俺じゃダメなのはマジで残念だけどさ。でも俺じゃない誰かがお前の支えになって、それで十年でも二十年でも、何年でも幸せな気持ちでいられて、そのまんまジジイになるまで生きて行ってくれたら。俺はそれを眺めていられればもう、それでいい。そう思う事にした」

「……先生、まさかとは思うけど酔ってるの?」

「ぶっは、シラフだっつの」


 半ば茶化すように言った言葉にはいつもの笑みが返って来て、当て所のない足取りに少しずつ意思が戻って来る。その足が向くのはやはりどうしたって肉のある所で、今日もまた肉の塊を平らげるに違いないと苦笑しながら右往左往する背中を見ていた。


 出会ってからこれまで、この吉武という男には驚かされてばかりだ。馬鹿みたいに調子が良くて度胸もなくて、前向きで真摯なお人好し。先月、愚かしい感情と衝動に駆られた彼をせっかく切り捨てられたというのに、あそこまでされてもまだこんな馬鹿な人間に気持ちを傾けてくれている。例えこれから先誰を『好き』になる事は無くても、章弘にはその事実だけで十分だ。

 客観的に眺めている事しか出来ない章弘にとって、どう見たって厄介でしかなかったその感情が、そんな風に変化する事を初めて知った。

 そして。

 血が繋がってもいないのに情欲に関わらずそんな風に真っ直ぐに好きだと言ってくれる人が近くにいる事は、章弘にとってこの上なく幸運な事でもある。


「ありがとう」


 言った声が少し震えたような気はしたが、吉武がそれをどうこう言う様子はない。互いに互いのおかしな所には目を瞑ったまま歩き、たくさんある店の看板とメニューを見比べ、結局はいつもの店に落ち着いて見慣れたテーブルに陣取った。




 昼食の波が引く頃に入ったのもあり、食後のコーヒーを楽しむ頃には当然人も疎らになる。吉武は周りのテーブルに誰もいなくなるのを待っていたように、カーゴパンツのポケットから皺クチャになった紙の束を出して見せた。

「当直明けで色々な事言われてきたから半分以上覚えてないけど」と前置きした彼が広げたのは何かのコピーで、診断基準の載ったページと事例のページが混在している。テーブルの上に並べられたそれらを見ると、随所に赤いペンでアンダーラインと書き込みをされているのが判った。


「限局性恐怖症っていうのに近いんじゃないかって話だ。不安障害の一種で、よく言う先端恐怖とか、高所恐怖症みたいな」

「……つまり……この場合は接触、恐怖症って事?」

「そう。触られるのが嫌いっていうか、怖いんじゃないかって」

「……成程」


 確かに、と一尚の事を思い出して章弘は思った。身体の震えに動悸、発汗、若干の過呼吸。あの晩に彼が見せた反応は恐怖や不快感と対峙した時のそれに近い。単純な嫌悪とは異なり、誰かに触れる事は彼自身にもかなりの負担を強いるようだ。


「原因は感覚過敏みたいな物から、心的外傷とか環境による物、あとは何か色々あるらしくて、ゴチャゴチャ聞いたけどもう忘れた。考察は得意だろ、後で勝手に頑張れ」

「そうする」

「ただ、今の所日常生活には支障無さそうだし、病院で出来る事もなさそうかなとは言ってた。不眠とか目眩とか、そういう症状が続くようなら早めに頼るようにってさ。あとは行動療法が効果的だって話。必要なら臨床心理コースの先生か誰か紹介するって言われたけど」

「ありがたいけど、今はそこまでは良いわ。取っ掛かりを掴めればあとは大丈夫」


 広げられたコピー紙を一つに纏め、鞄に仕舞って吉武に向き直る。そうして改めて「本当にありがとう」と礼を言って頭を下げた章弘に、彼は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの笑顔になって「やめろやめろ、大雪になるから」と大袈裟に両手を振った。それに失礼な。と言い返してコーヒーを啜りつつ、「私って本当に果報者だわ」としみじみ零すと、彼は同じくコーヒーに口を付けながら、その意味が判りかねるといった様子で首を傾げた。


「っていうと?」

「うん……。私ってこんなだから、嫌な事言う人もまあそれなりにいるんだけど。それに負けない位、先生とかオーナーみたいな……良い人達に恵まれて来たんだなぁって。最近良く思うの」

「何だそりゃ。隠居するジジイみてえな事言ってんじゃねえぞ。らしくねえ」

「るっさいわね。私だってそういう事考える時があんのよ」


 呆れたような表情の吉武にそう返し、しばし黙ってコーヒーを楽しむ。そうしている内に頬杖をついた彼は、章弘の顔をしげしげと眺めて「まあでも、そりゃ逆だと思うぞ」と笑って口にした。


「章弘は自分の事を負い目に感じてるのかも知れないけど、周りにいるヤツは皆お前に惹かれて集まったんだと思う。人に恵まれたのは幸運もあるんだろうが、そういう人を引き寄せたのもお前だよ」

「…………」

「後藤章弘は面白い良いヤツだよ。俺は結構好きだね」


 先月。同じ様に頬杖をついた彼に、似たような趣旨の言葉を言われた覚えがある。同じ『好き』という感情を向けられている筈なのに、その時と今とは全く感触が異なる。

 不覚にも込み上げそうになった物はあったが、こんな所でそれを晒す訳にもいかず。苦笑いの体で「大した殺し文句ね」と返してカップに口を付けると、向かいの吉武も似たような顔になってカップを手に取った。



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