表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/14

第五章 新兵衛自刃

 京都守護職の上屋敷は、北を下長者町通、南を下立売通、東を新町通、西を西洞院通に囲まれた、南北約百十間(約二百メートル)、東西約五十五間(約百メートル)程の敷地にある。

 敷地の周囲を囲む塀の内側には、兵士を収容する長屋が建て巡らされており、松平容保が執務をする建物は、長屋に囲まれた中央部分に建てられていた。

 雑賀と勝は、近藤や眞柴らに案内され、下立売通に面した正門に回った。

 壬生浪士組の面々は、刺客にとどめを刺した際、大量に返り血を浴びていたため、全身に、赤黒い半乾きの血の染みをつくっている。

血まみれのダンダラ羽織を着た、壬生浪士組を目にした門番たちは、一様にどよめきの声を発した。

 壬生浪士組が会津藩お預かりである事実を、門番たちは、もちろん承知している。家臣ではないが、会津藩にゆかりある者たちが血まみれになっている状況は、由々しき事態だった。

「何があったのだ!」

 門番の一人が、勢い込んで、先頭に立つ近藤に問いかけた。

「なに、心配めされるな」

 自分の実績を、邸内で執務をしているはずの松平容保に聞かせようという意図なのだろう。近藤は胸を張り、邸内にまで届くような大音声を張り上げた。

「壬生浪士組局長、近藤勇、勝安房守様をお連れいたしました」

 門番たちの視線が、壬生浪士組に周囲を囲まれて立つ、勝と雑賀に向けられた。勝はともかく、雑賀を見る門番の視線は、胡散臭い者に対する眼差し以外の何物でもない。

「勝安房だ」

 と、近藤を押しのけるようにして、勝が前に出た。

 門番たちは、途端に畏まり、頭を下げた。

「松平中将様がお待ちです。お怪我はございませぬか?」

「おう。近藤くんたちに助けられた」

 勝は、ちらりと近藤を見た。

「では、我々は、これで」

近藤が、一歩下がって、勝に頭を下げた。 他の隊士も近藤に倣う。

「ん。お役目ご苦労」

 勝が応じると、近藤らは背を向けて去っていった。

 雑賀と勝は、近藤の声を聞いて出迎えに出てきた係の者に従い、上屋敷へ入った。

 雑賀は拳銃を、勝は刀を、それぞれ係の者に預け、二人は容保が来客を迎えるための客間へ案内された。二人の他には誰もいない。

 よほど勝の到着を待ちかねていたものと見え、容保は、すぐに部屋へ姿を現した。一人きりである。

 容保は、勝と向かい合うように着座した。

 青白い顔である。年齢は、雑賀と同じか一つ二つ上のはずだが、京都守護職という大役による重圧のためか、雑賀よりかなり老けて見えた。

 容保は、勝の脇で正座をしている雑賀を目に止めて「その者は?」と、勝に問うた。暗に「邪魔だ」と、声音が告げている。

「わたくしの耳であり口、ときには頭脳の代わりともなる専属通詞で、堀居九郎と申す者です。言うなれば、わたくしとは一心同体の存在と言えますな」

 勝は、にやにやと容保を挑発するかのように微笑んだ。容保の対応を試しているのだ。

容保は、勝の顔を見返した。勝は、にやついたままである。

「要するに、同席させたいのだな?」

 容保は、諦めたように言葉を吐いた。

「左様にございます」

勝は、容保に頭を下げた。

「この場での話は、他言無用ぞ」

 容保は、雑賀を睨みつけた。

「承知しています」

 雑賀は勝以上に深々と容保に頭を下げた。容保は、勝に顔を戻した。

「道中、浪士らに襲われたそうだな」

「ご手配いただいた護衛のお陰で、助かりました」

「壬生浪士組か」

 容保は、苦々しげな表情になった。

「どう感じた?」

「たんなる無頼の輩かと。大坂市中で強盗まがいの真似をしておりました。中将様が、なぜ、あのような者どもを預かっておられるのか、理解に苦しみますな」

「絶対的に人手が足らんのだ。あんな者どもでも、少しは浪士らへの威圧の役に立つ」

「姉小路卿を暗殺されたのも、人手が足らぬせいになされますか」

 容保は、ますます苦しげに顔をゆがませると、喉の奥から絞り出すように声を出した。

「そう申すな」

 だが、勝は、容赦なく容保を追及した。

「道すがら、至る所で、素性の知れない勤皇の志士と名乗る輩を見かけました。今は、ただ商人に金を無心している程度でしょうが、いずれ何か、組織だって大それた騒ぎを起こさぬとも限りませぬな。京都守護職様におかれましては、いかが取り締まるおつもりです?」

容保は、勝の非礼に怒り出す様子もなく、渋面のまま、沈黙していた。

 勝は追及の姿勢を解いて、話題を変えた。

「ところで、わたくしをお召しのわけは?」

「だから、それよ」

 容保は、呻くように口にした。

「京・大坂の治安を守る、何かいい知恵はないものか? おぬしなら思いつくであろう」

 勝は、呆れたような表情で苦笑した。

「そのようなこと、壬生浪士組の者ですら、わかっておりますよ。『良い長人は、死んだ長人のみだ』と申しておりました。長州をお討ちになれば良い」

「馬鹿を申せ。幕府にそんな力など、欠片もないわ」

 容保は、不機嫌そうに事実を口にした。

「そのうえ長州の背後には、攘夷激派の公卿どもがついておる。朝廷内で激派の権勢は、今や帝すら凌ぐ勢いよ」

「ああ」と、雑賀は、得心の声を上げた。

「開国派へ心変わりしたという姉小路卿は、だから、暗殺されたわけだ」

 雑賀は、大坂へ上陸して以来抱いていた疑問に合点が行った。

 人斬りが自分の命である刀を、暗殺現場に残すわけがない。にもかかわらず、現場に刀が残されていた事実がある。

 つまり、誰かが新兵衛に罪を被せたのではないかと疑っていたのだ。朝廷内に権勢争いがあるのだとすれば、長州や攘夷激派の公卿には疑いが向かぬよう、自分たち以外の者の名を使って姉小路を排除しようと考え、行動に移す者がいたとしても不思議ではない。

 雑賀は、そのように合点して声を上げたのだ。

 事実は、芹沢の逆恨みから出た暗殺だったが、姉小路公知暗殺の犯人が田中新兵衛ではないという点では、少なくとも間違ってはいなかった。

勝と容保は、怪訝そうに、勝手に得心している雑賀の顔を見た。

「なんだい、急に?」と、勝。

「いや」と、雑賀は、かぶりを振った。

 雑賀は、容保に向き直った。

「姉小路卿暗殺の件について、田中新兵衛の出身地である薩摩へのお咎めは、いかがなります?」

 雑賀は、特に畏まる素振りも見せず、容保に話しかけた。

 容保は表情を曇らせた。だが、別段、勝が雑賀を窘めようともしないため、雑賀の無礼については何も言わなかった。

 容保は、淡々と回答した。

「御所への出入り禁止は免れぬだろうな」

「では、長州は、薩摩の居ぬ間に、ますます朝廷内での地位を固めることになる。痛くもない腹を探られた上、お咎めを受ける薩摩にとっては、さぞ不本意なことでしょうな」

「痛くもない腹、だと?」

「人斬りが現場に自分の刀を残すわけがない。誰かが新兵衛の仕業となるよう仕向けたことだとは思いませぬか?」

「長州の仕業だと申すのか?」

「そこまでは。ですが、会津も幕府も、帝すら無力だと言うならば、長州に比肩できるのは、薩摩しかありますまい。薩摩に浪士を取り締まらせるのが得策かと」

 容保は、声を荒げた。

「浪士には薩摩出身者もいるのだぞ」

「何か問題でも?」

「自分の身内は、取り締まれぬだろう」

 容保の声音は、荒いままだった。

「薩摩の島津久光様は、必要ならば、同士討ちすら辞さぬお方かと推察します」

 雑賀は、あっさりと口にした。

 雑賀の言に、勝が、ぴしゃりと膝を叩いて、声を上げた。

「寺田屋か」

 文久元年四月二十三日(一八六一年六月一日)の夜、密会のため、伏見の船宿、寺田屋に集結していた薩摩藩の攘夷激派に対して、薩摩藩自らが兵を出して出席者を討つという事件があった。攘夷激派の暴走を嫌った、島津久光の命令のためである。

 雑賀は、那珂湊から大坂までの海路、雑賀が日本を離れていた間の各藩の情勢について、勝から大まかに話を聞いていた。寺田屋についても、そこで得た知識だ。

 無論、寺田屋事件については、京都守護職である松平容保にとっては、以前から知るところだ。

容保は、雑賀の顔から目を離さずに沈黙した。頭ごなしに雑賀の言葉を否定しなかったところを見ると、検討の価値ありと踏んだのだろう。

やがて容保は、雑賀の目を見つめたまま、重々しく口を開いた。

「どうやって薩摩を、その気にさせるのだ?」

「御所への出入りを禁じた後、薩摩に名誉挽回の機会を与えます。島津久光様自ら兵を連れて上洛をするよう、勅命で促し、働き次第で、御所への出入りを再び許すと約束するのです」

 雑賀は淀みなく、言い切った。

「むうう」と、容保は、唸り声を発した。

 会話の最中、ずっと容保は、雑賀の顔から一瞬たりとも目を逸らさなかった。にもかかわらず、容保は、さらになお、雑賀の顔をまじまじと見つめた。

「どうやら、勝の頭脳代わり、というのは本当のようだな」

 容保は、得心した表情で、頷いた。

 容保の中で、雑賀を、勝と対等に扱うという判断がついたらしい。もともと三人しかいない部屋ではあったが、容保は、より慎重に、雑賀と勝にのみ聞こえる程度に、声をひそめた。

「実は、帝は、ことのほか長州を嫌っておられる。帝のご意志である攘夷の実行にかこつけて、朝廷内の攘夷激派と結託し、帝のご威光をも踏みにじり、権勢をほしいままにしておるからだ」

容保は、生真面目な表情を、勝に向けた。

「勝。勅命の使者を、おぬしに頼みたい。帝からは、数日中に久光殿へ上洛を促す勅書をいただくよう手配しよう」

「御意」

 勝は、容保に頭を下げた。

「薩摩までの足には、堀井の黒船が役に立ってくれるでしょう」

「頼むぞ」と、容保は、雑賀にも神妙に声を掛けた。

 雑賀は、恭しく、頭を下げた。

「承知しました」

 雑賀と勝が、容保と面会しているのと同じ頃、芹沢もまた、大坂から京都へ戻っていた。

 芹沢は、壬生浪士組が屯所としている壬生村の八木源之丞宅ではなく、芹沢が店主に田中新兵衛の愛刀を盗ませた、三本木の新兵衛行きつけの料理屋へ向かった。

 常ならば、当然、店は開いているはずの時間だが、店は閉じていた。軒下に暖簾は出ておらず、玄関の扉も閉ざされたままである。

 芹沢は、扉に手を掛けた。

 心張棒はかかっておらず、扉は簡単に開いた。

 店内には、煮炊きの匂いも漂っていない。芹沢は、店内を見回した。

 客のための卓には、うっすらと埃が積もっていた。ここ何日か、店は閉ざされたままとなっているようだ。人の姿もない。

「おい」と、芹沢は、誰もいない店内に声を掛けた。

 返事はなかったが、店の二階、店主の生活のための空間にある部屋で、がたりと音がした。

 芹沢は、部屋に向かった。

 襖を開けると、万年床に、店主が大の字に寝転がっていた。酒の匂いがする。

「いたのか」

 店主が部屋にいたことが、やや残念なことででもあるかのように、芹沢は口にした。

 店主は芹沢の顔を見ると、あからさまに嫌そうな顔をして、吐き捨てるように口にした。

「あんたか、今度は何のようだ」

 言うや、店主は顔をしかめた。宿酔いにより、頭痛がするらしい。

「店を畳んで、どこかへ行くこともできたはずだが、その様子では、せっかくの金も、酒代に消えたみたいだな」

「なぜ、俺が店を畳まなけりゃならねえんだ」

 酒のためか、店主の口調は、以前、芹沢を前にした時とは違って、威勢があった。

「田中新兵衛の居場所を知っているか?」

 芹沢の口調は、淡々としていた。台詞を棒読みしているようだ。

「新兵衛? あれ以来、うちには来てねぇよ。もっとも、店も開けてないがね」

 店主は、自虐的な笑みを見せた。

「あんたのお陰で、この様だ」

 芹沢は、棒読みのまま、言葉を続けた。

「新兵衛が姉小路卿を暗殺した。新兵衛は、どこにおる?」

「知らないと言ってるだろ。刀を盗めば、新兵衛は人を斬れないんじゃなかったのか」

「暗殺現場には、新兵衛の刀が落ちていた」

「何を言ってんだ? 新兵衛の刀は、あんたが持っていっただろ」

 店主は、ハッとした顔になった。芹沢は、店主を鼻で笑った。

「店を畳んで、どこかへ消えているべきだったな」

「あんた、はじめから」

 店主は万年床の上を、芹沢から離れるべく、後ずさった。

「待て。今から出ていく。あんたに新兵衛の刀を渡したことは、誰にも言わないよ」

 店主は、芹沢を拝むように両手をあわせた。

 芹沢は、ずかずかと店主に近づいた。

「新兵衛はどこだ?」

「だから、知らないって言ってるだろ」

「隠すとは残念だ。口を割らせようとしたが、つい勢い余ってというのは、よくあることだな」

「やめて」

 芹沢は、素速く刀を抜くと、横に薙いだ。

 店主の喉が、ぱっくりと裂ける。

 店主は、前のめりに布団の上に倒れ込んだ。

 万年床が、赤く染まった。

 芹沢は、京都東町奉行所へ足を運んだ。

 応対に出た同心に、「会津藩お預かり、壬生浪士組筆頭局長、芹沢鴨である」と、名を告げた。同心は、芹沢の名を承知していた。

どうせ悪名としてであろうが、知られていないよりは、知られていたほうが話が早い。芹沢は、警戒する相手の顔色には気づかぬ振りをして、慣れなれしく言葉を続けた。

「同じ京都の治安を守る同志として、ぜひ、ご助力を願いたい」

 役人は、続く芹沢の言葉に備えたのか、表情を引き締めた。

「先刻、薩摩の田中新兵衛めの行方を知る男を問いつめたところ、刃向かいおったので、返り討ちにいたしました。ついては、現地の検分と亡骸の処分をお願いしたい」

 同心は、ぽかんと間の抜けた口を開けて、芹沢の顔を見た。

「田中新兵衛の行方と仰ったか」

「いかにも」と芹沢は、重々しくうなずいた。

 途端に、同心は笑い出した。

「新兵衛ならば、すでに捕縛され、牢の中よ。明日、奉行の永井様直々にお取り調べをされる手筈になっておる」

 芹沢は、内心の驚きを顔に出さぬよう、努めて無表情を装った。

 芹沢にとって、実際は、新兵衛の居所などどうでも良い。口封じのために殺した店主の遺体を、始末させる目的で寄った奉行所だ。

 殺したきり遺体を放置しておいては、どこからか芹沢の仕業と疑うような声が上がったとき、分が悪くなる。そこで、真正面から、職務の一環として遺体の処分の話を持ちかけておけば、まさか暗殺の隠蔽工作とは疑われるまい。そう考えての芹沢の行動だ。

 芹沢は、同心の話に、ほおお、と、感心したような声を上げた。

「さすがですな。拙者が得た情報を生かすまでもなく、すでに捕縛されておりましたか」

 芹沢は、何度もうなずいた。

「では、拙者が斬った男は、すでに捕縛された新兵衛を庇っての死に損というわけだ」

 芹沢は、自分の嘘を補強するために、さらに小さな嘘を積み重ねたうえで、店主を殺害した店の所在地を、同心に伝えた。

「さて、拙者はこれにて」

 芹沢は、同心に異論を言わせる隙を与えぬよう、軽く頭を下げると、素早くきびすを返した。

 芹沢は、京都東町奉行所を後にした。

田中新兵衛捕縛の一報は、松平容保から、雑賀と勝に対しても伝えられた。

 雑賀と勝は、勅命の使者として薩摩藩へ赴くのに先立ち、田中新兵衛の取り調べに同席を願い出た。島津久光に武装上洛を促すにあたって、姉小路公知卿暗殺の審議経過を知っておくことは、久光説得の役に立つだろうと考えたためだ。

 御所から薩摩藩が追われるような展開になるのであれば、なおさら状況を知っていたほうが良いと思える。

 もっとも、雑賀も勝も、姉小路暗殺を新兵衛の仕業とは考えていなかった。だから、取り調べにより、薩摩の関与が否定される流れになるのであれば、それに越したことはない。薩摩に対し、吉報を土産として持っていけるからだ。

 姉小路公知卿暗殺の下手人として捕縛された田中新兵衛の取り調べは、文久三年五月二十六日(一八六三年七月十一日)、京都東町奉行所で行われる手筈になっていた。

 取り調べの刻限に間に合うように、雑賀と勝は、京都東町奉行所へ向かった。護衛は、芹沢鴨である。どこからか、二人が奉行所へ行く予定だと聞きつけた芹沢が、自分から護衛を買って出たのである。

 奉行所へ着いた雑賀と勝は、京都東町奉行の永井主水正尚志に目通りを願った。

 二人は、客間に案内された。芹沢鴨も、当然のような顔つきで同席している。

 もともと勝は、身分のような、つまらぬ体裁にこだわる男ではないから、芹沢に『席を外せ』とは言わなかったのだ。

 本来ならば、言われなくても、芹沢自身が気がついて身を引くべきであろう。ところが、そもそも芹沢は自信家であったから、自ら身を引くなどという発想は出てこないらしい。

 四半刻ほど待たされた後、客間に永井が姿を現した。不機嫌そうな顔つきである。

 雑賀と勝、芹沢の三人は頭を下げた。

永井は、勝と向き合うような位置に荒々しく着座すると、勝を睨みつけた。憮然とした口調で言い放つ。

「田中新兵衛は姉小路殺しの下手人ではないと申しているそうだな」

「いかにも」

 勝は、自信に溢れた口調で、永井に応じた。

 永井の顔が、ますます不機嫌そうに歪む。

「松平中将様たってのお頼みゆえ、審議の場への立ち会いを許すが、余計な口出しは謹まれよ。現場に落ちていた刀が、田中新兵衛の差料であることについては、確かな証言がある。もはや、下手人は明白よ」

 京都東町奉行のような遠国奉行を務める者は、幕府から、いずれは勘定奉行なり、江戸の町奉行なりへ取り立てられることになる人材の候補者である。旗本の中でも、ほんの一握りの者しか通ることのできない栄達への道のりを、勝からのつまらぬ横やりで潰されたくないと、永井が思っているのは明白だった。

 姉小路卿暗殺の下手人をすみやかに捕縛したという実績は、幕府に永井の能力の高さを示す、良い機会となってくれる筈だった。

 審議の前から、『下手人は明白』と永井が発言する以上、田中新兵衛が姉小路卿暗殺の下手人であるという事実を既定路線として、処理は進められているのに違いない。

 老中への審議内容の報告文書すら、すでに作成されていたとしても不思議ではなかった。下手人が、田中新兵衛以外の人間となっては、永井にとって不都合なのだ。

そもそも、奉行所で下す裁きの決定は、奉行に一任されているわけではない。重要な案件であれば、老中の判断を仰ぐ場合もあるし、下手人を死罪にするにあたっては、形式的とはいえ将軍の承認が必要だった。

 御所内でも発言力のある公卿、姉小路公知の暗殺ともなれば、当然、下手人は最低でも死罪を免れない重大事件だ。引き廻しの上で獄門、あるいは磔刑という判決もありえる。

 将軍に決裁を仰ぐことになる重大事件にケチが付いては、永井の出世の道が閉ざされてしまう。

 そのため、『新兵衛は下手人ではない』と言い出した勝に対して、永井が不機嫌さを露わにするのは、当然だった。

勝は、自分を不機嫌に睨む永井の視線を、真っ向から受け止めた。あえて、伝法な物言いをして、永井を挑発する。

「よしんば、刀が新兵衛の物だとしても、盗まれたり、すり替えられたりした末の物ということだって、ありえるぜ」

「笑止。人斬りが、自分の命とも言える刀を盗まれることなど金輪際ありえぬわい」

「現場に自分の刀を残すほうが、よっぽどありえねぇよ。審議の誤りが後になって発覚して、あんたの経歴に傷がつくことになったって、俺は知らねぇよ」

 勝は、永井の顔から視線を逸らさず、永井を睨み据えたままである。

 永井は、きょろきょろと、目を、せわしなく左右に移動させた。

 勝に『あんた』呼ばわりされた事実より、自分の経歴に傷が付く可能性のほうが、永井には心配であるらしい。

 そもそも新兵衛を下手人としたいのは永井の都合で、本当に下手人であるかの審議は、本来、これから行われるのだ。

 永井は、深く息を吐いた。

 ぎょろりと勝を見返す。無理矢理どうにか威厳を取り繕い、重々しい口調で、声を出した。

「真実は、審議の場で判明しよう。貴殿は余計な口など挟まず、存分に立ち会いをなさるとよい」

 永井は、立ち上がった。

「審議の刻限だ」

 担当の役人二人に、背後から棒で小突かれながら、囚人置場から白州に、新兵衛が移送されてきた。新兵衛は、後ろ手に両腕を縛られている。

 新兵衛の年齢は、藤田小四郎と同じか、さらに若いくらいだろう。薩摩藩出身者らしく、良く日に焼けた肌色の顔立ちは、実際の年齢よりも幼く感じられた。童顔なのである。気の強い、餓鬼大将のような顔であった。

童顔の目の周りは、紫色の大きな痣で縁取られ、唇も切れて血が滲んでいた。取り調べの名を借りた、拷問の結果故だろう。

 新兵衛の体は、全身、似たような傷だらけに違いないと推察された。足取りは、よろよろとふらついている。

「まだ若いな」

雑賀は、新兵衛の顔を見るなり、『なぜ若いのに?』といった疑問をのせて、ぼそりと漏らした。

 薩摩の田中新兵衛の名前は、『人斬り新兵衛』の通称で、広く世間に轟いている。関白九条尚忠の家士、島田左近暗殺を皮切りとして、天誅の名の下に、多くの暗殺をしたと言われる人間が、自分より遙かに年下の若者だとは、雑賀は思っていなかった。

 暗殺者として、剣の達人であるならば、それなりの年嵩であるだろうと、勝手に想像していたのだ。

 だが、年嵩ではないとなると、達人故の暗殺ではなく、若さから来る無鉄砲さが、田中新兵衛に、人斬りとしての名声を高めさせたのだろう。誰を斬り、誰を斬らぬという判断は、はたして新兵衛自身が行っていたのだろうかという疑問を、雑賀は抱いた。

 雑賀と勝、芹沢は、審議の邪魔にならぬよう、新兵衛のいる白州を見下ろす裁許所の片隅に、正座をしていた。

 白州から見て裁許所の奥にあたる隣室には、京都東町奉行の永井主水正尚志がいるはずである。だが、まだ襖は開かれてはいなかった。

「覚えておきな。日本国のための攘夷だ何だと、綺麗事をぬかしているくせ、その実、あんな小僧を、暗殺の手駒に利用している糞野郎が、どこかにいるんだぜ」

 勝は顔色一つ変えずに、雑賀に囁いた。

「俺は、そんなつまらぬ茶番劇を、この国からなくしたいんだ。幕府が邪魔になるんだってぇなら、いっそ潰しちまったって、構わねぇ」

 勝の言葉は、雑賀の耳にしか届かぬ程度の大きさだ。

 雑賀は隣の芹沢の様子を、目のみを動かして盗み見た。芹沢の顔には、特に感情は浮いてはいない。勝の言葉は、芹沢の耳までは届いていないようである。

 役人に棒で突かれて、新兵衛が、白い砂利の上に敷かれた筵に正座をさせられた。

 やがて、審議の準備がすべて整ったのか、部屋の隅に控えていた係の役人の合図で、襖が開く。永井は、すでに着座していた。

 新兵衛のやや背後には、新兵衛を連れてきた役人が、棒を持ったまま、左右に分かれて立っている。

 役人たちは、それぞれが手にしている棒の先端を、新兵衛の首の後ろでお互いに交差させ合って新兵衛の首に押しつけ、新兵衛を無理矢理、力尽くで永井に対して平伏させていた。

 威厳を示すためか、仰々しく、もったいぶった動きで、永井は裁許所を見回した。

 裁許所の役人たちが頭を垂れた。

 部屋の隅にいる勝の顔を、永井は、『余計なことを言うな』と念を押すように睨みつけた。

 勝の表情からは、何も読みとれない。

 勝は、ただ、この場の一方の主役である永井尚志に対して、黙って軽く頭を下げたのみである。雑賀と芹沢も勝に倣った。

役人により、新兵衛の首の後ろに当てられていた棒の力が緩められ、新兵衛が顔を上げた。

 白州に座らされているため、自然と新兵衛は、永井の顔を見上げる格好になる。新兵衛は、永井を睨みつけた。

「これより京都御所猿ヶ辻付近における、姉小路公知卿殺害の件について審議を始める」

 永井が、厳かに宣言した。

「そのほう、薩摩藩出身浪士、田中新兵衛であることに相違ないな」

 永井が、新兵衛に声を掛けた。

 新兵衛は何も答えず、ただ永井を睨み続けるだけである。

 とはいえ、永井には、まったく気にした様子もない。新兵衛から返事が戻らない事態は、想定の内のようであった。

 田中新兵衛の体に残る拷問の跡を見れば分かるように、最終的な審議としてのこの時に至るまでに、担当の役人からは、新兵衛への執拗な取り調べが繰り返し行われている。

 拷問を伴う激しい取り調べであったにもかかわらず、新兵衛は一切の口を開かず、貝のように、ただ黙したままであったという報告を、担当与力から、永井は受けていた。

 だが、何も申し開きがないのは、永井にとっては、むしろ好都合なことである。言いたい放題に新兵衛を下手人と決めつけてしまっても、異存がないことにできるからだ。

永井は、控えている役人に合図をした。

 役人は新兵衛の刀を運んできた。永井に渡す。

 永井は、刀を新兵衛に掲げて見せた。

「現場に落ちていた差料だ。薩州鍛冶奥和泉守忠重。そのほうの物だな」

 新兵衛は、相変わらず、沈黙したままだった。刀を見せられても、顔色一つ変えない。

「答えずとも、わかっておる。そのほうとは旧知の、土佐藩の那須信吾が証言した。船頭如きには、過ぎた刀よな」

永井の発言に、新兵衛が身を震わせ、激高したように強く叫んだ。

「拙者は侍だ」

 永井は、もちろん、その場にいた新兵衛以外の誰もが目を丸くした。まさか、新兵衛が口を開くとは、思ってもいなかったのだ。

「ほう。口を利けるのか」

 永井は、つまらなそうに吐き捨てた。

田中新兵衛は、もともとは鹿児島の城下、前ノ浜の船頭であった。鹿児島で志士活動の経済援助を行っていた屈指の資産家、森山新蔵に剣の腕を見い出された縁で、士分の株を買い与えられて、下級ながら、薩摩藩士の列に加わることができたのだ。

 幼い頃から剣を好み、独学で示現流の鍛錬を繰り返していた新兵衛にとって、士分を得た経験は、何よりの誇りとなっていた。

 本来であれば、武士である新兵衛は、白州ではなく、椽に座らさせられて、審議を受けるのが筋である。白州に座らせられるのは、百姓や町民と相場が決まっていた。

 だが、あえて永井が新兵衛を白州に座らせたのは、新兵衛を挑発し、頭に血を上らせて、審議を有利に運ぼうという術策のゆえだった。

 さらには、言葉で新兵衛の一番敏感な部分を的確に突く。永井は、畳みかけるように、激しく新兵衛を糾弾した。

「武士ならば、いかなる理由があって、刀を手放した。よもや、盗まれたなどという、武士にあるまじき返答ではあるまいな」

 永井の言葉には、新兵衛の肩を持ちたがる勝に対する、牽制の意味も含まれているのは明らかだ。

『武士にあるまじき』などという言い方をされては、士分に誇りを持つ新兵衛であれば、たとえ刀を盗まれた経験が事実であっても、口にはできなくなる。

新兵衛は、強く唇を噛みしめた。拷問により受けていた傷口から血が流れ出し、顎へ垂れた。顔には、苦渋の色が浮かんでいる。

「その刀が、まことに拙者の物であるか、確認を所望したい」

 新兵衛は、呻くような声を、口から吐き出した。盗まれた事実を認められない新兵衛にとっては、苦肉の回答だ。

「よかろう」

 永井は、さきほど新兵衛の刀を運んできた役人を近くへ呼んだ。刀を渡す。

 役人は、白砂利の上へ降り、新兵衛の間近まで刀を運んだ。鞘の中程を掴んだ刀を、新兵衛に対して掲げて見せた。

 新兵衛は、思案に耽ったような表情で、目をすがめた。

「鞘から刀を抜いていただきたい」

 新兵衛の言葉に、役人は振り返って、永井の顔を見た。永井は、無言でうなずいた。

 役人は鞘から刀を抜いた。刀を立てて持ち、刃に光を反射させる。

「刃紋は、いかようで?」

 新兵衛の言葉に、役人は切っ先を新兵衛に向けて刀を突き出した。見ようによっては、新兵衛に刀を突きつけて、『命をとるぞ』と脅しているようにも見える光景だ。脅されている側の新兵衛には、死相すら浮いていた。

『まさかっ!』

 雑賀には、新兵衛が、自ら死を望んでいるように感じられた。

 新兵衛は目を眇め、いかにも見づらいといった様子で、役人に懇願した。

「今少し、切っ先を下に」

 役人は、安易に願いを聞いた。切っ先を軽く下げる。

 その刹那、新兵衛は、跳ねるように立ち上がると、自分の喉笛を、突き出された刀の先端に向けて投げ出した。

 切っ先が新兵衛の喉を突く。鮮血が白砂利に飛び散った。

 咄嗟に役人は、刀を引っ込めた。

 新兵衛の背後に立っていた棒を持つ二人の役人が、慌てた様子で、新兵衛を棒で激しく打ちすえた。

 新兵衛が、前のめりにうずくまる。

 役人の一方が棒を捨て、荒々しく新兵衛の襟を掴むと、身を起こさせた。

 新兵衛の喉の傷口が、剥き出しになる。

 喉は、浅く切れているだけであった。残念ながら新兵衛の狙いは外れて、とても致命傷とは呼べない傷だ。治療すれば、治る傷である。

 新兵衛は、永井を不遜に見据えて、さらに微笑んだ。喉から流れ続けている血が、新兵衛の着物の前面を赤く染めていく。

「本日は、これ以上の審議は望めませんな」

勝が、永井に聞こえるように、口を挟んだ。

 永井は、ぎりぎりと歯を噛んだ。

 不祥事だ。新兵衛の傷が原因で、後日、審議をやり直すような流れになっては、経緯が公に記録に残る事態になる。

 どうせなら、まだ死んでいてくれたほうがマシだった。申し開きに困った末の自害として処理ができる。

 かといって、勝が見ている面前で、今更、部下に殺してしまえとも命じられない。

 勝は、永井の顔を見ていた。勝だけではなく、白州にいる全員の視線が、永井に集まっていた。『日を改めて再審議』という、永井の判断を、皆が待っているのである。

 その時、芹沢が声を発した。大音声である。

「その覚悟、見事!」

芹沢は、がばりと立ち上がった。

 芹沢の言動に呆気にとられる皆を尻目に、芹沢は、椽から白砂利の上へ飛び降りた。

 呆然と新兵衛の刀を握ったまま立ちつくす役人を押しのけると、芹沢は、新兵衛を取り押さえている二人の役人を怒鳴りつけた。

「その手を放されい」

 芹沢の剣幕と突然の行動に、役人は、反射的に、芹沢の言葉に従った。

 芹沢は、さながら仁王像のように新兵衛の前に立ちはだかると、新兵衛を見下ろした。

「罪の償いとして、斬首ではなく、自害を選ばれるとは武士の鑑。拙者、感服いたしもうした。介錯つかまつる」

 言うや、芹沢は刀を抜いた。

「感謝いたす」

 新兵衛は、芹沢に頭を下げた。感謝の意味と、討たれやすいよう芹沢に首の後ろを見せる意味の、両方からの行動だ。

 芹沢は、刃を振り下ろした。

 新兵衛の生首が、ぼとりと地面に転がった。

 斬られた傷口から噴出する血が、白砂利を真っ赤に染めていく。

 自分の首を追うように、新兵衛の体が、前のめりに地面に転がった。

 芹沢は、永井を振り返り、両膝を血溜まりと化した地面に着いた。刀を脇に置き、両手も地面に着く。芹沢は、深々と永井に対して頭を下げた。

「つい、出過ぎた真似をいたしました。だが、申し開きに窮した末に自害を図るとは、やはり、こやつが下手人でしたな」

申し開きに窮したわけではなく、刀を盗まれた恥を知られたくないためという可能性もあったが、永井にとっては助け船となる、芹沢の行動と発言だった。

永井は、居住まいを正した。

「そのようだ。だが、確かに、お主の振る舞いは出過ぎた真似である。松平中将様の配下ゆえ不問とするが、次はないぞ」

「かたじけなし」

 芹沢は、再度、深々と頭を垂れた。

 永井は、勝を見返した。

「さて、審議には存分に立ち会われましたな。姉小路公知卿暗殺の下手人は、自害した元薩摩藩士、田中新兵衛。異存はありませんな」

「いたしかたありますまい」

勝は、平伏したままの芹沢を憎々しそうに睨みながら、永井の言葉に首肯した。

 芹沢の馬鹿げた行動さえなければ、本日の審議はやり直しになっていたはずなのだ。再審議までの日数があれば、新兵衛が下手人ではないという証拠が、何か見つかったかも知れない。

 永井は、勝の殊勝な様子に満足気に頷くと、それ以上は勝に声を掛けることもなく、立ち上がった。

 白州に倒れている新兵衛の遺体を、汚らわしい物でも見るかのような視線で軽く一瞥して「疾く片づけよ」と、役人に言い残して裁許所を去った。

 一連の騒ぎの間中、雑賀は、何も言わず、ただ勝と永井のやりとりを見守っていた。

 雑賀は、白州の血溜まりの中で頭を垂れたままの姿勢を続けている、芹沢に目を向けた。

 芹沢は、永井が去った気配を感じたのか、顔を上げた。

 芹沢の顔には、どういうわけか、『してやったり』という表情が浮いていた。新兵衛の行動に感服して、つい首を刎ねたという芹沢の言い分が真実なら、絶対に浮かぶ筈のない表情だ。

『してやったり』とは、つい、ではなく、もともとの計画が、うまくいった際に出る表情である。

 芹沢の顔を見つめている雑賀と、芹沢の視線が交錯した。

芹沢の顔が、一瞬ふっと曇った。見られてはいけない顔を見られてしまったという、ばつの悪そうな表情だ。

だが、芹沢は、直ちに、ばつの悪い顔を掻き消し、無表情な顔になった。

 芹沢は、勢いよく立ち上がると、衣服から新兵衛の血を滴らせたまま、すたすたと椽に近づき、座している勝に声を掛けた。

「拙者はこのような有り様故、これにて失礼つかまつります。帰路の護衛は果たせませぬが、ひらにご容赦を」

 芹沢は、勝からの返事を待とうともせず、勝と雑賀に背を向けた。新兵衛が役人に連れられて姿を現した木戸を抜け、白州を出ていった。

 自ら護衛を買って出てまで奉行所へ同行した往路の意気込みは、すっかりとどこかへ消えたようだ。自分の役目は、すでに終わったとでも言うような、芹沢の呆気なさだ。

 雑賀は、芹沢の、『してやったり』という先ほどの表情を思い起こした。

 芹沢に、役目を終えたような呆気なさがあるとして、では、芹沢が終えた役目は何であるか?

 芹沢がしたのは、田中新兵衛の首を刎ねたことである。

 そもそもの芹沢の同行の狙いが、勝の護衛ではなく、新兵衛の命にあるとしたら?

 新兵衛の口を封じて、新兵衛を姉小路卿殺しの下手人として処理させるためにあったとしたら?

 だとすると、本当の下手人は?

 雑賀の脳裏で、芹沢に対する疑念が湧いた。

 もしかしたら、姉小路卿が暗殺されたのは、御所内の権力争いとは関係がないのかも?

 だが、芹沢に、姉小路卿を討つ、いかなる理由があるというのか?

 担架に乗せられ、白州から運び出されていく新兵衛の遺体を見つめながら、雑賀は、思考を続けていた。

 会津藩上屋敷へ戻った雑賀と勝は、藩主・松平容保の執務室に於いて、田中新兵衛の審議に関する一連の経緯を、容保に報告した。

 審議の結果は、『姉小路公知卿殺害は元薩摩藩士・田中新兵衛の仕業』というものである。処刑は直ちに執行され、新兵衛は、その場で首を刎ねられた――が、書類として残された表向きの公式記録だった。薩摩藩は、田中新兵衛を輩出した責任をとらされ、御所への出入りを差し止めにされた。

容保は、白州での芹沢の行状を聞き、表情を曇らせた。芹沢が筆頭局長を務めている壬生浪士組の身元は、会津藩お預かりである。すなわち、芹沢が白州で仕出かした振る舞いの責任は、管理者である会津藩主にもある、ということに違いなかった。表情も曇るはずだ。

 現在のところ、京都東町奉行である永井主水正尚志から容保への抗議は届いてはいなかったが、いずれ何らかの連絡があると考えるのが妥当であろう。

勝は、表情を曇らせたまま思案に耽ってしまった容保に対して、神妙な顔つきで頭を下げた。

「ご心配には及びませぬ。芹沢の振る舞いを防げなかったのは、わたくしの落ち度。ついては、軍艦奉行並のお役目を幕府に返上し、謹慎をいたす所存です」

永井からの連絡が届く前に先手を打って、勝自らが、芹沢の暴挙は勝の責任だと態度で示そうというのである。そうすることで、芹沢の暴走は、京都守護職監督下の事件ではなく、軍艦奉行並勝海舟の監督のもとに起きた事件だと、公に認知させるつもりだ。

 幕府から何らかの処分が下されるとしても、処分の対象は、容保ではなく、勝になるだろう。

容保は、勝の言葉に、一瞬ぽかんと驚いたような表情を浮かべたが、すぐさま笑い飛ばした。

「許さん。おぬしに謹慎などされては、儂の仕事がやりづらくなるわ。第一、薩摩行きの使者の役目は、どうするのだ?」

「ですが、このまま、会津藩の御家名に傷を付けるわけにはまいりませぬ」

 勝は、容保に、より深く頭を下げた。

 勝の頭上に、容保の声が降り注いだ。

「永井は、何も言ってこぬよ」

容保の声音は軽やかだった。

勝は、半分ほど顔を上げて、上目遣いに容保の顔を見た。容保の顔には、悪戯っ子のような笑みが浮いている。

「奉行所だけでは京都の治安維持は手に負えぬからと、乞われてできたのが、京都守護職よ。何度も辞したが、断れきれずに、やむなく就いているお役目だ。永井めが文句の一つも言ってくるようなら、予は慶んで京都守護職を返上して、会津に戻るわ。さすれば奉行所は、さぞ忙しくなることだろうな」

 容保は、さらに意地悪そうに、口の端を吊り上げて微笑んだ。脳裏に、永井の慌てふためく様でも思い浮かべているのに違いない。

「だから、おぬしが責任を感じたりすることなど、何もないわ。永井には、むしろ文句を言ってきてもらいたいぐらいよ」

勝は、恐る恐る頭を上げると、おずおずと容保に問いかけた。

「とは申されますが、先ほど、お顔を曇らせて何か思案されておいでのようでした」

「なんだ、普段は随分と口が悪いくせして、存外に優しいな。それほど、儂の身を案じてくれるのか」

「いえ。中将様に、京都守護職をお辞めになられては、わたくしめの仕事がやりづらくなりますので」

勝は、ふてぶてしく微笑んで、堂々と容保に顔を向けた。いつもの勝である。

「こいつめ」

 容保は、勝を睨みつけた。だが、表情は笑っている。

「恐れながら」

 容保と勝のやりとりに、雑賀が割り込んだ。「恐れながら」とは言いつつも、雑賀は、内心あまり畏まってはいなかった。

 意図せずとはいえ、日本を出て、アメリカで暮らした身の上である。狭い日本の、幕府の内側の上下関係など、とうに捨てていた。

 雑賀は、容保を面と見据えた。

「中将様は、芹沢が新兵衛の首を刎ねた本当の理由に、思い当たりがあるのではありませぬか?」

問いかけの形をとってこそいたものの、雑賀の言葉には、確信の響きが含まれていた。言葉遣いはともかくとして、要するに雑賀は容保に対して、「あんた、知ってんだろ」と確認をしているのだ。

 容保の顔には不機嫌そうな皺が浮かび、眉が、ピンと跳ねあがった。

「本当の理由とな? はて、芹沢は、新兵衛の心意気に感服して首を刎ねたという報告を、さきほどお主たちから受けたばかりだと思ったが、何か他にあると申すのか?」

容保は、雑賀の挑発には乗らず、思い当たる節など、さらさらないという風を装い、逆に、雑賀に問いかけ返した。

「ございます」

 雑賀は、あっさりと断言した。

「中将様の頭の中に」

「ホリィ!」

 勝が、声を上げた。さすがに「黙れ」と言いかけた勝の言葉を、容保が手で制した。目で雑賀に「先を続けろ」と、容保は促した。

「田中新兵衛の首を刎ねた際、一瞬ですが、芹沢は、『してやったり』という表情を浮かべました。芹沢は最初から、田中新兵衛を斬るつもりだったのです。もともと、芹沢が新兵衛を、ただ憎いと思っていたからなのか、新兵衛に姉小路卿殺しの濡れ衣を被ったまま死んでほしかったからなのか? 前者なら京都の治安を守る者と乱す者の関係故、さほど驚きはしません。ですが、後者の場合、芹沢は真犯人を庇っていることになる。芹沢が、どう姉小路卿殺しと繋がるのか、つい思案してみたくなりますな。もし、思い当たる節でもあれば、顔に出ましょう」

雑賀は、容保を、じっと見つめた。

容保は、雑賀に見つめられて、息を止めた。

 だが、やがては吐くしかない。

 容保は、長く細く、息を吐いた。

「儂が思案の顔をしたというだけで、芹沢と結びつけるか、お主は、嫌な男だな」

「たまたま同じようなことを、ずっと考えておりましたので。ですが、私には、芹沢と姉小路卿の接点が皆目わかりませぬ」

 雑賀は、容保を見つめ続けた。答が容保の頭の中にあることはわかっている。

容保は、じっと何かを思案しているようだった。誰しも、認めたくない悪い現実を、そうであると認めるまでには、心の整理が必要だ。

 自身の配下が、姉小路卿殺しの犯人の首を刎ねるのと、姉小路卿を殺した犯人そのものであるのとでは、事態がまるで違う。

 容保にとって、芹沢と姉小路に接点があると認めることは、永井に対して『何もできぬ』と高を括っていればいいだけのはずの現状が、実はより深刻な事態であったと認めることだった。

 姉小路殺しが田中新兵衛の仕業でなく、容保配下の芹沢の仕業となれば、御所への出入りが禁止されるべきなのは、薩摩藩ではなく会津藩になる。容保にとって、できれば認めたくない現実だ。だが、認めても認めなくても、現実は変わらない。

 やがて、容保は、頭から何かを振り切るように首を左右に振り、喉の奥から絞り出すように言葉を発した。

「芹沢が、姉小路卿の女を手込めにしたのよ」

雑賀は、乾いた笑い声を上げた。

「そりゃ、確かな接点ですな」

「本人は、そうは仰られなかったが、芹沢の非道は目に余るから処罰しろと、卿自ら、予の元にねじ込んできたことがある。調べさせたら、どうやら事実であるらしい」

「その告げ口を逆恨みして、芹沢は、姉小路卿を殺害した、と」

「馬鹿な! 日本国の未来と、告げ口の逆恨みを天秤に掛けるとは、何という愚か者だ!」

 勝は、激怒して、大声を上げた。

 雑賀は、腰に手を伸ばした。ホルスターには、愛用の拳銃が収まっている。

「始末しますか?」

淡々と、雑賀は、容保に問いかけた。

「いや」

 容保は、首を振った。

「おぬしの銃では、目立ちすぎる。何か芹沢を消す必要があったのでは、と幕府に疑われては、元も子もないわ」

雑賀は、うなずいた。

「芹沢については、他に適任者を見つけよう。そのほうらは、予定通り、勅使として、薩摩へ赴いてくれ」

ダンダラ模様の羽織を着た芹沢鴨は、大坂港の桟橋の上に立ち、海を見ていた。沖合に停泊している船まで荷を運んだ小船が、桟橋に戻るのを待っているのだ。傍らには、芹沢の護衛である眞柴十三と、芹沢や近藤と同じく、壬生浪士組局長である新見錦が連れ添っている。

やがて沖合から、一艘の小船が戻ってきた。肩の筋肉が隆々と盛り上がった二人の男が、力強く艪を操っている。二人が身に着けているのは、褌のみである。良く日に焼けた上半身には、玉のような汗が浮いていた。

 沖合で、すでに荷は下ろされているため、小船は空荷だ。颯爽と風を切って進む小船は、軽やかに接岸した。

 船首で翻っていた、船主の名前を記した旗が、風を失い、だらりと垂れ下がる。旗には、崩し字で『さいかや』と染め上げられていた。

一方の男が桟橋に飛び移り、手際よく、綱を桟橋の柱に巻き付けて、小船を固定する。

 芹沢は、男に近づいた。

「荷は無事に着いたか?」

 と、不機嫌そうな口調で問いかける。問いかけの内容とは正反対に、実際には、さして荷の安否に興味はなさそうな口振りである。

 芹沢に背を向けて接岸の作業をしていた男は、振り返りもせずに、「へい」と答えた。

 荷とは、勝と雑賀である。

 松平容保から、芹沢に対して、大坂港まで勝を護衛するようにとの指令があったのだ。

 大坂港で、モビーディックへの補給業務を行っている小船に勝と雑賀を同乗させ、沖合で、二人をモビーディックに乗船させるのが任務であった。

 芹沢は、薪や水といった補給の荷と一緒に、勝と雑賀をモビーディックへ降ろした小船が、桟橋に戻ってくるのを待っているところだった。文久三年五月二十八日のことである。

 芹沢には預かり知らないことだが、モビーディックへの補給にあたっては、勝の一存で、他の大手の船問屋を差し置き、荷は、すべて『雑賀屋』を通すと決められていた。そのために、軍艦奉行並の勝海舟から『雑賀屋』に対して、『幕府御用達』を示す鑑札が、特別に交付されていた。

もっとも、勝は、なぜモビーディックへの補給業務を『雑賀屋』へ請け負わせることにしたのか、といった理由までは特に説明はしていなかったので、当の『雑賀屋』自身が、突然の栄誉を不思議に思っているに違いない。

 勝にしてみれば、いずれ雑賀が姉と再会するにあたって、いい顔ができるよう、ちょっとした気配りのつもりである。

接岸作業を続ける男から、一里先の海上に目を移した芹沢は、黒点のような大きさのモビーディックが煙を上げて、いずこかへ出航していく姿を発見した。勝と雑賀の到着を待って、即出航という手筈になっていたのだろう。

「あの黒船は、どこへ向かうと申しておった?」

 芹沢は、出航していくモビーディックを睨みつけたまま、男に問いかけた。

 護衛の道中、それとなく勝に水を向けて行き先を聞き出そうと試みたが、勝は何も語らなかった。

近藤ではなく、わざわざ芹沢に護衛をさせる、容保の判断も気味が悪い。

 京都東町奉行所までの護衛は、芹沢が勝手にした行動なのだ。そのうえ、新兵衛の首を刎ねまでしたのに、容保から、芹沢に対しては何のお咎めも行われていない。

 たいしたことではない、と思われているのならば別に良い。だが、ひょっとしたら、姉小路暗殺の一件を疑われて、泳がされているのかも知れなかった。

 勝も容保も、芹沢を姉小路暗殺犯と疑っているような素振りは一切、見せなかった。とはいえ、相手の行き先を掴んでおいて、損はないだろう。

だが、

「知りやせんねぇ」

 と、男から戻ってきた返事は、にべもなかった。

「また、戻ると申していたか?」

「知りやせん」

「そうか」

芹沢は、不機嫌に押し黙った。常ならば、鉄拳で張り飛ばすところだったが、容保に行動を見透かされているような気がしたため、不愉快を胃の腑で押しとどめた。

 芹沢と入れ替わるようにして、新見が横柄に口を開いた。新見は先日、『雑賀屋』への押し借りに失敗した経緯があるから、勝手なことに、『雑賀屋』に対して良い感情を抱いてはいなかった。

「なぜ、『雑賀屋』ごときが、黒船への荷を請け負えたのだ?」

「さあてねぇ。勝安房守様のお取りなしとは聞きましたが、詳しくは知りやせん。なにせ、お偉い方のすることでさぁ」

 暗に、新見や芹沢ごときより偉い人間が決めた方針に、おまえら文句をつけるつもりか、と、船乗りは新見を挑発していた。

 まだ船上に残っていた、もう一人の男が、口を挟む。一人目よりも、さらに嘲笑の響きがある口調だった。

「どこぞの御武家さんが、うちの奥方の頬を張ったそうだから、その詫びのつもりじゃねえんですかい?」

 二人の船乗りは、新見の顔を、にやにやと見つめた。もちろん、その『どこぞの御武家さん』が、目の前の新見だとわかった上での振る舞いである。

「おのれっ!」

 新見は、反射的に右手を腰の刀に伸ばそうとした。

 だが、肝心の右手には、包帯がぐるぐると何重にも巻き付けられていた。雑賀に掌を撃ち抜かれた傷だ。とても、刀など握れはしなかった。

新見は、忌々しげに、右手を引っ込めた。

 船の上にいた男が、身軽に桟橋に飛び移った。相棒に「行こうぜ」と声を掛ける。

 男たちの顔には、せせら笑いが浮いていた。刀から手を放した新見の様子を、馬鹿にしているのが明らかだった。

 もともと体力が資本の仕事をしている男たちだから、肉体は新見より肉厚だった。刀ではなく、素手での殴り合いであれば、新見になど負けるわけがないという、自負もある。

 誰であれ、偉そうな態度をとる相手に対して、黙って言うことを聞くつもりはない、という反骨心も持ち合わせていた。

 男たちは、せせら笑いを浮かべたまま、「では、これで」という言葉を残して、新見の脇を通りすぎた。

「待てい」

 と、新見が激高した声を上げた。

 男たちが足を止めた。

「店の主人に、金子を用意するよう伝えておけ。幕府の御用達ともなれば、さぞ羽振りも良くなるだろう。我らのお役目の実施に、一層、協力をしてもらわんとな」

「その必要はない」

 新見の語尾に言葉を重ねるようにして、芹沢が声を上げた。

「ご苦労であったな」

芹沢は、新見がさらに何かを言う前に、男たちに重々しく声を掛け、顎をしゃくった。早く去れという、合図である。男たちは去っていった。

「なぜ!」

 新見は、芹沢に食ってかかった。芹沢は、新見を睨みつけた。

「あの店には、何かある。もう、金輪際『雑賀屋』には手を出すな」

 芹沢は、ぴしゃりと言い放った。なぜ、勝が、『雑賀屋』に肩入れするのかは分からなかったが、これ以上、手出しをすることは危険だと直感が告げていた。

 近藤に聞けば、雑賀の姉の嫁ぎ先だとすぐ知れたはずだが、あいにく、芹沢と近藤は不仲だった。

 新見は、不服そうに口を噤んだ。

 新見にしてみれば、『雑賀屋』のせいで利き腕の掌に穴を空けられたのだ。それなのに、手を拱いていろと言われたのだから、面白く感じるわけがなかった。

新見の不満顔に、芹沢は問い掛けた。

「筆頭局長の判断だ。文句があるか?」

新見は、何も答えずに、芹沢に背を向けた。

 憤りを態度で表現するために、土を蹴る。

「隊士にも、そう伝えよ」

追い打ちのように、芹沢は新見の背中に言葉を投げた。

新見は、答えずに歩き出した。

 不仲が、ここにも生まれていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ