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或る社会人の取るに足らない話  作者: 佐奈田
本編
13/60

年越しの夜

 大晦日の日。買い出しの荷物持ちで向かった大型のスーパーの出入り口付近で、一尚は見覚えのある人物に会った。


「あ」

「お。どもー。家この辺なの?」

「ええ、まあ」


 やや疲れた様子のその人は確か、あの晩病院で章弘と話していた医師だ。この寒い中を灰皿のある一角に突っ立ったまま電子たばこの煙を吐き出しており、スーパーで買ったと思われる缶コーヒーを片手に黄昏れている所だった。

 先に店内に入って行った女性陣はどうせ長く掛かるだろうと、レジに並び始める頃を狙って合流する事にする。声を掛けてきた彼の近くにある自販機に向き合うと、彼がポケットから小銭を出して自販機の挿入口に差し入れた。


「好きなの、どうぞ」

「……ありがとう、ございます」


 共通の知り合いがいるとはいえ、殆ど話した事のない他人にコーヒーを奢られるというのも微妙な心地である。そんな事を考えて多少強張った一尚に気付いたらしい彼は、「別に取って食いやしないから」とカラカラ笑って見せた。少し青ざめた顔色と疲れた様子を見るに、昨晩も当直だったのだろうか。


「おじさん今日仕事明けで一人だし、ちょっとお喋りに付き合って欲しいなあ」

「はあ」


 そういう事なら、これはその駄賃という事だろう。大人しくブラックコーヒーの所のボタンを押して出てきた缶を取り出すと、彼は持っていた電子たばこからスティックを取り出して灰皿に押し込んだ。


「その後、体調の方は? どっか変な所ない?」

「はい。あの後何日か怠さが抜けませんでしたけど、今は問題ありません」

「気持ちの方は? またあの体験したいなーとか、こっそり思ってたりしない?」

「しません」

「……なら良かった」


 義務的な質問をしつつ、彼の手はまた新しいたばこのスティックを取り出して本体に差し込んでいる。それを口元に持って行きながら、「地元はこの辺?」と言った彼は、まるで親戚のおじさんのような顔をして一尚を見ていた。


「はい」

「章弘とは部活か何かの付き合い?」

「いえ、学生時代は全く。私が家業を手伝いに、こっちに戻って来てから知り合って」

「え、じゃあまだそんなに経ってないの」

「三、四年位です」

「へええ。それであの距離感なんだ。君結構やるねえ」

「はあ」


 言われた事の意味が判らず、曖昧に相槌を打つ。それに苦笑した彼は「俺は十年以上になるけど、携帯の番号教えて貰ったのなんて最近だよ」と、口から煙を吐き出しながら言った。


「章弘、こっちに戻って来た頃からずーっと人の事寄せ付けないカンジだったから。りんごのお裾分けしてくれるような相手がいるなら良かったと思って」


 ピタ。と、彼の言葉を聞いて一尚の手が止まる。背中を掠めた薄ら寒さは気温のせいではない。彼が何故りんごの件を知っているのか、考えて思い至ったのは一つの可能性だ。

 仕事納めのあの日、章弘は何処か怠そうな様子で仕事に当たっていたように思えた。という事はつまり、バーに来る前に何かをして来たという事になる。急ぎでない用事なんかは無理せず休みの日に回す人だし、彼が仕事の前に動くとしたら知人や友人に関わる物が多い。そして、誰かに関わる事であったとしても、取るに足らないような話ならあの時……一尚が様子が違うと尋ねた時に世間話として口にしてくれた筈なのだ。

 そうでなかったという事は、一尚には話せないような人と会って来た、という事だ。或いは、あまり知られたくないような事をして来た、とか。


「俺が電話した時、章弘さんと一緒にいたんですか」

「うん、一緒だった。メッセージが可愛いって見せて貰ってた」


 やっぱり。

 少しだけ身体が重たくなったのを感じながら、温度が下がったコーヒーに口を付ける。温かい液体が冷たい身体の奥に落ちていく感覚を、この時ばかりは酷く不快だと思えた。


 誰を『特別』に思う事も出来ないなら、同様に誰の『特別』であってもならないと、頭の何処かでいつも思っている。向けられた物と同じものを返す事が出来ないのは心苦しいし、その事実はいつか相手を傷付けて、いずれ自分をも傷付ける物であると知ってしまったから。

 いい加減こんな事など考えず、ラクに生きられたら良いのにとは、常々思っている事である。自分の人生はこういう物だと受け入れて、周りの事など気にせず、自分の感覚を大事にしていればそれで良いのに。それが出来ないのはまだ、己の事を周りと比べてしまうからだ。


 判っている。いくら似たような体験や感覚を共有出来たって、章弘は一尚とは別な人間である。どんなに近くに感じられたとしても、一尚は彼にない感情や物を持ち合わせているし、彼だってそうだろう。自分が不快だと感じて出来ない事でも、章弘には出来たりする訳だ。彼だっていい大人だし、そういう相手として選んだ人がこの人であったからといって、それが何だという事はない。


 ただ。


 自分に近いと感じていた章弘にそういう相手がいると判った事で、彼を急に遠い存在のように思えてしまったのは確かだ。結局の所、誰の心にも身体にも触れられないのは自分だけで、どう足掻いたって最後は一人になるのだと。そんな思いがこみ上げて、明るかった視界が一気に暗くなったように思えた。


「……おい大丈夫か? 顔色良くないぞ」


 急に押し黙って俯いた一尚の肩を軽く叩き、二本目のたばこを吸い終えた彼がそんな事を言う。予期せず訪れたその感覚に思わずビクリとした一尚には、流石に怪訝そうな目を向けられたが。それについては特に言及される事はなかった。


「すみません、少し考え込んでいた物で」

「……引き止めて悪かったよ。早く中入りな、寒いし」

「コーヒー、ごちそう様でした」

「良いって良いって。お大事に」


 人の良さそうな笑みを向けてひらひらと手を振る彼には頭を下げて、半ば逃げるようにスーパーの店内に入った。冷えた身体が暖かい空気に包まれ、張っていた気が少しばかり緩んだように感じられる。それでようやく身体の重さが和らいだような気がして、浅くなっていた呼吸を解すように何度か深呼吸をした。

 手にした缶の中身はもう口にする気になれず、かと言って捨てるのも忍びない。どうしたものかと考えている所へ「お兄さん」という声がかかり、振り返った先で義妹が目を丸くしているのが見えた。


「お義母さん、もうレジに並び始めましたけど……あの、もしかして調子悪いですか? 顔色良くないですね」

「あ、いや、そんな事は」

「ごめんなさい、まだ本調子じゃないんですよね……。やっぱりノリちゃんに頼むべきでしたね」

「…………」


 例の一件で会社を休んだ日の事は、表向きには『風邪からくる胃腸炎』という話になっている。流石に両親や兄弟は事情を知っているとはいえ、同じ会社に勤める彼女にはまだそう伝わっているのだろう。気遣わしげな表情と声音で言われた言葉に少しの罪悪感が芽生え、何と返して良いものか判らなくなる。そんな一尚の沈黙を恐らく肯定と取った彼女は、「じゃ、車に戻っててください。荷物は私運びますから」と言って一尚を急き立てた。


「何なら運転も代わりますから、お兄さんは助手席にでも座っててください。身体休めるのも立派な仕事ですからねっ」


 明るいハキハキした口調でそう言って腰に手を当てる姿は流石、営業のエースである。仕事でもないのに頼もしいその姿に毒気を抜かれ、フッと息を吐いたら自然と笑みが漏れた。どういう魔法かは知らないが、彼女に掛かれば少しの杞憂など、容易く吹き飛ばされてしまうらしい。本当に、末弟はよくこんな人を見つけて来た物だと思う。石井の一族には、中々いそうでいなかったタイプの人だ。


「大丈夫、もう良くなったから」

「本当に? 無理しちゃダメですよ」

「無理はしないよ、尚徳じゃあるまいし」

「ぶはっ、お兄さんがそういう事言います?」


 ちょくちょく無理をしている末弟の名前を出した所で、彼女が吹き出して明るい笑い声を出す。それには軽口で返しながら店内を移動し、ちょうど会計を終えた母の手元から重そうなカゴを取って、中身の袋詰め作業に入った。




----------




 大掃除も料理も済んで、皆で軽く祝杯を上げながら食卓を囲み、後は年越し蕎麦を食べるだけ、という時間になった時だった。

 珍しくスマホの着信音が鳴り、誰からの連絡かと画面を見ると、『後藤章弘』の名前が画面に表示されているのが見えた。


「彼女ですかっ」


 母に日本酒を注がれてとっくに出来上がっていた義妹が目を輝かせてそんな事を言ったが、人柄のせいか不思議と嫌な気持ちになる事はない。違うと口にした途端「なんだ……」と言って末弟に向き直った彼女に苦笑しながら、誰もいないキッチンに入って画面を操作した。


「はい」

『あ、カズちゃーん? アタシぃ~』


 電話に出た途端、相手が物凄い声量でそんな事を言ったので、耳が痛くて咄嗟にスマホを離してしまう。スピーカーホンになっていない事を確かめ、再び耳に押し当てる。それから「どうしたんですか」と言った一尚の言葉には一切答えず、彼はただクツクツと低い笑い声を出していた。

 あれ。と、その声を耳にして固まり、一瞬の内に総毛立つ。似たような笑い声をつい最近、自身も垂れ流した覚えがあるからだ。


「章弘さん……?」

『うふ……っくくっ……』

「ねえ章弘さん。今何処にいるんです、何してるんですか」

『ええ~? 章弘さんはそうねぇ……ウチに居るわよぉ、何かねえシュワシュワしたヤツを飲んでるの』


 完全に受話器から漏れ出している陽気な声を聞き、何だ酒かと息を吐く。椅子を引き出して脱力した身体を預け、「それで、どうしたんです」と尋ねた声には、またクツクツと低い笑い声が返って来た。


『どうもしないわ。電話してみたかったの』

「電話なんて珍しいから、何かあったのかと」

『んふふ、別に何て事ないわ、ただ喋りたかったのよ』


 陽気な声で口にした言葉はつまり、彼が今日一人であった事を示している。休みの日なんて一日中家にいる事もある人だから。今日もずっと一人きりで、あの家に籠もっていたのかも知れない。

 昼間はあんな風に思いもしたけれど、他の誰かと会うのも身体を重ねるのも、咎めるつもりも義理もない。彼の行動は寂しさから来る物だ。こちらは同様の手法を取ることは出来ないが、そうしたくなる気持ちは一尚にもよく判る。常々平気な顔をして生活している彼でも、時々世間との違いに苦しむ事があるのだ。


「……章弘さん、年越し蕎麦食べました?」

『蕎麦ぁ? 蕎麦なんて買ってないわよ、そういうのワインに合わないと思ってぇ』


 さては買い出しから飲んで行ったんだなと、その言葉を聞いて思わず苦笑する。それに釣られてンフフと笑った彼は、電話をしながらまたグラスにワインを注いだらしい。向こうで注がれた液体がコポコポと音を立てているのが聞こえた。


「持って行きますから一緒に食べましょう、年越し蕎麦」

『やぁん、来てくれるの? 流石カズちゃん、男前~』


 出来上がった声がキンキンと響くスマホを離しながら、一尚はまずリビングにいる両親に外出する事を伝えに行った。


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