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第六章 薩摩入り

 文久三年五月二十九日(一八六三年七月十四日)。大坂港を出港したモビーディックは、太平洋上を進み、大隅半島沖を回り込んで、鹿児島湾に進入した。

 噴煙を上げる桜島の雄姿を前方に見据えて、右が大隅、左が薩摩である。

 モビーディックの進入を確認するや、鹿児島湾内の各所に設置された台場から、不審船発見の報を告げる号砲が次々と放たれた。連絡は、速やかに鹿児島城の薩摩藩主・島津茂久や、茂久の補佐役である島津久光のもとへと届けられるに違いない。

 鹿児島湾に鳴り響く薩摩藩の号砲の音を悠然と聞き流しながら、モビーディックは、湾のほぼ中央付近を、一定の速度で堂々と進んでいく。モビーディックの船首には、那珂湊や大坂港へ入港した際と同様、三葉葵の紋を染め上げた旗が、高々と掲揚されていた。

鹿児島湾の奥、桜島の陰から、三隻の外国製大型蒸気船が、連なるように姿を現した。薩摩藩が諸藩に誇る、天祐丸、白鳳丸、青鷹丸の三隻だった。もともとはイギリスの商人が所有する船であったが、薩摩藩が買い取って、改名したものだ。

 俗に江戸三百藩と呼ばれたが、外国製の大型蒸気船を三隻も所有する藩は、薩摩藩の他には存在しなかった。それだけ薩摩藩は、外国に対する危機感を持っていたという証拠である。

 とはいえ、最新鋭のモビーディックと比べれば、どの船も老朽船である事実は否めない。

 しかも、商船だ。戦闘力は、モビーディック号とは、比較にならない。

 縦一列になって姿を現した三隻の薩摩船は、モビーディックの針路を阻むように、横一列に展開した。三隻は併走しながら、一直線にモビーディックに向かってきた。お互いにこのまま進み続ければ、モビーディックと、中央に位置する青鷹丸が、正面から衝突するような位置取りだ。

不審船であるモビーディックに対して、いきなり砲撃を仕掛けてはこないところを見ると、三隻の薩摩船は、三葉葵の旗に気がついていると判断して間違いないだろう。

 だが、元来、薩摩藩は、素性の知れない他藩の人間を、決して藩内には入れないという、秘密主義の方針を貫いていた。幕府の隠密が何度も薩摩藩内への侵入を試みていたが、大半は失敗し、消されていた。三葉葵の旗を掲げたからといって、絶対の安全が保証されたわけではない。

 沈めた上で、知らないと言い張られてしまえば、実際に勝を薩摩藩へ送りこんだ確証がある松平容保でも、何も言えないであろう。隠密が消された場合と同じで、行方不明として処理されるだけだった。

 雑賀とジョナサンは、旋回砲塔上の司令室から、近づいてくる三隻の薩摩船の様子を観察した。戦闘になった場合に備えて、勝は、安全な艦内に待避させている。

「どうするよ?」

 ジョナサンが、雑賀に問いかけた。口調に切迫さは感じられない。いざ海戦となれば、三隻とも沈める自信を、ジョナサンは持っていた。もちろん、自信は雑賀も同じだ。

 迫ってくる三隻の薩摩船のうち、中央の一隻、青鷹丸が突出した。左右二隻が、制動を掛けたためである。

 天祐丸と白鳳丸は、停止した。青鷹丸が、ほんのわずかに向きを変えた。

 モビーディックに、正面から衝突する針路から、直近を擦れ違う針路に変更したのだ。

モビーディックと、青鷹丸の距離は、三町(約三二七メートル)程である。

 青鷹丸が速度を緩めた。

 雑賀には、相手の意図がわかった。

 お互いに船を止めて、横付けし合おうというつもりである。後ろの二隻は、牽制役だ。

「つきあってやる。減速だ」

 雑賀は、ジョナサンに指示を出した。

 さらに、ジョナサンから、機関員に指示が飛び、モビーディックも減速した。

 お互いに速度を落としつつ、二隻の船は、次第に近づいていく。

 二隻は、完全に横付けの形で、やがて止まった。

 青鷹丸の甲板のほうが、モビーディックより上にある。

 青鷹丸の舷側に、多数の薩摩藩士が姿を現した。皆、一様に顔を赤らめ、興奮した面持ちだ。鹿児島湾へのモビーディックの侵入に、激しい怒りを覚えているのだった。

 今にも飛び降りて、乗り込んできそうな者もいる。残念ながら、三葉葵の御利益は、あまり期待できそうもない状況だ。

「撃つなよ」と雑賀は、ジョナサンに釘を差した。

 雑賀は、司令室から甲板に降り立った。

 敵意に満ちた薩摩藩士の視線が、雑賀に集中する。相手の視線を、まったく無視して、雑賀は、悠々と歩を進めた。

「薩摩藩に、何の用向きだ!」

 薩摩藩士から、誰何の声が飛ぶ。

 雑賀は、黙ったまま、船首に立つ三葉葵の旗を掲げた柱の近くまで歩いていった。

 柱の根元には、綱に繋がれたまま、まだ掲げられてはいない別の旗が、丸められていた。

 雑賀は綱を掴み、柱の留め金に巻き付けてある部分を素早くほどいた。

 雑賀は、薩摩藩士を見上げた。にこりと笑って、握っている綱から手を放した。

 自分の重さで、三葉葵の旗が、落下した。

 代わりに、するすると、柱の根元に丸められていた旗が、柱を登っていく。そのような仕掛けが施されていたのだ。

 新しい旗の大きさは、落ちた三葉葵の旗と比べて、二倍もあった。

緋色の地に、金糸で、十二花弁の菊の紋章が刺繍されている。恐れ多くも、皇室の紋章だ。

激高していた薩摩藩士の顔つきが、途端に驚きに変わった。唖然として、口を開けたまま硬直してしまった者もいる。

「頭が高い。勅使の艦である!」

 雑賀は、大音声で名乗りを上げた。

 高所から、御旗を見下ろしていた薩摩藩士たちの姿が、慌てて平伏したのか、舷側から消えて見えなくなった。

 雑賀は、愉快そうに大笑いした。

「機関全速!」

 雑賀は、司令室に声を掛けた。

 モビーディックが動き出す。

 モビーディックは、青鷹丸をその場に置き去りにし、平行して停船している、天祐丸と白鳳丸の間を抜けて突き進んだ。

 船首では、錦の御旗が、風に揺れていた。

 文久二年八月二十一日(一八六二年九月十四日)。武蔵国生麦村付近で、江戸から交代帰国途中の島津久光の行列をイギリス人リチャードソンらが乱したため、リチャードソンを薩摩藩士の奈良原兄弟が殺害する事件があった。世に言う生麦事件である。

 イギリスは、幕府に対して、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国女王ヴィクトリアへの誠意を込めた謝罪と賠償金十万ポンドの支払いを要求し、薩摩藩に対しても、リチャードソンを殺害した藩士の処刑と、遺族への賠償金二万五千ポンドを要求した。あわせて、行列の責任者である島津久光の処刑も求め、薩摩藩が要求を呑まない場合には、薩摩藩へ、イギリス艦隊を送って、相応の代償を負わせると通告した。

 だが、到底、薩摩藩としては、呑めるような要求ではない。薩摩藩とイギリスの戦争は、もはや時間の問題であり、必至となっていた。

 錦の御旗を掲げてモビーディックが訪れた薩摩藩は、そのような緊迫した状況だ。

 モビーディックは、鹿児島城と桜島の、ほぼ中間地点に停船した。

 正面の岸には、扇形の台場が海に迫り出すように築造されており、突然、湾内に侵入してきた外国船を前にして、兵たちが右往左往している様子が見てとれた。

 だが、三隻の薩摩船同様、モビーディックの船首に翻る錦の御旗に、台場の指揮官は攻撃を躊躇っているのに違いない。モビーディックは、明らかに台場に備え付けられた薩摩藩の大砲の有効射程距離内に入っていたが、砲弾は飛んでこなかった。

 撃たれたところで砲弾が当たるかどうかは別問題だったが、雑賀は、砲撃がないことに安心して、ジョナサンに投錨の指示を出した。

 二基ある旋回砲塔の狙いを、それぞれ鹿児島城につけさせる。モビーディックが相手の射程距離の中にあるのであれば、反対に、こちらの砲弾も相手に届く。

 最新鋭のモビーディックのダルグレン砲は、台場を通り越して、十分に鹿児島城を狙い撃てた。

鹿児島城は、平城である。高層の天守閣も、高い石垣も備えられてはいなかった。

 薩摩藩七十七万石の藩主の居城とは思えぬほど、簡素な城だ。城というより、むしろ、中世の豪族の屋敷のような建物である。

 モビーディックが連続して砲撃をすれば、鹿児島城は、簡単に吹き飛んでしまうだろう。雑賀の中では、もはや藩主を人質にとったのも同然の思いだった。

 モビーディックが悠々と投錨作業をしているところへ、ようやく天祐丸、白鳳丸、青鷹丸の三隻が追いついてきて、モビーディックを取り囲むように、周辺に停船した。

 三隻とも、モビーディックに対する牽制のため、搭載している大砲の先端がモビーディックに向くよう、舷側をモビーディックに見せていた。

 三隻は、三方からモビーディックに狙いをつけた状態のまま、錨を降ろした。いざ撃ち合いが始まった場合には、モビーディックが沈められるのと、鹿児島城が、藩主もろともに吹き飛んでなくなるのと、はたして、どちらが早いかという状況だ。

 だが、雑賀も、ジョナサンも、他の乗組員たちも皆、薩摩船に遅れをとるつもりは、さらさらなかった。もし撃たれても、薩摩船の老朽砲の砲弾など、重装甲で弾き返す意気込みとつもりである。

 錨を降ろし、完全に停船した青鷹丸から、一艘の小船が降ろされた。

 小船は、モビーディックに近づいてきた。舷側から見下ろす形で、モビーディックに接触するのではなく、なるべく低い位置からモビーディックを見る形となるように、礼を尽くして接触を図ったつもりなのだろう。

 雑賀は、小船の乗組員を、甲板へ上げるよう指示を出した。

 モビーディックは、半潜水式の船である。

 甲板は、ほぼ水面すれすれの高さであった。平らな筏のような形状だ。

 海面上に飛び出しているのは、旋回砲塔ぐらいのものだった。そのため、敵からの砲撃を受けたところで、船腹に着弾する確率は、かなり低い。おまけに旋回砲塔の周囲には、分厚い鉄板による装甲が施されていたから、着弾したところで、生半可な砲弾であれば弾き返せた。

 その低いモビーディックの甲板に横付けになるように、薩摩の小船が接舷した。

 アメリカ人兵士の誘導で、舷側の手すりを乗り越えて、二名の薩摩藩士が、モビーディックに乗船してきた。おそらく、それなりの地位の人物と側近だろう。

 甲板に立った二人の薩摩藩士の周りを、銃を手にしたアメリカ人兵士が取り囲んだ。だが、銃口を向けてはいない。いつでも使えるという、示威行動のみである。 

 二人の薩摩藩士は、警戒し、緊張した面持ちだ。けれども、目だけは抜け目なく動かして、モビーディックの状況を探っているようだった。

「ウェルカム!」

 と、雑賀は、アメリカ人兵士に囲まれた二人の薩摩藩士を、諸手を広げて、甲板で出迎えた。

 雑賀が、あえて、二人に対して英語で話しかけたのは、言葉が通じると思ったからではなく、最初が肝心と、一発かましたためである。三葉葵と錦の御旗とアメリカ艦という不可思議な組み合わせを、より強調したかっただけだ。応答は期待していなかった。

 にもかかわらず、「ハゥ・ドゥユ・ドゥー」と、薩摩藩の高官からは、英語で言葉が返ってきた。

 雑賀とジョナサンは、少なからず驚いた。

 薩摩藩の船に、英語がわかる人間が乗っているなどとは思ってもいなかったのだ。

 だが、考えてみれば、国防意識の高い薩摩藩に、英語が分かる人間がいるのは当たり前である。外国の情報を得るためには、外国語の修得は必須だった。

「勝安房守専任通詞・堀居九郎だ」と、雑賀は名乗り、高官とおぼしき人物に対して、開いた右掌を差し出した。

薩摩藩士は、あっさりと雑賀の右掌を握り返した。薩摩藩士にしては珍しく、欧米の文化である握手という行為に、随分と慣れているようだった。

「薩摩藩船奉行・松木弘安と申します」と、薩摩藩士は、雑賀の目をはっきりと見据えて、名前を告げた。

乗船時は緊張しきっていた松木の顔だが、雑賀が、勝の名を口にした時から、心なしか不安が和らいだように見受けられた。

「勝安房守様が勅使であられますか。松木が参ったとお伝え下さい」

「ほう。勝さんと、貴殿はお知り合いか?」

「私が江戸にいた頃、『同じ異国の地を踏んだ者同士だ』と仰り、親しくさせていただいておりました」

「では、貴殿も咸臨丸で、サンフランシスコへ?」

 松木は、軽く首を振った。

「いえ。幕府の遣欧使節団の傭医師兼翻訳方として、一昨年、フランスを視察しました」

 勝はアメリカ、松木はフランスと、渡った国は違うが、異国で見聞を深めた者同士、江戸では、交流があったのだろう。

 雑賀は、納得して頷いた。

「欧米列強の前に、日本が今どういう状況に置かれているかは、理解されてるな?」

松木は、眉間に皺を寄せた。顔つきが引き締まる。

「十二分に」

松木は、慎重に言葉を返した。

 雑賀は、構わず言葉を続けた。

「このまま外国と戦端を開いて、薩摩が無事に済むとは思ってないんだろ?」

松木は、重々しく頷いた。

「ならば、島津久光候の許まで、案内を頼みたい」

雑賀と勝は、松木弘安に案内されて、鹿児島城の島津久光の許を訪れた。

 薩摩藩の藩主は、島津茂久であったが、実質的な権限は、茂久の補佐役である父親、久光が握っている。だからこそ、孝明天皇も松平容保も、久光宛の勅書をしたためて、勝に託したのだ。久光は、国父と呼ばれていた。

鹿児島城の大広間には、『勅使来訪』の連絡を受けて集まった薩摩藩の重臣たちが、ずらりと居並び、久光と茂久は、最奥部に座していた。

 重臣たちは、部屋の左右に分かれて座っているため、中央部分に、久光と茂久の許まで続く道ができている。

 幕府の重臣として名が知れ渡っている勝はともかく、洋装の上、全身に弾丸を収めたベルトを巻き付けている雑賀の風体は、見る者に、『胡散臭い奴が現れた』と疑念を抱かせるのに十分だった。

 居並ぶ一同の視線が、雑賀に集中する。

 好奇の視線ではない。敵意と殺意が混在した視線である。生麦事件の後、イギリスと一触即発の開戦危機にある薩摩藩士にとって、異国にかぶれた雑賀の姿は、攘夷対象者以外の何者でもなかった。

 勅使である勝と共にいるのでなければ、瞬く間に、白刃に襲われる目に遭うだろう。

 だが、勝といるからといって、絶対に安全が保証されているわけでもなかった。雑賀の言動と成り行き次第では、いつ腰の物が抜かれる事態になっても不思議はない。

 そのような緊張感が漂う中、大広間の中央部にできた人の隙間を、雑賀が勝の露払いの役目を務めて先を進み、二人は、花道を行くが如く、悠々と久光の目前まで歩を進めた。

 雑賀が横に退いて、勝が前に出た。

 雑賀と勝は、両膝を着いて、畏まった。

「久しいな」

 会話の口火を切ったのは、久光だった。

「閣下には、ご機嫌麗しゅう」

 勝は、久光と茂久に頭を下げた。雑賀も勝の動きに従う。

久光は、雑賀の素性については何も問わず、軽く頷いてから、「今回は勅使のお役目だそうだな」と、軽い口調で、勝に問いかけた。

「いかにも」と、勝は応じた。

「すでに京都の薩摩藩邸には連絡が届いていることと存じますが、薩摩藩におかれましては、このたびの薩摩脱藩浪士・田中新兵衛による姉小路公知卿殺害の責任が重く判断され、御所への出入り禁止と相成りました」

 なるほど、御所への出入り禁止の処罰については、確かに京都の薩摩藩邸には連絡が届けられていたが、藩邸からの早飛脚が、まだ薩摩本国へは届いていなかった。当然、久光も茂久も承知していないはずの話である。

 にもかかわらず、二人の表情に驚きの色はない。姉小路卿殺害の真偽はともかく、田中新兵衛が捕えられた時から、薩摩藩へも何らかの処罰があるだろうとは、久光も茂久も織り込み済みである。御所への出入り禁止の処罰は、想定の範囲内だ。

 だが、居並ぶ重臣の中には、憤る者もいた。

さすがに声を荒げて、勅使に詰め寄る者こそいなかったが、「なぜ我が藩が!」との怨嗟の呟きが、どこからともなく囁かれている。

 呟きは、もちろん久光の耳にも届いていた。

 久光は、不機嫌そうに顔を歪めた。

「そんなことを申すための勅使ではあるまい」

 久光は、つまらなそうな口調で、勝に先へ進むよう話を促した。

「仰せのとおり」

 勝は、恭しく、久光に帝からの勅書を差し出した。

 久光は、受け取った勅書に目を通した。

 勅書は、久光に、京都の治安を維持するため、速やかに兵を率いて上洛をするよう求めていた。

 久光は、勅書から顔を上げた。久光の顔には、呆れたような笑みが浮いていた。

「御所への出入りを禁ずるほど信じられぬ薩摩に、帝は、武装して上洛せよとお望みか」

「帝は、薩摩藩を信用しておられぬわけではございません。建前上、処罰をせぬわけにはまいりませんが、内心では会津藩と並んで帝が最も頼りとしているのは薩摩藩かと。なればこそ、名誉挽回の機会を与えたのだと存じます」

勝は、久光をまっすぐに見つめた。

久光は、勝の顔を見つめ返した。

久光は、首を横に振った。

「いつイギリスとの戦になるやも知れぬ今、京都に兵を割く余裕はないわ」

 久光の拒絶の言葉に、勝の顔色が曇った。

「その戦、勝てるおつもりで?」

 雑賀は、半ば、小馬鹿にしたような口調で、久光と勝の会話に割って入った。

 久光の眉が、ピンと跳ねる。

「愚弄するかっ!」と、雑賀の近くにいた薩摩藩士が激高して、刀に手を掛けて腰を浮かせた。

「良いっ」と、久光は、短く言い捨てた。

 制止を受けた薩摩藩士は、殺意を込めた目で雑賀を睨みつけたまま、しぶしぶといった様子で腰を降ろした。

「そのほうは、どう思うのだ?」

 久光の言葉に、雑賀は即答せず、大広間の人々の顔を見回した。

 雑賀に対して、大半の人間からは殺意の視線が向けられていた。だが、何割かは、雑賀が何と応えるか見守る、興味の視線が含まれていた。

 恐らく、興味の視線の持ち主たちは、雑賀同様、戦に懐疑的な考えを持つ者なのだろう。雑賀と勝を、鹿児島城まで案内してきた、松木弘安の姿も、どこかにあるはずだ。

 雑賀は、部屋の隅に、松木の姿を発見した。

 松木の視線には、雑賀への殺意は含まれていなかった。

「松木殿は、いかが思われるか?」

 雑賀は、声高に松木に問いかけた。

 居並ぶ重臣たちの視線が、松木に集中した。

 島津久光と茂久の両名も、松木が何と応えるか、注視していた。

 突然、注目を受けた松木の顔は、パッと紅潮した。が、一転、見る間に血の気が引いていった。額には、大粒の冷や汗が浮いている。

外国の力をよく知る松木には、イギリスと戦端を開くことが如何に無謀か、よく分かっていた。

 だからといって、正直に戦争回避を訴えたところで、すでに攘夷論に凝り固まっている藩内で、意見が通るとは思えない。臆したと蔑まれるだけならばまだしも、下手をすれば、敵の肩を持ったと言われて、自身や家族の身に危険が及ぶ事態すら考えられた。

 答に窮したそんな松木の様子を、久光は、場をわきまえた、松木の遠慮ととったらしい。

「船奉行として、思うところを述べてみよ」

 久光は、松木に発言を促した。松木は、ますます追いつめられた。

 調子よく「勝てる」と答えて、鹿児島城下が焦土と化す道を選ぶか、「負け」を主張し、売国奴として同胞に討たれるか。

「言葉より、実際に試した方がわかりやすいでしょう」

 松木が、不本意にもどちらかの回答を選択して口を開く前に、雑賀が助け船を出した。

「薩摩が誇る、天祐丸、白鳳丸、青鷹丸の三隻とモビーディックで、模擬戦をいたしましょう。モビーディックを標的として、陸地からも大砲でお撃ちになるといい。薩摩藩が、見事にモビーディックを沈められるようなら、もしイギリスと戦になっても、十分に戦えましょう。無礼な私めは、海の藻屑です。ですが、モビーディック一隻すらも沈められないような薩摩藩なら、イギリス艦隊の前に為す術があるわけもなく、国土は焦土と化すでしょうな」

 雑賀は、久光を見据えて、言葉を続けた。

「なに、ご心配なく。イギリスとの戦を控えて、薩摩藩は、ご自慢の船を失うわけにはいきますまいから、モビーディックは空砲を撃ちましょう。薩摩は実弾をお使い下さい。当たり外れの判断と被害の想定はお任せします。薩摩藩にとっても、良い鍛錬となると存じますが、いかがでしょうか?」

 久光は、雑賀と松木を交互に見比べた。

 自信満々に言い放つ雑賀に対して、松木は、突然の展開に面食らったのか、縮こまっている。

 重臣から、松木に対して、「この生意気な男の船を沈めてしまえ!」と扇動の声が飛んだ。

 だが、松木は、扇動に答えようともせず、ますます縮こまるばかりである。

 久光は、疑うような口調で、勝に問いかけた。

「お主の入れ知恵か?」

勝は、黙したまま、ニヤリと微笑んだ。実際は、入れ知恵どころか、雑賀の独断をヒヤヒヤと見つめていただけの勝だったが、久光に対して、足並みが揃っているように見せかけるため、演技をしたのだ。

 やがて、久光は、重々しく頷いた。

「双方、存分にやりあうが良い」

 雑賀は、勝を久光の許に残したまま、一人で薩摩藩兵が操る小船に乗り、モビーディックに帰還した。

 薩摩藩兵は、実際に大広間にいた者はもちろん、ただ、大広間での久光に対する雑賀の不遜な態度を聞き及んだだけの者も皆、雑賀に対していきり立っている。

 小船に乗せられ、モビーディックまで、海上を運ばれる間中、雑賀は、同乗する薩摩藩兵から殺意を込めて睨まれ、居心地の悪い思いを味わい続けた。

 小船がモビーディックに横づけされるや、雑賀は、待ちくたびれていたかのように、急いでモビーディックの甲板に飛び移った。

 雑賀を送り届けた小船は、役目を終えて、岸辺へと戻っていく。

 出迎えに出たジョナサンに対して、「錨を上げろ」と、雑賀は指示を出した。

 雑賀が艦を離れて以来、モビーディックの機関には、ずっと火が入れられたままである。錨さえ上げれば、すぐ行動に移れるように準備がされていた。

 ジョナサンは、即座に指示を部下へ伝え、錨が手際よく巻き上げられていく。

モビーディックを包囲するように停船していた三隻の薩摩船――天祐丸、白鳳丸、青鷹丸でも、錨の巻き上げが始まった。

「何事だよ?」と、ジョナサンは、突然、慌ただしくなった辺りの様子に動じるでもなく、のんびりとした口調で、雑賀に問いかけた。

「薩摩と、この船で模擬戦をやる」

 雑賀は、ぶっきらぼうに言葉を告げた。

 騒ぎは海上だけではなく、陸の台場でも起きている。荷車が、多数の砲弾を、据え付けられた大砲付近まで運んでいるのが確認できた。砲撃を行う役割の兵士たちが、整然と、それぞれの持ち場に配置されていく。

「模擬戦ねえ。だが、ありゃ、実弾を準備しているぞ。俺たちを沈める気だ」

「沈めてみろ、と啖呵を切ってきたからな」

雑賀は、当然のように、さらりと言ってのけた。ジョナサンの白い視線が、雑賀に突き刺さる。

「そりゃ、意地になって撃ってくるだろな。俺も、お前を撃ちたいぐらいだ」

ジョナサンは、煙突から煙を上げ始めた薩摩の三隻の船を眺めながら、ぼそりと呟いた。

「沈めてもいいのか?」

 雑賀は、首を横に振った。

「こちらは空砲だ。足で掻き回して、相手が確実に当てられたと納得する場所から、派手に撃て。実力の違いを、骨身にわからせてやるんだ」

「商船と軍艦じゃ、違いなど最初からはっきりしてるだろうに、日本人は、見ただけで、それくらいもわからんのか」

薩摩が誇る三隻の蒸気船、天祐丸、白鳳丸、青鷹丸は、もともとはイギリス製の船である。

 天祐丸こと原名イングランド、七四六トン。

 白鳳丸こと原名コンテスト、五三二トン。

 青鷹丸こと原名サー・ジョージ・グレイ、四九二トン。

 いずれも鉄張り、スクリュー式ではあったが、軍艦ではない。商業用の民間蒸気船だ。

 薩摩藩では、それぞれの船をイギリス商人から購入後、ありあわせの大砲を備え付けて軍事用に転用してはいたものの、仮拵えの域を出てはいなかった。

 対する、雑賀のモビーディックは、生粋の軍艦として設計された船である。

南北戦争勃発直後のアメリカ、北軍で、スクリュー・プロペラの発明者であるスウェーデン人、ジョン・エリクソンが設計した軍艦のモニターが前身だ。

 河川や沿岸部での活動を可能にするため、浅喫水で、半潜水式の船として設計されたモニターは、史上初めて、旋回式の砲塔を装備した船でもある。排水量は九八七トン。

 木の葉のように前後を鋭角に整形した甲板の高さは、水に浮かぶと水面すれすれで、甲板中央部に桶を逆さまにしたような形の旋回砲塔が備えつけられていた。

 モビーディックは、河川や沿岸部での活動を主とするモニター型戦艦を、遠洋航海可能な形に設計し直した試作艦である。

 元々が近海仕様のモニターは航行距離の短さが難点であったが、船体を巨大化して燃料積載能力を増強したため、随伴船なしでも太平洋の横断が可能になった。

 そのうえ、甲板中央部に一基しかなかった旋回砲塔を、船体の前後に一基ずつ、合わせて二基設置することで、戦闘能力も大幅に強化されている。

 一基の旋回砲塔に付き、二門のダルグレン砲が備えられているため、備砲は、都合四門だった。

 確かに、旋回式の砲塔を持たない、通常の固定式砲を装備した戦艦に比べれば、備砲の数は多くはない。通常の戦艦は、両舷を合わせて、多い船では二十門以上の大砲を積んでいた。

 とはいえ、多数の大砲を積んではいたものの、固定式のため、目標に向けて砲撃をする場合には、相手に舷側を向け、大砲の前方に目標が来るように移動してから、撃つ必要がある。

 大砲は、船の左右両舷に、それぞれ横向きに備えつけられているから、どちらかの側の大砲を撃ったら、次は、船の逆側の舷側が相手に向くように船を操作し、船をジグザグに進めながら、左右交互に大砲を発射していく。これが、通常の撃ち方だ。

 もちろん、全ての大砲の前方に目標が来るわけではなかったから、発射にも時間にも無駄が多かった。

 一方、旋回砲塔には、そのような無駄は一切ない。一定方向に船の針路を保ったままでも、砲塔のみを回転させて、相手に狙いをつけられた。

 旋回砲塔一基で、十門、二十門の舷側砲搭載艦を相手に、互角に渡り合えた。二基であれば、倍以上だ。

 加えて、浅喫水のため、船体の大半が水中に沈んでいて、敵の砲弾が当たりにくい。

 また、船体も、旋回砲塔の周囲も、鉄製の分厚い装甲板で覆っていたため、被弾したところで、大抵の砲弾は弾き返してしまい、致命傷とは成り得ない防御力を持っていた。

 モビーディックの排水量は、一七二八トン。船体は、全長七七・四メートル、全幅十五・六メートルで、近海用のモニター型戦艦の、ほぼ倍の大きさだ。

 将来的な南北戦争の勝利を見込した、北軍のアブラハム・リンカーン大統領が、肝煎りで造らせた船である。捕鯨船の燃料補給基地として重要度を増している、極東日本での制海権を確保する活動が目的だ。

 ジョナサンが、見ただけで分からないのかと言うように、モビーディックは薩摩の蒸気船とは、そもそもの生い立ちからして違っている。

 雑賀は、ジョナサンに笑いかけた。

「模擬戦後には、嫌というほど分かっているさ」

 雑賀は、視線を船首に掲げられた錦の御旗に移動させた。

「錦の御旗を掲げたままじゃ、相手も標的にしずらいだろう。星条旗を上げろ」

 勝は、久光、茂久らと共に、城を出て、市成の島津弾正の屋敷へ移動した。

 島津弾正の屋敷の裏手の高みには、遠見番所が設けられている。遠見番所からは湾内のモビーディックと、天祐丸、白鳳丸、青鷹丸の様子が、一望できた。

 四隻は、それぞれ湾の奥へ、勝らから見ると左手に船首を向けるようにして、鹿児島城と桜島のほぼ中央付近に停船していた。モビーディックを中心にして、残る三隻が、三角形の内側にモビーディックを包囲している位置取りだ。

 海岸から突き出すように築造された手前の台場では、全ての大砲が砲弾を詰め終えて、砲手が発砲の合図を待っていた。予備の砲弾も多数運ばれ、すぐさま次弾が装填できるように、大砲の近くに準備されている様子が見てとれた。

 見ていると、やがてモビーディックの船首から錦の御旗が降ろされ、代わりに、アメリカ国旗が高々と掲揚されて、風に棚引いた。

「おお」と、久光と茂久を警護している薩摩藩兵の間から、どよめきが上がった。どよめきには、憎々しげな響きが含まれていた。

 薩摩藩兵にとっては、イギリスもアメリカも、同じようなものである。想定される敵船に、城下の目前まで迫られている事実を目の当たりにして、薩摩藩兵らは俄然やる気を出したようだった。

 おそらく台場や、三隻の薩摩船に乗っている兵たちも、同じ思いを抱いているのに違いない。

 久光、茂久も、座っている床几から身を乗り出して、モビーディックを睨みつけていた。錦の御旗を降ろして、星条旗を掲げた雑賀の判断は、薩摩藩に対する挑発行為としては絶妙だった。

「ホリィめ、憎いことをする」

 勝は、誰にも聞こえないように、口中で呟いた。

 モビーディックの船首のアメリカ国旗が、風にハタハタと揺れている。

 勝は、一方の薩摩船に視線を移した。

 天祐丸、白鳳丸、青鷹丸の三隻は、停止したままだ。

 蒸気船は、機関に火を入れたところで、すぐに船が動かせる状態になるわけではない。罐の内部に、熱せられた十分な量の蒸気が溜められて初めて、蒸気機関が、用をなすようになるものだった。

 もともと機関に火を入れたまま、稼働準備が整えられていたモビーディックとは違って、薩摩の三隻は、機関から火が落とされていたため、船を動かせるようになるまでには時間が掛かるのだ。

 モビーディックが動き出した。

 モビーディックを包囲している三角形の頂点の一つであり、モビーディックの前方に停泊する天祐丸の右側へ進んで、モビーディックは包囲を抜け出した。

 そのまま、天祐丸も、白鳳丸、青鷹丸も置き去りに、モビーディックは北上した。

 勝がいる遠見番所から見ると、湾内を左手へ、湾のさらに奥の方向へと、船を進める形である。

 モビーディックと三隻の薩摩船は、それぞれ一度、大きく離れ合ってから、模擬戦を開始する手はずとなっていた。

 やがて、罐に十分な蒸気が溜まって、天祐丸、白鳳丸、青鷹丸も行動を開始した。

 三隻は、モビーディックの後を追った。

 三隻が行動を開始するまでに、モビーディックとの距離は、すでに十町(約一〇九〇メートル)は離れている。

 後方で薩摩船が動き出したのを確認したのか、モビーディックが船首を左に転じた。左旋回で向きを変えて、薩摩船を迎え撃とうという動きであった。

 回頭するモビーディックに、最も近い位置にある薩摩藩の台場は、祇園州台場だ。モビーディックからの距離は、やはり十町程である。モビーディックと薩摩船と祇園州台場の位置関係は、モビーディックを一つの頂点とした、二等辺三角形の間柄だ。

鹿児島湾の鹿児島城側の海岸線には、祇園州台場に次いで、ちょうど鹿児島城の前面に位置する新波戸台場、さらに弁天波戸台場、南波戸台場と、台場が並んでいた。

 モビーディックは、台場が並ぶ海岸線と平行になるように、船を進めた。

 モビーディックが回頭した地点は、まだ祇園州台場の射程の外である。

 にもかかわらず、回頭によりモビーディックが速度を落としたのを好機と見たか、はたまた、いきり立った砲兵が単に攻撃命令を待ちきれなくなっただけなのか、祇園州台場からモビーディックに対する砲撃が、ついに始まった。

 十二ポンドから八十ポンドまである祇園州台場の十門の大砲から、次々に砲弾が撃ち出された。

砲弾は、派手に水飛沫を上げて、ちゃぽんちゃぽんと、モビーディックより遙か手前の海に落下していった。

 砲撃が届かなかったのを見て、祇園州台場の砲兵たちは、ますますいきり立って大砲を撃ちに懸かる。だが、やはり届かない。

 そうこうするうちに、モビーディックは、祇園州台場の射程距離の内に入った。両者の距離は、約七町だ。

 祇園州台場からは、次弾の装填ができた大砲から、順次、モビーディックに対する砲撃が行われた。

 しかし依然、訓練時の止まった標的を相手にするのとは勝手が違うのか、モビーディックには一発も当たらなかった。近くへの着水もない。

 勝や久光らと共に、遠見番所より状況を観察していた薩摩藩の幹部から「何をやっておる!」と、憤激の声が上がった。

 モビーディックが、祇園州台場の前を通過していく。

 その際、モビーディックは、二基の旋回砲塔を祇園州台場に向けて、四門のダルグレン砲から、それぞれ空砲を発射した。

「まぁ、当たったでしょうな」と、勝は、実弾を撃っていれば、祇園州台場に着弾していたはずだと主張した。

「当たるものか!」と、先の幹部が、即座に否定する。

 久光は、勝の言葉を肯定も否定もせずに、黙ったまま、戦闘の様子を見つめていた。

 雑賀は、モビーディックの司令室を覆う分厚い鉄板に開けられた、細長い隙間状の覗き窓から、前方の様子を覗き見た。

 三隻の薩摩船が、モビーディックに向かって進んでくる。モビーディックから近い順に、青鷹丸、白鳳丸、天祐丸だ。

 三隻は、ある程度までモビーディックに近づくと、それぞれモビーディックに横腹を見せるように回頭した。

 青鷹丸と天祐丸は右舷が、白鳳丸は左舷が、モビーディックに見えるような向きである。舷側に固定された大砲で、モビーディックに狙いをつけるための回頭だ。

 舷側砲の場合、船自身が向きを変えなければ、砲の狙いをつけられなかった。舷側砲の欠点だ。

 モビーディックと、先頭の青鷹丸の間の距離は、約八町。

 狙いが整ったのだろう、三隻の薩摩船の舷側砲が、モビーディックに向かって火を吹いた。

 だが、いずれの砲弾もモビーディックには当たらない。

 三隻は次弾を撃つために、それぞれ、現在、モビーディックに向けているのとは反対側の舷側をモビーディックに向けるべく、再度、回頭運動に入った。

 三隻の船に、モビーディックに対して攻撃を行えない隙ができた。モビーディックは、一気に彼我の距離を詰めて、青鷹丸に接近した。

 回頭の末、青鷹丸と天祐丸が左舷を、白鳳丸が右舷をモビーディックに向けた。

 三隻の舷側砲が、モビーディックに狙いをつける。

「来るぞ!」

 雑賀は、司令室中に響き渡るような大声で、注意を促した。「総員、着弾の衝撃に備えよ」の合図だった。

 三隻の薩摩船が、一斉に砲撃した。

 砲弾の内、一番近い青鷹丸が撃った砲弾が、モビーディックの前部旋回砲塔上にある、司令室を囲む装甲板に命中した。

 衝撃音が、司令室内に響き渡る。

 だが、被害は、音だけだった。

 装甲板は、厚さ一インチの鉄板を、十枚重ねてボルトで固定した物である。天祐丸が撃った砲弾は、装甲板の表面をわずかに凹ませただけで跳ね返されていた。

 薩摩の大砲が放つ砲弾は、単なる丸い鉄の玉だ。モビーディックの分厚い装甲を貫く能力は、持ち合わせていなかった。よほど当たり所が悪くない限りは、薩摩船の攻撃では、モビーディックには効果がないのだ。

 雑賀が模擬戦にもかかわらず、薩摩藩に実弾の使用を認めた理由は、モビーディックの装甲に、絶対の自信を持っていたためである。

 舷側砲を撃ち終えた薩摩船は、再び、反対側の舷側をモビーディックに向けるべく、回頭しようという動きを見せた。

 撃ったばかりの大砲に次弾を装填して撃てるようにするより、回頭して、反対側の舷側砲を敵に向けるほうが、より早く次の攻撃ができるためだ。反対側の舷側砲は、すでに装填を終えている。

 だが、モビーディックは、回頭する青鷹丸の動きに合わせ、舷側砲を撃ち終えて空になったばかりの青鷹丸の左舷側に肉薄した。

 前後の旋回砲塔を、青鷹丸の左舷に向ける。もし、砲の中に実弾が込められているのであれば、誰が見ても、外しようがないと思える距離である。陸地で、勝が、久光らに強く命中を主張しなくても、着弾を認めざるを得ないだろう。

 もちろん、モビーディックのダルグレン砲は、本来、ただの商船にすぎない青鷹丸の装甲など、やすやすと貫く能力を持っていた。

 モビーディックは、前後合わせて四門のダルグレン砲から、青鷹丸に向けて、立て続けに四発の空砲を発射した。

 青鷹丸には、松木弘安が乗っている。

 松木は、誠実な男であった。青鷹丸が至近距離からモビーディックの砲弾を受けた場合にどうなるかを、態度で示してみせたのだ。

 松木は、即座に青鷹丸を停止させるよう、船内に指示を出した。空砲のため、実際には青鷹丸は、もちろん無傷であった。

 それでも、実戦であれば致命的な破壊を受けたであろうと判断して、戦闘からの脱落を目に見える形で示すために停船した。

 青鷹丸が停船した時には、モビーディックは、すでに青鷹丸の元を離れて、次の狙いである白鳳丸に向かっていた。

 船足は、白鳳丸より、モビーディックのほうが遙かに早い。

 モビーディックに左舷の舷側砲を向けようという白鳳丸の動きを制して、モビーディックは、青鷹丸同様、舷側砲を撃ち尽くしたばかりの白鳳丸の右舷に、回り込むように艦を肉薄させた。

 船足だけでなく、白鳳丸右舷砲の再装填より、モビーディックの再装填のほうが、やはり早かった。

 モビーディックは、再び、四門のダルグレン砲から、今度は白鳳丸に対して、空砲を撃ち込んだ。

青鷹丸の松木の判断を引き継ぎ、白鳳丸の船長は、当然、船は青鷹丸と同じ結果になったものと判断して、白鳳丸を停船させた。

残るは一隻だ。

 薩摩の船と、モビーディックの距離が近いために、同士討ちを恐れた各台場は、皆、沈黙を続けていた。事実上、モビーディックと天祐丸の一騎打ちである。

 だが、生粋の軍艦のモビーディックと、商船あがりの天祐丸では、勝負は最初から決まっていた。

 天祐丸は、舷側砲をモビーディックに向けるべく回頭を続けたが、モビーディックは、天祐丸を上回る速さで移動し、相手の舷側砲の死角へ回り込むような位置をとり続けた。要するに、真正面から天祐丸へ近寄ったのだ。

 モビーディックは、旋回砲塔を、天祐丸の船首へ向けた。

 三度、モビーディックは、薩摩船に対して、至近距離から空砲を撃ち込んだ。

 天祐丸は、負けを認めて停船した。

 モビーディックも船を停める。

 雑賀は、船首のアメリカ国旗を降ろすよう、指示を出した。

 代わりに、錦の御旗を掲揚する。

 戦闘が終結したという、各台場に対する合図であった。もう撃つな、という意思表示だ。

 模擬戦は、モビーディックの圧倒的な勝利で終了した。

雑賀は、迎えに来た薩摩藩の小船に乗り換えて、陸地へ向かった。

 薩摩藩の小船の後からは、モビーディックに搭載されていた小船が一艘、後を追いかけている。

 モビーディックの小船には、二名のアメリカ人兵士が乗っていた。二人は、小船の前後に座って、それぞれ櫂を操っていた。

 二人のアメリカ人兵士の間には、何か重たそうな木製の箱が積み上げられていた。重たい証拠に、波が舷側を超えて入りそうなほど、小船は深く沈み込んでいた。

 木箱の中身が何であるか、までは分からない。さらに、木箱の上には、船首の支柱から降ろされたアメリカ国旗が、目隠しの覆い代わりに掛けられていた。

 雑賀を乗せた薩摩藩の小船は、鹿児島城の正面に位置する、新波戸台場へ接岸した。アメリカ人兵士の小船も、すぐ横に接岸する。

 薩摩藩士の指示に従い、雑賀は、上陸した。

 二人のアメリカ人兵士は、自分たちの小船に残り、荷物の番に就いた。

 新波戸台場には、遠見番所から、島津久光の一行が、雑賀よりも先に到着していた。

 もちろん茂久も、勝もいる。青鷹丸に乗り込んでいた、松木弘安の姿もあった。

 松木は、久光と共に、遠見番所から模擬戦の様子を眺めていた、薩摩藩の重臣たちに取り囲まれていた。

「まだ戦えたのに、なぜ、船を停めたのだ!」

 松木は、重臣の一人から声高に叱責を受けていた。この重臣の判断では、青鷹丸はモビーディックから、戦えぬ程の損傷は受けていないようだ。

 雑賀は、呆れ果てて、鼻で笑った。

 久光にも茂久にも勝にも目もくれず、雑賀は一直線に松木の許へ歩み寄った。

 雑賀は、哀れむような口調で、松木に話しかけた。

「薩摩藩士ってのは、みんなこうなのか?」

雑賀は、松木を叱責している、自分より小男の薩摩藩重臣を見下ろして言い放った。

「あんたには、わからなかったのか? 青鷹丸は沈んだんだ。そんな判断もできんのか」

「なにを!」

 重臣の右手が、腰に伸びた。

 だが、雑賀の右手のほうが、遙かに速かった。

 雑賀は、腰から拳銃を抜き放つと、重臣の眉間に、ぴたりと銃口を押し当てた。

「ホリィっ! やめろっ!」

 勝が叫びを上げ、慌てて雑賀に駆け寄ろうとした。

 しかし、薩摩藩士らに動きを阻まれた。雑賀の周辺にいた薩摩藩士たちが皆、刀に手を掛け、雑賀を一斉に取り囲んでいた。

 重臣は、銃口を向けられてなお、減らず口を叩いた。

「砲弾の一発や二発で、我が藩の船が沈むものか! 第一、当たるとは限らんだろう!」

 雑賀は、相手をからかうように微笑んだ。

「では、当たるか試してみよう」

 雑賀は、重臣の眉間に当てていた銃口を、ゆっくりと上げていき真上の方向、すなわち空に向けた。

 雑賀は、引き金を引いた。

 銃声が辺りに響き渡った。

 一瞬遅れて、モビーディックの旋回砲塔が火を噴いた。空砲ではなく、実弾だった。

 砲弾は、先刻まで久光ら一行がいた遠見番所に着弾した。

 無人になっていたため、人的被害はなかったが、櫓が砕け散った。もし、まだ一行が遠見番所にいたままであれば、全員、無事では済まなかったであろう。正確な砲撃だった。

 雑賀は、モビーディックを離れる前に、ジョナサンに雑賀の銃声を合図に、遠見番所を吹き飛ばすよう伝えてあった。着弾を信じない者がいた場合に備えて、実力を証明するための演出を用意しておいたのだ。

 ちなみに、銃声が続けざまに二回、聞こえた場合は、撃つな、の合図だとも取り決めてある。

「二発目は鹿児島城を狙えと言ってある。当たるか外れるか、俺と賭けようぜ」

雑賀は、愉快そうに重臣の顔を覗き込んだ。

「あんたは外れに賭けるよな? どうせ、当たるとは思ってないんだろ?」

 重臣は、賭けに乗る、とは即答しなかった。

 顔が青い。実際には、モビーディックの砲撃の精度を認めているのだ。鹿児島城を直撃されては、久光らが焼け出される羽目になる。

 雑賀は、答を返せないでいる重臣の様子に満足した。一転、矛先を、国父、島津久光に向けた。

「閣下、薩摩藩は、はたしてイギリスに勝てましょうや?」

久光は、不愉快そうに顔を顰めた。聞いてくれるな、という表情だ。藩士の手前、まさか、勝てないとは答えられないだろう。かといって、勝てるとは、到底、思えない。

 久光の顰め面は、十分に答になっていた。

「模擬戦ご苦労。外国船との戦経験のない我が藩の者には、良い鍛錬となったであろう」

 久光は、雑賀の質問に対して、直接的には答えずに、話題をすり替えた。

「松木も良くやった。そのほうの判断は正しい」

 久光の断言に、重臣は、恥ずかしさと悔しさの入り交じったような表情で、頭を垂れた。

 久光は、松木を叱責していた重臣の振る舞いについては、特に追及しようとはせず、ただ、松木への言葉を続けた。

「実際に外国船と戦ってみて、いかが感じた?」

 松木は、姿勢を正して、久光に向き直った。

「恐れながら、商船では、軍艦には敵いませぬ。我が藩にも、あのような軍艦が必要であると痛感いたしました」

久光は、重々しく頷いた。雑賀に向き直る。

「そのほう、名は何と申したか?」

「堀居九郎でございます」

「そうか。では、堀居。そのほうの船を、我が藩に売り渡せ」

 予想外の久光の提案に、雑賀は、唖然として、久光の顔を見返した。

 久光は、真顔であった。冗談を言っているような顔ではない。

「ん?」と、久光は、自分の顔を見返す雑賀に回答を促した。

 雑賀は、慌てて、頭を振った。

「わたくしの船ではありませぬ。アメリカ合衆国が持ち主です。売るためにはアメリカ合衆国議会の同意を得る必要がありますが、今すぐ問うても、返事は三月は先となりましょう。それまでイギリスは、開戦を待ってはくれますまい」

「無い物ねだりをさせてもくれぬか」

 最初から雑賀が話に乗るとは思っていなかったのであろう。言葉の割に、久光は、さほど残念そうな素振りも見せずに、即座に「船を売れ」という、自分の提案を引っ込めた。

「堀居。では、模擬戦の結果を総括せよ。せめて、我が藩に知恵を貸せ」

「されば」

 雑賀は、畏まり、口をひらいた。

「薩摩藩の戦意は、大変、高うございました。ですが、まったく活かせていない。確かに船の性能に差はありましたが、薩摩藩には船よりもさらに足りない物がございます」

 雑賀は、そこで一度、言葉を句切って、やや勿体をつけてから、周囲を取り囲む薩摩藩士らに向かって言い放った。

「すなわち、我慢がない」

雑賀の断言は、さながら、おつむが足りない、とでも指摘されたかのように薩摩藩士らには受け取られた。

「おのれっ!」と、幾人もの薩摩藩士が、雑賀に対して、再び、腰の物に手を掛けた。

 雑賀は、口の端を、にやりと吊り上げ、久光に向かって微笑んだ。

「ごらんのとおりです」

久光は、「よさぬか」と、藩士を制した。

 藩士らは、しぶしぶと、刀から手を放した。

「相手の挑発に乗り、ぽんぽんぽんぽん、届きもしない大砲を撃っているようじゃ、話になりません」

 雑賀は、藩士らに、「我慢がない」という、自身の発言の真意を解説した。

「イギリスの大砲は、薩摩の持つ大砲より、遙かに遠くから届きます。いくら届かないとはいえ、薩摩藩が、ぽんぽんとイギリス船に向けて大砲を撃ちかけては、イギリス船は、それ以上、陸地に近づくことを嫌うでしょう。イギリス船が足を止め、薩摩の砲弾が届かない場所から砲撃をするようになったら、まったく勝機はありません。薩摩藩にいくら戦意があったところで、何もできぬまま、鹿児島城も城下の町も灰燼と化すでしょう」

「だから、戦わずに我慢しろと言うのかっ!」

 激高した薩摩藩士の一人が、声を荒げた。

「馬鹿、そうじゃねぇよ」

 雑賀は、がらりと口調を変えて、声にもドスを利かせた。

「相手が、のこのこと、こちらの射程距離内に入ってくるまでは、撃つのを我慢して我慢して我慢し続けろって言ってるんだ。射程のぎりぎりですぐ撃つんじゃあなく、絶対に外さねぇ距離までイギリス船を引きつけたところで、一斉に砲弾を浴びせかけて、一撃で沈めろ。薩摩に勝機があるとしたら、負けるわけねぇ、と自惚れてやってくるだろうイギリスの油断にある。どんなに撃たれても、相手が近くに来るまでは堪え忍べ。機会は一度きりだ。初太刀に賭ける、示現流の戦い方と同じだろ」

薩摩の示現流は、自分の肉を斬らせてでも、相手の骨を断つ剣である。刀を抜いたら、裂帛の気合いと共に、相手の懐に飛び込み、斬られても防がれても一切構わずに、必殺の一撃を相手に叩き込む。斬られるのを恐れるような、弱い精神の持ち主には使えぬ剣だ。

 示現流と同じ戦い方という、雑賀の言いぐさは、薩摩藩士の強い自尊心をくすぐった。

 心なしか、雑賀に向けられていた殺気の塊が弱まった気がする。

「松木殿」

 雑賀は、おろおろと事の成り行きを見守るしかなかった松木に声を掛けた。

 松木は、びくりと姿勢を正した。

「残念ながら、麾下の三隻の船では、イギリス船には勝てませぬ。イギリス船に正面から戦いを挑もうとはせず、囮として、敵船を陸地に近付ける役目に徹せられよ」

 雑賀は、松木の返事を聞こうともせず、突然、ずかずかと歩き出した。雑賀を囲んでいる薩摩藩士の輪が自然と割れる。

 雑賀は、モビーディックから共にやってきた、アメリカ兵士が待つ小船に向かった。

 おい、と、手振りで、雑賀は、小船に残っていた二人の兵士に合図を送った。

 一方の兵士が、小船に積まれている荷に目隠しとして掛けられていた、アメリカ国旗を引き剥がした。国旗の下には、十箱ほどの細長い木箱が積み重ねられていた。木箱の長辺は、四尺程だ。

 もう一人の兵士が、最上段の木箱の蓋を取る。木箱の中には、緩衝材として布でくるまれた、細長い品物が入っていた。

「閣下」

雑賀は、布の中に右手を突っ込んで木箱を探りながら、久光を振り返った。

「船は渡せませぬが、代わりに、これをお貸ししましょう」

 雑賀は、木箱から手を引き抜いた。

 雑賀の右手には、ライフル銃が握られていた。後部の薬室を横に開いて金属薬莢を装填する、後装式のエンフィールド銃だ。雑賀の拳銃、S&Wモデル2アーミーと同じく、最新型である。

 雑賀が、木箱から銃を出した際に、銃を包んでいた布が捲れて、木箱の中身が丸見えになった。雑賀が出した銃以外にも、ライフル銃が入っていた。その数は四丁だ。

 一つの木箱に合わせて五丁のライフル銃が入っているなら、十箱では、五十丁のライフル銃が収納されている計算だ。木箱には、銃の他に、相当量の弾丸も収められていた。

 雑賀は、ライフル銃の中程を握り、歩みに合わせて無造作に振りながら戻ってくると、松木を罵倒していた薩摩藩の重臣に向かって、持っていた銃を、ぐいと突き出した。

「ここぞという状況で、お使いを」

 重臣は、おずおずと両手を出して、雑賀からライフル銃を受け取った。ずしりとした銃の重さに、腕が下がる。

「かたじけない」

 重臣は、心からの感謝の言葉を口にすると、雑賀に対して、頭を下げた。

 居並ぶ、薩摩藩士たちの間からは、どよめきが上がった。今まで敵であったはずの外国人かぶれが、味方と認識された瞬間だった。

久光は、脇に立つ勝に対して、声を掛けた。

「勝。上洛せよという帝の仰せには、やはり従えぬ。帝には、久光はイギリスとの攘夷戦から手が離せぬ、とお伝えしてくれ」

「承知しました」

 勝は、久光に頭を垂れた。

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