第九章 英米協議
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文久三年七月八日(一八六三年八月二十一日)。
イギリス艦隊の帰還に先立ち、イギリスと薩摩藩の戦争の結果が、イギリスの郵便船コルモレンドにより、横浜港へもたらされた。
上海から横浜港へ向かう航路上で、コルモレンドは、遅れている損傷艦を待っていたイギリス艦隊と遭遇した。その際、艦隊に同乗していた新聞記者から、横浜にある新聞社あての記事を運ぶよう、郵便を託されたのだ。
横浜港に碇泊している外国船は皆、イギリスの圧倒的な勝利を信じて疑っていなかった。例外は、モビーディックだけである。
コルモレンドが運んできた記事は、新聞社により、すぐに号外として印刷された。
横浜にいる外国人たちは、軍人も一般人も、こぞって号外を入手し、貪り読んだ。
号外の内容は、外国人たちを震撼させた。
ユーリアラス艦長のジョスリングと、副長のウィルモットを含む十三名が戦死し、五十名が負傷をしたと告げていたのである。
イギリス側の戦功として、三隻の薩摩の蒸気船の拿捕・焼却と、市街地の焦土化、各台場を壊滅せしめた旨も、号外は、あわせて告げていた。だが、添え物のような功績の記事では、読者に、勝利者がイギリスであるとは伝わらなかった。
号外のどこにも、イギリスが敗北したとは書かれてはいなかったが、記事の内容から、苦戦し、破れたのは、むしろイギリス艦隊だと、誰もが受け取ったのである。
翌七月九日、艦隊の内、まずアーガスとハボックの二隻が、横浜港へ帰還した。
十日には、ユーリアラスを含む三隻が、さらに十一日には、残りの二隻も帰還して、七隻からなるイギリス艦隊は、一隻も欠けることなく、横浜港へ戻ってきた。
とはいえ、数こそ同じであったが、出港時とは、明らかに様子が違っている。
各艦とも、甲板の所々に、砲弾が着弾した跡が生々しく残っており、応急的に補修を施して航海をしてきたのが、一目でわかる有り様であったのだ。
号外の新聞記事の内容に、比較的、懐疑的な捉え方をしていた者たちも、考えを改めた。帰還した艦隊の様子を見る限り、薩摩藩に対して、イギリスが、敗北または敗北に近い苦戦を強いられたのは事実だと、悟らざるを得なかったのだ。
横浜に住む一般の外国人たちは、自分の身に、今後、危険が迫るだろうと予感した。
これまで、外国人のみならず、大方の日本人も、圧倒的な力の差を見せつけて、イギリスが薩摩藩を壊滅させるものだと思っていた。
薩摩藩ひいては日本国に、外国と互角に戦える力があると知れた今、過激な攘夷論者が勢いづいてしまうだろうと考えられた。いつ、自分たちが住む横浜村の外国人居留地が、攘夷論者から火をつけられるような事態にあっても、不思議ではない。
そうならないためには、改めて強い軍事力で薩摩藩を壊滅せしめて、攘夷論者の暴走が起きぬよう、見せしめにする必要がある。
商売のため、はるばる日本までやってきていた一般の外国人たちは、自分の命と商売に支障が生じぬように願った。自国の公使たちに対して、各国が一致して、生意気な薩摩藩を壊滅させるべきだと、声高に要求をしはじめたのだ。
雑賀は、もちろん、横浜村の外国人の間で、そのような世論が高まっていることは承知していた。
アメリカ合衆国駐日領事であるプリュインからも、日本に滞在するアメリカ人から公使館に対して、同様の要望が多数、寄せられているとの悲鳴が届いていた。
もともと虚飾の領事であったプリュインには、調停の能力も軍事力も、まるでなかった。雑賀を、完全に大統領の代理人だと認めて、頼り切っている有り様だ。
だが、雑賀は、泣きつくプリュインに対して、特に返事はせずに、放置しておいた。
イギリス側から、各国の総力を結集して薩摩藩を叩き潰そう、との誘いは、特にない。
かといって、イギリスが単独で薩摩藩を壊滅させる活動などできるわけがないのは、最初からわかりきっている。
それでも、イギリスが自国の面子に懸けて単独で薩摩藩を攻撃しようと考えるならば、本国から、さらに多くの軍艦を呼び寄せる必要があるだろう。そのためには議会の承認も得なければならず、すぐに結論が出るとは思えなかった。
したがって、雑賀の読みとしては、当面、イギリスは薩摩藩に対して、軍事的な行動には出られない、という結論になる。
そのような一般の外国人の要望と、公使らの状況に食い違いが生じている中、江戸城から、勝が、モビーディックを訪れた。
乗ってきた小船の上で立ち上がりつつ、勝は、迎えに出た雑賀に、にやりと笑いかけた。
「読んだぜ」と、手にしていた、折り畳んだイギリスの新聞を持ち上げて見せる。
新聞には、号外後、イギリス艦隊と共に横浜港へ戻った新聞記者の手によって、より詳細な戦争の観戦記録が、複数回に分けて掲載されていた。勝は、英字の新聞と併せて、同じ内容を日本語に訳して記録した紙も持っていた。
記事の論調としては、生麦事件により、不幸な死を迎えた自国人の賠償を求めるためだとしても、薩摩藩の一般の人々の家々を焼き払うのは、やりすぎではないだろうか、という方向だ。
同じ記事は、当然、イギリス議会でも知るところとなるだろうから、安易に日本への軍艦の増派に流れていくとは、考えずらかった。
「そろそろ、いらっしゃる頃かと思っていましたよ」
雑賀は、軽口を叩きながら、新聞を手にしていない勝の左手を取ると、勝を、モビーディックの甲板に飛び移らせた。
勝から手を離すと、雑賀は一転して真面目な口調で、勝に問いかけた。
「幕府では、このたびの戦争の結果を、どのように受け止めておられますか?」
「まあ、正直、外国人の鼻を明かしてやったと喜んでいるのが大方だな。だが、増長した攘夷論者の台頭を懸念する声も上がっている。長州あたりが暴発するのではないかとな」
「京都・大坂あたりでも同じでしょうか?」
「不逞浪士が多い土地柄だけに、懸念は、より一層強いだろうな。松平中将様のご心労が推察されるわ」
「さらに薩摩藩の手を借りたい状況になったわけですな」
「そういうことだ」
「では、すぐにでも薩摩へ向かいますか? 出航の準備はできています」
「そうしてくれ」
勝は、重々しく頷いた。
モビーディックは、二度目の薩摩藩へ向けて、出航した。
2
モビーディックは、船首に帝の勅使である旨を示す錦の御旗を掲げて、鹿児島湾に進入した。
イギリス軍により壊滅させられた薩摩藩の台場には、大砲こそ据えられてはいなかったが、土堤は、概ね再建されていた。
情報に拠れば、薩摩藩は、藩内では大砲の鋳造が間に合わないため、長崎で外国製の大砲や、その他諸々の武器の買い付けを行っているという。
焦土と化した鹿児島城下の市街地にも、新しい家が建ち並び始めていた。
モビーディックは、特に何の牽制も攻撃も受けぬまま湾内を進み、鹿児島城前面の海に、堂々と投錨した。
不審船を迎え撃つための、薩摩藩の蒸気船は、一隻も出てこない。
薩摩藩が、モビーディックを、不審船ではないと認識しているためだけではなく、物理的に薩摩藩に蒸気船がないための対応だ。
薩摩藩の三隻の蒸気船が、イギリスに拿捕され、焼かれてしまった事実を、雑賀は新聞で読んで承知している。
新聞を読んで以来、雑賀は、松木弘安の安否が、ずっと気に懸かっていた。
雑賀は、一本気であった松木の振る舞いを思い出し、寂しい思いに囚われた。
モビーディックの投錨を確認したのであろう。陸地から、すぐさま役人たちを乗せた数艘の小船が、モビーディックの許までやってきた。
役人たちの表情に緊張の色はない。やはり、モビーディックを同胞と認識しているのだと思われた。
今回のイギリス相手の戦争で、雑賀の砲撃訓練が、少しは役に立っていたのだろう。薩摩藩からは、モビーディックは、敵意ではなく、好意を持って迎えられる存在になっていた。
勝と雑賀は、島津久光への面会を求め、出迎えに来た小船に乗って上陸した。
勝と雑賀は、鹿児島城ではなく、草牟田村にある、新たな久光の屋敷へ案内された。元々は、藩の重臣、稲留八郎左衛門の屋敷である。
イギリス艦隊が再度、来襲した場合に備えて、藩が稲留の屋敷を買い上げ、久光の住居にあてたのだ。標的と認識されている鹿児島城に住むのは、危険すぎるという判断からだった。
勝と雑賀は、久光の屋敷の一室に膝を着き、対面した久光に対して頭を垂れた。
「まずは、ご健勝で何よりと存じます」
勝が、恭しく、久光に対して、口を開いた。
部屋にいるのは、久光と勝、雑賀の三人だけである。
藩主である茂久は同席せず、家臣たちに、イギリス艦隊の再来襲に備えて軍備の再建を急げ、との命令を与えて、自身も陣頭で指揮を執っていた。
いつまたイギリス艦隊が戻ってくるやも知れぬが、準備に掛けられる時間と予算は限られていた。藩主と国父で手分けをして、様々な対応をしたほうが効率的だ、という判断である。
「上洛なら、できんぞ」
久光は、勝の機先を制するように、言葉を告げた。
「参りましたな」
勝は、ぴしゃりと自分の額を右手で叩いた。
「まだ何も申しておりませんが」
「錦の御旗を掲げて、そのほうが参るわけは、他になかろう」
「ご賢察のとおりです。先般の薩摩藩とイギリスの戦以来、京都・大坂の攘夷派浪士の意気は、ますます高まり、鎮圧のため、帝は閣下の一日も早い上洛をお望みです」
久光は苦渋に満ちた表情を浮かべると、「無理だ」と、喉の奥から言葉を絞り出した。
「我が藩とて、いつまた、イギリスの報復があるとも知れぬ状況だ。国許は離れられん」
雑賀は、冷たい口調で言葉を挟んだ。
「残念ながら、報復はイギリスからだけとは限りませんな。横浜に住む外国人たちは、これ以上に攘夷論者が台頭せぬよう、各国が連携して薩摩藩を壊滅させるよう、声高に唱えています」
雑賀は、あえて、イギリスは動かぬだろうという、自身の見解は述べなかった。
できれば、薩摩藩の危機感を煽れるだけ煽りたいという思惑が、雑賀には、実はある。危機感があればあるほど、和議を望みたくなるはずだ。
久光は、ぎらりとした視線で、雑賀を見据えた。雑賀を試すような口調で、問いかける。
「アメリカはどうなのだ?」
「公使館には、そのような声も届いているようですな」
雑賀は、他人事のような口調で、淡々と言葉を返した。
雑賀の視線と、久光の視線が絡み合う。
久光の視線は、雑賀の真意を探ろうとしているようだった。
だが、雑賀は、久光に、駄目を押すように、ずけりと宣告した。
「次は、勝てませんよ」
久光の顔が、くしゃりと歪んだ。
「わかっておるわ」
久光は、怒ったように吐き捨てた。そのまま久光は、下を向いて押し黙った。
沈黙が、室内を支配した。
勝が、黙ってしまった久光に、水を向けた。
「イギリスと和議を結ぶお考えは?」
久光は、毅然と顔を上げた。
「薩摩からは言い出せぬ。かといって、イギリスも言い出すまい」
久光の言葉は、できれば薩摩藩も和議を望んでいるのだという意味に他ならなかった。
雑賀が煽るまでもなく、久光の中には、十分に、和議を求めるだけの危機感が溢れていた。だが、自尊心が、下手に出る対応をとる真似を拒否しているようだ。
「もし和議が見込めれば、閣下には、上洛いただけますか?」
勝は、探るように、久光に問いかけた。
「わし自らは、すぐには無理じゃ。だが、京にいる薩摩藩兵なら、会津中将殿に貸し出せよう」
勝は、大きく頷いた。
「では、和議は幕府が仲介いたしましょう」
勢い込んで、勝は、断言した。
即座に、久光が首を振る。
「いや。弱腰の幕府では、イギリスに足元を見られて、高くつくわ」
久光は、睨むような視線で、勝を見返した。
「確かに」
勝は、意気消沈して頷いた。
「仲介を求めるなら、第三者だ」
久光の重い声が響く。
「ですな」
久光と勝は、顔を見合わせた。二人の視線が雑賀に向かった。
雑賀は、視線を受け止めた。
「ザツ・ライッ!」
雑賀は、高らかな声で、英語を発した。
雑賀は、背筋をピンと伸ばした。
久光に、アメリカ式の敬礼をする。英語で何事かを語りかけた。
だが、久光には、雑賀の英語がわからない。
勝が、臨時の通訳となった。勝は、雑賀の言葉を訳して、久光に伝えた。
『アメリカ合衆国大統領全権大使、ホリー・クロウ・ペリーが、イギリスとの和議の仲介を、お引き受けいたします』
「アメリカ合衆国大統領、全権大使?」
訝しげな口調で、久光が繰り返す。
「あの男の素性です」
勝が、小声で、久光に耳打ちをした。久光の眉が、ぴくりと跳ねた。
久光は、にやりと雑賀に笑いかけた。
「頼もう。だが、わしは、借りとは思わぬぞ」
雑賀は、久光に笑いかえした。
「アイ・ノウ」
もちろん、雑賀は、承知していた。
以前に貸した五十丁のライフルが戻って来るとも、思ってはいない。
雑賀は、久光に、ウインクをした。
言葉を日本語に戻して、ずっと気に懸かっていた心配事を、久光に訊ねる。
「ところで閣下、イギリスに蒸気船を焼かれたそうですが、松木殿は?」
久光の表情が、途端に曇った。
「消息不明だ。生きて、イギリス船に乗り込むのを見たという者もおるが、真実はわからん。そうだとしても、なぜ、そうしたのか? 松木は、イギリスと通じていて、負けたから逃げたのだという者もおる」
久光は、沈痛な声で告げた。
だが、雑賀は、胸のつかえがとれたような気がして、反対に晴れやかな気持ちだった。
「生きてイギリス船に、そうですか、それは安心しました」
久光は、不思議なものでも見るような目で、雑賀を見つめた。
「事実かは、わからんぞ」
「いえ、見た者がいるというならば、そうなのでしょう。松木殿は、生きようとしたのです」
「どういう意味だ?」
「切腹よりも、困難な道を選んだのですよ」
「切腹? なぜ、松木が?」
「蒸気船焼却の責任をとってに決まっているでしょう。だが、死ぬよりも、松木殿は『生』を選んだ」
「馬鹿な! わしは、松木に切腹など命じぬぞ」
久光は、身を乗り出すようにして、声を荒げた。
雑賀は、淡々と自分の考えを口にした。
「命じられなくとも、責任感から切腹する者がおります。松木殿ならば、そのような行動をとっても不思議はないでしょう。けれども、死なずに、誹謗中傷を受けても生きる困難な道を、あえて選んだ」
「何のために?」
「もちろん、自分が生きるため。それから、薩摩藩が、この先の世に生き残る役に立つため」
「そうか」
久光は、まだよく分からぬという口調で、返事をした。
雑賀は、畳みかけるように、言葉を続ける。
「確認ですが、薩摩藩は、松木殿を切腹させるおつもりは?」
「ない!」
久光は、即座に、強く断言した。
「ありがとうございます」
雑賀は、久光に、敬礼をした。
「松木殿の知見は、必ず、薩摩藩の役に立つ」
久光は、どうしても分からぬといった表情で、雑賀に問いかけた。
「なぜ貴公は、それほどまで松木を案じてくれるのだ?」
雑賀は、胸を張って、久光に微笑んだ。
「同じ船乗りですから」
3
久光との面会後、勝と雑賀は、直ちにモビーディックで大坂港へ移動した。
その足で、京都の松平容保の許へ向かう。
強行軍だった。文久三年七月二十日のことである。
会津藩上屋敷の容保の執務室で、勝は、容保へ、久光から預かってきた書状を渡した。
容保は、受け取った書状へ目を通す。
書状には、京都の薩摩藩邸にいる者たちに、京都守護の手伝いをさせる旨が書かれていた。さらに、不測の事態にあたっては、薩摩藩兵を、容保の裁量で使われたし、とまで記されている。
容保は書状から目を離して、勝の顔を見た。
「よくやってくれた」
容保は、心からの労いの言葉を、勝と雑賀に対して掛けた。
「申し訳ありませぬ。久光候本人の上洛は叶いませんでした」
勝が、深々と頭を下げる。
「十分だ。我が藩だけでなく、薩摩藩も京都の取り締まりをするとなれば、不逞浪士どもも動けなくなる。久光殿の御意志は、薩摩藩邸にも通じているな?」
容保は、労りの表情から、すぐに具体的な実務者の顔になって、勝に問いかけた。
「薩摩藩から、薩摩藩邸へ久光候の命を伝えるため、高崎左太郎殿が同行して参りました。既に藩邸へ入りましたので、当然、通じたものと存じます」
「よし。ならば、薩摩藩との連携だな。すぐ使者に発ってくれぬか」
勝は、ゆっくりと首を振った。
「いえ。江戸へ戻らねばならぬそれがしより、そのようなお役目は、会津藩の実務担当者が行うべきかと」
容保は、あっ、と驚いたような表情をした。
「すまぬ。忙しい身の貴公に頼りすぎていた」
勝は、「いえ」と小さく、言葉を発した。
容保は、一瞬、宙を見つめた。思案をする表情だ。
「わかった。その役は、秋月にやらせよう」
秋月悌次郎は、会津藩公用局の人間である。
勝は、何も言わずに、頭を下げた。
雑賀が、神妙な口調で、発言した。
「勝安房守様を横浜港までお送りした後、戻って、モビーディックも大坂港へ駐留いたします。少しは攘夷派への抑止力となるでしょう」
容保が、雑賀へ向き直った。
容保は、雑賀へ、「すまぬな」と、感謝の言葉を口にした。
「微力ではありますが」
雑賀は、容保へ、頭を下げた。
その実、雑賀は、内心で舌を出している。
本来、外国船であるモビーディックには、大坂港への入港は認められない。
現在は、特例として、軍艦奉行並である勝海舟同乗のもと、幕府のお借り上げ船という立場で入港していた。勝海舟が江戸城へ戻れば、当然、もう大坂港へは入れなくなる。
だが、雑賀が、アメリカ合衆国大統領から受けているのは、『内戦中の日本の勝ち馬と手を組め』という特命だ。
任務を確実に遂行するためには、今後の政局の舞台と成り得る京都・大坂へ、自由に出入りできる立場でいるのは、重要だった。
容保からの言質を得たことで、これからも、堂々と大坂港へ入港できるようになったのだ。内心で舌も出るというものだ。
「うむ」
だが、容保は、まんまとしてやったという、雑賀の内心には気づかずに、重々しく頷いた。
それから、容保は、居住まいを正した。
「大儀であった」と、勝と雑賀に言葉を掛ける。
面会が終了した。
深々と、勝と雑賀は頭を垂れた。
4
アメリカ合衆国駐日領事、ロバート・H・プリュインは、一向に連絡の取れないホリー・クロウ・ペリーに、業を煮やしていた。
公使館へは、毎日、日本に滞在しているアメリカ人から、イギリスと連携して薩摩藩を討つようにという、嘆願が届いている。
もともと遙か極東の島国まで、一財産を築こうという魂胆で出向いてくる連中だ。柄と素性の良い類の人間ではなかった。
名目は嘆願だが、日々、脅し同然に凄まれて、プリュインは、毎日、身の細る思いをしていた。
その上さらに、プリュイン自身が、いつ攘夷派浪士の、標的にされるかという危機感もある。
名もない、一介のアメリカ人商人よりも、駐日領事という肩書きを持つアメリカ人のほうが、狙う側にしてみれば良い標的に違いない。
自分自身が、強い薩摩藩討伐論者と化していたプリュインは、公使館として使っている江戸麻布の善福寺を出て、横浜村の、イギリス領事館へ、自ら出向いた。
ニール代理公使に面会を申し込む。
プリュインとニールは、テーブルを挟んで向き合いながら、それぞれの椅子に着席した。
ニールの隣には、ニールの第一補助官である、ガワーも着席する。
「イギリスは、いつ薩摩藩を討つのです?」
プリュインは、最初から厳しい口調で、ストレートすぎる質問を、ニールに放った。
「我が国の公使館には、攘夷に脅えるアメリカ人からの悲鳴が、毎日毎日、大量に届きます。すべて、貴国が薩摩藩に破れたためと存ずるが、早急に薩摩藩を鎮圧して、浪士らを黙らせてもらいたい」
ニールは、不愉快そうに、顔を歪めた。
不機嫌な声で、応答する。
「イギリスには、薩摩藩に破れた覚えは、一切ありませんな」
「建て前はよろしい。イギリスが、速やかに薩摩藩を壊滅させぬというのであれば、攘夷の活発化に伴う貿易額の減少について、イギリスに賠償金を請求したい」
プリュインは、一方的に捲し立てた。
『イギリスと薩摩藩の戦闘以降、志士による攘夷活動が活発化して、しばしば商行為が妨げられている』
そのような類のイギリス人商人からの苦情は、イギリス領事館のニールの許にも届いていた。言いがかりのようだが、プリュインの言葉も、あながち根拠がないものとは言い切れなかった。
「アメリカの商行為に、イギリスが責任をとらねばならぬ謂われはありませんな。それほど薩摩藩を討ちたいならば、アメリカが艦隊を派遣されればよかろう」
ニールは、憮然として言い放った。
プリュインは、押し黙った。
できるものなら、ニールに言われるまでもなく、そうしたい。だが、イギリスのような艦隊を、アメリカは日本に配備してはいなかった。
そもそも、プリュインには、自由にできる船の一隻さえもない。武力を持った部下もいない。
同じ駐日領事とはいえ、アメリカ本国は、イギリスほど、駐日領事を手厚く遇してはいなかった。
基本は、民間の人間に駐日領事という名前だけ与えて、あとは自身の才覚で商行為に励めというのが、アメリカの方針だ。
アメリカの名を汚さない限りは、駐日領事という立場を利用して商売をしても、構わない。
その代わり、日本にいるアメリカ人のために、アメリカ政府が本来であれば行うべき諸事全般の面倒を見ろ、というのが交換条件だった。
着任以来、プリュインが、いくらアメリカ本国に対して待遇の改善を求めても、一向に改善は行われてこなかった。
もっとも、今にして思えば、大統領の特命を受けて動く人間は別にいるのだから、アメリカ政府がプリュインの待遇を手厚くする必要などは、どこにも存在しない。
その特命を受けているホリー・クロウ・ペリーが動かないものだから、プリュインは、自身の身と商売を守るために、独断でイギリスに働きかけようという判断に至ったのだ。
ニールに言い返されたからといって、あっさりと屈するわけにはいかない。
「我が国には、既にイギリス本国に対して、賠償金を請求させていただく用意ができている」
プリュインは、極力、感情を排除した口調で、淡々と、ニールに告げた。
実際には、そのような用意は、どこにもない。
また、プリュインには、そのような権限もない。
すべて、真っ赤な大嘘だ。
だが、プリュインは、さらに言葉を積み重ねた。
「イギリスと薩摩藩の間で戦争が起きたのは、戦端を開いたイギリスに責任があるのは明白である。その結果、日本の攘夷活動の活発化を招き、日本と諸外国間の貿易に損害が生じたのだから、この責任もイギリスにあるのは、やはり明白だ。したがって、イギリスには、各国の貿易減少額に対して、賠償請求に応じなければならない責任があると考える」
プリュインは、口を閉じると、ニールの顔をじっと見つめた。
ニールの顔色が、見る間に青ざめていく。
どうやらプリュイン、すなわちアメリカが、イギリス本国に対して本気で賠償金を求めるつもりなのだと、信じたようである。
「待たれよ。今度の戦争で、先に攻撃を仕掛けてきたのは、薩摩藩である。我が国は、あくまで戦争を回避し、交渉を有利に進めるための手段として、薩摩藩の船を拿捕したまでだ。イギリスに開戦の責任はない」
ニールは、早口で捲し立てるように弁解した。
プリュインは、にこりともしなかった。
「貴国は、そもそも横浜港を発つ前に、『薩摩藩が要求を呑まなければ武力行使も辞さぬ覚悟』と宣言をされていたではないか。その言葉どおり、既定路線として、貴国から戦端を開いたのであろうが。貴国に開戦の責任がないとは、それこそ、無責任かつ牽強付会な屁理屈というものであろう」
「いや!」
ニールは、さらに言葉を続けようとするプリュインを遮るように、一声ヒステリックに発すると、その場で立ち上がった。
衝撃で背後に押された椅子が、甲高い音を立てて、床に転がった。
ガワーが素早く立ち上がると、ニールの椅子を元通りに起こした。
だが、ニールは、椅子が倒れたのにも気づかぬ様子で、さらに早口で捲し立てた。
「戦闘開始の判断を下した当事者は、私ではない。戦闘の指揮は、クーパー提督が執っていた。そこまで申すのであれば、私ではなく、クーパーから、当時の状況について説明させよう」
プリュインは、腹の中で、にやりとした。
ニールの言葉は、責任転嫁だ。
開戦は自分の責任ではなく、クーパーのせいだと言っている。
もし、開戦が、イギリス本国からの命令を受けてのものであれば、絶対に出てはこないはずの言葉である。
本国からの命令を受けていれば、クーパーのせいだとは言わずに、素直に本国の命令だったと言えば良い。責任の所在は、本国だ。
だが、責任が、クーパーだ、ニールだ、と逃げるのは、要するに、開戦は現場の独断であったのだ。責任は、現場にあった。
アメリカに、正式に賠償金を求めるような真似をされると、実際に賠償金を支払うか否かはともかく、少なくとも現場の指揮官は、責任をとらされる羽目になるはずだ。
ニールの望むところではないのであろう。
プリュインは、わかったというように両掌を自分の肩の前で開き、ニールを制した。
「まあ、お座り下さい」
プリュインは、一転して優しい口調になると、ニールに着席するよう手で促した。
ニールは、どさりと、腰を下ろした。
プリュインは、さらに優しく言葉を続けた。
「わかりました。クーパー提督のご説明を伺いましょう。こちらで? それとも、提督の船へ、場所を替えますか?」
「すぐ、呼びましょう」
間髪を入れずに、ニールが応じた。
ニールの意を受けて、ガワーが部屋を出ていった。クーパーに連絡をとろうというのだろう。
プリュインは、承知したという意味で、大きく頷いた。
さらに、プリュインは、ニールの本心には気づかぬ素振りで、ざっくばらんな軽口を叩くように、ニールに問いかけた。部屋には、プリュインとニールの二人きりだ。
「ところで、ニール大使ご自身は、今回の件について、どのような落としどころをお考えですか? 私としては、国同士の賠償金の話とはせず、貴国が、速やかに再度、薩摩藩を攻撃して壊滅させ、攘夷活動を沈静化させるのが得策だと考えますが」
ニールは頷いた。
「私も、そのように思います。ただ、あくまで戦闘の判断は、クーパー提督が行うので、私からは、どうせよとは申せません」
「なるほど。では、クーパー提督にも話してみましょう。その際、大使からも、お口添えをいただけるとありがたい」
「それは勿論」
「結構」
プリュインは、重々しく頷いた。
青ざめていたニールの表情に、朱が戻った。自分から矛先が外れた、と安心したのだろう。
ちょろいもんだ、と、プリュインは北叟笑んだ。
5
おおよそ一時間半余り、プリュインとニールは、雑談に興じた。
薩摩藩との戦争の様子を、ニールが、プリュインに話して聞かせたのが、主な内容だ。
如何に戦闘がやむを得なかったという、ニールの主張である。
やがて、扉が、外からノックされた。
「入れ」と、ニールが、ぞんざいに応答した。
ガワーが、部屋に入ってきた。
「クーパー提督が到着しました」
ガワーは、ニールの近くまで歩み寄ると、簡潔に報告した。
「すぐに通せ」
「それが」
ガワーは、プリュインの顔にちらりと目を向けると、言いにくそうに口を噤んだ。
プリュインの胸中に不安がよぎった。
ガワーが、話を聞かれたくないと思っている相手は、ニールではなく、プリュインなのだ。プリュインにとって、悪い話であるのに違いない。
「なんだ?」と、じれったそうに、ニールがガワーを促した。
ガワーは、踏ん切りがついたのか、大きな声と、はっきりとした口調で報告した。
「アメリカ合衆国大統領の全権大使が、クーパー提督に同行されています」
プリュインは、暗澹たる思いにとらわれた。
どうして今まで連絡が取れなかった相手が、よりにもよって、なぜ、このタイミングで現れるのか!
プリュインは、神様の悪意を感じた。
もしくは、悪魔からの気遣いだ。
一方、ニールは、ガワーの言葉の意味が分からないようだ。
「領事なら、いらっしゃるではないか」と、ニールは頓珍漢な受け答えをした。
「いえ。また、別の大使です」
ガワーが、きっぱりと返事をした。
ニールが、さらに問い返すよりも早く、ガワーが入ってきたのと同じ扉が、また開いて、イギリス人が入ってきた。クーパー提督だ。
クーパーは、軽く右手を挙げて、ニールに「自分がやってきた」という、挨拶をした。
続いて、濃紺色のアメリカ合衆国海軍の士官用軍服を着用したアメリカ人、ジョナサン・デビッドが入ってくる。生真面目な表情だ。
最後に、日本人が入ってきた。
日本人もまた、ジョナサンと同じ濃紺の軍服だ。
室内にプリュインがいるのを目ざとく見つけると、日本人は嬉しそうに微笑んだ。日本人は、プリュインに対して、ウインクをした。
プリュインにとっては、悪魔の微笑みと悪魔のウインクだ。
プリュインは、天を仰いだ。今は会いたくない相手だ。
日本人は、もちろん、ホリー・クロウ・ペリーだった。
6
モビーディックで、横浜港へ入港した雑賀は、ジョナサンと共に、勝を小船で陸地へ届けた。
出迎えに出た、幕府の役人に勝を託す。
恐らく、勝は、陸路で行くか、別の船に乗り換えるのか、何らかの手段を使って、江戸城に戻るのであろう。
勝と別れた雑賀とジョナサンは、横浜港に停泊しているイギリスの軍艦、ユーリアラスに小船を向けた。
イギリスとの和議の仲介をするという、島津久光との約束を果たすためだった。
雑賀とジョナサンは、クーパー提督に面会を申し込んだ。
まず、純粋なアメリカ人である、ジョナサンが、クーパー提督に挨拶をする。次いで、ジョナサンが、雑賀を『アメリカ合衆国大統領全権大使』だと紹介して驚かれたところで、クーパーを呼びに、ガワーがやってきた。
ガワーは、ニールが、アメリカの領事であるプリュインと、現在、面会中だと告げた。
プリュイン曰く、アメリカには、イギリスに対して、攘夷の活発化による損失の賠償金を請求する準備があるという。
プリュインに、薩摩藩との戦闘行為について説明をするため、面会の場にクーパー提督も同席されたし、とのニールからの要請である。
ガワーは、雑賀とジョナサンに対しては何も言わなかった。だが、胡散臭い者を見るような目で、終始じろじろ睨みつけていた。
プリュインがニールに会う動きとは別に、並行して、クーパーにも接触を図ろうとしていたと受け取ったのだろう。アメリカが、何かを企んでいると、勘繰ったのだ。
実際は、まったくの偶然である。
雑賀には、プリュインの行動は予定の外だった。
ではあるが、プリュインが、イギリス相手に何かを画策して動き始めてしまった以上、当面は流れに乗ってみるしかないだろうと思われた。流れの中で、和議への道筋を探るのだ。
「おや、もう、プリュインが訪ねておりましたか」
雑賀は、軽く驚いたような口調を装うと、ガワーに声を掛けた。もちろん、英語だ。
「では、我々も領事館へ伺いましょう。関係者が皆で集まったほうが、話が早い」
雑賀は、クーパーとガワーに同行して、イギリス領事館へ向かうことにした。
7
雑賀は、ニールの執務室に入るや、プリュインを目で探した。
プリュインは、突然の雑賀の出現に驚いた様子で、不安そうな顔をして椅子に座っていた。
雑賀は、思わずにんまりとした。不安そうなプリュインの表情が、小気味よかった。
雑賀はプリュインに「うまく口裏を合わせろ」という意味を込めて、ウインクをした。
プリュインの顔が、余計に引き攣る。雑賀の意図は、うまく通じてはいないようだ。
「随分と早かったな」
雑賀は、すっかり打ち解けた者に対する口調を選んで、プリュインに声を掛けた。
アメリカの行動が、実は、人によりバラバラであると、イギリスに知られるのは得策ではない。さも連携して動いているように、イギリスに誤解をさせておく必要があった。
プリュインは、もごもごと口を動かして、「ええ、まあ」と、小さく答えた。
プリュインが、雑賀に対して萎縮しているのは、誰の目にも明らかだ。
やや遅ればせながら、来客を出迎えるために、ニールが、立ち上がった。
ニールの顔には、戸惑いの表情が浮かんでいる。
プリュインも、慌てた様子で立ち上がる。
ニールは、プリュインと雑賀、ジョナサンの三人を、交互に目で追っていた。人間関係を見はかろうという肚づもりなのだろう。
逆ならばまだしも、ニールには、駐日領事であるプリュインを萎縮させる日本人がいるとは、想像がつかないのだ。ましてや、ニールは、先刻まで居丈高な態度をとっていた男である。
ニールの顔に浮かんだ表情の意味を、雑賀は察した。
雑賀は、プリュインに対して「我々を、大使に紹介してもらえるか」と、穏やかに言葉を掛けた。
プリュインは、苦い顔をした。
今まで散々、自分がアメリカのトップであるという態度で、ニールに迫っていたのだ。
今更、そうでないとは言い難いに違いない。
雑賀は、ニールに向き直り、プリュインが自分を紹介してくれるのを待った。
雑賀が敢えてプリュインに自分を紹介させたのには、二つの理由がある。
一つは、プリュインの口から紹介することで、雑賀自身が自分の身分を明かすよりも、信頼性が高まること。
もう一つは、あえてプリュインに、雑賀が誰であるか口に出させることで、逆説的に、プリュインに自分の立場を分からせることだ。
断りもなく、今回のような勝手な真似をしやがって、手前、いったいどういうつもりだ、と、お灸を据えているわけである。
プリュインは、やむなく、渋々といった様子でニールに向き直った。雑賀を紹介する。
「アメリカ合衆国大統領全権大使、ホリー・クロウ・ペリー大尉です」
雑賀は、ニールに、軽く会釈をした。
「よろしく願いたい」
続いて、プリュインは、ジョナサンを手で示した。
「モビーディック艦長のジョナサン・デビッド大佐です」
ジョナサンは、プリュインに頭を下げた。
「ホリー・クロウ・ペリーを補佐しています」
ジョナサンは、抑制が利いた声と口調で、自分の立場を説明した。
アメリカ人であり、雑賀より高官であるがゆえに、この部屋に先に入ってきたわけではない。自分は、あくまでも雑賀の露払いとして、雑賀の前を歩いているのだ、という意思表示だった。
雑賀は、ジョナサンの言葉を肯定するかのように、軽く頷いた。
階級はともかく、この場にいるイギリス人の誰もが、アメリカのトップは、雑賀であると認識したはずだ。
けれども、ニールは、なぜという部分で、まだ腑に落ちてはいないようだった。
「しかし! 日本人ではないか?」
ニールは、プリュインが雑賀との初対面時に発したのと、全く同じ言葉を口に出した。本音が、思わず口をついて出てしまったようである。
雑賀は、ニールを諭すように、微笑んだ。
「アメリカは、多民族国家です。貴国と違い、国民には、アフリカ系の人種も東洋系の人種も含まれていますよ」
雑賀の言葉どおり、アメリカ国籍を有する人種には、アフリカ系アメリカ人も、中国系アメリカ人も含まれていた。だとしても、日本人は、ほとんどいないのが現実だ。きわめて、ゼロに近い人数だろう。
雑賀は、まだ信じられないという顔をしているニールを、感情を込めずに見つめ返した。
「失礼ですが、あなたは、なぜ、まだ生きておられる? もし、日本人があなたの立場であれば、潔く敗戦の責任をとって、既に自決をしていますな」
ニールは、瞬時に顔を赤く染めると、声を荒げた。
「なぜ、私が死なねばならんのだ!」
雑賀は全く、動じなかった。
雑賀は、冷たい口調で続けた。
「薩摩藩には殲滅戦の覚悟があったのに、イギリスは、薩摩藩が戦端を開くとすら、予想していなかったのでは?」
雑賀は、ニールとクーパーの顔を交互に見比べた。
反論はなかった。雑賀は、相手から、せせら笑って見えるように、意識的に口の端を吊り上げた。
「それでは、負けるはずです」
雑賀は、きっぱりと断言した。
ニールのみならず、クーパーの顔面も赤く染まった。
クーパーは、怒りを押し殺しているのが明らかな様子で、ギラリとした言葉を発した。
「大尉。何が仰りたいのかな?」
クーパー提督は、あえて階級で雑賀を呼んだ。軍属にとって、階級は絶対的な上下関係だ。国は違っても、概ね、優劣は準拠される。
「ジョスリング大佐以下、戦死した貴国の英霊たちに哀悼の意を捧げます」
雑賀は目を瞑り、黙祷した。
ジョナサンも追従する。
たっぷり一分間は、雑賀は目を瞑っていた。
目を開き、雑賀はクーパーの顔を見つめた。
クーパーは、芝居がかった雑賀の振る舞いに、さらに苛ついているようだった。
雑賀は、穏やかな口調で、クーパーに問い掛けた。
「ジョスリング大佐には、『薩摩藩は防備を固めているので、戦闘は避けるように』と、我が国から、忠告をさせていただいておりました。なぜ聞き入れていただけなかったのかと悔やまれます。当然、提督には報告があったものと存じますが?」
雑賀とジョナサンがジョスリングと面会していた時、クーパーは同じ船に乗っていた。
雑賀の忠告を信じるか否かは別として、ジョスリングから、報告を受けていないわけがないという、雑賀の勘繰りだ。
クーパーの顔に浮かんでいた怒りの兆候が、どこかに消えた。
ふっとクーパーは、雑賀から目を逸らした。
すかさずクーパーの弱気を見て取ったニールが、クーパーに詰め寄った。
「そうなのか! 私は、そのような忠告の話など聞いておらんぞ」
クーパーは、苦しげに小さな声で弁解した。
「戦力で圧倒的に劣る薩摩藩が、よもや戦闘に臨むと考える理由は、どこにもなかった。薩摩藩が理性的な判断を行えば、戦闘行為には及ばぬはずだ」
ニールは、さらにクーパーを叱責した。
「提督、君の責任は重大だぞ」
ニールの口調からは、クーパーに対する、個人的な不仲の気配が感じられた。
雑賀が、冷徹に言い放つ。
「大使。敗戦の責任が誰にあるかは、貴国の議会で判断されたい。我が国には関係ない」
ニールは、まだ何か言い足りない様子だったが、渋々と口を噤んだ。
雑賀は、よろしい、といった意味で頷いた。
「クーパー提督、薩摩藩は、理性的に戦闘の判断を下したのですよ。日本人は、不名誉に生き延びて生き恥を曝すぐらいならば、冷静に自分で腹を切ります。ニール大使への、なぜ、まだ生きておられるかとの問いも、しかり。長く外国と隔絶した生活をしてきた日本人の思考は、日本人にしかわからぬものでしょう。日本人には日本人をあたらせろという大統領のお考えで、私が着任した次第です」
確かに、クーパーにもニールにも、雑賀が言うような、日本人の思考は理解できなかった。
それは、プリュインやジョナサンであっても同じであろう。日本人には日本人を、と考え、ホリー・クロウ・ペリーを抜擢したリンカーン大統領の判断は、言われてみると適切であるのかもしれない。
雑賀は、ニールとクーパーに対して、微笑み掛けた。
「立ち話は、そろそろにしませんか?」
慌てたように、ニールが雑賀に椅子を勧めた。
雑賀の右がプリュイン、左がジョナサンの席である。雑賀の真向かいには、ニールが座った。
ニールの右にクーパー、左にガワーだ。
全体的に、アメリカとイギリスが、テーブルを挟んで対峙する座り方である。
全員が、自分の席に着いた。
「では、本題に入りましょう」
落ち着いた口調で、改めて雑賀が、口火を切った。
場の主導権は、完全に雑賀のものだった。
雑賀は、自分の右に座るプリュインを見た。
「まず、プリュインくん。君からは、大使に、どのように話を伝えてくれたのかな?」
8
アメリカにはイギリス本国に対して取引額減少に対する賠償金を請求する準備ができている、という話が、プリュインから繰り返された。
その間、雑賀は、ニール、クーパー、ガワーの顔色の変化を、冷徹に観察していた。
ニールとクーパーは、両名とも、どこか不貞腐れたような、つまらなそうな表情だ。
ガワーは、そもそも自身には何の権限もないためか、生真面目な表情ではあったが、同時に気楽さも見受けられる態度だった。
薩摩藩との戦闘の責任は、やはり、ニールとクーパーにあるということなのだろう。
話を終えたプリュインが、口を閉じた。
「ありがとう。そのとおりだ」
雑賀は、プリュインの勝手な提案だと暴露して、プリュインの顔を潰さぬよう、肯定した。
プリュインは、少し驚いたような顔をしたが、何も言わなかった。
雑賀は、冷たい口調で、プリュインの言葉を補足した。
「当然、アメリカに追従して、ロシアやフランスなども、貴国に同様の賠償金を要求するでしょうな」
ニールとクーパーの表情が、ますます険しくなる。
不承不承といった様子で、ニールが、重たい口を開いた。
「日本国内の攘夷活動家の鎮圧は、日本政府が行うべきでしょう。イギリスの責任ではない。我が国も被害を受けている側だ」
「仰るとおりですな」
雑賀は、あっさりと首肯した。
自分の言葉を肯定されるとは思っていなかったのか、ニールが、驚いた顔になった。
だが、雑賀は、ニールを安心はさせなかった。
「では、貴国は、日本政府に賠償金を請求されると良いでしょう」
雑賀は、辛辣にイギリスを突き放した。
「もとより、幕府は、生麦事件を巡る貴国と薩摩藩の賠償金問題の仲介をとっていた。それなのに、つまらぬ圧力を掛けるために薩摩藩へ艦隊を派遣して開戦に至ったのは、貴国の判断ミスでしょう。確かに、無礼討ちにされた民間人は不幸だと存じますが、見返りに実質的な藩主の首を要求されて、薩摩藩が呑めるとお思いか!」
ニールは、青い顔をして押し黙った。
「我が国から貴国への賠償金の請求額は、攘夷派浪士が活動を沈静化し、日本との商行為が正常に戻るまでの期間で算定します。いずれにしても、ひとたび戦端を開いた以上は、貴国には速やかに薩摩藩を鎮圧の上、攘夷派浪士の増長を封じてもらわねばなりませんな。でなければ、日本政府も、追従する攘夷活動家の出現に対処しきれぬでしょう」
雑賀は、一息に捲し立てると、大きく息を吸って沈黙した。
ニールとクーパーを睨みつける。
もちろん、雑賀は、本心から、イギリスに薩摩藩を討てと言っているわけではない。
だが、日本を見下して傲慢な要求をしているイギリスに対する雑賀の怒りそのものは、本心からだった。
雑賀は、大きく吸った息を、ゆっくりと深く吐いた。自身の興奮を冷ましていく。
雑賀は、落ち着いた口調で、ニールに問いかけた。
「イギリスは、いつ薩摩藩を叩きますか?」
ニールは、息を呑んだ。
隣に座っている、クーパーの顔を見る。
クーパーは、ニールと目を合わさぬよう、前を見続けている。
ニールは、視線を、雑賀に戻した。
「戦闘行為に対する判断は、クーパー提督が担っています。提督から説明をさせましょう」
ぎょっとした様子で、クーパーが、ニールの顔を見た。
今度は、ニールが前を見続けて、クーパーと目を合わすのを避けていた。
雑賀は、クーパーに、顔を向けた。
「それで?」
「現在、本国へ戦力の増強を求めておるところです」
クーパーは、緊張した口調で、応答した。
「援軍は、日本へ、いつ着くのです?」
「艦隊の再編成が必要となりますので、まだ半年は掛かろうかと。もちろん、議会の承認がすぐ得られなければ、さらに掛かります」
雑賀は、大仰に首を振った。
「待てませんな。では、次のイギリス議会の議案には、アメリカからの賠償金請求に対する対応が載ることになるでしょう」
「何とか、もっと早まらんのか?」
突然、ニールが、クーパーに問いかけた。
「現行の艦隊のみで、再度、薩摩藩に向かってはどうだ?」
クーパーは、あからさまに不快な顔をした。
ニールの発言は、場当たり的なその場凌ぎなのは明らかだ。クーパーにしてみれば、ひどい裏切り行為だと感じられただろう。
「できるわけがないのは、承知のはずだ」
クーパーは、唸るように、ニールに答えた。
ニールが沈黙する。
クーパーは、探るような口調で、雑賀に問いかけた。
「我が国に賠償金を請求するという先刻からの話だが、アメリカ本国は承知なのか?」
雑賀は、呆れたように、鼻で笑った。
「貴国の内部と同じだとは、思わないでもらいたい。日本において、私の言葉はアメリカ合衆国大統領アブラハム・リンカーンの言葉と同じだ。信じる信じないは自由だが、これ以上、イギリス王室と議会を煩わすような真似は、避けたほうが宜しいのではありませんか」
クーパーは、押し黙った。
ニールもクーパーも、沈黙を続ける。
雑賀は、天を仰いだ。
「困りましたな。なぜ、軽率に薩摩藩と戦端を開いたりなど、したのです?」
「我が国には、元より戦うつもりはなかった。交渉の道具にしようと船を拿捕したところ、薩摩藩側から撃ってきたのです」
ニールは、必死な表情と口調で、身の潔白を主張した。
雑賀は、左右に首を振った。
「船を拿捕されれば、誰だって宣戦布告と受け取るでしょう」
ニールは、がっくりと首を項垂れた。
「ですが」と、雑賀は、思わせぶりな口調で言いかけてから、口を閉じた。
ニールが顔を上げる。
雑賀は、思案気な素振りをとった。
「そういえば、鹿児島湾で、錨の鎖を切って逃げた船は、何という名でしたかな?」
「パーシウスですな」
クーパーが即答した。脈絡もなく発せられた雑賀の問いに、怪訝そうな顔をしている。
「なぜ、突然、そのようなことを?」
クーパーは、疑問に耐えかねたのか、恐る恐る問い返した。
雑賀は、クーパーとニールの顔を、まっすぐに見返した。
「『敵に塩を送る』というのですが、古来より、日本には敵の武勇を称えて贈り物をする風習があります。実は、薩摩藩から貴国への贈答品として、パーシウスの錨を預かって参りました」
武田信玄と上杉謙信に由来する諺に、『敵に塩を送る』というものがあるが、本来の意味は、雑賀の説明とは全く違う。
だが、雑賀は、自身の言葉を重々しく見せるために、あえて間違った使い方をした。もちろん、クーパーやニールには見抜けない。
雑賀の言うとおり、日本人でなければ分からぬ、日本特有の不思議な風習があるものだと思っただけだろう。
「薩摩藩との戦争が、イギリスの本意ではないのであれば、錨の返還をきっかけに、和議を結ばれてはいかがでしょう。薩摩藩とイギリスの和議が成れば、懸案が片づいた形になる日本国政府は、攘夷派浪士の取り締まりに専念できる。我が国も、賠償金の請求に固執するわけではなく、貿易が元に戻りさえすれば、異存はない」
雑賀の提案に光明を見い出したのか、ニールが、前に身を乗り出して発言した。
「それは良い」
ニールの表情には、笑みが浮いていた。
だが、クーパーが、慎重に発言する。
「イギリス側から和議を求めたとなると、攘夷派浪士を、なおさら増長させはしませんか?」
雑賀は、少し考えた素振りをした。
「では、どちらから和議を言い出したというのではなく、アメリカがそれぞれを説得したという筋書きでは?」
クーパーは頷いた。
「それならば、良いでしょう」
クーパーの顔にも笑みが戻った。
けれども、雑賀は、重々しい口調で言葉を続けた。
「もっとも和議となれば、落としどころが必要です。島津久光の処刑は、諦めてもらわねばなりませんな」
ニールは、あっさりと承知した。
「心得ました。イギリスとしては、最低限、民間人の遺族へ補償するための、賠償金が支払われれば、それで良い」
雑賀は、頷いた。
「金銭的な条件は、今後の談判で詰められれば良いでしょう。そうとなれば、私は薩摩藩に赴き、イギリスと和議を結ぶよう、説得して参らねばなりませんな」
雑賀は、勿体をつけて立ち上がった。
「すんなり、薩摩藩が承知すると良いが」
聞こえよがしに、ぼやいてみせる。
「よろしく、お願いいたす」
ニールとクーパー、ガワーが、慌てて立ち上がった。三人は、雑賀に頭を下げた。
雑賀は、三人を見つめたまま、何も言わずに、突然、固まったように動かなくなった。
「何か?」と、不安げに、ニールが質問する。
「いや」
雑賀は、何でもない、というように手を振った。
「『お任せ下さい』と断言をしたいところですが、できれば、私の言葉だけでなく、薩摩藩に貴国の意志を示す方法が、他にもあれば良いと思いまして」
「確かに」
ニールらは、思案の顔になった。
雑賀は、思いついたように口にした。
「ところで、貴国が捕虜にされた、薩摩藩の松木弘安と五代才助は、今、どこに?」
クーパーが、少し驚いたように問い返した。
「二人をご存じか?」
「松木殿と面識が少々」
「さようですか。だが、我々は捕虜にしたわけではない。船を拿捕され、もはや薩摩藩には残れなくなった、と、自ら乗船を望まれたのだ。今も、ユーリアラスに匿っています」
クーパーは、心外そうな口調で説明した。
「それですな」
雑賀は、右手の人差し指を立てた。
「薩摩藩では、二人は、すっかり捕虜にされたか、殺されたものと思っております。生きて、無事に藩へ戻されれば、何よりも和議の意志の証となるでしょう」
9
松木弘安と五代才助を乗せた小船が、ユーリアラスから、モビーディックに到着した。
松木と五代の身柄が、イギリスから、アメリカ側へ引き渡される。
雑賀は、甲板で、二人が、小船から、モビーディックに乗り移るのを見守った。
以前に薩摩藩で会った時より、松木の顔は、疲れて見えた。心労のためか、陰がある。
雑賀は、五代とは初対面だったが、松木同様、やはり陰があるように見受けられた。
松木も五代も、表情に明るい部分はない。
二人とも暗く、何かを思い詰めたような顔だった。
松木は、自分たちをモビーディックまで運んでくれた、小船を操るイギリス兵たちに礼を言った。
手を振って、小船が離れていく。
受け取る側の役割をしていたアメリカ兵に伴われて、松木と五代が、雑賀の許までやってきた。
「ご無事で良かった」
雑賀は、硬い表情の松木に微笑みかけると、抱きしめた。
続いて、五代にもハグをする。
「クーパー提督から、薩摩藩に和議の使者として戻るよう、申し渡されました」
松木が、緊張した面持ちで口にした。
「うん」
雑賀は、軽い口調で、応答した。
対照的に、松木も五代も、緊張を通り過ぎて、むしろ悲痛な表情ですらある。
「薩摩藩へ戻ると、我々は殺されます」
松木は、切実な口調で、雑賀に訴えた。
「はたして薩摩藩とイギリスの和議は成りましょうか? 和議は、もちろん望むところですが、薩摩藩が受け入れなければ、我々は、イギリスに寝返った間者と見なされ、不名誉に討たれる結果となりましょう」
松木と五代は、真剣な眼差しで、雑賀を見つめた。
雑賀は、二人を安心させるように微笑んだ。
「その心配は、ない」
雑賀は、断言した。
「実はな、イギリスには、これから薩摩藩に和議を探りに行くような話をしたが、久光公は、とうにご存じだ。閣下からは、薩摩藩から和議を切り出すことなく、うまく和議に持ち込めぬものかと、内密に相談を受けていた」
松木と五代は、驚いたような顔をした。
「久光公は、お二人を死なせるつもりはないと仰っておられた」
「おお」と、感激の声を、松木は上げた。
慎重な様子で、五代が考えを口にする。
「閣下のおつもりはそうであっても、藩内には攘夷に過激な者もいます。誤解や濡れ衣で、同胞に討たれたくはありません」
「薩摩藩には、戻りたくないと?」
「いずれ、皆、攘夷は得策ではないと悟るに至るとは思いますが、藩に戻るのは、まだ尚早かと存じます」
「そうか」
雑賀は、にやりと笑った。
「閣下から、お二人に密命がある」
松木と五代の表情が、瞬時に緊迫した。
「薩摩藩の軍備増強のため、閣下は、外国製の武器を大量に調達しようと考えておられる。外国語を話せる松木と五代には、長崎で武器購入の交渉にあたれ、とのご下命だ」
雑賀は、二人にウインクをした。
「長崎に既に入っている薩摩藩の者は、開明的で、攘夷かぶれではない者ばかりだと仰っていたぞ。心配しなくても、同胞に討たれるような目には遭わないだろう」
松木と五代は、安心した様子で、お互いに顔を見合わせた。
「では、この艦は?」と、松木が問う。
「近日中に補給が終わったら、長崎へ向けて出発する。お二人を長崎で降ろしてから薩摩藩へ赴き、久光公に、和議の首尾をお伝えしよう」
松木と五代は、歯を見せて笑いあった。
将来への不安からか、身に纏わりついていた暗い陰も、どこかへ消えたようだ。
そのとき、甲板にいたアメリカ兵作業員たちの様子が、急に慌ただしくなった。
作業員たちの視線の先を見ると、イギリス軍艦パーシウスが、近づいてくるところだった。
作業員らの誘導に従い、パーシウスは、やがてモビーディックの甲板を見下ろすような形に、モビーディックに横付けされた。
モビーディックの甲板上には、自身の物ではない錨が一本、積載されていた。
パーシウスが鹿児島湾での戦闘時に失った錨を、後で、薩摩藩が回収した物だ。
パーシウスから、本来、先端に錨が着いているはずの鎖が、錨が着いていない状態で、モビーディックの甲板に降ろされた。
鎖の先を、モビーディックのアメリカ兵の一人が受け取る。モビーディックの甲板上に置かれているパーシウスの錨に、受け取った鎖を連結しようとしているのだ。
「歴史的瞬間を記憶されよ」
雑賀は、神妙な口調で、松木と五代に語りかけた。
「お二人が、薩摩藩からイギリスへの錨の返還の見届け人だ」