第七章 イギリス艦隊出航
1
雑賀と勝が、帝の上洛要請に対する島津久光の返事を松平容保に伝えたのは、文久三年六月十一日(一八六三年七月二十六日)のことである。
二人が容保の命を受けて大坂港を出発してから、既に十日余りもの日数が経っている。久光から「是非に」と乞われて、雑賀が、薩摩藩士らに砲撃訓練を行っていたためだ。
この六月十一日。会津藩上屋敷の容保の執務室において、雑賀と勝は、容保と向き合って座っていた。
勝から『久光上洛せず』との報告を聞き、容保は、渋い表情で腕を組んだ。確かめるように、勝の言葉を繰り返す。
「『久光めは、イギリスとの攘夷戦から手が離せぬ』と申したのだな」
「御意」
勝は、淡々と頷いた。
容保は、恨みがましい目で勝を見やると、心の底から残念そうに、言葉を吐き出した。
「やむを得まいな」
『島津久光に武装上洛を』という要請は、孝明天皇の発案ではあった。だが、実際に久光の武装上洛を誰よりも望んでいたのは、他ならぬ容保自身だった。
既に会津藩のみでは手が回らないほど、京・大坂の治安は極度に悪化している。人手不足から、壬生浪士組のような素性の知れぬ輩どもを、やむなく会津藩お預かりと称して、京都の市中警備の任に当たらせなければならぬほどだ。
壬生浪士組は、仕事もするが、余計な騒動を引き起こしもする、厄介者だった。人手さえあるならば、より面倒な事態が起こる前に、縁を切りたい。これが、容保の本音だ。
帝直々の要請であれば、島津久光も、上洛を否やとは言えないだろう。京・大坂の治安維持のため、今後は、薩摩藩の協力が得られるものと、容保は、大いに期待していた。
その期待が叶わなかったのだ。ただ残念の一言で片づけられるような、容保の心中ではない。そのうえ、心配事は、他にもあった。
容保は、呻くように声を出した。
「幕府は先般、武力行使をちらつかせ続けるイギリスに対して監督不行届の非を認め、生麦村でのイギリス人殺害の賠償金を支払ったと聞いている。攘夷は、帝のご意志ではあるが」
容保は、勝ではなく、雑賀に対して問いかけた。雑賀こそ、適任の回答者であると判断したのだ。
「大藩とはいえ、日本国の内の、所詮は一藩にすぎぬ薩摩藩が、はたしてイギリスに勝てるのか?」
雑賀は、微笑んだ。
「誰もが同じように思っておりますな」
雑賀の回答は、一般論でしかない。どちらが勝つか明言は避けていたが、口調には強い自信が感じられた。
容保は、ぎろりと雑賀を見た。だが、それ以上は雑賀の自信の根拠を、深く追及はしなかった。京都・大坂でも手一杯な現状なのに、遠く薩摩の問題までは心配しきれない。
容保は、くだけていた姿勢を正して、勝と雑賀に改めて向き直った。
勝と雑賀も居住まいを正した。
「大儀であった」と、容保は、重々しく、勝と雑賀に言葉を告げた。
「帝には、攘夷戦に臨む薩摩藩の覚悟を、お伝えしよう」
2
雑賀と勝が会津藩上屋敷を出ると、表では芹沢鴨が待っていた。眞柴十三の姿もある。
「護衛に参りました」
芹沢は、ぬけぬけと口にした。雑賀と勝が容保の許を訪れているという話を、どこからか聞きつけたのだろう。
だが、今回は、モビーディックが薩摩藩へ向けて出航する前の護衛とは違って、新見錦の姿がない。
勝は、突然の芹沢の出現にちょっと驚いたような顔をした。が、すぐに軽く右手を挙げて応えた。
「ご苦労さん」と、勝は、飄々と口にした。
勝は、つかつかと歩き出した。芹沢が慌てて追いかけて、横に並ぶ。
雑賀と眞柴も、肩を並べて歩き出した。
勝は、横に立つ芹沢の顔を見ようともせずに、前を向いたまま、ぶっきらぼうに口を開いた。
「お前さんたち、大坂で力士連中と騒ぎを起こしたんだってな。中将様がぼやいていたぞ。会津藩お預かりの身なんだから、藩名を汚すような真似をするんじゃねえよ」
芹沢を筆頭とする十名近い壬生浪士組の隊士たちは、雑賀と勝が大坂港を出航した後の文久三年六月三日、大坂は新地の住吉屋で、二十数名の力士らと乱闘をし、十四名を負傷させ、うち一名が翌日に死亡するという事件を起こしていた。
もともとは、夕涼みのため、京屋から鍋島河岸まで川舟に乗り、その後、花街の新地へ向かって歩いていた芹沢らが、途中の蜆橋で、大坂相撲の力士数名と出会ったのが切っ掛けである。
どちらが橋の中央を渡るか譲るかで諍いとなり、結局、どちらも道を譲ろうとしないまま、壬生浪士組が力士を打ち倒して橋を渡った。その報復に、人数を集めた力士たちが、住吉屋へ登楼中の芹沢らを襲撃したのだ。
結果は、力士たちの斬られ損である。
事件後、力士の所属する小野川部屋と熊川部屋の年寄が、壬生浪士組に詫びを入れたため、非は力士側にあるとして、ようやく、落着したばかりなのだった。
本来であれば会津藩の名は、会津藩士が心配すべき問題だが、どうしても言わずにはおられなかったのか、勝が苦言を口にした。
「もう手打ちが済んだ話ですな。そういや、近藤くんが相撲興業をするとかしないとか、まだ騒いでいたのだったかな」
芹沢は全く悪びれもせずに、勝の苦言を笑い飛ばした。
勝は、あからさまに、顔を顰めた。
芹沢は、勝の顔色の変化には気づかぬ素振りで、くんくんと鼻をひくつかせて振り返ると、立ち止まった。勝も足を止める。
芹沢は、挑発するような眼差しで、雑賀の顔を見た。
「火薬の臭いですな。はて、どこかで戦でもなされましたか?」
連日、薩摩藩で砲撃の訓練を繰り返していた雑賀の衣服には、洗っても落ちきれない火薬の臭いが、澱のように染みついていた。
「こんなナリだからな。火薬の臭いだってするだろう」
雑賀は、ぶっきらぼうに、自分の身に巻き付けた弾丸の束について口にすると、芹沢に倣って足を止めていた勝に追いつき、横に並んだ。
勝も芹沢も再び歩き出す。眞柴は、黙ったまま、三人の背後を歩いていた。
雑賀は、勢い込んだ口調で勝に問いかけた。
「勝さん、これからのご予定は?」
「江戸へ戻る。長いこと留守にしちまったからな。モビーディックで送ってくれ」
雑賀が答えるまでに、一拍の間が空いた。
「承知しました」
そう答えた雑賀の言葉には、本人にも意外なほどに、力がこもってはいなかった。
小男の勝が、背の高い雑賀の顔を見上げるように覗き込むと、途端に大笑いした。
「そうがっかりした顔をするんじゃねえよ。なにも出発は、今日すぐでなくたっていい。おまえさんには、大坂で寄るところがあったんだよな」
自分の頬が赤くなるのを、雑賀は感じた。
勝は、ニヤニヤと笑いながら、雑賀と勝のやりとりの意味がわからないといった表情をしている芹沢に向かって、大きく声を掛けた。
「芹沢くん、行き先は、大坂の『雑賀屋』だ」
3
薩摩藩から大坂港に帰ったばかりのモビーディックの補給について、勝は今回も雑賀屋に任せていた。
幕府御用達の補給業務、それも見たこともない奇妙な形の外国船の補給業務を、雑賀屋が一手に任されたという事実は、大坂の海運関係者の間では、大きな噂になっていた。
幕府御用達というお墨付きを得たことで、船問屋である雑賀屋への運搬依頼は、実際、幕府御用達となる以前の数倍に伸びていた。
決して大手ではない雑賀屋にとっては、なかなか捌くのが困難な仕事量である。今までは、大手の下請けとして、仕事を回してもらう経験こそあったが、反対に、仕事を下請けに出す立場となっていた。
雑賀や勝が、仕事に追われる『雑賀屋』の前に立ったのは、未の刻過ぎだった。崩し字で『さいかや』と書かれた見覚えのある暖簾が、店の軒先に下がっていた。
雑賀は、すぐに暖簾を潜ろうとはせず、往来の真ん中に立ちつくしたまま、何も言わずに、暖簾の文字を見つめていた。
「なんだ、緊張してるのか?」
勝が、雑賀の脇腹を小突いた。勝は、にやにやと楽しげな表情だ。
雑賀は、自分が、勝のからかいの種になるような、よほど緊張した面持ちをしているのだろうと想像した。
「違いますよ」
雑賀は、平静であると主張した。だが、その声は、主張とは裏腹に裏返っていた。
ますます勝の顔が、にやける。
「では、問題ないな」
勝は、おもむろに「御免」と雑賀屋の店内に呼びかけると、暖簾を潜った。護衛である芹沢が、後に続く。
さらに、眞柴が芹沢に続いた。雑賀は、通りに一人だけ残された。
雑賀は直ちに、眞柴を追って暖簾を潜らざるを得なくなった。姉との再会のために、心の準備をする時間は、全然ない。むしろ、勝は、雑賀を困らせる目的で、わざと子供のような意地悪をしているようだった。
「ありゃ、まるで子供だな」
雑賀は、負け惜しみのように吐き捨てて、暖簾を潜ると、店内に入った。
店内には、まず狭い土間があり、一段高い二畳程の畳の空間には文机が置かれて、帳面が広げられていた。
文机の前には、小さな衝立が置かれている。
衝立に遮られて、帳面の中身は、はっきりとはわからなかった。それでも、荷主と荷受先、荷の内容等が、細かく記入されている程度は見て取れた。
暖簾を潜って店内に入ってきた来客に、真正面から向き合う格好で、文机の向こう側には、雑賀よりいくつか年嵩に見える男、雑賀屋当主の雑賀屋利平{さいかやりへい}が座っていた。
雑賀たち四人は土間に立ち、文机の向こうに座る利平を見下ろした。
利平は、雑賀にとっては、見覚えがある顔だ。十年程前に姉の祝言で見た顔、雑賀の、義理の兄である。
だが、利平は、最後に店内に入ってきた雑賀も、最初に店内に入った勝も、気にしてはいなかった。二人目、三人目として店に入った、ダンダラ模様の羽織を着た男たちに、視線が釘付けだ。
京都・大坂で『ダンダラ羽織』と言えば、壬生浪士組、すなわち、強請たかりの代名詞だ。未遂に終わったとはいえ、雑賀屋も、つい先日、強請られたばかりだった。未遂のため、また来たとしても、不思議はない。
利平の額には、新見に『端金』と罵倒されて投げつけられた小判をまともに受けてできた傷口が、まだ完全には癒えきらずに、醜い瘡蓋となって残っていた。
実際に利平に怪我をさせたのは新見であったが、その際の強請には、芹沢も眞柴も加わっている。
怪我まで負わせられた利平が、当事者の芹沢と真柴の顔を忘れているとは、考えられなかった。気になって当然だ。
利平は、明らかに作り笑いとわかる笑顔で、芹沢に対して、頭を下げた。
「お役目ご苦労様です」と挨拶する利平の声音は、引き攣っていた。
利平は文机の引き出しを開けると、紫色の袱紗に包まれた何かを取り出した。そのまま畳の端まで膝で歩いて、芹沢に近づいた。
「些少ですが、お役目にお役立て下さい」
利平は、芹沢のダンダラ羽織の袖の下で、芹沢に袱紗を握らせようとした。
芹沢が袖を振って、利平を遠ざける。
「本日は、かような用向きではない」
芹沢は、ばつの悪そうな表情を浮かべて、慌てて口にした。
利平が怪訝そうな顔になる。金の無心の他、壬生浪士組が、雑賀屋にどんな用向きがあるのか、ちょっと思いつかないのであろう。
自ら声を掛け、先頭となって店内に入ったにもかかわらず、すっかり無視された形になっていた勝が、口を開いた。
「雑賀屋ってのは、あんたかい?」
利平は、勝の顔を見上げた。
「はい」と利平は頷いた。『ダンダラ羽織が誰かはわかるが、そうでない、お宅様はどちら様で?』と、表情が問うている。
芹沢が助け船を出した。
「軍艦奉行並の、勝安房守様だ」
利平は、慌てて頭を下げた。芹沢に頭を下げた時とは違って、本気さが滲み出た平伏だった。
「そのほうへ仰せつけの補給用務について、本日は、ご視察に参られた」
芹沢は、勝の目的を誤解して、断言した。
勝は、特段の否定はせずに、真面目な顔をして、利平に問いかけた。
「作業は順調に進んでるかね?」
「は、荷の手配は、すべて終わりました。近日中には積み込みも終わります」
利平は、頭を下げたまま、淀みなく回答した。
勝は、重々しく頷いた。
真面目な顔のまま、さらに問う。
「ところで、お内儀は、うちにいるかい?」
利平は、怪訝そうな表情を浮かべて、顔を上げた。自分の妻を、なぜ、勝が気に掛けるのか、意味が皆目わからないのに違いない。
「はあ、奥におりますが」
利平は不安げに、もごもごと口にした。
「呼んでくれ」
勝は、足の裏を土間に着けたまま、利平の座る畳の端に、どさりと座った。
利平は動かない。
「おい」と、芹沢が、自分も意味がわからないといった顔をしながら、利平を威嚇した。
利平は、ゆっくりとした動作で立ち上がると、背中の側にあった襖を開けて閉じ、別室に消えた。
利平は、しばらくして一人で戻った。
「家内は、すぐに参ります」
殊勝な顔で、利平は勝に頭を下げた。
頭を上げ、おずおずと勝に問いかける。
「家内には、どのようなご用件で」
勝は、利平に笑いかけた。
「ご内儀に用があるのは、おいらじゃねぇよ。そこにいる堀居くんだ」
勝は、雑賀を指し示した。
利平は、初めて雑賀に対して、値踏みをするような鋭い視線を投げ掛けた。
雑賀は、利平を見つめ返した。
祝言の席で、ただ一度きりの面識があっただけのためか、利平には、雑賀が誰であるかに、気づいた様子は見受けられなかった。
「堀居九郎と申します」
雑賀は、偽名を口にした。
そのとき、利平が奥の部屋へ行き、また戻ってきた際に閉じた襖が、再び開いた。
利平の妻、すなわち雑賀の姉が、開いた襖の向こう側で、正座をして顔を伏せていた。
雑賀の姉は、顔を伏せたまま、開いた襖の隙間を抜けると、ゆっくりと音を立てないように注意しながらといった様子で、襖を閉じた。改めて、来客である勝に対して向き直ると、深々と頭を下げた。
「雑賀屋の家内の、小夜莉{さより}です」
勝は、顔を上げた小夜莉と視線を合わせた。
「あんたに客を連れてきたよ」
勝は、特段の前置きもなく、用件だけを、ずけりと口にした。目と眉の動きで客、すなわち雑賀を指し示す。
小夜莉の視線が、勝に従った。
視線の先には、緊張のあまりか、直立不動の状態で、雑賀が立っていた。
雑賀は、ふらふらと、小夜莉の視線に吸い寄せられるように、姉に近づいた。
小夜莉がいる、畳の端ぎりぎりにまで近づいてから、雑賀は、ようやく言葉を発した。
「姉さん」
小夜莉の瞳が、大きく丸くなる。
目の前の怪しい風体の男が、ようやく、生き別れた自分の弟だと気づいたようだった。
「聖人っ!」
小夜莉が、弟の名を呼んだ。もちろん、堀居九郎という仮の名ではなく、雑賀聖人という本名だった。
小夜莉の瞳から、涙が溢れた。
小夜莉は、立ち上がり、畳の上を小走りに雑賀に駆け寄った。
土間に立つ雑賀の頭は、畳の上に立つ小夜莉の、ちょうど胸の高さとなる。小夜莉は、雑賀の顔面を、強く胸に抱き締めた。
息ができなくなった雑賀が、姉の体を、力ずくで押し剥がす。
「苦しいよ」
咳き込みながら、雑賀は呻いた。咳き込んだためか、再会の感無量故か、自分の頬を涙が滴り落ちていくのを、雑賀は感じた。
利平は、事態が飲み込めないらしく、おずおずとした口調で、小夜莉に問いかけた。
「この方は?」
「弟の聖人です!」
弾んだ口調で、小夜莉は答えた。
利平の視線が、雑賀に向けられる。
「さきほどは、堀居様と?」
利平は、もごもごと口にした。
雑賀は、何も言わず、曖昧に、利平に微笑んだ。
もっとも、何か言おうとしたところで、とめどなく流れ落ちる涙が邪魔をして、ただ、嗚咽が漏れるだけになりそうだった。
芹沢の眉毛が、ぴくんと跳ねた。
アメリカから帰国をした堀居九郎が、生き別れていた自分の姉と再会した状況であるとは、もちろん把握したに違いない。同時に『堀居九郎』という名前が、偽名であるとも見抜いたはずだ。
だが、芹沢は、この場では、何も追及はしなかった。眞柴は、もともとの無表情で、沈黙をしたままだ。
勝が、自分の両腿を、ぴしゃりと両方の手で打った。
「さて」と、掛け声を掛けて立ち上がる。
丸めた右の拳で、勝は、芹沢の胸を、こつんと軽く突いた。
「行くぜ」
勝は、先に立って店を出た。
芹沢と眞柴が後に続く。
「勝さんっ!」
雑賀は、慌てて店を飛び出した。
勝が、雑賀を振り返った。事務的な口調で、雑賀に命じる。
「おまえさんは、ここに居残って、補給の監督だ。何日、泊まり込みになったとしても、しっかりと見張ってくれ」
勝は、にやりと、悪戯っ子の笑顔で、雑賀に微笑んだ。
「だが、荷が積み終わったら、直ちに江戸へ出航だぜ」
4
雑賀は、四角い卓袱台を前にして、胡座を掻いて座っていた。雑賀屋の居間である。
卓袱台の上には、所狭しと、様々な魚介の料理を載せた皿が並べられている。刺身のような生の物はもちろん、煮物、揚げ物、焼き物、蒸し物と、各種調理方法を駆使して作られた料理の数々だ。小夜莉が、近所の料亭に大急ぎで作らせて、運ばせた物だった。
卓袱台の周りには、当主である利平の他、既に隠居の身の利平の両親と、利平と小夜莉の二人の子供が座っている。上が姉で八歳、下が弟で五歳だった。雑賀と小夜莉の場合と同じ、年齢差だ。
上座の利平に対し、雑賀は、利平の左面に向き合う席に座っていた。雑賀の対面には、利平から近い順に、父親と母親が。続けて下座は、利平の母親に近い順から弟、姉という席順である。小夜莉が座る席は、雑賀の隣だ。
雑賀が漂流して帰国するまでの顛末は、既に掻い摘んで話してあった。
雑賀が誰であるかは理解したものの、まだ完全には警戒の抜けきれない視線で、雑賀の顔を、ちらちらと盗み見しながら、居心地悪そうに、老夫婦は座っている。
反対に、子供たちは、雑賀を興味津々といった様子で見つめていた。雑賀が目を向けると、恥ずかしいのか、姉弟は、お互いの背中に隠れあうような素振りを見せた。
当主である雑賀屋利平は、勝らが帰って以来、ずっと不機嫌な顔である。雑賀に対して何も言いはしなかったが、何か面白くない思いを感じているのは、明らかだった。
だが、何を面白くないと思っているのかまでは、雑賀にも分からない。
対照的に、姉の小夜莉は、満面の笑みである。浮き浮きとした様子で、六人では、とても食べきれない量の料理を、子供らにも手伝わせつつ、食卓に並べていた。
最後に、小夜莉は、燗をした酒が入った徳利を三本、運んできた。利平と父親、それから雑賀の前に、徳利を置く。
小夜莉は、雑賀の隣にある自分の席に着いた。
雑賀は理由を聞かされてはいないが、雑賀が生まれてすぐ、父親である重孚は妻、すなわち雑賀と小夜莉の母親を離縁していた。
乳母はいたが、離縁の後、重孚は、後妻をとらなかったから、雑賀は、母親を知らない身の上だ。おしゃまな姉であった小夜莉が、雑賀の面倒を良くみたため、母親代わりとは言わないまでも、雑賀にとって、小夜莉は、保護者的存在だった。
だから、雑賀は、姉の小夜莉に対して、昔から頭が上がらない。
小夜莉が、利平に視線をやった。食事に先立ち、当主として、利平から何らかの発言があるものと期待しての視線であろう。
利平も、小夜莉の視線の意味はわかっているはずだ。
席にいる全員の視線が、利平に集まった。
利平は、依然として、仏頂面のままである。
利平の右手が、自分の前の徳利に伸びた。
雑賀は、猪口を手に取った。
雑賀に注ぎもせず、利平は、手酌で自分の猪口に酒を注ぐと、ぐびりとやった。
挨拶も何もない。
慌てた様子で、雑賀の対面に座っている父親が、言葉を発した。
「我々もいただきましょう」
父親は、徳利を握った手を、雑賀に伸ばした。
雑賀は、父親が注ぐ酒を、猪口に受けた。
反対に、父親の猪口にも酒を注ぐ。
「義兄上もどうぞ」
雑賀は、利平にも酒を注ごうと、右手に握った徳利を差し出した。
「いや。畏れ多い」
利平は、掌で蓋をするように自分の猪口を摘むと、雑賀の手が届かない位置まで移動させた。あからさまな拒絶だった。
雑賀は、差し出した徳利の行き場所を失った。
雑賀は、やむを得ず、左手で自分の猪口を摘むと、中身を飲み干した。
空いた猪口に、右手の徳利で酒を満たす。
ヒヤヒヤとした様子で、二人のやりとりを見つめていた小夜莉が、雑賀に声を掛けた。
「呑むだけじゃなくて、食べてもくださいね。もっとも水戸藩と比べて、こちらの味付けは薄いから、聖人さんには物足りないかもしれませんが」
雑賀は、姉に微笑みかけた。
「日本の食い物なら、濃くても薄くても、何でも来いですよ」
雑賀は改めて、目の前の食事に目を落とした。卓袱台から溢れそうになる程まで並べられた料理だったが、雑賀だけ、あからさまに他の人間と違うところがある。
箸休めのはずの梅干しを載せた小皿の梅干しが、雑賀以外は、二つ三つであるのに対して、雑賀だけ、なぜか山盛りなのだ。
雑賀は、気になって、箸で梅干しを一つ摘んだ。
口に放り込む。
『薄い』と言っていた、小夜莉の言葉に反して、十分に塩味が効いた梅干しだった。紀州ではなく、水戸の味付けだ。
雑賀が梅干しを口にするのを待ち受けていたように、小夜莉が問いかけた。
「父上には、もうお会いしたのですか?」
水戸に住む、重孚を指しての質問だった。
ころころと、口の中で、梅干しの種を転がしながら、雑賀は答えた。
「ええ」
小夜莉は、得心したように頷いた。
「だからですね。父上から、ただ『いいことがあったから』と書かれた手紙と一緒に、先日、この梅干しが届きました。何だろうとは思っていましたが、『いいこと』とは、あなたですね」
「万が一、誰かに読まれた場合を考えて、直接、私が生きていたと書くのは避けたのでしょう。今は『堀居九郎』と名乗っています」
5
雑賀は、すっかり満腹になった。
雑賀は、食事の間中、姉弟の視線が、ちらちらと雑賀の背後にある、箪笥の上に伸びていくのに気づいていた。
子供の手が届かない場所である箪笥の上には、雑賀が体から外した、拳銃とガンベルトが置いてある。
「こいつが気になるみたいだな」
雑賀は、立ち上がり、箪笥に振り返った。
箪笥の上に手を伸ばすと、ホルスターから、拳銃を一丁、ひょいと引き抜いた。
右手にグリップを握り、左手でバレル・ラッチを押すと、雑賀はバレル、すなわち銃身をシリンダーの軸方向に対して、直角に上に折り曲げた。
銃を握った右手を傾け、自身の重みで、バレルが折り曲がったままになる状態にする。
左手で、六発の弾丸が入っているシリンダーを取り外した。そのまま、外したシリンダーを左手の胸ポケットに突っ込んで逆さにし、弾丸をポケットの中にこぼれ落とす。
空になったシリンダーを、軸に戻した。
雑賀が、再び、銃の向きを変えると、折り曲がっていたバレルが、自分の重みで元に戻って、ラッチに固定された。
雑賀は、姉弟を振り返った。
二人が、ごくりと息を呑む。
「武士の魂と同じだ。重てぇぜ」
雑賀は、弾丸が空になった拳銃を、より自分に近い位置にいる、弟の腹あたりへ向かって放り投げた。
「ひゃっ!」と、小夜莉が短く悲鳴を上げた。
弟は、反射的に胸に抱え込むようにして、拳銃を受け止めた。
弟が、重たそうに拳銃を持ち上げる。すかさず姉も手を伸ばして、二人で拳銃の取り合いになった。
「喧嘩するなよ」という雑賀の笑い声に、「聖人さんっ!」と小夜莉の怒声が重なった。
雑賀は、肩を竦めた。
だが、続く姉の言葉が発せられるよりも早く、「結構なもんですな」と、今まで全く口を開こうとはしなかった利平が、やや呂律の怪しくなった口調で、言葉を発した。
顔が赤黒く、大分、酒が回っているのは明らかだ。利平は、ほとんど何も食わずに、今まで、ひたすら酒だけを飲み続けていた。
「外国でどれほどのご苦労があったか存じませんが、今じゃ船を持ち、子供に玩具を投げ与えるように、姉夫婦には仕事を恵めるご身分だ」
利平は、ぎょろりと、赤く血走った目玉で、雑賀を睨みつけた。
雑賀は、ようやく、利平の不機嫌の理由に思い当たった。
自身の才覚で、『雑賀屋』が、幕府の御用達の役目を負えるまで育ったと思っていたのが、実は、義弟の縁故に由来する仕事の依頼だったと知ったのだ。利平は、大層、自尊心を傷つけられたのに違いない。
雑賀は、利平に向き合うように座り直した。
「私が、仕事を恵んだなどとは、滅相もない」
雑賀は、利平に笑い掛けた。
「命を預ける船のこと故、信頼できる身内の力を借りたくなるのは当然のこと。いや、義兄上が大坂にいてくださって、実に心強い」
雑賀は、あくまでも明るく振る舞った。
だが、利平の不機嫌な表情は変わらない。
「仕事ばかりか、お役目のための金策と称する無頼の輩までご紹介いただき、まことに痛み入る」
雑賀は、芹沢に袖の下を渡そうとしていた、昼間の利平の様子を思い出した。
最初に『雑賀屋』を訪れようとした時にも、芹沢らは、無心をしていた。その際、勝に蛮行を窘められていたから、まさか、もう『雑賀屋』にたかることはあるまいと思っていたのだが、口に出して、『雑賀屋』に手出しをするなとは、禁じていなかった。
勝手に幕府の御用達に命じて金の巡りを良くしてから、『お役目のための金策』と称して、その稼ぎを吸い取っていく。
利平に、雑賀は、芹沢の朋輩だと思われているのだとしたら、そのような仕組みを作った張本人こそ、『雑賀屋』に白羽の矢を立てた、雑賀聖人その人だとなるだろう。
自尊心に傷を付けた上、金まで毟り取っていくのだから、ひどい義弟だ。利平にしてみれば、雑賀に機嫌良く応対するなど、できるわけもない。
「まだ芹沢が、無心に参っておるのですか?」
雑賀は、自分の考えを確認するように、ゆっくりとした口調で、利平に問い掛けた。
「田中伊織とか申す、ダンダラ羽織が、よく見えますな」
利平は、「今更、何を」とでも言いたげな視線で雑賀を睨んで、吐き捨てた。皮肉を込めて、言葉を続ける。
「何、お役目のためですから、お気になさらず。作業は、明日の昼までには、終了させます。監督殿は、疾く、出航の準備をなさりませ」
要するに、「さっさと帰れ」と利平は言っていた。
利平は、ふらふらとよろめきながら、立ち上がった。
「では、明日は仕事が早い故、もう休みます」
利平は、襖を開け、別の部屋へ消えて行った。慌てて、小夜莉が追い掛けていく。
「ごめんなさいね」と、去り際、小夜莉は、雑賀に声を掛けていったが、雑賀の耳には、届いていなかった。
『壬生浪士組、田中伊織とは、どんな男か?』
まだ、雑賀が、聞いた覚えのない名前だった。
雑賀は、仮装敵の名前として、『田中伊織』を記憶した。
6
翌朝、雑賀が目覚めたときには、もう利平は、家にいなかった。
昨夜の言葉どおり、モビーディックへの補給作業を、昼までに終わらせるつもりなのだろう。自分の仕事に強い自負を持つだけあって、口先ばかりではないようだ。
そうなると、雑賀も行動をしないわけには行かなくなる。午後一番には大坂港を出航できるよう、さっさと帰るのだ。
雑賀は、別れを惜しむ小夜莉を残して、雑賀屋を後にした。
大坂港の船着き場へ行き、『雑賀屋』の旗を掲げた小船を見つけて呼び止めた。
利平の姿はない。
どれか別の船に乗っているのか、雑賀が来ると見越して、姿を隠しているのだろう。
小船の船頭は、雑賀が、モビーディックの乗員であると承知していた。
雑賀は、小船に便乗して、モビーディックに帰還した。
小船からモビーディックの甲板へ飛び移ると、荷物の受け取りに忙しい船員たちとは違って、一人、暇を持て余していた勝が、いそいそと近寄ってきた。
勝は、にやにやと雑賀に微笑んだ。
「どうだった? 感動の再会は?」
雑賀は、どう答えるか、一瞬、躊躇した。
一応、勝は、好意で雑賀屋に補給を任せたのだ。仕事を恵まれたと拗ねる義兄の心情を、素直に伝える必要はないだろう。
雑賀は、自分の心情のみを淡々と口にした。
「居心地が悪いですね。俺は、船のほうがいい」
「この変態め」
勝は、おどけたような口調で、雑賀を扱き下ろしたが、雑賀は、勝の冗談にはつきあわず、素っ気なく問い掛けた。
「今日は、お出掛けのご予定は?」
「ない」と、勝の返答も素っ気ない。
「では、今日は、芹沢は現れませんな」
雑賀の口調には、若干の失望の響きがある。
勝は、敏感に雑賀の失望を感じたようだった。
「奴に用なら、呼びつけるぞ」
雑賀は、はっきりと首を振った。雑賀の私用で、幕府の重臣たる勝の手を煩わせてばかりはいられない。
「いえ。午前中には補給も終わります。すぐ横浜へ向かいましょう。イギリスが、本気で薩摩を攻める気であれば、そろそろ動きがあるはずです」
7
雑賀と勝を乗せたモビーディックは、夜半には、江戸湾に侵入した。
浅瀬に座礁する危険を避けるため、すぐには横浜港へ入港しない。まだ十分な水深がある沖合で停船して、夜明けを待った。
夜が明けてから、モビーディックは改めて横浜港へ入港した。
外国船の入港が正規に認められている港であるため、モビーディックの船首には、本来のアメリカ国旗が掲げられている。
横浜港には、旗艦ユーリアラスを筆頭に、七隻のイギリス軍艦が、やはり自国の旗であるイギリス国旗を掲げて停泊していた。
イギリス軍艦は、お互いにぶつかり合わないよう、適当な距離を開けて碇泊している。
雑賀は、旋回砲塔上の司令室から、双眼鏡で、ユーリアラスの様子を覗いていた。司令室には、ジョナサンと勝の姿もある。
ユーリアラスの排水量は、三一二五トン。
全長は六十四・六二メートル、全幅は十五・二四メートルである。
全長では、モビーディックのほうが十メートル余り長く、全幅は、ほぼ同程度であったものの、排水量は、ユーリアラスのほうがモビーディックの倍近くある。
イギリスが、現在、極東水域に展開させている軍艦の中では最大であり、イギリス東インド・シナ艦隊の、文字通りの旗艦であった。
備砲は、三十五門。旋回砲塔でこそなかったが、砲のうち十三門は、最新式のアームストロング砲で構成されていた。
雑賀はジョナサンに、モビーディックがユーリアラスのすぐ脇を通過するように指示を出した。彼我の差を、はっきりと比較するためだ。
近づくほどに、ユーリアラスの舷側が壁のように威圧的に迫り、モビーディックに対して、のしかかってくるように感じられた。
モビーディックの甲板が、水面すれすれの高さであるのに対して、舷側砲を多数持つユーリアラスの甲板は、旋回砲塔上の司令室から見ても、さらに上だ。
雑賀は、ジョナサンに停船を命じた。
船が完全に停止するまでの間に、両者はさらに近づいて、モビーディックとユーリアラスの舷側と舷側は、おおよそ十メートル程の距離になった。通常の航海であれば、まず近づかない距離である。
何事かと驚いたのだろう、ユーリアラスの舷側に多数の人間が現れ、モビーディックを見下ろしていた。
「どうするつもりだ?」
勝が、司令室の装甲の隙間から、そそり立つ壁のようなユーリアラスを覗いて、不安げに口にした。
「お茶に呼ばれます」
雑賀は、からかうような口調で、勝に答えた。続けてジョナサンに、小船を用意して、ユーリアラスに乗り移る準備をするように指示を出す。
雑賀は、さらに勝に問いかけた。
「勝さんも行かれますか?」
雑賀の問いかけに、勝は、あんぐりと口を開けた。
「何をしに?」と、勝は、雑賀の意図がわからないらしく、驚いた様子で口にした。
「薩摩が本気だと、警告をしてやります」
雑賀は、淡々と勝に告げた。
「何をっ!」
勝は、さらに驚きの声を上げた。
「おまえさん、薩摩を裏切る気か!」
雑賀は微笑んだ。
「万に一つも負けるわけがないと思っているイギリス野郎の自尊心を、少しくすぐってやりましょう。心配してやればやるほど、馬鹿にするなと、より大胆な行動に出るはずです」
8
雑賀と勝は、ジョナサンと二名の兵と共に小船に乗り込み、ユーリアラスに向かった。
そそり立つ壁のようなユーリアラスの舷側を見上げながら、頭上の甲板に呼び掛ける。
イギリス兵からの誰何の声に、ジョナサンが自身の身分を明かして、ユーリアラスの艦長と面会したい旨を告げた。
艦長への確認のためか、少しばかり待たされたものの、やがて舷側から縄梯子が降ろされ、乗船が許可された。実際に、ユーリアラスに乗り込むのは三名である。
モビーディック艦長、ジョナサン・デビット。
幕府軍艦奉行並、勝海舟。
勝海舟専任通詞、堀居九郎だ。
二名の兵は、帰りのため、小船の上に残して待機させている。
雑賀らは、艦長室に案内された。
艦長室では、艦長のジョスリング大佐と副長のウィルモット中佐が待っていた。他に、書記官も同席している。
イギリス人たちは、勝と雑賀を、じろりと睨んだ。アメリカ艦に、なぜ日本人が、ましてや幕府の高官が乗っているのかという、疑問からだろう。
現在、モビーディックが掲げている旗は、アメリカ国旗だ。したがって、ユーリアラスの艦長に面会を求めているのは、あくまで、幕府ではなく、アメリカとなる。
ジョスリングは、相手がアメリカであったからこそ、面会を承知したのだろう。
もし、面会を求めたのが、幕府であったなら、生麦事件の最終的な決着がついていない以上、個別の船ではなく、しかるべき外交窓口であるイギリス領事館を通すようにと、面会は承知しなかったのに違いない。
幕府と面会をするわけではないという意思表示に、ジョスリングは、ジョナサンには握手を求めたが、勝と雑賀には、求めなかった。
ウィルモットも、同様である。
挨拶が終わり、英米二人の艦長が、それぞれ自分の席に着いてから、雑賀と勝も用意された席に座った。
全員が席に着くのを待っていたらしく、ちょうど良い頃合いで、紅茶と茶菓子が運ばれてきた。テーブル上の各人の前に並べられる。
ジョスリングに勧められて、一同は紅茶を口にした。
雑賀は、砂糖をたっぷりと入れてスプーンで紅茶を掻き回し、ゆっくりとした所作で紅茶を啜った。
ジョスリングとウィルモットの目には、たかが通詞が、誰よりも落ち着き払った態度だと映ったのに違いない。
一息ついた後、「さて」と、ジョスリングがジョナサンに対して、口を開いた。
「このように早い時刻から、いかなる趣旨のご訪問ですかな?」
英語であるため、ジョスリングの言葉を、雑賀は勝に訳して伝えた。
ジョナサンは、もちろん、雑賀が叩く軽口のように、「お茶に呼ばれに来た」とは答えず、かねて雑賀と打ち合わせの手筈通りの話題を、神妙な顔つきで、口にした。
「我が艦は、薩摩に行って参りました」
ジョスリングとウィルモットは、驚いたような表情で、顔を見合わせた。
薩摩は、秘密主義の藩である。同じ日本人でも、他藩の人間が藩内に入るのを徹底的に拒む体質の薩摩藩に、異国船が侵入して無事に戻ったという情報は、にわかには信じられなかったのに違いない。
ジョスリングらの疑念は、ジョナサンにも伝わったようだ。
「我が艦は、幕府の借り上げ船として、船首に三ツ葉葵と、帝の勅使であることを意味する、錦の御旗を掲げておりました」
ジョナサンは、モビーディックが、鹿児島港に無事に入港し、さらに出港までできた理由を、イギリス人に説明した。
書記官が、淡々と会話を記録に残していく。
ジョスリングらイギリス人兵士は、薩摩行きを目前に控えて、できる限り、薩摩藩の情報を集めようとしていた。
だが、薩摩藩の防衛体制のような極秘事項はもちろん、一般的な鹿児島湾内の様子すら得られてはいないのが現状だった。
ジョスリングにとって、ジョナサンは、薩摩内部に対する、初めての有力な情報源といって良いだろう。
ジョスリングとウィルモットは、身を乗り出した。
ジョスリングが、物欲しそうに口を開いた。
「それで、薩摩のご様子は?」
ジョナサンは、落ち着いた様子で応答した。
「何より、桜島が雄大ですな。城下から臨む鹿児島湾の対岸に、どんと聳える桜島が、終始、噴煙を上げておりました」
ジョスリングの顔に、やや困ったような、戸惑ったような表情が浮かんだ。ジョナサンの答が、望んだものではなかったのだろう。
「失礼。お伺いしたかったのは、薩摩藩の軍備の様子なのです」
「ああ」
ジョナサンは、合点したというように、声を上げた。
「まあ、薩摩との一戦は、避けたほうがよろしいでしょうな。イギリスといえども、無事には済みますまい」
ジョスリングの表情が引き攣った。
ジョナサンは、堂々と自信に満ちた様子で言葉を続けた。
「薩摩の戦意は高く、イギリス艦隊の来訪を、今や遅しと待ち受けております。我が艦も危うく、砲撃の雨を浴びるところでした」
「では、相当の台場が備えられていると?」
ジョナサンは、何かを答えようと口を開き掛けた。
そのとき、雑賀が頃合いを見計らって、うぉほんと咳をした。
「失礼」と、雑賀は、小さく口に出した。
ジョスリングは、雑賀を睨みつけた。ジョナサンも、雑賀をちらりと見る。
ジョナサンは改めて、ジョスリングに視線を戻して、口を開いた。
「台場の数より、問題は貴国の兵力です。砲撃で台場を沈黙させることはできても、上陸して占領せねば、勝利を決定づけはできないでしょう。数ある台場を占領し続けるだけの兵力は、貴国にはありますまい」
ジョナサンが淡々と口にした言葉は、ジョスリングの自尊心に傷をつけたようだ。
ジョスリングは、やや憤慨した口調で言い返した。
「刀を振り回すだけで、旧式の火器しか持たぬ相手など、現行の兵力で十分だろう。台場など占領せずとも、一つ二つ砲撃で沈黙させてやれば、慌てて白旗を掲げるに違いない。もっとも、砲撃以前に、我が艦隊が姿を見せただけで降伏するやもしれませんがな」
ジョナサンは、呆れたような視線で、ジョスリングを見返した。
「無理ですな」
ジョナサンは、大げさな身振りで首を横に振った。
「聞くところに拠れば、薩摩の男は日本で一番の頑固者だとか。自分から降伏することは、決してありますまい。海上からの砲撃だけでは、薩摩は、決して屈服しませんよ」
ジョスリングは不思議そうな顔で、ジョナサンを見つめた。
「なぜ、アメリカは、それほど薩摩に肩入れするのですか? たかが島国の一地方領主ごときを恐れる理由は、何もないでしょう」
「アメリカは、薩摩を恐れているのではなく、イギリスの敗北を心配しているのです。日本の攘夷派に増長され、せっかくの開国が覆されては、はなはだ迷惑を被りますからな」
ジョスリングは、乾いたような笑い声を上げた。
「心配ご無用。国内が内戦で乱れている貴国と、同じに考えないでいただきたい。展開させている、軍艦の数が違いますよ」
ジョスリングの指摘どおり、南北戦争中のアメリカが、現在、日本で活動させている軍艦らしい軍艦は、モビーディックのみである。艦隊を要するイギリスとは、そもそも軍事力が違う。
実際に、現在、モビーディックが停船している周囲は、イギリスの軍艦ばかりである。
「まあ、そのへんは、仰るとおりですな」
ジョナサンは、ジョスリングの皮肉に、重々しく頷いた。勝に向きなおり、言葉を発した。
「幕府は御覚悟を。残念ながら、イギリスの薩摩行きは曲がらぬようです」
雑賀が、ジョナサンの言葉を通訳して、勝に伝えた。
突然、何を言いだしやがると思ったのか、勝は、大きく眼を見開いた。
この言われ方では、幕府が、イギリスの薩摩行きを妨げるため、アメリカを担ぎ出したのだと、ジョスリングに受け取られることだろう。
勝は、雑賀を、じろりと見返した。
『俺を、だしに使ったな』と、勝の瞳が訴えている。
雑賀は、沈黙で勝に応じた。実際は、内心で、舌を出していた。
「なるほど。そういうことでしたか」
ジョスリングが、ようやく、ジョナサンの来訪に合点がいったという顔で頷いた。
ジョスリングは一転して、厳しい瞳で勝を睨むと、言い放った。
「薩摩藩の延命を弄するならば、島津公に賠償金を支払うよう、お伝え下さい」
毅然とした、ジョスリングの一喝だった。
勝は、仏頂面で頷いた。
「では、もうお引き取り下さい」
ジョスリングの一言で、全員が席を立った。
「お手間を取らせました」と、最後にジョナサンがジョスリングに詫び、握手を求めた。
「戦勝を祈ります」
ジョスリングの手を固く握りながら、ジョナサンは、ジョスリングに思いを伝えた。
ジョスリングは、力強く頷いた。
「もちろん、そうなった場合には、力の差をわからせてやりますよ」
ジョスリングの顔には、万に一つも薩摩藩に破れることはないという自信が、溢れるほどに漲っていた。
9
横浜港に碇泊しているイギリス艦隊に動きがあったのは、文久三年六月二十二日のことである。
旗艦ユーリアラスを筆頭に、パール、コケット、アーガス、パーシューズ、レースホース、ハボックの、七隻のイギリス軍艦が、一様に煙突から、煙を上げた。いよいよ、薩摩藩へ向けて出航しようというのであろう。
雑賀は、ジョナサンと共に、慌ただしくなったイギリス艦隊の様子を、モビーディックの甲板上に立って、確認した。
双眼鏡を利用するまでもなく、各艦の罐に火が入り、今にも動き出そうとしているのは明らかだ。
勝は、執務のため、すでに江戸城に戻っていたから、甲板上に姿はない。
「追わなくてもいいんだよな?」と、ジョナサンが、念のための確認といった感じで、のんびりとした口調で、雑賀に問い掛けた。
「いい。俺たちが次に動くのは、イギリスと薩摩の決着がついてからだ。そのうち、江戸城から、勝さんが駆けつけてくるだろう」
やがて、全ての準備が整ったのか、イギリス艦隊は、ゆっくりと動き出した。
七隻の軍艦のうち、一隻だけ外輪船であるアーガスの車輪が、海水を跳ね上げて、くるくると回っているのが見てとれた。
ユーリアラスが、碇泊したままのモビーディックに、擦れ違うように接近してきた。
両艦は、それぞれ右舷と右舷を見せつけ合うような位置取りだ。
雑賀らにとっては見上げる形になるが、ユーリアラスのモビーディック側の舷側に、艦長であるジョスリングと、副長のウィルモットの姿が見てとれた。
「おまえに、わざわざのご挨拶だ」
茶化したような口調で呟いて、雑賀が、ジョナサンの脇を小突いた。
ジョスリングとウィルモットは、イギリス海軍式の敬礼を、モビーディックに向けている。
ジョナサンも、アメリカ海軍式の敬礼で、二人に応じた。一応、通詞ということになっている雑賀は、ただ、見送るだけである。
「俺たちの忠告は、受け止めてくれたかな」
通り過ぎていくユーリアラスを見送りながら、ジョナサンが心配そうな口調で囁いた。
「でなきゃ、痛い目を見るだけさ」
雑賀は、にべもなく、言い捨てた。
速度を上げながら、ユーリアラスが、完全にモビーディックの横を通り過ぎた。
残るイギリス軍艦が、ユーリアラスの後を追うように動いていく。
艦隊は、ユーリアラスを先頭にした単縦陣の隊列を組みつつ、横浜港を離れ出した。
去っていく船の姿が、次第に小さくなっていく。
「号砲で送ってやれ」
雑賀は、艦隊の後ろ姿を見据えながら、ジョナサンに指示を出した。
「内容は?」
「貴艦らの、航海の無事を祈る」
雑賀は、淡々と言葉を口に出した。
海上に、モビーディックが放つ、大砲の音が鳴り響いた。