再出発・2
「……あれ、ちょっと待って下さいよ。って事は後藤さん、保健師の資格もお持ちでは?」
「…………言われてみれば持ってたような気がするわ。取ってすぐ位に病院辞めちゃったし、それこそ持ち腐れみたいな物なんだけど」
「なぁんだ、先に言って下さいよ。それなら仰る条件に当て嵌まる所がグンと増えますよ」
「そうなの? でも保健師って狭き門ってイメージよ。人数の割に求人少ないっていうか。私は未経験だしキャリアもないし、却ってダメなんじゃないかと思ってたけど」
「んん~、それを言われれば確かにそうなんですけれど……」
平日の午後。人も疎らなファミレスで、章弘はキリッとしたスーツ姿の若い男と向かい合って紙面を眺めていた。
本気で転職するなら有給消化しながらガッツリやって来いとのオーナー指示で、章弘は医療系転職サポートの担当者に細々とした事情を相談しに来たのだ。章弘よりも年の若そうな担当者は年齢の割にしっかりとした態度と口調で必要な事を聞き出し、あまり上手ではない字で用紙に要点を書き殴っている。その紙面に書き殴られた文字を見た彼はしばらくウンウンと唸って腕組みをし、意思の強そうな目で章弘に向き直り、「これは完全に私の勘なんですけれど」と前置きしてはっきりとした口調で言った。
「後藤さんは看護師として治療の第一線を担うより、保健師として予防やアフターフォローに携わった方がしっくり来るというか、そっちの方が合っていると思います」
「……そうかしら」
「はい。まだ少ししかお話ししていませんが、包容力というか、寛容さというか……そういうのが滲み出ていて、とても安心できる方なのかなと。ちょっと砕けた口調でも全く威圧感はないし、若輩の私にも気を使っていただいていますよね。プレッシャーに弱いのは恐らく責任感の裏返しだと思うので、そういう方がこの仕事に向いてないとは、私は思いません」
「……さすが転職エージェントねぇ。上手いこと言うモンだわ」
「ふふっ、恐れ入ります」
スルスルと口から出て来た言葉の内容に、感心して思わずそんな感想を漏らしてしまう。それに苦笑して目の前のコーヒーを一口啜った彼は、「でも、今お伝えしたのはちゃんと私の本心ですよ」と返して章弘に笑い掛けた。
「どんなきっかけであれ、復帰を決心していただけて嬉しいです。後藤さんのような方が職場にいるっていうだけで、きっと同じ場所で働く誰かの支えになりますから」
「んもう、そんなに褒めてもシフォンケーキしか出ないわよ。ハイあげる」
「あっいえいえ、とんでもない。そういう意味で言った訳じゃありません。ではせっかくですし、保健師の求人も当たってみるとして、そちらの条件も合わせてもう一度確認をさせてください」
年は恐らく三十代かそこらだろうけれど、彼も流石にプロである。長期間のブランクの理由や、急に戻る気になった動機についてはある程度聞いただけで、必要以上の事は突っ込まない。それどころか前向きな事を言って決心の後押しまでしてくれるとは。どうせならもっと早い段階でこういう人と出会いたかった物だと、真摯に向き合ってくれる彼を見ていて思った。
まぁ、でも。
あの頃の章弘が素直に彼等の助言を受け入れられるかと聞かれれば、答えは恐らくノーだった。若かりし頃の章弘は誰にも何も言わずに一人で勝手に張り詰めて、一番近くで言葉を掛けてくれていた吉武の話にも耳を貸さないようなヤツだったし。自分で出来ない事は他の誰かを頼るなんていう選択、昔の自分だったらきっと思い付きもしなかったし、思い付いた所で選ぶ事もなかっただろう。
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それから三十分程で話を詰めて担当者と別れ、ファミレスを出て近くのバス停へと向かう。少しずつ日が長くなってきたとはいえ、まだまだ暗くなるのは早い。夕方から夜に変わるぼんやりとした空を眺めつつ、信号が変わるのを待っていると、見慣れたセダンが緩やかに交差点に侵入して曲がって行くのが見えた。
一尚だ。
彼の乗っている車は決して珍しい物ではないが、毎度毎度黒光りするボディがいやに目を引いて、走っているとつい目で追ってしまう。しかし今日は珍しく助手席に座る同乗者が見え、見慣れない光景にほほうと息を吐いた。
歳の近そうな小綺麗な女性。見るからにキャリアウーマンと言った風貌で、キリッと結い上げた髪がなかなか決まっていたように思う。特段楽しそうな雰囲気でも時間でもなさそうだから、どう考えても仕事の関係者だ。いやしかし、夜というにはまだまだ早い時間、しかも平日である。
仕事中に女連れだなんてナマイキね。
家族以外に女っ気もへったくれもなくやって来た彼の状況にそんな感想を抱いて、今度会ったらからかってやっても良いかも知れないなどと考える。無論そんな物は冷静にあしらわれるに決まっているが、それはそれで別にどうという事はない。
運転に集中していた一尚が、勿論章弘の存在に気が付く筈もなく。そのまま走り去ったセダンを尻目に、信号が青に変わったのを確認して横断歩道の上を歩いた。
……ついでだし、あっちにも顔出しておこうかしら。
記憶に残っているよりもずっと老朽化した歩道橋を見上げ、昔と随分様変わりしてしまった通りを眺める。ここからそう遠くない位置にある実家の人間と鉢合わせするのを恐れ、この辺は普段なら避けて歩いていた場所だ。
でも。
啓介に言われるまでもなく、それなりに年を取った両親の様子は気がかりだった。こういうついでの用とか、家族が病気や怪我をしたみたいな事件とか、きっかけが無ければずっとこのまま素通りして過ごしてしまいそうである。
顔を出すのが気まずいのはずっと目を逸らして来たからで、それで関係がこじれてしまっていたとしたら、それも長年見ざる聞かざるを決め込んで塞いできた章弘の不始末の一つだ。逃げてきたモノ達と向き合うと決めたからには家族の事も直視して行かねばならないし、恐れをなして一つ蓋を閉じてしまったら、章弘は他の事からも同様に目を逸らしてしまいかねない。
鉄は熱いうちに打てという。自分はどうしようもなく弱っカスで意気地のない人間だし、せっかく訪れた転機と初心が色んな事で揺るがない内に、章弘もどうにかして自身を追い込まねばならない。
自分の事と仕事の事と、家の事。ずっと宙ぶらりんだったそれらを前に進め始めたあの時から、章弘は一尚と直接コンタクトを取っていない。今のあの様子やオーナーからの連絡がない所を見ると、彼も年明けからそれなりに忙しくしているらしく、店の方に顔を出してもいないようである。
クスリの一件もあったし、あんまり目立つような事をして足手まといな噂の元になるような事を避けたいのもある。でもそれ以上に、今連絡を取ったらまた甘えてしまいそうで、そうしたらせっかくの決心が揺らいで元の木阿弥になってしまいそうな気もして、本心を言えばそれが少し怖かった。
一尚は面倒見の良い優しい人だ。でも章弘の嗅覚はずっと、その優しさの何処かに潜む危険信号を捉えていた。
彼は確かに優しいが、年越しの時のように時に自身を追い込んでまで見せる優しさは一種の病的なシグナルを感じさせる。小さい子がよく自身の顔を割って差し出すヒーローを喜んで見ているが、一尚の優しさはあれに近い。自ら肉を削いで困った誰かに差し出すような行動が、息をするように自然に彼に馴染んでしまっている。決して健全とは言い難いその一連の行動と、それによって得られた相手の満足や感謝が彼にとっては何よりの成果だ。自分を頼った相手が、自分の行動によって満足したのを見て安心や満足感を得る。あんな風に外見にも家柄にも恵まれて生きている癖に、全く美しい共依存体質である。
ああいう手合いは鼻が利き、無意識に人の欲している物を見分けて与えるのだ。与えられる物は本当に必要としている物かも知れないし、或いは、進むべき道を塞いで通れなくしてしまうような、地獄のように甘い誘惑の言葉かも知れない。章弘が恐れているのは主に後者の威力である。年齢的にも体力的にも、這い上がるなら今回が最後のチャンスだ。今度ばかりは逃げたくないし、思わぬ方向から背中を撃たれるのもゴメンである。
そこまで考えてハッとして思考を止め、自分と一尚のこれまでを振り返った。
それなりの年数付き合ってきた筈なのに、彼がどんな人間か判っている筈なのに。ここに来て背中を撃たれる想像をしてしまうとは。散々都合よく扱っておいて、章弘は結局一尚の事も信用する事が出来なかったという事だろうか。
……ホント私って最低。
今度があるなら、顔を合わせる時までにちょっとはマシになっていたいものだ。少なくとも、自分の不甲斐なさを誰かのせいにして逃げ回るような、そういうカッコ悪い自分はそろそろお終いにしなければならない。
目一杯吐いた溜息は白く、この周囲がそれなりの気温である事を示していた。それを見て頭を切り替え、賑やかな音楽を奏でているドラッグストアに足を向ける。防寒グッツがひしめくワゴンの中身を何となしに見る内に、遠ざかっていた実家への手土産を考えている自分に気が付いた。
やっぱり寄って行こう。
今年の冬は雪は少ないが、それなりに気温の低い日が続く時もある。年を取った父も母も、この時期は腰や膝が痛むようだと聞いている。無論こんな物は同居している姉がとっくに用意しているだろうが、消耗品だしあって困る事もないだろう。
出入り口付近に積んであるカゴを持って使い捨てカイロなどの商品をガサガサとカゴに入れ、店内にも入って目ぼしい防寒グッツを漁ってレジに向かう。会計を待つ合間にポケットのスマホを出し、実家にいる母親の携帯にメールを打つ。画面を操作しながらメールなんて何年ぶりに使うだろうと考えている間に会計の順番が来て、母にはただ『近くまで来たから寄る』などという簡素な文章を送るに至った。
そして意外な事に、返事はすぐに届いた。
『夜何食べたい?』
という事は夕飯を食って行けという事である。何年も間を空けたとはいえ、四十路にもなって母に甘やかして貰うようなのも流石にどうかと思うのだが。そう言われると急に母のポテトサラダが食べたくなってきた気がして、すぐに返信を打ってスーパーに寄って帰る旨を伝えた。
『待ってます』
少しして謎の絵文字と共に返って来た返事を見て、フッと口元が緩む。そう言えばこういう人だったと記憶の中の母を想定しながら、章弘はこの近くにある個人経営のスーパーへと足を伸ばした。




