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或る社会人の取るに足らない話  作者: 佐奈田
本編
15/60

年明けの断案

「は?」と、玄関の靴を見るなり啓介が眉尻を上げた。この家に家主以外の靴があるのはそもそも珍しい。だのに正月の朝っぱらからどうしてと、その顔と声音が雄弁に語っている。


「……はいこれ。御節と、ラップで包んであるのは餅ね」

「いつもありがと」


 紙袋に入った小さな重箱を差し出した啓介は、遠慮なく上がり込んで章弘の脇をすり抜け、堂々と寝室のドアを明けて中の人物の顔を確かめている。寝ていたのは恐らく彼も想定した人物だとは思うのだが。昨夜の章弘の行動はあまり褒められた物ではなかった為に、すぐに寝室のドアを閉めた啓介の顔をまともに見る事が出来なかった。


「何、食ったの」

「……食ってないわ」

「完全にベッドインしてたじゃん」

「したけど……ちょっと抱き合って撫で撫でした位よ」

「は? 何でそれで食ってないの」

「色々あんのよ」

「……イン」

「ちょっとそういう事言わないのっ、コーヒーぶっ掛けるわよ!」


 納得行かない様子の啓介にコーヒーが入ったマグカップを差し出し、貰ったばかりの重箱と餅を冷蔵庫の中へ収める。突っ立ったまま受け取ったカップの中身を啜った啓介は、章弘のその様子を黙って眺めていた。

 少ししてコーヒーを飲み終えた啓介がシンクにカップを置き、「ごちそうさま」と言って章弘の方を見る。「山口さんの事で思い出したんだけど」と口にした彼は章弘がいるテーブルの方へ出て来て、簡素なカウンターチェアを引き出して小さな声を出した。


「あの人、一時期クスリ使ってるんじゃないかって噂になってた時があったよ。そういうのと無縁に見えたし、噂元はっきりしなかったから、石井さん達には言わなかったんだけど。この間の事と何か関係があるかも知れないから言っておこうと思って」

「あら、そうなの。まあ、若かったらイケてたんだろうなって顔してたわね」

「そこそこイケてたんじゃない。石井さんと違って皆に優しくて人気はあったけど、上っ面だけみたいな感じで俺はあんま好きじゃなかった」

「昔っから性格良い奴嫌いよね、アンタ」

「嫌いって言うか、何かムカつく」


 眉根を寄せてそれだけ言った啓介は椅子から立ち上がり、さっさと廊下へ出て玄関へ歩いて行く。それに付いて行ってブーツを履き直す背中を見ていると、解いた紐を結んだ啓介が顔を上げ、「叔父さんも石井さんも大人だから、別に良いんだけどさ」と言って章弘の方へ目を向ける。


「恋だの愛だの頭でっかちになってグチャグチャやってないで、いっその事一緒に住んだら良いのに。と、外野は思ってるよ。皆が皆そういうの判って結婚した訳じゃないし、二人ほど難しく考えて生きてる訳じゃないんだからさ」

「……言われなくても、そういうのは当人が一番思ってるわよ」

「じゃあせめて、どっちかが女だったら簡単だったのにね」

「馬鹿言わないで。そしたら向こうが近寄らなくなるに決まってるじゃない。男同士だから警戒せず近寄って来たのよ」

「はー……じれったいねぇ」

「ほんとにね」


 章弘の答えに嘆息した啓介は、「じゃ、今日は実家に顔出すからこれで。叔父さんも今年は帰りなよ」と言って軽く手を振って見せる。


「爺ちゃんは知らないけど、婆ちゃんの方は会いたがってるから。正月じゃなくても良いけど、ちょっとは顔出してやりなよ」

「今年はちゃんと行くわよ。……その内に」


 エレベーターの所まで啓介を見送り、キッチンに戻ってスポンジを手に取る。環境に悪そうな程泡を立てたそのスポンジで、使ったばかりのマグカップを泡まみれにした。




 ----------




 一尚が起きてきたのはそれからたっぷり二時間程経ってからだった。まだ眠そうな様子で目を擦りながら歩く姿は、何とか布団から這い出して来たといった様子だ。

 無理もない。昨日のあれは恐らく、彼の心にも身体にも相当負荷をかけただろうから。

 陰惨な思いも気鬱も、いつもは大して長引かないのだけれど。年の瀬や年越しになると、毎年大体あんな感じなのだ。

 行く年も来る年も、自分だけが世間から取り残されてしまったような、そういう閉塞感に苛まれて何も手に付かなくなってしまう。どうせ年が明けたら気にならなくなると、判ってはいたのに。今年のそれはどうしてか耐え難い程で、結局縋って巻き込んでしまった。


「何か食べられそう?」

「……、いえ、とりあえず起きたって感じで……、今は何も欲しくないです」

「……ちょっと、ここに座ってくれる?」


 いつもより緩慢な動作でのそのそと現れた彼は、何故か壁にもたれて思うように動けない様子だ。手近なカウンターチェアを引き寄せて座らせ、「怒らないでよ」と断って額に手を当てる。触れた皮膚の温度が予想よりも少し高いように思え、道理でこの時間まで起きられなかった筈だと合点が行った。

 戸棚の中にあったスポーツドリンクの顆粒をコップに少し出し、水に解いてコップごと怠そうな彼の手に押し付け、救急箱を仕舞った引き出しを探って体温計を取り出す。ぼんやりとコップの中身を啜る彼に体温計を差し出すと、この間とは違って黙って腋窩に挟んだ。

 冷凍庫から氷枕を出してタオルで包んでいるタイミングで電子音が鳴り、ゆっくり取り出された体温計を受け取って見ると、平熱よりも二度以上高い数値が表示されている。章弘と共にその数値を見た一尚が、自身の体温の高さに驚いていた。


「……インフルエンザでしょうか」

「っていうより、心因性じゃないかしら。夜、無理させたもんねえ」


 渡した分のスポーツドリンクを飲み干した一尚の頭に手を伸ばし、乱れたままの髪を指で何度か梳いてやる。怒る様子もなくされるがままになっている彼は、「心因性の熱なんてあるんですか」と言って重たそうな瞼で瞬いた。


「あるわよ。……休めば下がると思うけど……ちょっとしたらお宅に送るわね。こういうのは自分の家で休んだ方が早く良くなるかも知れないし」

「…………」


 体温計を拭いて救急箱に戻しながらそう言っても、一尚が返事をする様子がない。どうしたのかと振り返って見ると、彼は視線を下げて困ったような顔をして口を噤んでいた。


 帰りたくない、って事かしら。


 そういえば、彼の家には大晦日から家族が集結して、賑やかに正月を迎えると聞いていたような覚えがある。章弘が家族のそういう集まりに参加したのは随分昔の事であったが、兄弟やその子供達がどんどん変わって行く中で、結構肩身の狭い思いもしたように思う。

 章弘が一人でいた事で閉塞感に苛まれたように、一尚もまた、家族に囲まれる中で息苦しさを感じていたのかも知れない。どちらの方がどうだとか、比べる事は出来ない物ではあるけれど。それを抱えて生きて行く事の辛さはよく判る。


「まあ、兎に角布団に横になりなさいな。治らない内は帰すも帰さないもないわ」

「……はい……」

「後でお粥持って行くわね」


 のっそりと立ち上がって廊下へ出て行く背中を眺め、病人用の食事を作る準備をする。黙々と手を動かしながら昨日からの事を振り返り、『ここいらが限界かしら』と息を吐いた。

 色々な物を隠れ蓑に逃げ回って来たけど、自身の呵責から逃れたいからといって、あんな風に誰かに負担を強いるのは本意ではない。まして相手は年下で、面倒見の良い真っ更な人だ。いつまでもこんな事に付き合わせていたら、いつか彼の心が本当に疲れ切ってしまう。


 気は重いけど、これが私の今年の課題な訳ね。


 決して浅くはない嘆息を幾度となく繰り返しながら、目の前の土鍋が粥を炊き上げるのを待った。


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