37.0度の年明け
マンションの駐車場には車がいっぱいで、来客用のスペースどころか線が引いてない所まで埋まっているような状況であった。章弘の部屋で契約している所は空いていたが、帰省する人間が多いだろうと思っていただけに、この車の台数は予想外だった。
エントランスのインターホンにはすぐ応じられ、『どうぞ~』と言う陽気な声と共にオートロックのドアが開く。それを潜ってエレベーターに乗り、目的の階へ着くと、身を切るような冷気がザァッと通り抜けて体温を奪って行った。
「いらっしゃー……って何それ、鍋ぇ?」
「はい。蕎麦つゆです。鶏肉で出汁を取ったやつ」
玄関で出迎えた章弘は、一尚が抱えている鍋を見て目を丸くする。それに鍋を軽く掲げて答えると、彼は首を傾げて不思議そうな顔をした。
「それ持って歩いて来た訳じゃないわよね?」
「まさか。車です。今日はまだ飲んでなかったので」
「そうなの? じゃ駆けつけ一杯、何飲む~?」
「水で良いです」
「オーケー、水割りねぇ~」
全く話を聞いていない彼を相手に、そうじゃない。と言おうとしてすぐに諦める。上気した顔に締まりのない表情はもう、完全に酔っ払いのそれだ。コンロに鍋を置いてすぐにスマホを出し、これから飲まされる酒が抜けるまで帰れなくなった旨を家族に連絡した。
「……っていうか章弘さん、今日だけでどれだけ飲んだんですか」
「え~? やだぁ今日はまだそんなに飲んでないわよぉ」
リビングのこたつ周辺に置かれた瓶をちらりと見、彼の言が嘘である事を確信する。ゴロゴロとその辺に転がっている瓶は一つや二つではない。例えどれかが半端になっていたワインだったとしても、これだけの本数空けたのならこの酔いっぷりにも納得が行く。キッチンで鼻歌交じりに水割りを用意している章弘を尻目に、その瓶を拾い集めてシンクに向かい、中身を濯いで全てゴミ袋に押し込めた。
そんな一尚を見て「やぁだ、家庭的ぃ」と笑った章弘に苦笑を返すと、彼は透明な液体が入った陶器製のタンブラーを差し出して「おつまみ何にするぅ?」と楽しそうな声を出した。
「いえ、そろそろ蕎麦の用意しないと年越しに間に合わな」
「アタシのおすすめはねぇ、チーズの大葉巻きとぉ、厚揚げのねぎ味噌焼きとぉ……」
「判りました。判りましたから一人でやってて下さい。俺は蕎麦茹でますからね」
「んも~、いけずぅ」
ともすれば引っ付いてきそうな勢いの章弘を押しやり、シンクの収納から鍋を拝借する。大人しくキッチンからは出て行った彼はリビングのこたつに戻り、いつかの様に長座布団に寝転んで一尚が調理する様を眺めていた。
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一尚が鍋や蕎麦の器を洗い終える頃には、章弘はもうデロデロになっていた。
結構な量のアルコールを摂取していた上に、温かい物も食して身体が弛緩したのだろうか。唯でさえ蕩けた顔をしていたのに、今や顔だけでなく身体まで溶けてこたつと一体になってしまいそうな程だ。
壁の時計を見ると、もう三十分もすれば年が明ける時間である。しかしどう見ても限界である章弘を、その瞬間まで転がして置く理由もない。こたつに伏した背中を揺すり、軟体動物のようになった彼に声を掛けた。
「章弘さん、布団で寝ないとまた風邪ひきますよ」
「……、無理ぃ、もう動けない……」
「ほら立って。立ってくれさえすれば後は引き摺って行きますから」
「……うーん……」
そうは言っても、あれだけの酒を飲んだ後である。瞼さえ上げられない様子の彼が、そう簡単に動けそうにないのは明らかだ。
テレビやこたつの電源を切り、力が入らない様子の章弘の身体をこたつ布団から引っ張り出した後、脇に頭を差し入れ、膝裏に腕を回して何とか持ち上げる。そのまま寝室のある方へ移動を始めると、宙ぶらりんだった彼の腕が静かに肩口に回ってピタリと添い、身体の密着度を上げられた。その瞬間に肩が跳ね、背筋がゾワリとしたのに耐えながら、抱えた章弘を落とさないよう慎重に歩いた。
この感覚は嫌いだ。人に伝わる言葉で表すのなら、これは恐怖や怒りに近い。誰かに身体を触られる度にこうした感覚に苛まれるから、その不快感を再現しない為に、同様の事態を避けるのは一尚にとっては当然の事だ。
ある程度以上親しい人が相手なら、自分から身体に触れるのは構わない。しかしこうして人から身体に触れられるのだけは、どんなに親しい人が相手でも抵抗がある。
いつからそうなのかは一尚にも判らないし、どうにもならない原因を探るのにも、苦痛の中で解決策を模索するのにも、もう疲れてしまった。
リビングよりも廊下よりも寒い部屋に入り、先にベッドの上に章弘を横たえる。それからファンヒーターのスイッチを入れに行き、横たわった章弘を布団と毛布の間に押し込んでようやく息を吐いた。
「……かないで」
そのまま離れようとした一尚の袖を掴み、章弘の声が力なくそんな事を言った。暗がりでよくは見えなかったし、髪も乱れていたから、彼の目がこちらを向いていたのかどうかは判らない。
「お願い。行かないで……」
……でも。絞り出すような掠れ声にそんな事を言われてしまっては、このまま離れていく事が申し訳なく思えた。
仕方なくベッド際に腰を下ろして見ていると、微かな光源で光る双眸がようやく見えてくる。それらは必要以上に潤んでいるように思えて、近寄って確かめずにいられなかった。
ごく近くに顔を近付けて章弘の目を覗き込み、自分がどうして彼に近寄っているのかを考える。黙ってそうしている内に覗いていた目が何度か瞬き、端から雫を垂らしたような気がした。咄嗟に伸ばした手でそれを追い、湿った感触を指先に受けて、胸の奥に針でも刺さったような痛みが走る。そんな風に感じた理由を考えている内に彼の目はまた雫を垂らし、やがて指先だけでは拭う事が困難になる。その雫が音もなく枕に落ちる度、遣る瀬無い思いが募った。
怖い。と思った。
まず恐れが先に立った。章弘の現状と、章弘を苛む何かに対しての恐れだ。そして、今自分に出来る事が何かと考え、彼が望みそうな行動を思案して、思い至った結論にも恐れを抱いた。
目の前の彼は今、非常に痛ましい姿をしている。何がどうしてそんな風になったのかは検討もつかないが、苦しげなその姿に胸の奥が痛み、遣る瀬無い、居た堪れない思いが湧き出て噴き上がるようだ。それでも、思い至った次の行動に移るには、それなりに覚悟が必要だった。一尚はそれ位あの感覚が大嫌いなのだ。
章弘の目の端にすっかり涙の筋が付いた頃、ようやく覚悟が決まった一尚が、彼と同じく布団の中に入って身体を引き寄せる。酒が回った身体は温かく、寒い日に触れるは持ってこいのように思えたが、一尚の身体はやはり、自分とは違う体温の人間を嫌悪する物として認識した。ザワザワと総毛立って震える身体を抑える様に、腕に力を込めれば当然、肌も体温も強く押し付ける事になる。いっそハリネズミのように皮膚に突き刺されば、痛みも傷も判りやすくていいのに、と思った。
髪が逆立ってザワザワする。泣きたくもないのに込み上げる物があって、それさえ抑えられない事が情けなくて仕方がない。どうしようもなく腕が震えるし、歯が浮いて時々ガチガチと音を立てる。どうにかして状況を整えようとすればする程呼吸が早くなり、心拍数もどんどん上がっていくようだ。
胸が痛い。
苦しい。
怖い。
怖い。
こわい。
「カズちゃん」
と。不意に腕の内側から胸をポンと叩かれ、縮こまっていた身体から少しだけ力が抜ける。思った以上に緊張していた身体は意思に反して固まったまま、声を上げた章弘を中々放す事が出来ない。そんな一尚の背に触れた章弘が「……ごめんね」と掠れた声で吐き出して、その息が掛かった胸元がまた少し温かくなった。
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窓から差し込む明かりで目を覚ますと、少し日が昇った所だった。
身体を起こすと同時にひどい頭痛がして枕に頭を戻し、しばしの間、そのまま痛みに悶える事になった。
「……大丈夫?」とすぐ近くで低い声がし、眠気と痛みで開ききらない瞼のまま声の方へ顔を向ける。痛む頭は薄い掌にワシワシと雑に撫でられ、その手は「何か飲むもの持ってくるわね」と言った声と共に去って行った。
ゆっくりと目を開けて声がしていた筈の場所を見ると、そこは誰かが抜け出したように布団と毛布が盛り上がっている。そのまま部屋の中に視線を向け、ようやく章弘の所で夜を明かした事を思い出した。掛けていた眼鏡はヘッドボードに置かれているようだが、この頭痛の中で身に着ける気にはなれない。
何とか身を起こして息を吐き、眠る前のような緊張が身体に残っていない事を確認する。そうして四肢を伸展させていると章弘が戻って来て、手に持ったコップにミネラルウォーターを注いで寄越した。
「はい」
「……ありがとうございます」
一尚が受け取ったコップの中身を飲み干す間、章弘の方もペットボトルに残ったミネラルウォーターを煽っていた。彼の方も結構な量の酒を飲んでいた筈だし、身体が水分を欲しているようだ。ペットボトルの中身をすぐに空にした彼は、軽くなったそれをヘッドボードに置いて一尚に向き直った。
「昨日はごめんなさい。酔ってたとはいえ、酷い事したわ」
「……いえ」
真剣な顔で頭を下げた彼に応えながら、まだぼんやりとして開ききらないままの瞼を指で擦る。その動作は向かい合った彼にやんわりとたしなめられ、せっかく起こした身体も章弘によって再び布団の中へと沈められた。
「お休みの日にしてはまだ早いし、もうちょっと寝てましょ」と言われて頭を撫でられ、慣れない感覚に眉根を寄せる。しかし抵抗するだけの気力はもう無く、一尚の身体は布団に縫い付けられたように動かなかった。
『いつもごめんなさい、来てくれてありがとう。カズちゃん、だ~~い好きよ』
切れ切れにだが覚えている。彼は昨晩も、一尚が眠りに落ちるまでの間、強張った身体をこうして撫でてくれていた。泣いていたのは彼だった筈なのに。子供のようにあやして貰ったのは、どうしてか自分の方であった。
自分に触れる物はどれも嫌な感覚になると思っていたのに、不思議な物で、こうしてそっと触れて撫でてくれる手については、何故かとても安らかな感覚を抱いた。
「……章弘さん」と、蕩けそうな意識を何とか保って彼に声を掛ける。目を開ける事は殆ど叶わなかったが、耳でははっきりと、彼の「なあに?」という言葉を聞く事が出来た。
「今年もよろしくお願いします……」
「あら、ほんと。こんなんで年越しちゃったわね。こちらこそ、よろしくねぇ」
苦笑したような穏やかな声音を聞き、髪に触れる優しい手の感触を受けて、一尚の意識はまた溶けて行った。




