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或る社会人の取るに足らない話  作者: 佐奈田
本編
1/60

立冬過ぎて

 

 あまり来た事のないスーパーで右往左往していた時だった。

「あれ、お兄さん?」と、覚えのある声に呼ばれて立ち止まる。声の方を見ると義妹(予定)が新米が乗ったカートを押している所で、買い物メモとカゴを持った一尚を見て驚いたような表情をしていた。

 確かにこの辺りは末弟夫婦の生活圏である。だからこそ開店直後なら鉢合わせする事も無いだろうと踏んで来たのだが、どうやら無駄であったらしい。


「どうしたんです、こんな早くから」

「……買い物だ」


 多分そういう事を聞いているのではないと判ってはいても、義妹の聞きたい内容が絞れずに一応口にしてみる。一尚のその言葉は案の定彼女を絶句させ、「ええと……」と困ったように視線を泳がせる。「それは見れば判るんですけど」と言葉を続けた彼女は、押していたカートから手を離し、腕組みをして言葉を選ぶような顔をしながら再度一尚を見上げた。


「何で、こんな時間にこの店にいるのかなと。ご自宅こっちじゃないですよね。それに、お兄さん確か朝は弱かった筈じゃあ……」


 やっぱりそういう事を聞くのか、と。目の前で眉根を寄せている彼女を見て他人事のように思う。「確かに朝には弱い方だ」と答えた一尚は、このスーパーに通い慣れているであろう彼女に、「今日は使いで来た」と言って買い物メモを見せた。


「知人が風邪で寝込んでいるので、代わりに食糧と日用品を買いに」

「へえ。知人って、彼女さんか何かですか?」

「……そういう相手ではないが、どうしてそう思う」

「お兄さんがそこまでしたくなる人って考えたら、そうかなって」

「……そう見えるか」

「そう見えます」


 一尚の言にしっかりと頷いて返した彼女は、見せられたメモと一尚の持ったカゴの中身を見比べて「とりあえず、コレ探しちゃいましょう。お味噌はあっちです」と言って天井からぶら下がっている通路番号を指した。


「助かる」

「あと、お相手さんがお嫌いじゃなかったら葛湯か甘酒。温まりますよ~」

「葛湯? 片栗粉が風邪に効くのか」

「片栗粉じゃなくて、ちゃんとした葛粉を使ったやつですね。葛根湯の仲間みたいなモノです」

「へえ。効くなら何でも良い、買って行こう」


 リストにある物の他に、義妹の勧めで幾つか風邪に聞く物をカゴに放り込んで通路を歩く。並んで歩く内に彼女の買い物にも付き合う事になり、重そうなカートの中身を見て思わず「マンションまで送って行こう」と進言するに至った。

 その日カートに乗ったのは米の他にも、醤油だの味醂だの牛乳だの、重たそうな品々が大半。「重い物に限って一気に切れるんですよ」と言った彼女が一人で動いていたのは、弟も一尚の知人同様に風邪で寝込んでいたからだそうだ。


 会計を済ませて買ったものを互いにエコバッグに押し込む。どう考えても義妹のエコバッグに収まらないそれらは、その辺にあったダンボールを拝借して何とか詰め込んだ。

「持っていただいてすみません」と苦笑しながら、義妹は一尚が持つダンボールからチョコレートを出して一尚のポケットに押し込む。ニコニコと人好きのしそうな表情で「良かったら食べて下さい、気持ちです」と言う彼女を見て、弟が惹かれた理由が判ったような気がした。


「こっちも助かったし、良いのに。そっちこそ、また荷物持ちが必要だったら言ってくれ。買い物位付き合うから」

「ふふ、今度はそうさせていただきます。実際助かりました。お知り合いの方、お大事に」


 笑ってそう言った彼女を玄関先まで送り届けて、目的の場所へと車を走らせる。

 義妹が帰って行ったマンションから大通りを横切って、少し南下した先。一尚と同い年位の築年数を誇るマンションがその知人の住処だった。

 築年数は相当経っているようだが、数年前に大幅にリフォームしたというだけあって、室内や設備に古臭さは感じさせない。良いタイミングで入居出来たと喜んでいた当人は、一尚がエントランスで押したインターホンにも反応を返さずにいる。仕方なしに携帯に電話を掛けると、呼び出し音が途中で途切れて閉じていたガラスのドアがあっさりと開いた。


『おかえり、ありがと~ね~』

「いえ」


 たったそれだけのやり取りをして早々に電話を切り、ポケットにスマホを戻してエレベーターへと向かう。エレベーターを待っている間に清掃中の管理人に会い、「寒くなりましたねえ」等と適当な世間話をして過ごした。

 降りてきたエレベーターに乗って目的の階へ着くと、吹き込んでくる風が下よりも冷たい事に気が付く。日のある内でさえこんなに冷たいのなら、彼が帰宅する時間はもっとずっと冷たいに違いないと思った。


 部屋の前に付いてインターホンを鳴らすと、「開いてるよ~」という声が聞こえる。風邪のせいですっかり変わってしまった声音を聞いてドアを開け、施錠してさっさと中へ上がり込んだ。


「……? 章弘さん?」

「んぁー、こっちこっち……」


 家主がいたのは洗面所だ。真っ赤な顔をした彼はティッシュを箱ごと持って出て来ており、涙目になってスンスンと鼻を鳴らしている。「何してたんです」と言った一尚を前に緩慢な動作で瞬きをした章弘は、「気持ち悪いから鼻洗った」と言ってティッシュを鼻に押し当てた。


「はぁ~しんどい。マジあり得ない、いっそ死にたい」

「それ風邪の度に言ってるでしょう。いちいち死んでないで早く治してください」

「ああ~もう、人と喋ったの何時間振りかしら。この際説教臭くても良いわ、カズちゃんもっと喋って。気が滅入るから面白い話とかして」

「さっきも来たじゃないですか。俺にそんな役割を期待しないでください。はい、戻って」

「目が冴えて寝られないのぉ。昨日の朝から何時間寝たと思ってんのよ」


 壮年期の野太い声に女言葉が交じるのは、章弘が十年以上勤めたオカマバー時代の名残りだ。その店が経営不振で閉店してからはごく普通のバーに勤めているのだが、かつて人気があったオカマバーにいた店員という評判が客を呼び、その客がまた別な客を呼んでそこそこの人気を誇るバーテンダーが今の彼だ。

 話し言葉はこうだが、仕草は別に女性らしくも何ともない。全盛期はもっと声も仕草も可愛さを追求していたのだと当人から聞いて、正直出会ったのが最近で良かったとさえ思った。何せこっちは、可愛らしいとか女性らしいとか、そういうのは間に合っているのだ。


 いつもは客前に出るからと丁寧に整えられているベリーショートの髪は、彼の体調同様ぐちゃぐちゃで、いつもの若々しさは微塵もない。この状態では流石に肌の手入れをする気力も無いらしく、顔周りもいつもとは違う肌質になっている。こうして見ると年相応の身体なのだなと、弱り切った彼を半目で見て溜息を吐いた。


「取り敢えず布団に戻ってください。その顔、まだ熱あるんでしょう」

「そうなの、フラフラなの。カズちゃん添い寝してくれる?」

「誰が好き好んで四十過ぎたオッサンと一緒の布団に入ると思いますか」

「ええ~だって、カズちゃんハグならセーフでしょ。布団の中で温めて欲しいわ」

「布団の中はアウトです。そういうのならデリヘルでも呼んでください」

「呼んだらカズちゃん帰っちゃうじゃない」

「ええ、勿論」

「いやーよ、アタシはカズちゃんに甘やかされたいの」

「寝言言ってないでさっさと戻る。ハイ水分、何か作って持って行きます」

「ご飯作ってくれるの? じゃ、大人しくしてたらアーンしてくれるぅ?」

「……寝ろ」


 呆れ返って半ば舌打ち混じりにそれを言うと、章弘は一尚の差し出したペットボトルを持ってやっとそこを離れる。すごすごと去っていく背中を見送って嘆息し、奥のキッチンへ進んで調理台にエコバッグの中身をぶちまけた。


 その衝撃でヒビが入った卵が一つ二つあったが、すぐに卵粥にでもしてやれば問題なかろうと投げやりに考えた。我が家以上に物の配置を把握しているそのキッチンに、買ってきた物をおざなりに詰めて米びつの蓋を開ける。その中身がもう底を突きそうになっているのを見て、『重い物に限って一気に切れる』と言った義妹を思い出してまた嘆息した。


 他に主食になりそうなのは……パスタとインスタントラーメン、乾麺か。


 煮麺にでもするか。と、いつ封を切ったか不明な乾麺を出して匂いを嗅ぐ。これで風邪が悪化するようなら救急車でも呼んでやろうと、雑な思考をしながら調理器具を出した。



 日曜の朝九時半。

 いつもの休日であればそろそろ起き出して遅い朝食を摂るのが日課だが、前の晩にあった章弘からのメッセージを読んでから、その予定がひっくり返って現在に至っている。


 ここ二週間ずっと喉の調子が悪いと漏らしていた彼は、昨日の朝から熱を出して寝込んでいたらしい。

 仕事場ではどんな人とでも距離を詰めていくのに、反対に私生活ではあまり人との交流を好まない傾向にあるようだ。一尚の職業人生よりも一回り程長くそういう生活をしているから、この部屋に来た事があるのは家族か一尚位しかいないという話で、今回は救助要員として選ばれたのが一尚だった。


『一人は自由で気楽ですっごく良いんだけど、体調悪い時だけは大変ね』


 早朝、取り敢えずの経口補水液だけ持って現れた一尚に、鼻を啜りながらそう言った彼の言には心から同意する。父の不調の折、戻って来たこちらに一人暮らしの拠点を設けずに、実家で暮らす事にした理由の一つが正にそれだった。

 家族がいると一人の生活に比べてかなり煩わしくもあるのだが、それさえ目を瞑れば温かい食事が待っていたり、互いの労力を共有出来たりと有意義な部分も多い。どうせいずれは長男である自分が介護なんかもする事になるだろうと、その前段階としてさっさと実家に戻る事にしたのがもう四年も前の話である。

 お陰様で父は元気に復活を遂げ、自分の会社の業務の半分を一尚に振ってゆっくり働いている。短い期間とは言え父の代理で会社を動かしていた一尚は、その時授かった常務等という重たい肩書のまま運営に携わって行く羽目になった。


「……何してんですか」

「……えへっ」


 黙々と調理を進める一尚の後ろで、ソロソロと起き出してきた章弘がブランケットを被ってこたつに突っ込んで行く。一応咎めはしたが、寝室に戻る気が無さそうな彼を一瞥して鍋に向き直った。

「せっかくカズちゃんがいるから、見てようと思って」と、こたつに首元まで入って寝転んだ章弘が言う。長座布団に頬杖を付いてこっちを見ている顔はまだ赤く、声もガラガラの酷い状態だ。それに顔を顰めた一尚の顔は壁に向かっていたのに、背中を眺める彼はまるで見えているように「大人しくしてるから大丈夫よぉ」と力の抜けた声で言った。


「カズちゃんそういうニット似合うわね。そのスポーツシャツも素敵」

「……どうも」

「あのコートも格好良かったわぁ。アタシ、トレンチみたいなカッチリしたコート着るとパッとしなくて駄目なのよ。トラディショナルが似合う男って最強じゃない? 敵無しってカンジ」

「……十分元気じゃないですか。コレ作ったら帰りますからね」

「うっ、急に悪寒と目眩がしてきたわ……。帰らないでお願い、一緒にいて」


 サッと具合が悪そうに横たわった彼を尻目に、一尚は湯気が立ち始めた鍋の中身を菜箸でかき混ぜた。


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