再出発・3
実家の敷居を跨ぐのが何ヶ月振りになるかは判らないけれど、その期間は予想以上に長かったようで。
記憶にあるより随分痩せて小さくなってしまった父は、態度だけはあの頃のまま、玄関先に現れた章弘の姿を見て「フン、何の用だ」と鼻息荒く腕を組んだ。きっと目の前の父が想像し得ないような修羅場を経験して来た身としては、痩せっぽちの老人に凄まれた所で怖くも何とも無いのだが。そんな事など知らずに勝ち誇ったように「今更来たってくれてやる物なんて無いぞ」と言った父に鼻白んだ目を向け、何の話かと首を傾げた。
「ハァ、何の話? しょぼくれたジジイ相手にタカる程落ちぶれちゃいないわよ」
「何だと!」
「お祖父ちゃんの遺産の話。投資してた分が見つかったって、お母さんが去年メールしてたでしょ」
父に次いで出てきたのは章弘の姉で、嫁いだ先で散々な目に遭い、所謂出戻り状態でこの家に戻って来た。嫁いだ頃よりも随分たくましくなった様子で、この態度の父に軽く肘鉄を食らわせている。無論肘鉄位でこの父親が折れる事など有り得ないので、章弘はそちらを気にする事なく「そうだっけ?」と言って靴を脱いだ。
「こら、俺は上がっていいなんて一言もっ……」
「はいはい、お邪魔するわねパパ。そんなカッコでこんなトコ居ないで早く中に入りましょう、風邪ひくわよ」
「誰がパパだっ」
「そうよお父さん。外寒かったでしょアキ、今お茶煎れるねぇ」
「こら、無視するなっ」
軽くあしらわれた事で不満を口にする父に構わず、さっさと室内に上がりこんでマフラーを外す。アキとは家族の中での愛称のような物だ。家族にはアキ、仕事場ではヒロで呼ばれる事を許している訳だ。お陰様で公私の区切りは付けやすかったが、どう考えても仕事で名を呼ばれる事の方が多いので、こうして改めて呼ばれると違和感は拭い去れなかったりする。最も、その辺は慣れの問題でもありそうなものだ。
お茶と言って踵を返した姉に「良いわ、自分でやるから」と返した章弘は、「これその辺で売ってたヤツで悪いんだけど、お土産」と手にしていた買い物袋を差し出した。
「こっちは夕飯の材料ね。調味料も安いのあったから適当に買っといた」
「そんな、気にしなくて良いのにぃ。ああ、体温まる物いっぱい。寒いと腰痛いって言ってたし、良かったねお父さん」
「パパ、カロリー控えめの甘いの買って来たから皆で一緒に飲みましょ。甘いのがダメだったって、こういうの一日一本位なら大丈夫だと思うわ」
「流石長男ねぇ、お父さんの好み判ってるぅ~」
「っ、っ、っ!」
あまぁいカフェオレ大好きな父がその誘いを断れない事など承知の上だ。この家の女性陣はお茶か紅茶を好んで飲む上に、医師から甘いものを控えろと言われた父が、同居している家族に甘い飲み物を用意して貰える訳がなく。章弘に向けて吐き出したいであろう言葉を真っ赤な顔で飲み込んだ父は、黙ってスゴスゴ居間まで付いてきた。
「アキ、お帰り。今日は早かったのね」
居間に戻って来た家族の気配を感じ取り、隣の台所から顔を出した母が言う。垂れた目元は相変わらず人の良さそうな笑みを浮かべていたが、刻まれたシワが家から離れていた年月を物語っているように思えた。それを居た堪れなく感じたのを隠したまま、章弘は「ただいま。急に来てゴメンね」と言いながら台所から人数分のマグカップを持って居間へ戻る。母はそれに「良いのよ」と言って笑い、石油ストーブの上で湯気を立てている薬缶を取りに行った。
「来てくれて良かった。元気にしてるか、ちゃんと食べてるか、ずうっと気になってたの」
「そういうのケイに時々聞いてたんでしょ。あの子私にも結構マメに連絡くれてたし」
「そうだけど、あれからもう全然寄り付かなかったから……久し振りに顔を見られてホッとしたわ」
そう言って心底安堵したような表情をした母に、言葉を返す事が出来なかった。
こんなにちっちゃい人だったか。と、並んで飲み物を用意しながら章弘は思う。病院を辞めたのは十年以上も前の事だったが、その頃は父も母もまだ元気でしっかりしていたと記憶している。
「啓介には時々会ってるの?」と、皆にカップを配り終えた姉が尋ねてくる。それに頷いて返した章弘は、空いている場所に腰を落ち着けて「たまに店にも来るわ」と答えて熱いお茶に口を付けた。
「あと、お正月も御節届けに来てくれて」
「ああ、こっち来る前に寄ったって言ってたっけ。ちゃんと会いに行ってるんだぁ、啓介はアキが大好きだもんねぇ」
「ほんと、ありがたい話だわ」
「ありがたいのはこっちよ。あんなナマイキで捻くれたの、放り出さないでずーっと面倒みてくれてたでしょ。グレないで立派になってくれたの、アキのお陰なのよ」
「そうかしら」
「そうなのよ」
当たり前だが、自分がグチャグチャとくだらない事をしている間にも時間は流れていた。両親は年を取り、姉はとっくに子育てを卒業し、彼女の息子である啓介もナマイキながら立派になって、昨年の今頃にとうとう父親になった。
同じく時間が流れていたらしい家の中も、思った以上に草臥れて色褪せてしまっている。今頃になってその事実を受け止めた章弘には、前に進む事を拒んだ日々を心の片隅で悔やむ事しか出来なかった。
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「まったく、何でお前に見張られながら風呂に……」
「安心して良いわよ、ひっくり返ってもちゃーんと介抱してあげるから」
「女みたいに喋るんじゃないっ」
「長年の癖なの、諦めて。こっちはテキトーにやってるから、気が済むまで浸かってて」
熱々のカフェオレをじっくり堪能した父は、夕飯までの間にと章弘に浴室へ放り込まれてもまだブツブツと文句を言っている。それでも出て来ない所を見ると、入浴そのものはかなり楽しみなようだ。ザザーッと音を立てて体を洗い流して湯船に浸かった後、満足気にハァァと息を吐いたのが聞こえる。それが殊の外気持ちよさそうで、脱衣所に椅子を持ち込んで聞いていた章弘は思わず吹き出して笑ってしまった。
曾孫の誕生に大層喜んでいた去年の今頃、父は湯船から上がってすぐに浴室で転倒して以来、こうして気兼ねなく湯船に体を沈める事が出来なくなってしまったそうだ。確かに間もなく七十越えを果たすし、場合によっては誰かの介助が必要になるようなお年頃である。いくら勝ち気な父でもその事実と年相応の体の状態には逆らえないようで、自分が倒れた後に母や姉が大変な思いをするのを避ける為に、入浴はずっとシャワーだけで済ませていると話に聞いてはいた。
まだブツブツと文句を言いながらも、元々どっぷりと湯に浸かるのが大好きな父が、章弘の見守りを拒否する素振りも見られない。何度目になるか判らない感嘆の息を聞きながら文庫本のページを捲り、もう少し暖かくなったら啓介も誘って銭湯にでも連れて行ってやろうと考えた。
夕食中。
恐らく神妙な顔で「実は仕事を変えようと思って」と言った章弘の言葉に、食事を摂っていた家族の手が止まった。自分の方へ皆の視線が集中し、それを前にどんな顔をすれば良いのか判らず怖くなる。でも決めたからにはと箸を置き、両手を膝に付けて出来るだけ真っ直ぐ、自分を見ている家族に向き合った。
「自分が目指してた自分と、仕事に。もう一度向き合ってみたいと思う」
「…………」
「……今日は、それを言いに来たの?」
黙りこくった父に代わり、少し心配そうな顔をした母が章弘に問う。それに頷いて返しながら「それもあるけど」と返した章弘の言葉で母が項垂れてしまわない内に、「自分の事だけじゃなくて」と付け加えて母を見た。
「ウチの事も、もう一回きちんと考える。これでも長男だし、皆にばっかりパパの介護任せていられないと思ったの。少し調子悪い時があるって聞いてはいたのに、来るのが今頃になっちゃってごめんね」
「……ううん」
或いは決別しに来たとでも思ったのだろう。二度と家には帰らないと言われる想定もしていたのかも知れない母は、心配そうにしていた表情をホッと和らげて首を横に振った。その隣に座っていた父も一瞬似たような顔をしたけれど、すぐにガチャンと食器を置いて憤怒の形相を作り、章弘に指先を向けて喚いて見せた。
「おっ、お、お前に心配されなくても、俺はまだ介護なんか必要ないぞっ」
「んもう、お父さんってば素直じゃな~い。アキくんの顔見られて嬉しい癖にぃ。お風呂も安心して入れたし、さっぱりして気持ちよかったでしょ~」
「う! う!」
昔は威厳たっぷりであった父は、今や姉に子供扱いで明るく茶化されてしまっている。彼女のその明るさに頭が下がる思いでいるのは何も章弘だけではない筈だった。
離れて暮らしている章弘の事をずっと気に掛けてくれていたのは姉と啓介だ。二人の取りなしが無ければ後藤の家はもっとずっと早い段階でバラバラになってしまっていただろう。姉は何かで知り会った事業家と結婚し、啓介が中学に上がる前に離婚をして戻って来た。しかも元夫の不貞とはいえ慰謝料も養育費も無し、何とか生活を建て直す事が最優先で名字を戻す余裕も再婚の見込みもなく、デカくなっていた子供もショックで不登校気味という、親族や近所の中ではかなり肩身の狭い立場であった。そういう立場にありながら、皆の関係が完全に切れてしまわないようにとずっと苦心してくれていた彼女達には、礼を言っても足りない位の恩義がある。
「アキがそうしたいのなら、きっと今がそういう時期なのね。応援するし、私達も嬉しいわ」
他の二人のやり取りに口元を緩めた母がそう口にする。その顔にさっきまでの心配そうな表情は見当たらず、全身でホッとした様子の彼女を前に章弘も心の底から安堵した。
勝手に仕事を辞めて戻った時、落胆した父に多少は嫌な事を言われたような気がする。でもそれも一度きりで、大切な物がごっそりと抜け落ちたような章弘の様子を見て何かを悟った様子の父がそれ以上何も言う事はなかった。
だけど勝手に夜の仕事をし始めたと知られた時は、何年か振りに特大のげんこつを食らった事を覚えている。
『お前みたいなヤツは息子でも何でもない! 二度と帰って来るな!』
売り言葉に買い言葉で、真っ赤になって激高する父の傍で、母は泣いていたような気がする。そして怒鳴られた事にばかり気を取られて判らなかったが、あの時もしかしたら、父の方も本当は泣きたかったのかも知れなかった。
彼等は別に夜の仕事を選んだ事に怒った訳ではない。大切な事を何一つ言わず、黙って先の事を決め、心配すらさせてくれない息子にひどく傷付けられたのだ。当時自分の事で手一杯だった章弘は大きな喪失感を何か別な事で満たすのに精一杯で、自分の取った行動が両親を傷付けた事にさえ気が付かなかった。
あれがこの家での最後の記憶だ。
なのに今日は本当に、拍子抜けする程いつも通りだった。敷居を跨いで殴られるとか、よそよそしく対応されるとか、顔を見せなかった事を詰られるとか、そういう想定もして来たつもりではあったのだけれど。章弘が時間を掛けてあの出来事を消化したように、両親も両親なりに考える事があったのだ。




