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或る社会人の取るに足らない話  作者: 佐奈田
本編
16/60

冬日和の午後

 

 本家の祖父へ新年の挨拶を済ませた一尚が帰路に着こうと、車庫へ近付いて上着のポケットの鍵に手を伸ばした時だ。タイミング悪く車庫へと吸い込まれるように入って来たセダンがあり、思わず舌打ちをして眉根を寄せてしまった。

「よぉ、一尚じゃないか」と車から降りてきたのは石井本家の頭痛の種であり、一尚の父の弟、つまり叔父である。情の厚い祖父と温厚な祖母の、何処を掛け合わせたらこんな叔父が出来るのかと不思議に思う程アクの強い性格で、知り合いの伝手で渡ったシンガポールでの仕事が終わってしまった今、盆正月の集まりで親族から最も敬遠される人物である。


「正月に来ないなんて滅多にないからどうかしたのかと思ったぜ。元気そうで何よりだ」

「……ご無沙汰しています」

「そういや尚徳が今年結婚するって? どんな女かと思ったら行き遅れの三十路が相手かよ。芳尚の所の根暗に比べりゃちょっとは骨がありそうだけど、家の格で言えば根暗女の方がマシかな。ウチの血を引いてて顔だってそこそこ良い線行ってるのに、お前のトコは揃いも揃って何でそんなの選ぶのか、甚だ疑問だね」

「…………」

「大体、嫁が正月の挨拶にも来ないなんて昔じゃ考えられないね。芳尚も置いて来るなんて何考えてるんだか」


 弟達に対するいきなりの言い草に辟易する一尚の事などお構いなしに、彼は一人で車から荷物を下ろしながらそんな事を喋っている。別に機嫌が悪い訳ではなく、この人は三百六十五日この調子なので、顔が良くても金があってもコネがあっても寄り付く人がいないのが何よりのネックなのだ。早い所家族を作って丸くなれば良いという周囲の期待など、ここ二十年の間ずっと裏切り続けて今に至っている。

 所帯を持つ気がない点においては一尚と一緒の筈なのだが、彼の場合意図して人を遠ざけているようなフシがあり、祖父母や父は、彼のそういう部分が気の毒で中々放り出せずにいるようだった。

 隠す事なく嘆息した一尚の様子を見た彼は、ニヤニヤ笑いながら「で? お前はいつ結婚するんだ?」と言って両手に複数の買い物袋をぶら下げる。それにげんなりとして「ほっといて下さい」と返し、ポケットから鍵を出して自分の車のロックを解除した。


「弟二人に先越されるなんて終わってるなぁ。兄としてはその辺どうなのよ」

「別に何とも。どっちでも良いから両親に孫の顔見せてやって欲しいとは思いますけど」

「図体と持ち物ばっかり立派になりやがって、親不孝者め。さっさと誰か探さねえと、親が逝っちまった後は孤独死だぞ」

「……それ全部叔父さんにも当て嵌まるのに気付いてますか。兄弟どころか甥っ子に先越された気分はどうです」

「……ふん。おら、運ぶの手伝え。今日もどうせ暇なんだろ」


 一尚の反論に面白くなさそうに鼻を鳴らした叔父が、買い物袋を一尚に差し出してそんな事を言う。当然それを黙って運んでやる義理など無かったのだが、透けて見えた『クリスタルマウンテン』という単語に興味を惹かれ、思わず手を伸ばして受け取ってしまった。袋の中には他にも紙袋に入ったコーヒー豆が入っており、それぞれの袋に可愛らしいシールが貼られ、豆の産地や焙煎度が表記されている。それらをジッと眺めて立ち止まっていると、車庫のシャッターを下ろした叔父が「お前コーヒー好きだったっけ」と言って不愉快な程近寄って顔を覗き込んで来た。

 そこから一歩距離を置いて「知人が詳しいので」と返した一尚に納得したような顔をした彼は「ご贔屓の腐れビッチか」と嘲笑して母屋の上の階まで続く階段を上り始めた。


「どうせジジイにこの間の事聞きに来て振られたクチだろ。それ持って上に上がれ。駄賃くらいくれてやるぞ」


 そうして受け取り損なった情報をチラつかされれば、一尚の気など容易に引けてしまう。解錠したばかりの車をまたロックし、眉根を寄せたまま彼の後に続いて母屋の上にまで繋がっている階段を上り切る。そうしてこの家の家長も滅多に開かないであろう、二つ目の玄関のドアを潜った。


「年明けもあの尻軽とお楽しみだったんだなぁ? それでウチに来られなかった訳だ。野郎のケツはそんなに良かったかよ」


 先に靴を脱いで上がった叔父に下卑た笑みを向けられても、一尚はただ無感情にその顔を見つめ返すだけだ。一尚のその反応に興を削がれたのか、彼は返答も待たずに一尚の手から買い物袋を引ったくってキッチンへと入って行った。

「叔父さんが想像してるような事は何もありませんよ」と言って一尚も靴を脱いで揃え、彼が入って行ったキッチンへ向かう。そこで早速買ってきたばかりのコーヒー豆の袋を開けた彼は、鼻白んだ様子で「馬鹿が、それを判断するのはお前じゃねえんだよ」と言って一尚に計量スプーンを突き出して見せた。


「女っ気もへったくれもねえイイ年の男が、普段から腐れカマ野郎と連立って歩いてて、時々向こうの家に入り浸るだの泊まるだの。それで何もありませんじゃ済まねえ年と立場だろうが」

「…………」

「挙げ句今度はクスリだと? 普段真面目にしてるけど、ヤバいクスリ使ってぶっ飛ぶ位ヤりまくってる方が楽しい放蕩息子って言われても言い逃れ出来ねえ状況じゃねえか。実際どうかなんて問題じゃねえんだよ。そんな馬鹿みたいな噂立ったら誰にどういうシワ寄せが行くか、そこまで考えて慎重に行動しろ」


 言い募る叔父に圧倒されて黙っている間に、計量された豆がホッパーの中に入れられて音を立てる。そのまま当然のように豆が入ったミルを無造作に手渡され、一尚は黙ったまま本体を固定してハンドルを回し始めた。

 一定の速度でハンドルを回す一尚に少し感心した様子の叔父に「まあしかし、あの状況に人を巻き込んだ事だけは褒めてやる」と言われて顔を上げると、彼はニヤリと笑って「無駄に国家資格持ってるだけあって、あのクソカマ野郎もバカじゃなかった訳だ」と言い、ミネラルウォーターを入れたドリップポットを火にかけた。


「あいつが事態を動かして兄貴が本家に話を持って来たお蔭で、俺も堂々としゃしゃり出て行けたんだ。結果は上々、お望み通り引っ掻き回してドロドロにして来てやったぜ」

「いえ。別に引っ掻き回して欲しかった訳では」

「遠慮すんな。人様にあんなモン持ち出す奴なんかまともじゃねえんだ。加減間違えて多少ぶっ叩いた位でバチは当たらないだろ」


 そんな事を言って目の前で悪い笑みを浮かべている叔父の趣味は、人様の人生の覗き見である。

 彼は昔から特に必要に迫られた訳でもないのに誰かの事を詳細に調べ上げ、卓上でその情報を眺めてニヤニヤするのが楽しみだったというどうしようもない人だ。勿論協調性などは欠片もないから、石井グループのどの会社で働いても場を乱してしまい、今は石井のネットワークとコネを最大限に使って各種調査業務を行っている。公私問わず様々な立場の人から持ち込まれる調査依頼が今の彼の収入源であり、人様のゴタゴタを垣間見る機会に恵まれたその立場は、彼にとって天職であるとも言えた。

 その彼の手腕とネットワークは、一尚の今回の一件でも余す所無く発揮されていたようで。それによって判った件の詳細を聞きたくて本家を訪れたのだが、祖父母の口は鉄壁のように固く、全くの無駄足を踏んだ所だった。


「お前は誰に対してもいい顔したいだけなんだよ」とは、コーヒーの抽出を終えた叔父の言葉だ。


「口では友達なんて言ってたって、同期のあいつら全然お前の事なんか見ちゃいない。それなりの立場の人間と知り合いっていう、そういうステイタスが欲しかっただけだ。お前っていうパーツを近くに置く事で、自分達の価値が上がったように錯覚するのが気持ちよかったから、いつまでもしつこく声をかけて来たんだ。それが判ってた癖に、完全に切れなかったのはお前の落ち度だよ」


 お湯で温めたコーヒーカップにサーバーの中身を注ぎながらも、叔父の言葉が止まる事はない。薄々勘付いてはいた事を改めて言語化され、胸の奥に重く痛みが走ったような感覚が起きる。彼の言葉には黙って痛むまま立ち尽くしていると、湯気の立つコーヒーが入ったカップを、口調と反して穏やかに手渡された。


「お前は誰からも嫌われたくないんだ。例え自分を利用してる奴からだって、嫌われるのが怖い。自分は誰の事も好きになれないのに、自分の事は好きでいて欲しいのさ」


 呪詛のように吐き出された言葉はコーヒーと共に腹に染み渡り、重たい感情と共に自身の奥へと消えていく。鏡のように突き付けられた事実からは目を背けたくなるが、面と向かって言われた事で、言語化された感情の方は却って落ち着きを取り戻していた。


 そうか。嫌われたくなかったのか。


 と、受け取ったコーヒーを口にしながら考える。

 他の誰かのように『好き』という感情を他者と交わす事が出来ない分、一尚にとって人との関係は薄氷のように不安定で頼りない。だから自分が誰かを引き止めるには、自分の事より先に相手の事を考えて行動しなければならないと。そんな風に思っていた部分はあるのかも知れない。

 ……いや。

 本当はずっとそう思っていたのに、気付いていない振りをして誤魔化して来ただけだ。意識するまでもなく、大切に思っていた人が一度に離れて行ってしまった事が、自分にとってはかなりの痛手だったのだ。もう一度あんな思いをする位なら人に合わせるのなんて大した事ではないし、自分にだって欠点はあるから、多少嫌な思いをするのも仕方ない物だと思っていた。

 今回の事は彼の言う通り、さっさと関係を断ち切らなかった一尚の落ち度でもある。自分の事を疎かにしてきたツケは一尚自身にではなく、周囲の親しい人達に迷惑を掛ける形で回ってきてしまった。




「女の方は親族に写真と文書を何枚か送って”ご挨拶”をして置いた。そうじゃなくても警察とマトリが動いてるだろうし、あとは勝手に片が付くだろ」

「……マトリ?」

「麻薬取締官とか、そういう名前の奴等。あの飲み会に出てた他の奴等はクスリ使われた形跡はなさそうだった。あのメンツに高いクスリ使うメリットがなさそうだし、まぁ無事なんじゃないか」


 一尚が味のしないコーヒーを流し込んだ後も、叔父は買ってきた豆をそれぞれ瓶に移し替え、再び別な豆を挽いてこの後一人で楽しむ用のコーヒーの準備をしている。その作業の合間に喋ってくれる顛末を聞きながら、一尚は空になったカップをシンクに置いてスポンジを手に取った。


「あの女は男でも女でも、気に入ったのを自分の奴隷に落とすのがだぁい好きな変態女だ。厳しいトコで育てられてよっぽど溜まってたんだろ、自分より優位な他人を思い通りにするのが気持ちよくて止められなかったと見える。散々弄んだら適当なタイミングでポイ。あんなんでよく今まで刺されなかったもんだ」

「……あのクスリの入手経路とかは」

「クスリの使い方と仕入先は悪いオトモダチ繋がり。そっちはもうとっくに実刑食らって塀の中だ。捨てられた可哀想な奴隷の方は、田舎に引っ込んで親と病院の世話になってるのが気の毒で気の毒で。年取った親がいい年の子供の面倒見てるってのは、中々堪える話だったよ」


 しみじみとそんな事を言いながら、叔父の口元はニヤついたままだ。こういう居た堪れない内容の話、胸の悪くなるような話は彼の好物である。更に流血沙汰になったり、死人が出たりすると目に見えて興奮し出すので、そういう時は一対一になってはいけないというのが親族間で留意事項として共有されている。

 叔父曰く、普通に生きていた人間が弱い立場に追いやられて踏み躙られたり、痛みに耐えて生きていたり、全てに耐えきれず死んでしまったりすると愛おしくて堪らないのだそうだ。普段誰に対しても穿った言葉を吐いているのに、そういうのを目の当たりした時だけは恍惚として真人間のように穏やかになる辺り、一尚にはきっと一生理解出来ない人である。


「一尚」

「はい」


「そこのそれ、あの腐れカマ野郎に持って行け」と、カップを水切りカゴに入れた一尚に叔父が言った。言われた箇所を見ると一つだけ紙袋に入ったままのコーヒー豆があり、その袋にだけは贈答用のリボンが付けられている。シールには『プレミアムブレンド』とだけ書かれており、それを見た一尚はようやくその紙袋に見覚えがあった事に気が付いた。

 同じような紙袋が、確か章弘の家にもあった筈だ。そしてそれには大体このシールが貼られており、同じ様な文字が紙袋の中身が何であるかを伝えていたような覚えがある。


「この辺で豆買える店なんて決まってるんだよ。甥っ子が世話になった駄賃だ」

「……ありがとう。今日の内に届けます」

「用は済んだろ、さっさと行け」

「はい。ごちそうさまでした」


 そう言って頭を下げた一尚の方はちらりとも見ないまま、叔父は黙々とコーヒーの抽出に取り掛かっている。その姿に再度頭を下げて紙袋を手に取り、一尚は早々に石井の本家を後にした。



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