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或る社会人の取るに足らない話  作者: 佐奈田
本編
18/60

寒中の日々

「あの、常務。ご相談があります」

「……はい」


 気付けば正月休みなんていうものから二週間以上も経ってしまったある日。一尚は昼休みの訪れと共に嬉々としてフロアを去る社員達の影で、秘書課の稲葉という女性社員に声を掛けられた。


「社長の体調なんですが、先週から少し息苦しそうなご様子があって……。あのご様子で時間外の祝賀パーティや食事会に出席されるのは少し心配で……」


 他の同期に比べてしっかりした佇まいの彼女は、実務経験が無いとは言え医療福祉系の資格保持者である。何年か前に実家の母親が倒れた際に奮起して通ったという講習の知識は、幸いにも元気になった母親に使う事はなかったそうなのだが。今は会社で一尚の父に付き、父の仕事をこうして細部に渡ってサポートしてくれている。

「年末に私の事で負担を掛けましたからね」と嘆息しながら言った言葉に、彼女は判りやすく『しまった!』という顔をして狼狽える。慌てて何か言い繕おうとしたのを手で制し、一尚は出来るだけ穏やかに聞こえるように「代理でも問題ない所へは私が行きましょう」と続けて稲葉に目を向けた。


「急ぎませんので、カレンダーの出席予定を父から私に変更しておいていただけますか」

「はい、午後一番でスケジュールを変更いたします。同行は予定通り私が。それぞれの場所と日時については」

「変更していただければこちらで確認します。移動については私が車を出しましょう。稲葉さんは時間外での拘束が長くなりますし、振休の申請か残業代申請、きちんと出して下さいね」

「あ、ありがとうございます。直近の予定は今週末の夜ですので、それだけ先に変更しておきますね」

「助かります」


 ハキハキとした口調でそんなやり取りをして去って行く後ろ姿を見送り、一尚はデスクを片付けてランチバッグを提げ、一つ上の階にある会議室のフロアへと向かった。

 そのフロアの奥にある小会議室は、会議室というよりちょっとした休憩室といった方が無難な内装になってしまっている。各課のフロアや休憩室で処分対象となったテーブルや椅子、電気ポット、レンジ、ワゴン、卓上の加湿器まで揃っているこの場は、一尚が昼食を摂る時に使う場所の一つである。立場上特定の誰かと親密になり過ぎるのも面倒な為、昼休みはこの小会議室か、社長が不在なら社長室で休憩を取るのが習慣になっていた。


「お疲れ」

「……お疲れ様」


 今日は珍しく、そこに長弟の芳尚が来ている。どういう訳かあからさまにブスッとした表情の彼は、一尚を見るなり「ん」と小さな紙袋を突き出して口を尖らせて見せた。手にした紙袋はどうやらくれるらしい。

 近くへ行って素直に受け取り、「これは?」と尋ねると、芳尚は面白くなさそうに「知らない」と言って愛妻が作った弁当に箸を付け始めた。つっけんどんな弟の様子を尻目に、ランチバックを置いて紙袋を開けて見る。中には小さく折りたたまれたメッセージカードと、ラッピングされた丸いクッキーが入っていた。


『お正月はありがとうございました 椿』


 小さなカードに、可愛らしく書かれた文字は椿のものらしい。正月に少しばかり悩み相談の真似事のような事をしたから、あの時の礼かと納得してそれらを元の袋に戻す。そうして顔を上げるとジットリとした目でこちらを見ていた芳尚と目が合い、凄むような態度でキツく睨まれた。


「……椿と何話したのさ。聞いても全然教えて貰えないんですけど」

「って事は、まだちゃんと話してないのか……。人様の悩みを俺から言える訳ないだろう。夫婦なんだし、二人で時間取って話し合え」

「二人っきりで俺に言えないような話して、そのお返しが手作りのクッキーだなんて。椿のお菓子なんて俺だって最近食べてないのに。お正月ってあの時でしょ、皆で本家にご挨拶に行った時。兄貴は具合悪くて休むって言ってたのに、人が叔父さんとやり合ってた隙に、信じられないっ」

「二人きりじゃない。あの時は由貴さんも一緒に留守番だったのを忘れてないか。大体叔父さんには俺も先週会って来たからお相子だ。良いからゆっくり話す時間を作れ。でないと時期に取り返しが付かない事になるぞ」

「何だよ……そんな大事な話なら何で、俺じゃなくて兄貴にするんだよ……」

「女性陣が喋ってた所に偶々俺が入って行ったってだけの話で、最初から俺の所に来た訳じゃないよ。それに、クッキーは由貴さんにも作ってたんだろ」

「…………作ってたけど」

「ほらな。そういう訳だから絡んでくれるな」


 状況を話してもまだ釈然としない様子の芳尚は、可愛らしくカットされた卵焼きを乱暴に箸で突き刺して口へ運ぶ。長弟のこういう直情的な所はどちらかと言えば父に似ている所だと思いながら、一尚も椅子に座ってテーブルに弁当を広げた。

「それはそうと、年明けから親父の調子が悪いそうだ」と、箸箱から箸を出して一尚が言う。それにパッと顔を上げた芳尚は、つい今し方までのやり取りなど忘れたように身を乗り出して「大丈夫なの?」と真剣な顔をして見せた。


「家では変わらないんだが、稲葉さんによると先週から少し息苦しそうにしているらしい」

「ダメじゃんそれ、前の時もそうだったのに。また入院なんて事になったら……」

「うん。だから、祝賀会とか立食会とか、負担になりそうなヤツで代わりに行けそうなのは俺が行こうと思って」

「……、そっか……」


 元気なだけが取り柄の父が病床に伏したのは、もう四年……いや、年を越したし、五年程前の事になるだろうか。唯でさえ父は仕事が趣味のような人だったので、飛び回るような状態で働いていた所へ、新年の祝賀会だ年度末だと忙しくしていた時に、突然倒れて病院に運び込まれた。

 その頃まだ本社の方で働いていた一尚にも火急の知らせが入り、飛んで帰って来てみれば、父は急性心筋梗塞などという病名を付けられ、病室で涙目の母に大層怒られている所だった。面目ないと項垂れて母に謝る姿は見慣れた物であったが、いつもの光景に安堵するより先に驚愕したのを覚えている。

 病衣を纏った父はまさに病人といった風体で、ひと回りもふた回りも小さくなった体には細い管が繋がっていた。大きかったとばかり記憶していた父の『老い』を痛感した瞬間だった。あの光景を見た時の衝撃は、きっと生涯忘れる事はないだろう。

 おちゃらけた性格の長弟が狼狽える程、普段怒らない母が怒ってしまう程、家族にとってはショックな出来事だった。その二人が先に大きく動揺してしまったものだから、末弟の尚徳は一人冷静にならざるを得ず、真剣に医師の話を聞き、遠方から帰って来る一尚の到着を待っていた。


「……でも、兄貴だって年末年始大変だったんだし、無理しない方が良いよ。俺も半分行くからさ」

「あー……そうだな……」


 心配そうに言った芳尚の言葉を受け、少しばかりバツが悪い思いをする。年末は結局人より多く休みを貰って早めに仕事納めに入ってしまったし、年始に体調を崩した件は全く仕事に関係のない話だし、業務に支障が出る程の事ではない。しかしだからといって芳尚の申し出をきっぱり断るのも気が引けて、少し考えた末に日中参加の分をお願いする事にした。




----------




 社長である父が行くとそうでもないのに、一尚が稲葉を伴って何処かへ赴くと、決まって言われる事がある。


「こうして見るとお似合いの二人ですね」

「石井社長が稲葉さんを手放さない理由が判ります」


 半ば冗談、半ば本気で繰り出されるそれらの言葉には、毎度毎度青筋を立てながらの応対である。このセクハラ狸共めと内心で舌打ちをしつつ、当たり障りなくその場を切り抜け、父の体調が心配だからと理由を付けてさっさと帰るまでがお決まりの手順だ。一尚と同じ様に涼しい顔のまま彼等をいなした稲葉の方は、一通りの挨拶を終えた一尚を前に、いつものように腕時計を見て「そろそろお時間ですね」と退室を促した。


「そうですか。では、申し訳ありませんが私達はこの辺りで」

「おや、もうお帰りですか。何かご用事でも」

「嫌だなあ、若い二人にそんなの聞いちゃ野暮ですよぉ」

「ん、ああ……そうだったなぁ、若いお二人の邪魔をしちゃ」

「……私事ですみませんが、父が起きていられる内に帰って報告をしたいもので」

「ああっ、石井さんそんな、冗談なのに」

「何言ってるんですか会長っ、そういうのもセクハラなんですよ!」

「ええ、今こういうのもダメなの?」

「失礼致します。皆様はどうぞお楽しみ下さい」


 焦った様子の秘書に注意されるお偉方を背に、彼等の天辺禿が満遍なく進行するよう呪いを掛けて颯爽とその場を後にした。

 少し後ろで長々と嘆息した稲葉を連れ、預けていた上着に袖を通してフロントを通り過ぎる。暖冬とはいえ日が落ちた外の気温は肌に刺さるようで、こういう場所用の控えめなデザインのワンピーススーツを纏った稲葉には、さぞ堪えるに違いないと思った。

 暗くて寒い中にチラつく白い物まで見て、流石に「送りますよ」と言った一尚には、彼女が一瞬困ったような顔をした後、おずおずと頷いて見せた。


「車回して来ますので、中で待っていて下さい」

「あ、ありがとうございます……」


 考えてみれば、稲葉にも交際しているパートナーがいた筈である。既に出席予定を伝えているとはいえ、父が出席出来ないのだから、秘書の同行自体を止めても支障がなさそうな話である。相手のいる身でありながら、通常よりも着飾った女性が、上司とはいえ歳の近い男に遅くまで連れ回されているというのも、一般的には聞いていて気持ちのいい話ではあるまい。


『それを判断するのはお前じゃねえんだよ』


 あの日叔父に言われた言葉は時々頭の中で蘇り、自身の事や周囲との事を振り返る指針となっている。周囲の人間にどう思われるかを考えなければならないなど、とても窮屈な事ではあるが。悲しいかな、公の自分をどう動かすか、どう動くべきかを考えるのにこれ程明確な判断基準も思い当たらない。クスリの件がどこかからおかしな形で漏れないとも限らないし、しばらくは叔父に言われた通り、大人しく過ごしていた方が良さそうだ。

 それに。それなりの期間父の秘書を務めている相手とはいえ、あまり親しくもない相手との同行など気を使う以外の何物でもない。毎回さっきのような冷やかしを受ける位なら、一人で乗り込んで早く結婚しろと言われていた方が何倍も気楽である。寒いし遅いし、時間外労働の関係もあって色々と面倒だから、次回からの同行は断っていいだろうかと、そんな事を考えながら車のドアロックを解除した。


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