立冬過ぎて・2
用がある時に時々声を掛け合うだけの付き合いがかれこれ三年程続いているだろうか。それこそ、地元に戻って重たい肩書に押し潰されそうになっていた時期に、一尚は偶々同期達と彼の店に飲みに行ったのだ。最初は誰かと一緒に行くのが常だったが、章弘と別な居酒屋で会った時の出来事がきっかけで、以降時々一人でも飲みに行くようになり、いつからか連絡を取り合うようになり、現在のような形に落ち着いている。
友人というには互いに少し突っ込んだ仲であり、親友という程爽やかな関係でもない。ならばいっそ濃厚な間柄かと問われると、互いに何かに熱中していると平気で数ヶ月連絡を取らないなんて事がザラにあるなど、ドライな所もあって返答に困ってしまう。
時折家を行き来したり仕事の愚痴を言い合ったり、こうして具合の悪い相手の介抱をしたりと不定期に顔を合わせる仲ではあるが。人からどんな関係かを問われるとパッと思い浮かばないような状態のまま、着々と時間だけが過ぎていた。
「そういえば、ねえカズちゃん。美容室のサロンモデルとか興味なあい?」
「無いです」
「返事早いわよ。もうちょっとちゃんと聞きなさいよ」
「聞くだけ聞きますから、そっちこそちゃんと食ってください」
食べ始めてすぐに顔を上げた章弘にそんな風に返して、一尚は使った道具の片付け作業を開始する。不満そうに、しかし言われるままに煮麺を口に入れた彼はその一口をじっくり味わって飲み込んでから「ウチのお客さんがちょっと前から探してるのよねぇ」と言って再び器から顔を上げてこっちを見た。
「男性のモデルが欲しいって言っててねえ。独立したばっかりの所で、何回か切って貰ったけど腕も良いと思うのよ。カズちゃんちょっと髪の毛伸びてきたみたいだし、どうかしら」
「サロンモデルって何かに掲載されるヤツですよね。ちょっとややこしそうじゃないですか」
「サイトにちょちょっと写真が出るだけよ。その美容室、ターゲットが男性客で『働く男をちょっと後押し』がコンセプトなのよ。各年代別でモデル欲しいって言うから、一緒に行ってみない? アタシ四十代組で声掛けていただいたのよ」
「章弘さんも?」
「そう。あと、新しいお店だから保険関係もまだガッチリ固まってないわよ。御宅の法人案件としていかが? やり手だけど温厚な人でね、長いお付き合いをするにはもってこいだと思うの」
「……」
成程、うまい持って行き方だ。と彼の誘導に一尚も感心した。一尚の父が運営する会社は、同じ石井の親族が経営する会社の子会社に当たり、各種保険の代理店業務を請け負っている。章弘は基本的には客の話を聞き流すタイプの男なのだが、何の気まぐれかこうして美味しそうな話を持ち掛けてくれる事があったりする。断る理由もないので毎回乗らせて貰っているから、そろそろ彼への貸しが返せないレベルにまで達していそうだと思った。
思ったのだが、だからといって今回も別段断る理由がない。モデルというからには薬剤費以外の費用は掛からないのだろうし、彼が間に入るという事なら美容室の予約を取る手間も省ける。そして何より彼が仕事相手として勧めるという事は、相手もきちんとした人に違いない。
「土日で、章弘さんの都合の良い時間があれば合わせます」
「決断が早いカズちゃん好きよ。早速連絡しとく」
「当然ですけど、風邪が治った後の話ですからね」
「ああ、ねえ。髪切ったらニット見に行かない? アタシ気になってるのがあるの、着たカンジ見て感想欲しい。で、買い物終わったら美味しいとこでお茶して帰りましょうねぇ」
釘を刺したと思った筈なのに、彼は構わずそんな事を言って目の前の煮麺を口に入れる。まだ顔は赤いままだが、朝見た時に比べて随分と表情は良くなった。さっき飲んだ薬がやっと効いてきたのかと安堵して洗い物を水切りカゴに上げ、買い出しに出る前に回した洗濯機の中身を見に行った。
洗濯物を干して戻ると、こたつに入ったままの章弘がうたた寝している所だった。空になった器を下げるついでに、こたつの温度を最弱にしてブランケットを肩まで掛けてやる。静かに寝息を立てて眠っている姿はどう見ても憔悴しており、本当に具合が悪かったのだと認識する。黙って養生していればいいのにと思ったのだが、黙って養生するのも限界だったのかも知れない。
体調が悪いと不安になる物だ。一人暮らしであれば余計にそうだろう。仕事やセクシャリティの関係で人より多少神経を使うらしい彼は、家族に何かを頼むのも憚られると何かで話していたのを覚えている。
そういう時に一尚に声が掛かるのは、一尚であれば揺るがず近くに居る事が出来るからに他ならない。一尚も世間一般から少し異なる感覚で生きており、この頃はそれにもすっかり慣れてしまい、思い悩む事も少なくなった。
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自身の異変に気付いたのは大学の頃。だけど記憶を辿って見れば、その予兆は思春期の頃から現れていたように思う。他のクラスメイト達が惚れた腫れたの話をし始めても、一尚には一向にそれが訪れなかった。その時は周りが早熟なだけで、自分も大人になれば自然とそういう気持ちを抱くようになるのだろうと軽く考えて、特に気にもしないでいた。
しかし成人してもそんな感情も衝動も無いままで、自分の『好き』はどうやら周囲の人間が誰かに抱く『好き』と異なるらしいと。そう気付いたのは大学生の時、最初に付き合った女性に泣かれた時だった。
渾身の思いで交際を申し出た彼女をただ近くに置くだけで手も握らない一尚に対し、周囲が殊更に『彼女が可哀想』だと言ったから、どうしてか自分もそれに傷付いたような気がする。だからといって傍にいる以上に必要と思える事も一尚には無く、他にどうしろと言うのだとささくれ立って、遣る瀬無い気持ちになったのを覚えている。
結局その人は一尚が親友だと思っていた男と関係を持って、逃げるように離れて行った。
『手を繋いで歩きたい』
『キスがしたい』
『抱き締めて欲しい』
『明日の朝まで、一緒にいたい』
『どうしてしてくれないの、他の人は普通にしてるのに!』
同じ様に交際を申し出た人と手を握る以上の接触を試みて、中には最後まで行った人もいたりはしたが。相手の望む行為が一尚にとって必ずしも気持ちのいい接触ではない事も多く、敬遠する内に女性の方が引いて行くようになった。その期間に言われた言葉の数々は、今も時々胸の奥を抉って遣る瀬無い気持ちを再燃させる。
『こんなに冷たい人だと思わなかった』
自分では決して冷たく蔑ろにした訳ではないし、近くにいたからにはそれなりに大切に思ってはいたのに、勝手にそんな感想を告げられた所でどうしようもない。
弄んで孕ませて捨てるような男に比べてどれだけ平穏な関係であった事かと、同期の男を見て思いもしたけれど。でもどちらかというと彼女達が求めるのはそういう男の方で、手も握らない一尚は論外であったらしい。
恐らくごく一般的である筈の彼等の『好き』という感覚は、どうやら一尚には備わっていないモノであった。それに気付いてからは誰とも交際をしていないし、しばらくは普通じゃない自身の将来の事などを考えて生きていた。
『それはまだ運命の人と出会ってないから』だと言う人間もいたが、三十五年生きてきて一度も無かったその感情が湧き上がるのを、口を開けて待っていられる程ロマンチックではない。むしろ、両親の介護を終えた後の孤独な人生を如何にして充実させるかを考えて行った方が、現実的であり建設的という物だ。
「……あれ。寝ちゃってた……?」
不意にそんな事を言った章弘が身を起こして、物思いに耽っていた自身の意識が目の前に戻って来る。まだ眠そうにこたつに突っ伏す彼の背中を撫で、そのまま寝てしまう前にと寝室の方を指差した。
「部屋でゆっくりしたらどうです。晩飯の片付けするまではいますから」
「そうする……。そこにタブレット充電してあるから、好きに使って」
「いえ、今日は本棚の本を何冊か」
「そお? 面白いのあったかしら。好きなの読んでて良いわよ」
そう言って怠そうにこたつから這い出して部屋に向かう彼を見送りながら、寝室の反対側にある部屋の扉を開けて中へ入った。
六畳程のその部屋は常時カーテンで窓を覆われており、壁いっぱいに並んだ本棚と、部屋の中心にある簡素なカラーボックスに本を詰め込まれた書庫のような場所だ。無造作に棚に突っ込まれている本の他にも、直に床に積み上げられている本や雑誌があちこちに散乱している。少しだけカーテンを開けて窓を開け、朝より少し暖かくなった外気を入れる。そうして床に散らばった雑誌の埃を払って本棚を見て、これらをどのジャンルに分けようかと思案しながら本棚に押し込めて行った。
彼が持っている本のジャンルはバラバラだ。
文芸作品や小説、ラノベのようなものから、経営学やマネジメント等のビジネス書、投資や為替に関わるもの、地域の歴史に関する自費出版もの、ジェンダーやセクシャリティに関わるもの(多分これが一番多い)、演劇、ファッション、画集や写真集、インテリアにガーデニング、バイオテクノロジーに家庭医学などなど、兎に角幅広いジャンルの本が棚に収まらない程集められている。一尚はこの少し埃臭い、圧迫感があって薄暗い空間が割と好きだった。
ここにあるのは恐らく、彼が藻掻いて来た日々の証だ。自身の事にせよ仕事の関係者にせよ、彼なりにどういう物か知ろうとして集めたのがこの蔵書という訳だ。そしてその蔵書は今もひたすら増え続けている。きちんと前を向いて進もうとする章弘の生き方に、感銘を受けるのは何も一尚だけではない。彼の店のスタッフも、彼の客も、しなやかな彼の生き様に少なからず惹かれているのだ。
一尚より一回り程長く生きてきた彼の書庫には、一尚がぶち当たる壁の突破口になりそうなテーマの本が何冊も押し込められている。お陰様でこの三年間は図書館に行って無数の本の中から必要な物を探す手間もなく、返済期限を気にして焦って無理やり読む事もなく、実に快適な読書を満喫する事が出来ていた。
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「冷凍庫にご飯あるし、納豆と卵も買って来たから適当にやってください。しなび始めてた野菜は全部スープにして、おかずも作り置きがあります。」
「ほんっっっっとに助かったわ。今度ちゃんと埋め合わせする」
「いや、良いですから。章弘さんの埋め合わせって規模がでかいですし」
「何よ、アタシの気持ちが重いって言うの!」
「はい」
「このいけず! 色男! ……でもありがと」
「じゃ。明日も悪いようなら連絡ください。休日の当番医調べときますから」
とっくに夕食の時間を過ぎ、だいぶ顔色が良くなった章弘を残して、一尚はようやく帰路に着いた。
しっかり読みたいだけ本を読み漁り、調理と片付けは自分でしたとはいえ、晩飯まで平らげての帰宅である。自宅並に好き放題して過ごしたといっても過言ではないから、礼を言われるのも埋め合わせをされるのも過剰なのだ。
章弘にとって一尚が頼みの綱であるように、一尚にとっても章弘は自分の感覚を理解してくれる希少な存在である。ちょっとの頼まれ事くらい何ということはない。ましてや溢れる程の蔵書を読ませて貰っている立場でもあるし、こちらが礼をしても足りない位だ。
明日はちょっとはゆっくり寝られるだろうか。と車のエンジンを掛けながら思う。もう少ししたらタイヤ交換の事も考えなければと、すっかり寒くなった外の景色を一瞥してシートベルトに手を伸ばした。




