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或る社会人の取るに足らない話  作者: 佐奈田
本編
17/60

再出発

「人から触られるのが嫌い、ねえ」と、向かいの席でコーヒーを口にした吉武が考え込むような顔をしてそう口にした。同じくガラガラの食堂で紙コップに入ったコーヒーを啜りながら、章弘も頷いて「そういうのって聞いた事ある?」と尋ねて返答を待った。


「んあー……心臓ならともかく、心は専門じゃねえんだよなぁ」

「そうよねぇ。まー別に良いのよ。薬飲んでサクッと治るような話じゃないと思うし」

「……本職の先生は病棟と外来で殆ど戻って来ないし、医局の若いヤツにでも聞いてみるわ。何か判ったら連絡する」

「ありがとう」


 礼を言って紙コップをテーブルに置くと、少し離れた席で番号付きの無線機が鳴っているのが聞こえる。それを手にした人がカウンターへ向かうのを見て、流石に大学病院の食堂ともなるとそういう機器を使う規模なのかと感心した。

 そこは昼食の時間であればそれなりに混雑すると見えて、小さなホールとも言えるようなスペースにテーブルと椅子が並べられている。下手したら高速のパーキングエリアのフードコートよりも大きいのではないだろうか。と、丼を持ってテーブルへ戻って来る人を眺めて思った。

 ちなみに今は、午後の診察がとっくに始まっている時間なので人も疎らである。章弘はこの病院の採用担当や看護師長との面接の帰りだが、向かいに座る吉武は午前中の内に捌ききれなかった外来患者がやっと途切れた所だそうで、人より遅い昼休みにと歩いている所を、面接帰りの章弘と鉢合わせた形になる。

 本当はさっさと帰ってオーナーに面接の愚痴を聞かせるつもりでいたのに、出会い頭に『コーヒー! コーヒー飲もう! な!』と言った彼に腕を引っ張られ、こうしてここで話をする流れになった。

 長袖のインナーとスクラブという装いの吉武は、やや疲労感の滲んだ様子をしつつも「それより、どうだったんだ。師長と会ってきたんだろ?」と言って身を乗り出して来た。前のめりの彼に身を引いて頷きながら、章弘は周囲に看護師が見当たらないのを確認して「やっぱり、ちょっと難しいかしら」と小さく返した。


「口ではブランクがあっても良いって言ってるけど、流石に十年以上となると、ねぇ。女ならともかく男だし、扱いづらいに決まってるわよ。それに……今の仕事の事を話したのもあってか、あんまりいい顔されなかったわ」

「え~、俺の紹介なのにぃ?」

「だから面接だけはしたでしょ。即戦力ならラッキーだし、そうじゃなくても先生の顔は立つもの。後は何か、素行が心配とか大学病院に相応しくないとか、上に適当な報告をしてお断りされるんじゃないの」

「あぁ~、何か、否定できねえのが嫌だわ……」


 言いながら向かい合ってコーヒーを飲んでいる内に、吉武が持っていた番号札もビービーと震え始める。それを聞いた彼はガタンと音を立てて席を立ち、さっさとカウンターへ行って定食の乗ったお膳を持って戻って来た。

 やや不満そうな顔をした彼が席に座り、お膳を前に合掌して味噌汁の入ったお椀を手に取る。温かそうなその中身を口にして大きく溜息を吐いた彼が「また一緒に仕事出来ると思ったんだけどなぁ」と呟いた声に落胆が滲んでいるのが判り、こんな人間と働きたいだなんて、ありがたいにも程があると苦笑を返した。


「ま、こんなモンよ。最初からトントン拍子とは思ってないし……それにやっぱり、私に病院勤務って向かないと思うの」

「そうかぁ~?」

「昔みたいに体力無いし、頭も随分固くなったもの。それに私、こう見えて責任感とかストレスにも結構弱いのよ。運良く入れたとしても多分、色々と持たないと思う」

「……そんなの、俺がいくらだって支えてやるのに」


 箸をトレイの上に置いて頬杖をついた吉武にそんな風に言われ、予想だにしなかった言葉で章弘の目がわずかに開いた。こちらを見つめ返す彼は相変わらず穏やかに笑っていたが、目や声音にいつもの軽薄さは感じられない。冗談や軽口なんかはそれこそ、溢れる程吐く男の筈なのに。どうやら今吐かれた言葉はそうではないらしいと、ただ黙ってその目を見ていた。


「俺とそういう風になるのはイヤ?」


 小さく、けれどはっきりと告げられた言葉を受けて、咄嗟に周囲に視線を走らせる。話が聞こえそうな距離にいる人間はいないし、そこかしこに座っている人達や食堂を切り盛りしている人達は、今自分の目の前にある食事や仕事に掛かりきりのようだ。突然始まった込み入った話が誰にも聞かれていないのを確認してから、章弘は彼の事を考えた。


 吉武とは所謂腐れ縁という奴だった。彼は思いがけない縁で予想外の関係になって、居心地のいい距離感に浸ってズルズルと続いてきただけの人だ。付き合いだけなら一尚以上に長いけれど、多少融通が利く間柄である位で、『大切』かと言われるとそうでもない。元々どちらかに交際相手が出来たら解消するつもりの関係であったし、互いに深入りせずにやりたい放題やってきただけの、そういう不真面目な関係だった。少なくとも章弘にとって、今この時まではそうだった。


「章弘といるとラクなんだよ。お互い穏やかでいられるし、喧嘩も全然ないし」


 そりゃそうだ。とその言葉を聞いて章弘は思う。互いの将来について真剣に考えている相手ならばいざ知らず、その場で終わる関係だから特に気を使う必要が無いし、わざわざ気を回してそんな相手を喜ばせる事も考えなくていい。ただ都合よく性欲さえ満たせればいい相手だからこそ、不要な駆け引きもステップもすっ飛ばす事が出来て、それを不満に思う事なく過ごしていられたのだ。


 彼は超が付くほど忙しい人だし、きっといつかの誰か達のように、章弘の行動を制限するような事は無いだろう。でもそれは同時に、彼の行動が彼自身の裁量でさえどうにもならないという事を意味している。

 いくら章弘が交際を淡白に考える方だといっても、歳の事もあるからこれまでのように後先考えずに過ごす訳には行かないし、自分の都合を優先せざるを得ない状況だって起こり得る。例えば疎遠とはいえ身内に何かがあったりした時。自分に物凄くショックな事が起きた時。そういう時に、仕事や当直等で捕まらないかも知れない吉武の事を、寛大な心で許してやれる自信はゼロだ。

 章弘は行動を制限されるのは煩わしくて嫌だが、ネガティブな感情が抑え切れない事態に陥った時、それを誰にも受け止めて貰えない事はもっと嫌なのだ。イヤなのに、傍にはいて欲しい。まるで駄々っ子の我がままのようであると思うけれど、実際そうなのだから致し方ない。大事なモノから逃げ続けていた日々は思った以上に章弘を弱くしたし、一人でいればいる程、自分がこんなにも人を求めている人間であった事を思い知らされた。


 多忙な彼ならこういう割り切った間柄が後腐れなくて良いに違いないと、そう認識していたのは章弘一人だけだったようだ。自分が誰に対してもそうだから、それに対して何も言わない彼も、それ以上の感情は持つ筈がないだなんて。沈黙と同意を勝手に誤解して彼が同類なのだと思い込んでいた。


 胸の奥にじわじわと失意の染みが広がる感覚を、黙ったまま噛み締めて視線を落とす。そのまま冷えた紙コップの中身を口へ運ぶと、冷たくなったエグみのある液体が喉の奥へ消え、広がった失意と混じり合って腹の奥を重くする。それも自分の愚かさが招いた事態なのだと、そう思って視線を前に戻すと、穏やかに笑っていた筈の吉武の表情に、僅かに哀傷が混じっていた。


「そういう顔すると思ったから、言わなかった」

「そう……」

「でも何でだろうなぁ。お前があの若いのに入れ込んでるのを見たら、黙っていられなかった」

「……取られると思って惜しくなったんでしょ。こんなに懐の深いオカマいないもの」

「多分な」


 少し掠れた声を聞きながら、ほんの僅かでも自分に判りようのない感情を抱えていた彼の事を思う。

 色んな人から望まれる立場でいながら、こんな人間にそんな感情を抱いていただなんて。決して通じる事がない相手を選んでしまったばかりに、この上なく不幸な事だ。巡り合わせが悪かったとしか言い様がない。そしてこの関係自体を不毛であると気付いていながら、ここまで踏ん切りを付けられなかっただなんて。章弘も大概だが、彼も相当な愚か者である。

 聡明な彼をここまで愚かにする程深い感情がこの世には存在しているのだ。そして惜しい事に、それらが章弘の身の内に湧き出す事は、この先もきっとゼロに等しい。


「……先生」

「ん」


 痛ましい表情の吉武に向かい合った自分がどんな顔をしているのか、章弘には判らない。恐らく平静を装って穏やかに応えた彼に対し、章弘も努めていつも通りに、頬杖をついて穏やかに言葉を返した。


「残念。私、医者とは恋愛しない主義なの」

「…………、そう、なの?」


 投げ掛けられた言葉に一瞬の間キョトンとして、彼が何とかそう返す。豆鉄砲を食らった鳩は、もしかしたらこんな顔をするのかも知れない、などと。他人事のようにそんな事を考えながら、口から出る声が震えないように注意を払った。


「だぁって、医者なんてすぐ呼ばれてどっか行っちゃうでしょ。大学病院の勤務医なんて尚更よ。私そういうのは嫌なの。付き合うなら私を一番に考えてくれる人じゃないとダメ。お断り」

「…………じゃ、医者辞めたら俺と一緒にどっか行ってくれる?」

「ガラじゃないでしょ、そういうの。先生が医者辞められる訳ないじゃないの」

「…………そうだけど。じゃあ聞くけど、医者じゃないからあの若いのが良いの?」

「当たり前じゃない。誰があそこまで良い男に育てたと思ってんのよ。若いし可愛いし、呼んだら夜でも飛んで来てくれるのよ。……先生じゃそうも行かないでしょう」

「…………そうだね」


 章弘の言葉に、吉武が力なく笑う。その奥に浮かぶ感情を読み解く事は敢えてしないまま、空になった紙コップを持って「じゃあ、もう行くわね」と席を立った。


「さよなら先生。長い事ありがとう、楽しかったわ」

「こっちこそ。じゃあね……ヒロちゃん(・・・・・)


 手を振った章弘にひらひらと手を振り返した吉武は、すぐにテーブルに向き直ってトレイの上に置いたままになっていた箸を取る。そのままやけくそのように丼を掻き込む姿を見届ける事無く、章弘は足早に構内を進んで正面玄関へと向かった。


 歩く間も胸の奥がズクズクと疼くように痛み、油断すると歯が浮いてカチカチと音を立ててしまいそうになる。そんな風に胸を痛める資格など自分には無いのだと歯を食いしばり、八つ当たりをするようにアスファルトを蹴った。


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