第四章 芹沢無頼
1
芹沢は、ぐびりと杯をあけた。
祇園の貸座敷の一室である。
芹沢は、既に大分酔いが回っていた。
出てきた食い物も、あらかた喰っている。
まだ、喰っていないのは、と、芹沢は、杯に酒を注ごうとする女の顔を、嘗めるように見た。
千代という名の芸妓である。
部屋には、芹沢と千代の二人だけだった。
「帯を解け」
酒臭い息と共に、芹沢は言葉を吐いた。
千代は、上京当初から、芹沢が見初めていた芸妓であったが、こうして酌をされるのは初めてだ。
何度、置屋を訪ねたところで、芹沢は、今まで店にも千代にも、まったく相手にされなかった。名もなく金もない田舎浪士など、お断りというわけである。
だが、壬生浪士組の悪名が世間に知れ渡った結果、芹沢の乱暴狼藉を恐れた主人が、ついに芹沢を客として認めたのだ。
芹沢のご指名は、もちろん千代である。
「帯を解け」という芹沢の言葉に、にこにこと営業用の微笑みを浮かべて酌をしていた、千代の手が、はたと止まった。
「まだ初会ですよ」
小柄な千代の小さな口が、小さな抗議の声を上げた。
島原辺りの、それなりの格式を持つ見世では、遊女が初めての客と会うことを「初会」と呼んだ。遊女と客は、その日は、ただ酒を酌み交わすだけであり、床を共にすることはない。
遊女が、二度目に同じ客と会うことを「裏」と呼ぶ。このときも、やはり床は共にしないが、「初会」より多少は打ち解けた間柄となる。
三度目に、遊女が同じ客と会うのが「馴染み」で、「馴染み」となって初めて、客は遊女から親しく名前を呼ばれ、祝儀として「馴染み金」を支払う見返りに、遊女と客は、床を共にできるのだった。
千代は、島原の女ではなかったが、あえて「初会」という言葉を使って、芹沢からの誘いを暗に拒んだのだ。
「黙れ!」
芹沢は、杯を持っていない左手を一閃させて、千代の頬を強く張った。あっさり千代は、畳に転がされた。
千代の手から、まだ酒が入っている徳利が吹き飛んで畳に落ち、とくとくと畳に酒を呑ませた。
千代は、畳に手をついて、身を起こした。
芹沢を睨みつける。千代の頬は腫れ、唇が切れて血が滲んでいた。
芹沢は右手に持っていた杯を畳に捨てると、立ち上がった。大股に、千代に歩み寄る。
「私に手を出すと、姉小路公知様が黙っていませんよ」
千代は芹沢の顔を見上げながら、早口で口にした。
芹沢は、足を止めた。姉小路公知の名は、芹沢も知っていた。まだ若い公卿である。
もともとは攘夷派公卿の急先鋒であったが、この四月に、勝海舟に幕府の蒸気船に乗せられた経験を契機に、異国の力に怖じ気づき、すっかり開国派に鞍替えしたという、腰抜けだ。
だが、その腰抜けが、知遇の公卿らをそそのかしているため、近頃は、他の公卿の中にも、開国派に鞍替えする者が増加していた。
水戸出身で攘夷一辺倒の芹沢からすれば、姉小路は、ひどい裏切り者にあたる存在だ。
千代は、そんな姉小路公知と、情を通じた仲であった。姉小路は、千代の後ろ盾といって良い。
「はん。腰抜け公卿ごときに何ができるか」
芹沢は、せせら笑いながら、吐き捨てた。一息に千代に駆け寄り、畳に千代を組み伏せる。
「痛い!」
千代は、大きな声を上げた。
常ならば、芸妓が大声を上げれば、外に控えている若い衆が、即座に助けに飛び込んでくる手筈になっていた。そういう仕組みだ。
だが、今回は誰も助けにはやってこなかった。
千代のいる置屋の主人も、千代と姉小路の仲については、よく知っていた。
とはいえ、主人の判断では、姉小路は、よくお座敷の声を掛けてくれる上客ではない。
大抵の公卿は格式ばかりで貧乏なのが相場だった。姉小路も、その例に漏れない。姉小路には、千代を身請けするつもりも、それだけの財力も、どちらもなかった。
むしろ、姉小路が千代の後ろ盾となったばかりに、千代が仕事の選り好みをするようになったので、主人からすれば、姉小路のような客は、できれば遠慮したい客であった。
それに対して芹沢は、今回のお座敷にあたって、前金をたんまりと払っていた。評判はともかく、少なくとも遊ぶ金を惜しむような男では、芹沢はなかった。
芹沢を客にすると決めた時から、主人の中では、天秤は姉小路よりも芹沢に大きく傾いていた。貧乏公卿の姉小路に義理を通すよりも、芹沢に難癖をつけられて、営業停止や店を壊される憂き目に遭う事態のほうが、よほど避けたい。
「放してっ!」
千代は、芹沢に組み伏せにされたまま、再び、大きな声を上げた。今度も、若い衆は駆けつけてはこなかった。
千代の帯が、芹沢により、強引に解かれた。
千代は、店から芹沢に生贄に捧げられたのだ。
2
姉小路公知が、会津藩にねじ込んだのは、芹沢が、千代の帯を解いた翌日である。牛車に乗り、姉小路自ら、会津藩邸に乗りつけた。
姉小路は、藩主の松平容保に面会した。
自分の女が芹沢に手込めにされたとは、さすがに言えない。だから、会津藩お預かりの壬生浪士組、中でも筆頭局長の芹沢鴨の非道は、目に余るものがあるという話を、とくとくと、容保に語った。
ついては、速やかに芹沢を処罰されたいというのが、姉小路の主張である。
姉小路が帰るや、容保は、ただちに芹沢を会津藩邸へ呼びつけた。
関東から上京した浪士集団の一部を、会津藩で面倒を見ることになったとは、容保も承知していた。だが、壬生浪士組という名前には、容保は聞き覚えがなかった。
壬生浪士組という名前は、壬生浪士組の隊士らが自称して使用しているだけであり、何ら公的な名称ではなかったためである。
容保は、藩主用の客間で、芹沢と面会した。先刻、姉小路と面会したのと同じ部屋である。
本来ならば、藩主自ら芹沢ごとき小物を相手にする行為などありえない。しかし、後に姉小路から対応状況を確認された場合に備えて、容保自らが熱意を持って取り組んだという話を、嘘偽りでなく話競るように、あらかじめ、予防線を張ったのだった。
藩主が対応するため、やむを得ず会津藩の重臣たちも、芹沢との面会の場に同席した。
芹沢は、壬生浪士組の制服として、特別に注文してしつらえた羽織を着用していた。
浅葱色の薄い麻の生地に、袖口を白く山形に染め抜いた、ダンダラ模様の羽織である。
壬生浪士組の、ダンダラ模様の制服は、容保と重臣たちの目を引いた。
示威行為として、揃いの制服をしつらえようという芹沢の発想は、ただの田舎浪士の域を超えていた。多分に政治的な芹沢の感覚ゆえである。
会津藩にとっては、たんなるお荷物にすぎない末端の壬生浪士組の存在が、初めて藩の上層部の脳裏に、名前と一致して印象づけられた瞬間だった。
芹沢は容保を前にして、畳に両手をつき、頭を下げた姿勢である。
「そのほうが芹沢か」
容保は、あまり熱意があるとは感じられない声で、面倒くさそうに芹沢に問いかけた。
「さようでございます」
芹沢は、さらに深々と頭を下げた。
「姉小路公知殿より、そのほうらの暴挙に対し、苦情が入っておる。活動資金と称して、商人たちから押し借りをしておるそうだな」
芹沢は顔を上げた。会津藩主と居並ぶ重臣たちを前にしていながら、縮こまることなく、堂々と落ち着いた表情だった。
「暴挙ではございませぬ。あいにく手元不如意につき、心ある商人から活動資金の提供を受けまして、お役目に励んでおるだけでございます。この制服も我らが手弁当にて、しつらえたもの」
芹沢は羽織の襟を両手で掴んでピンと引っ張ると、皺を伸ばし、容保によく見せた。羽織は、薄い麻布製であり、粗末な代物だ。
容保の目には、貧乏人の衣装に感じられた。
金がないという主張なのだろう。壬生浪士組の商人への金策は、要するに、会津藩が金を出さないのが悪いという理屈だ。
容保は、芹沢の強気な態度を、苦々しく思った。
同じ感情は、列席する重臣たちも抱いているらしい。皆、一様に芹沢を睨みつけていた。
暴挙を根拠として、芹沢を処罰する真似など、容保には、たやすい。
だが、仮にも会津藩お預かりの名の下に活動をしている壬生浪士組の局長を処分するとなると、壬生浪士組に対する会津藩の管理に落ち度があったと認める結果になる。
幕府から、京都を守護する役目を任じられている会津藩の末端組織が、むしろ京都の治安を乱す行動をとっていたなどとは、とても認められるものではなかった。
芹沢は「うほん」と、わざとらしく大きな咳払いを一つした。
「考えてみると、確かにお役目に熱心なあまり、拙者にも少々行き過ぎた部分があったやもしれませぬ」
容保は、芹沢の言葉に対し、鷹揚に頷いた。所詮は、姉小路への予防線としての審問である。芹沢を処罰するつもりもない。いたずらに時間をかけたところで意味はなかった。
「資金のことは、おって公用方より話をさせよう。以後、気をつけて任務に励めよ」
容保は立ち上がり、芹沢に背を向けた。
「ありがたき幸せ」
背後で、芹沢が深々と頭を下げた気配が、容保には感じられた。 芹沢は淡々と言葉を続けた。
「京都で、薩摩の田中新兵衛なる人斬りを見かけたという者がおります。こうした不穏な輩を取り締まるためにも、一人でも多くの隊士を増やさねばと感じておりました。御資金は、隊士募集の原資に使わせていただきます」
3
田中新兵衛が行きつけにしている料理屋は、京都の三本木にあった。新兵衛は、三日に一度は店に顔を出し、夕飯を食い、酒を呑むという。
芹沢は、まだ日が高い時間帯に、一人で店を訪ねた。
ダンダラ模様の羽織は身につけていない。壬生浪士組が店を訪れたと、誰かに知られたくはないためである。
知られれば、その誰かから、田中新兵衛に探索の手が近づいているとの情報が伝わらないとも限らない。部下を連れずに、芹沢が一人で店を訪れたのも、必要以上に目立たぬためだった。
店内には、四~五人で掛けられる椅子と机が数組と、宴会用の座敷が二間あるだけだ。
夜からの営業に備えて、店では仕込みの最中だった。当然、客は一人もいない。初老の店主が、一人きりで煮炊きをしていた。煮物の匂いが漂っている。
「まだ、あいてないよ」
断りもなく店内に入り込んだ芹沢に向かって、店主は、ぶっきらぼうに応対した。
芹沢は、店主の言葉が聞こえなかったかのように手近な椅子を引くと、腰の刀を帯から抜いて机の上に置き、椅子に座った。
「お客さん」
店主は、いらいらとした口調で、芹沢に声を掛けた。煮物の前を離れて、店内に腰を落ち着けた芹沢に近づいてくる。
芹沢は、店主が十分に近寄ったのを見計らい、低く落ち着いた声で、名を名乗った。
「壬生浪士組、筆頭局長、芹沢鴨である」
店主は、驚いたように足を止めた。ただの迷い客のつもりが、実は招かれざる客であったのだ。
店主は、困惑した表情で呟いた。
「なんだって、うちみたいな小さな店に?」
芹沢は、店主の呟きを聞き逃さなかった。
壬生浪士組が、羽振りの良い商人に対して、お役目のための金策と称する押し借りを繰り返している事実は、店主も聞き知っているらしかった。どう見ても、羽振りが良くは見えない店主の店に対して、金策も何もないだろうというのが、店主の言い分だ。
「薩摩の田中新兵衛を知っておるな」
芹沢は、店主が偽りを言わぬよう、店主を睨みつけて、心理的な圧力を掛けた。
「土佐の岡田以蔵、肥後の河上彦斎と並ぶ、名うての人斬りだ。この店で飯を食わせてやっているそうだな」
「食わせてやってるだなんて、滅相もありません。ちゃんとお代もいただいている、ただのお客さんですよ」
店主は、必死の形相で頭を振った。京都の治安を乱す、攘夷活動家の一味だと思われてはたまらない、という意思表示だろう。下手をすれば、営業停止や、店の破壊といった制裁を受ける事態をも招きかねないからだ。
「ほう。てっきり、この店は倒幕の志士の手助けをしているものだと思っていたが、違うのか?」
芹沢は、慌てている店主の顔を、疑り深く探るように睨めあげた。
「とんでもない誤解ですよ」
店主は、一層激しく頭を振った。
「そうか」
店主の必死さに、芹沢は、拍子抜けしたように小さく呟いて、納得してみせた。
誤解が解けて安心したのか、引きつっていた店主の顔が、多少、和らぐ。
その瞬間を狙っていた芹沢は、再び、店主の顔を見上げて、声を荒げた。
「ならば、なぜ京の都の治安を乱す輩に、飯など食わすのだ!」
店主は、芹沢の怒りに「ひい」と悲鳴を上げると、身を伏せて手足を床に着き、さらに額を床に擦りつけた。
「ご勘弁を! 人斬りだからと、飯を出すのを断れば、わたしが斬られてしまいます」
店主は、涙を流していた。
「では、貴様には、治安を乱すつもりはないと申すのだな?」
「もちろんでございます」
「証拠を見せい」
店主は、とまどったような表情を見せた。
「証拠、と仰いますと?」
「新兵衛は、よく来るのか?」
「三日に一度ほどかと存じます」
「ならば、次に新兵衛が来たら、奴の刀、薩州鍛冶奥和泉守忠重を奪ってみせろ。新兵衛がどれほどの人斬りであろうとも、刀がなくては人は斬れまい」
芹沢は、懐から小さく折り畳んだ油紙を出すと、机に置いた。
「殺せ、などとは言わん。眠り薬よ。酒に混ぜて呑ませ、眠った隙に刀を奪えば良い。よもや、店主が置き引きをしたとは、奴も思うまい。酔いつぶれた自分の不覚を悔やむだけだろう」
「ですが」
芹沢は、懐から、さらに袱紗の包みを出して、薬の脇に置いた。勢いよく袱紗を取り去る。
袱紗の中身が、輝きながら机の上に散らばった。十両ほどの小判である。
「新兵衛が好みそうな、うまい酒や食い物の仕入れに使うが良い。残りは好きにしろ」
芹沢は、店主が口を開き、異論を唱える前に、さっと席を立った。
「三日後に、また来る。吉報以外は聞かぬぞ」
4
文久三年五月二十日(一八六三年七月五日)、亥の刻(午後十時)過ぎ。
闇夜である。京都御所は、ねっとりと身に絡みつくような、深い闇に包まれていた。
御所だからといって、帝のご威光で、余所よりも闇が明るいなどというような事実は、無論ない。闇は、どこまでも深い闇だった。
常ならば、人が出歩くような時間帯ではない。
にもかかわらず、朔平門近くの猿ヶ辻では、ゆらゆらと二つの提灯の明かりが、歩く人の動きに合わせて揺れていた。
宮中の朝議から退下したばかりの姉小路公知が、提灯を持つ二人の雑掌に前後を挟まれて、自邸へと歩いて帰るところであった。
朝議の議題は、攘夷についてだ。
帝の御意志は攘夷であるが、はたして本当に攘夷など実行できるのか、という難題である。
攘夷派の中心的人物でありながら、外国船の威力を知ったため開国派に転じた、姉小路の発言は、朝議でも高い関心を持って受け取られた。
朝議において姉小路は、勝海舟の働きかけにより姉小路自身が乗った、幕府が外国から購入した軍艦、順動丸の威力について、他の公卿らに力説した。
その順動丸とて、所詮は外国から売りに出される程度の旧式の船であり、外国の最新式の軍艦を前にしては、性能的にも数の上でも、日本が持つ船では、とても外国の相手にはなりえない。攘夷を唱える前に、まず日本も多数の軍艦を持ち、海軍力を整える対応こそが急務である、というのが、朝議で姉小路が主張した内容の大筋である。
ついては、勝海舟が近々、大坂港に再び軍艦を入港させる手はずとなっているので、ぜひ自分の目で、外国船の威力を確認されてはいかがだろうか、と、姉小路は話を結んだ。
普段、御所から外に出ることなく暮らしている他の公卿らにとって、実際に自分の経験に基づいて話す姉小路の主張には、強い説得力と、信憑性があったのだろう。中には姉小路の意見に同調する公卿も数名おり、姉小路は、すこぶる上機嫌で朝議から退下したのである。
その帰路だ。
姉小路の数歩後ろ、姉小路と後方を受け持つ雑掌の間には、姉小路の太刀を恭しく掲げ持った、太刀持ちの金輪勇が付き従っている。
もともと、姉小路は武闘派である。有事に備え、自身も熱心に剣の鍛錬を行っていた。他の青瓢箪の公卿らとは違うのだという、強い自負もある。
だからこそ、こんな夜分に、わずかな供しか連れずに出歩くという、公卿らしからぬ振る舞いを平気でするのだ。
そんな姉小路が率いる一行が、猿ヶ辻の曲がり角に差し掛かった。
道に沿って続いている屋敷の塀が、屋敷の敷地を囲むように、敷地の末端で直角に右側に折れていた。
一行は、角を曲がった。
角の先の暗がりに、目立たぬように男が一人、ひっそりと立っていた。
暗さゆえ、顔までは皆目わからない。
先頭を歩く雑掌が、相手の顔に光を翳そうと、提灯を持つ手を、高く掲げた。
だらりと下げた男の右手の先で、金属が、ギラリと提灯の明かりを反射させた。男の右手には、すでに抜き身の太刀が握られていた。
男は提灯を掲げた雑掌の右腕に向かって、握っていた太刀を、素速く斬り上げた。
提灯の柄を握ったままの雑掌の右手首が切断され、宙に舞った。
手首は、ぼとり、と地面に落下した。
雑掌は止めどなく血が溢れ出る自分の右腕を左手で押さえ込み、絶叫を発しながら、その場を逃げ出した。
地面に落ちた提灯の和紙に火が着き、辺りが一瞬、明るくなった。
刀を振るった男の顔が露わになる。男は、芹沢鴨であった。
だが、姉小路は、芹沢の顔を知らなかった。千代から芹沢の名前を聞いて、容保に文句をつけただけの関係だ。面識は全然ない。
姉小路は一声「太刀っ!」と叫んで、後ろ手に右手を突き出した。こういう場合は、開いた掌に、太刀持ちが太刀の柄を握らせる段取りになっていた。
けれども、太刀は渡されなかった。
姉小路は、振り返った。
太刀持ちである金輪勇は、姉小路の太刀を握ったまま、すでに背を向けて逃げ出していた。
もう一人の雑掌もまた、同様である。うち捨てられた提灯が、姉小路の背後の地面でも燃えていた。
「阿呆ぅっ!」
姉小路は、太刀持ちを追いかけようとした。
「早く太刀をよこさんかっ!」
その姉小路の背に、芹沢が、雑掌の腕を斬る際に斬り上げた刀を、振り下ろした。
姉小路の背が、縦一文字に斬り裂かれる。
鋭い痛みが、姉小路の全身を駆け抜けた。
「おのれっ!」
姉小路は、芹沢を振り返ると、自分の手が傷を負うことになるのも構わずに、芹沢から太刀を奪うべく、両手を突き出して、刃を掴んだ。
「貴様は、どこの何者だ!」
と、同時に芹沢を誰何する。
芹沢は、姉小路の腹に蹴りを入れて、姉小路の身を振りほどいた。姉小路は、あっさり地面に転がった。
芹沢は、ぼそりと呟くように、名を告げた。
「薩摩藩、田中新兵衛」
もちろん、嘘の名だ。
けれども、芹沢が握っている刀は、本物の新兵衛の愛刀、薩州鍛冶奥和泉守忠重だった。料理屋の店主は、やってのけたのだ。
姉小路は、半身を起こした。
芹沢が、忠重を横に薙いだ。
刃は、姉小路の顔面を水平に移動した。
姉小路の鼻の下に、ぱくりと大きな傷口が開いた。本物の口よりも大きな裂け目だ。
続いて芹沢は、裂けた姉小路の顔面を蹴り飛ばした。
姉小路は、真後ろに吹き飛び、後頭部から地面に落ちた。
芹沢が、姉小路を追撃する。
仰向けに倒れた姉小路の腹部に、芹沢は、深々と刃を突き立てた。
刃の先端が、姉小路の背中側に貫通して地面にめり込んだ。
姉小路は、地面に完全に縫いつけにされた。
芹沢が、太刀から手を放した。
姉小路は、自分の腹部に突き刺さった刃を抜こうと、両手で刀身を握りしめた。
血で滑って、うまく握れない。
手に、力も入らなかった。
口の中に溢れた血が、喉の奥に流れ込む。息ができず、姉小路は、げほげほと咽せた咳をした。
芹沢が、自分を見下ろしている。
すぐそこだ。
だが、姉小路には最早、どうすることもできなかった。
芹沢が、自分の帯から、鞘を抜いた。鞘を姉小路の脇に投げ捨てる。
薩州鍛冶奥和泉守忠重の鞘である。犯行を、新兵衛の仕業にするための、偽の証拠だ。
けれども、姉小路には、芹沢の行為の意味などわからなかった。
それ以上に、もはや色々、何もかもが皆目わからない。
「告げ口の報いだ」
と、芹沢が吐き捨てた。
その瞬間、天啓のように、姉小路の脳裏には、真実が閃いた。
誰が自分を殺したのか!
『せ、り、ざ』
姉小路は、ぱくぱくと、陸にうち捨てられた魚のように、口を開閉した。
声は出ていない。
にもかかわらず、意味が通じたのか、芹沢が、にやりと微笑んだ。
勝ち誇った者の笑みであった。
地面に落ちて、和紙に燃え移り、骨組みの竹も焼いていた提灯の火が消え、辺りを闇が包み込んだ。
芹沢の顔も闇に消えた。
だが、その前に、姉小路は、永遠の闇の中に落ちていた。
5
文久三年五月二十一日(一八六三年七月六日)酉の刻(午後六時)。
モビーディックは、大坂港へ入港した。姉小路公知が暗殺された翌日である。
海岸近くは水深が浅いため、淀川の河口、一里(約四キロメートル)余りの場所に、モビーディックは投錨した。
すぐさま河口から、役人を乗せた小船の一群が滑り出て、モビーディックを取り囲んだ。入港の目的を確認するためである。
勝は役人に対して『京都守護職、松平中将様の御用向きだ』とだけ告げた。『ついては、明日にも伺うので、先方まで、その旨を伝える早馬を出しておかれよ』とも。
翌朝、モビーディックから小船に乗り換えて、雑賀と勝は、大坂港に上陸をした。
二人が桟橋に立つやいなや、お揃いのダンダラ模様の羽織を身につけた、三人の男が、雑賀と勝に近づいてきた。壬生浪士組である。ただし、芹沢鴨ではない。
男たちは、三人が三人とも、ぎらぎらと焼け付くような鋭い眼光を周囲に放ち、辺りの様子を気にしていた。まるで、今にも襲撃を受けようかという警戒ぶりである。
雑賀は、さりげなく勝を背後に庇う位置に立ち、男たちが勝に近づく真似ができないよう、自分の体を障壁の代わりにした。
雑賀の両手は、左右のホルスターの近くに下ろされ、掌を軽く開いて、いつでも拳銃を抜ける体勢をとっている。
「勝安房守様であらせられますか?」
恐らく、三人の中では一番格上なのであろう。四角い顔をした口の大きな男が、丁重な態度で、勝に問いかけた。残る二人は、直立不動の姿勢で畏まっている。
「何だい、おまえさんたちは?」
勝は、男たちを、あからさまに不審気な表情で睨みつけた。
「会津藩お預かり、壬生浪士組局長、近藤勇と申します」
近藤は、深々と勝に対して頭を垂れた。
「京都守護職、松平中将様の命により、勝安房守様を、会津藩邸までお連れするよう遣わされました」
「道案内なら、要らねぇよ」
「案内ではありません。護衛です」
生真面目な表情で言い切る近藤の様子に、勝は吹き出した。
「三人ばかりで護衛とは、また随分と中途半端な対応だな。いってえ正規の藩兵は、どうしたんでえ?」
「田中新兵衛捕縛のために、出払っております」
勝は、途端に、真剣な面持ちとなった。
「薩摩の人斬りだな。いつ、誰が斬られたって?」
「一昨日の晩、御所にて、姉小路公知卿が暗殺されました。現場に残されていた刀から、下手人は田中新兵衛と判明しています」
「馬鹿な!」
勝は、雑賀を押しのけるようにして前に出て、近藤に詰め寄った。
近藤は、神妙な面持ちで首を横に振った。
勝は、全身から一気に力が抜けたかのようによろめき、雑賀は、咄嗟に腕を伸ばして、勝を支えた。
「新兵衛め、何という馬鹿な真似を!」
勝は、気力を振り絞るように、支えとして伸ばされた雑賀の腕を振り払い、自身の足でしっかりと立った。
雑賀は、勝の顔を見つめた。
勝の眼光は、失われてはいなかった。絶望した人間の顔ではない。困難に立ち向かおうという、前向きな顔だ。
「姉小路卿とは?」
雑賀は、勝に問いかけた。
「数少ない開国派の公卿の中でも、一番の有力者だ。もともとは攘夷派の旗頭だったのを、外国船の威力を思い知らせて、俺が宗旨替えをさせた。姉小路様のお力添えを受けて、宮中に味方となる開国派の公卿を増やしていくつもりだったんだが」
勝は、右手を堅く握りしめると、力一杯、左掌に打ち付けた。
「惜しい方を失った」
近藤は「畏れながら」と、勝に進言した。
「志士たちは、勢いづいております。大坂港に外国船が入るということは、勝安房守様が大坂にいると宣言するようなもの。次の天誅相手を求めている志士にとって、勝安房守様は、格好の標的となりましょう」
勝は、自分の顎の下を、指でしごいた。
「それで、護衛が必要なわけか。おまえさん、腕は立つのかい?」
「小石川柳町で天然理心流を修めました」
「ほう、江戸の出かい。同郷のよしみだ。わかったよ。おまえさんに、護衛を頼もうじゃねえか」
6
雑賀と勝は近藤に先導され、近藤の二人の部下に背後を守られて、大坂の市街を移動した。
幸いにして、これまでのところは、松平容保が心配していたような志士による襲撃は起きてはいない。
せいぜいが、目つきの悪い志士なのか、はたまた単なる食い詰め浪人なのか、さっぱり判断のつかぬ連中が、通り過ぎる雑賀と勝を、何か腹に含むことのある目つきで見つめたり、時には遠くから後を尾けてきたり、という程度である。
それとても、ダンダラ模様の羽織を着た近藤らが、威圧するように周囲を守っているためか、いつの間にかいなくなってしまうのだった。
推定八十万人もの人口を擁す大坂は、河川により、南部、中部、北部の三つの部分に大きく分けられる。南部と北部には運河が無数に走り、運河によって分けられた小島には、大小多数の橋が架かっていた。中部は、それ自体が、一つの大きな細長い島である。
三つの部分のどこであっても、陸地には家々が犇めき合うように建ち並び、かつ、道も狭いため、実質的に幹線道路の役割を果たしているのは運河であった。
そのために、運河には、多くの荷を運ぶ小船が行き交い、舟運が発達していた。
雑賀と勝らは、一際太い運河に架けられた橋を渡った。
橋の上から、運河を見下ろす。
運河沿いに建ち並ぶ店の裏手には、どこも小さな船着き場が設置されており、日に焼けた上半身をはだけた筋肉質の水夫たちが、威勢良く荷の積み卸しを行っていた。
雑賀は、運河ばかりではなく、町並みや路地の一本一本の奥までも覗き込み、きょろきょろと見回した。
勝が呆れて、笑いながら声を上げた。
「よしなよ。それじゃ、お登りさん丸出しだぜ」
雑賀は「違いますよ」と、慌てて頭を振った。
照れ隠しに、頭の横を指先で掻く。
「姉の嫁ぎ先が、多分この辺りなんです」
「へえ、大坂に身内がいたのかい」
「縁あって、遠縁の親戚である『雑賀屋』という船問屋に嫁ぎました。その祝言の帰りに乗った船が難破したせいで、俺は漂流する羽目になったんです」
勝は、腹を抱えて笑い出した。
「姉を奪われ、船も沈んでじゃ、そりゃ、散々だ」
雑賀は唇を尖らせて、頬を膨れさせた。
「笑いごとじゃありませんよ」
まだ、笑いが治まらない勝は、さらに雑賀をからかった。
「姉君は、自分のせいでお前さんが死んだと思っていることだろうな」
「かもしれませんね」
雑賀は不機嫌に、唸り声を発した。
勝は今度は、からかいではなく、雑賀に微笑んだ。
「なら、すぐに生きてると知らせてやれ」
勝は近藤に話を振った。
「おい、近藤くん。近くに『雑賀屋』という船問屋は、あるか?」
近藤は、軽く頷いた。「あれです」と、橋を渡ったすぐ左手の建物を指さす。軒先に下げられた暖簾に、崩し字で『さいかや』と書かれている。
雑賀は、思わぬ急展開に、呆然と、その場に立ちつくした。
今日ではなく、いつか勝から暇を貰って訪ねようと思っていた姉に、いきなり会う状況になってしまった。
はたして何と言って訪ねるべきか?
そもそも、自分は死んだと思われているのだから、いきなり訪ねるのは、拙いのではないか? まずは、手紙で状況を伝えてから、あらためて出向くほうが良くはないか?
「何をしてるっ」と前方から、勝の叱責が雑賀を呼んだ。
雑賀が、ぐずぐずと考えている間にも、勝は、ずんずんと『雑賀屋』へ向かって歩き出していた。
雑賀は慌てて勝を追った。追いついて、横に並ぶ。
雑賀は「いずれ、また日を改めて」と、つい口に出しかけた。
そのとき、前方の『さいかや』の暖簾の文字が割れ、店内から突き飛ばされたように男が飛び出してきた。
雑賀らは、足を止めた。
男は、通りの中央で転倒をした。見た目は、雑賀より、いくつか年上のようである。
続いて、近藤と同じ、ダンダラ模様の羽織を着た男が店から出てきた。
羽織の男の姿を認めて、近藤の表情が曇った。新見錦というのが、近藤の同輩の名前だった。三人いる壬生浪士組の局長の、近藤と芹沢を除いた、残る一人だ。
通りに倒れた男が、恐怖にひきつった表情で、新見の顔を見上げた。
「かような端金、我らをゆすりたかりの類と一緒にするでない!」
新見は、男の額に向かって、何かを投げつけた。
男の額がぱくりと割れて、だらだら鮮血が噴き出した。地面には、投げつけられた三枚の小判が散らばった。
「なんだい、あの騒ぎは? おまえさんたちと同じ服装だ」
勝が、近藤に問いかけた。
近藤は、苦虫を噛み潰したような、渋い顔だった。その心情は、よりにもよって、何と間が悪い、といったところだろうか。
「お役目のための、金策です。どうやら、あの店は、治安維持に非協力的だったようですな」
近藤は、努めて淡々と口にした。悪いのは、壬生浪士組ではなく、あくまで、お役目に協力しない店の側なのだと強調したいらしい。
興奮のためか、新見は、雑賀らに、素行の一部始終を見られていることにも気づかず、額から血を流している男に近づいた。
おもむろに、男の顔を足蹴にする。男は再び、どでっと無様に通りに転がった。
「おまえさん!」
と、悲鳴が上がり、店内から男と同じぐらいの年嵩の女が出てきた。地面に膝をつき、男の身を起こす。
女は新見を、無言で睨みつけた。
「何だ、その目はっ!」
新見は、右手を一閃させて、女の頬を強く張った。
瞬間、銃声が轟いた。
女の頬を張った新見の右掌の中央に、小さな穴が開いた。
新見は「ぐわぁ」と呻き声を上げて、右手首を左手で握りしめた。掌に開いた穴から、止めどなく鮮血が溢れている。
雑賀の右手で、S&Wモデル2アーミーが、銃口から紫煙を上げていた。
「姉さん」
と、雑賀の口から、本人の耳までは届かない、小さな声が漏れた。
7
銃声を聞き、店内から、次々にダンダラ模様の羽織を着た男たちが飛び出してきた。
男たちは、撃たれたのが局長の新見であると知ると、一様に抜刀をして、雑賀らに向き直った。腕を抑えた新見を含めて五人である。
雑賀が姉と呼んだ女と、額を割られた男は、突然の修羅場に、慌てて店内に逃げ込んだ。女には、雑賀が誰であるかに気づいた様子は、まるで見受けられない。
ダンダラ模様の羽織を着た男たちは、拳銃を握る雑賀と共に、自分たちの、また別の局長である近藤勇が立っている事実に気がついた。
そのために、いきなり斬りかかってくる真似はせず、驚いた顔で立ちつくすだけだ。
銃声と、抜刀した男たちに気づいて、通りに、野次馬が集まり出した。野次馬は、自分の身に危険が及ばぬよう、遠巻きに事態を眺めている。
血の気が引いて、脂汗が浮いた顔の新見が、憎々しげに近藤を睨みつけた。
「貴様、どういうつもりだ?」
と、親愛の欠片も敬意も感じられない口調で、近藤に問う。撃たれたためではなく、常日頃から、二人の仲が決して良いものではないのであろう状況が、容易に想像された。
「刀を納めよ。軍艦奉行並の勝安房守様だ」
近藤は、新見の言葉を無視して、抜いた刀を向けている者たちに、毅然と言い放った。
相手が幕府の重臣であると知り、男たちは慌てて刀を鞘に納めると、ばつが悪そうに下を向いた。
雑賀も、銃を収めた。
「どんなお役目かは知らんが、些か、やりすぎじゃあねえのかい」
勝が、静かに、新見を叱責した。
新見は、怒りと痛みの両方なのだろう、ぎりぎりと歯を食いしばりながらも頭を垂れた。ぽたぽたと、下ろした新見の右手の指先から地面に、血が滴っている。
「早く手当せい。他の者は市中の見回りに戻らんか」
近藤の言葉が場を締め括り、隊員たちが踵を返した。
そのとき『雑賀屋』の店内から「いや、ならぬ」と、野太い声が表に届いた。
隊員たちは、一斉に立ち止まった。
暖簾を押し分けて、店内から芹沢鴨が、悠々と姿を現した。護衛役の真柴十三が続いて現れる。
「勝安房守様の護衛が、近藤くんと、昨日今日に入隊したばかりの平隊士だけでは、心許ない。おまえらも護衛につけ」
筆頭局長とあって芹沢は、近藤が松平容保から勝安房守の護衛の任務を仰せつかっている事実を、知っている様子だった。
隊員たちは、芹沢に頷いて、言葉に従った。四人が二人ずつに分かれて、勝と雑賀の左右に立った。
芹沢は、傍らの真柴を見た。
「十三もだ」
「承知しました」
眞柴十三は、近藤と肩を並べた。近藤は不服そうに眞柴を見つめたが、特に何も言わなかった。
「おまえさんは?」と、勝が、芹沢に問う。
「壬生浪士組筆頭局長、芹沢鴨でござる」
芹沢は勝に対して、頭を下げた。頭を上げた芹沢の視線が、雑賀とぶつかる。
「横浜以来だな」と雑賀。
芹沢は、にやりと口の端を持ちあげた。
「横浜?」と、近藤が眉を顰めた。
「初耳ですな、いつ、そのようなところへ?」
「答える必要はないだろう。局長同士、お互いのすることには不問と取り決めたはずだ」
芹沢は嘯き、近藤は苦々しげに、顔を歪めた。
「さあ、もう行かれよ」
芹沢は、眞柴の顔を見て「十三」と声を掛けた。芹沢の言葉に、眞柴が、頷いて歩き出した。
他の隊士たちも、眞柴に合わせて歩き出す。
野次馬が、がやがやと騒ぎながらも道を開けた。やむを得ず、雑賀と勝も歩き出した。
雑賀の、姉との再会は、また別の日に、お預けとなった。
雑賀は、密かに、ほっ、としていた。
8
雑賀らは、大坂街道から山崎街道を経て伏見に入った。
京町通を北上し、途中から併走する伏見街道へ道を変えた。そのまま北上を続ければ、やがては五条大橋へと通じる道である。
近藤は、大坂で勝のために高瀬舟を用意していた。だが、「そんな乗りつけねぇもんより、てめぇの二本の足のほうが信用できらぁ」と、勝は言い放ち、徒歩で行くことを譲らなかったのだ。
近藤の目には、雑賀は勝の部下であると映っているようだが、雑賀にも勝にも上下関係の意識はない。年齢の上下はともかくとして、対等の友人関係という認識だ。
勝は、雑賀に、詳細を聞こうとはしなかったが、雑賀がアメリカで海軍に属していたことは、もちろん知っている。
現在も、雑賀がモビーディックを実質的に自分の手足として使っている事実から、今回の雑賀の帰国が、当然、ただの帰国であるわけがないとは想像しているだろう。雑賀には、雑賀の任務があるであろう事情を知った上でなお、勝は、友人として雑賀を扱っているのだった。
雑賀には、勝の、その心遣いが有難かった。
情勢が許してくれるかは分からないが、少なくとも、今後、勝に対して、ひどい裏切りをするような真似だけはしたくないと思う。
雑賀らは、藤森神社を右手に、栄真寺、高雲寺を左手に見ながら歩いていた。
それぞれの寺社を囲む森が、街道の両脇に、鬱蒼と茂っていたため、さながら森の中の一本道といった感がある。
「気づいているか?」
雑賀は、先頭に立つ近藤と眞柴に、何気ない口調で問いかけた。
「無論」
と、近藤と眞柴は、同時に口にした。それぞれ左手を腰の刀に伸ばして、鯉口を切っている。
「俺たちの倍はいるぜ。手伝おうか?」
「不要だ」
近藤と眞柴は、またまた同時に言葉を発した。それ以上は何も言わずに、二人とも静かに刀を抜く。
事ここに到って、ようやく、他の平隊士たちにも、雑賀と、近藤、眞柴の会話が、襲撃を指しているのだと思い至ったらしい。隊士らは、慌てたように、刀を抜いた。
雑賀は、勝に向き直った。
「俺から離れないでください」
「おうよ」
と、勝は、胸を張って軽妙に応えた。
その途端、左右の森の茂みから、三尺手拭いで作った頭巾で顔を隠した男たちが、白刃をきらめかせながら飛び出してきた。左右それぞれ十名以上はいる。雑賀の読みどおり、雑賀らの、およそ倍だ。
刺客の姿に、雑賀は、藤田小四郎を思い出した。
雑賀は抜かりなく、迫る刺客らの姿を目で追いながら、吐き捨てた。
「刺客ってな、どこも似たような格好らしい」
「うおぉぉぉお」と、近藤が野太い雄叫びを上げた。熊の咆哮にも似た叫び声である。
叫びながら、近藤は、前方から駆け寄ってくる刺客たち目がけて、突進した。
相手にまだ刃が届かぬ距離であることを承知で、近藤は刀を振り回した。腕の一本や足の一本を先に斬られたとしても、振り回した勢いに乗り、確実に相手の骨を絶つであろう、荒くて豪快な空振りだった。
自分が斬られる様を想像して恐れをなしたのか、近藤の空振りの激しさに、前方の刺客らは足を止めた。
不用意に斬り込んで返り討ちに会う事態を避け、切っ先を近藤に向けた状態で、遠巻きに近藤を取り囲む。
近藤は、満足げに微笑んだ。
咆哮と素振り一つで敵の足を止め、敵から、せっかくの奇襲の優位を奪いとったのだ。足を止めずに、数を頼みに突撃をされていたら、接近戦の乱戦の中、勝を斬られる事態だってありえたかもしれない。だが、自分の命を惜しむようになった敵なら、もはや、少しも恐れる必要はない。
近藤は、自分から敵の只中に斬り込んだ。
一度、腰が退けてしまった刺客たちは、それだけで、一斉に近藤から距離を置いた。包囲網があっけなく崩れ去る。近藤の力業の成果だった。
9
近藤の荒々しい剣に対して、眞柴の剣は、繊細で冷たかった。
相手と向き合うや、素速く動いて、相手の手首に傷を負わせるのだ。
手首の動脈を斬られた相手は、勢いよく噴出する血液に自分が致命傷を負い、もはや助からないことを痛感する。
斬られたのが喉や首、心臓といった場所ならば、斬られた相手は意識をなくし、自分が死ぬ事実を理解する暇などないだろう。
だが、手首を斬られただけの場合は、意識をなくすまでには至らなかった。すぐに止血をしなければ、残念ながら、出血多量で自分が死ぬのだと自覚する羽目になる。
それならばと、せめて自分を斬った相手を道連れにしようと奮起しても、手首を斬られているために、刀を上手には握れなくなっている。そのような様で、眞柴を道連れにする攻撃など、できはしなかった。
結局のところ、自分の無力さを痛感しつつ、死んでいく結果になるしかない。生きながら蛇に呑みこまれる蛙の心境だ。
瞬く間に、近藤が二人、眞柴が三人の刺客を斬り伏せた。
「あの二人ならば、心配ないな」
勝と共に、足を止めようともせずに、伏見街道を進んでいた雑賀は、近藤と眞柴の闘いぶりを目にして、安堵の声を上げた。
雑賀と勝の進路上では、刺客に対して、近藤と眞柴が完全な盾になっているので、障害など一切ないも同然だ。
近藤、眞柴と斬り結ぶ状況を避けた刺客たちは、前方からではなく、勝の左右や背後から襲いかかろうと回り込んでいく。
勝を護衛する隊士は左右にもいたが、前方を守る二人の猛者と比べると、実力が数段下だった。ましてや、芹沢が言うところの『昨日今日に入隊したばかりの平隊士』である。背後の二人ともなると、さらに下だ。
当然のように、背後を守る二人の隊士は、苦戦していた。
対になり、お互いの死角を補い合う体勢で襲撃に対応していたが、近藤、眞柴を避けた刺客が、徐々に回り込んできて増えていくため、次第に防戦一方となり、やがて、それすらも難しくなった。
刺客らは、逆に、突破すべきはこの二人だと勢いづいて、一斉に攻めて出る。隊士らは後退した。
すり足で、大きく後ろに下がろうとした際、一方の隊士が、足を滑らせた。隊士は、大きく仰け反るようにして、無様に倒れた。
刺客らが、ここぞとばかりに刃を振りかざす。
雑賀は、拳銃を抜き放った。
右手で銃を握り、左手で撃鉄を操作すると、瞬く間に六発全弾を発射した。銃声が繋がり、長い一発に聞こえるほどの早撃ちだ。
倒れた隊士に斬りかかろうとしていた六人の刺客の足が、踏ん張りをなくしたように、膝のところから、かくりと折れた。雑賀により、膝を撃ち砕かれたためである。
刺客は、べちゃりと崩れ落ちた。
六発の弾丸に、六人の刺客。雑賀は、一発も外さなかった。そのうえ、殺してもいない。
撃たれた刺客らは、砕かれた膝を押さえて、地面を転げまわった。手にしていた刀は、どこかに投げ出してしまっている。
撃たれた六人以外の、残された刺客の視線が、雑賀に集まった。瞬く間に六人の朋輩を撃ち倒した、雑賀の拳銃が気になるらしい。次は自分が撃たれるのではと心配なのだろう。
雑賀は、右手の拳銃をホルスターに戻すと、代わりに左手で拳銃を抜いた。
じり、と、刺客らは、後ずさった。
足を撃たれた刺客たちが、何とか片足で立ち上がり始めた。
雑賀は、足を引きずっている刺客たちを、まだ無事に立っている刺客たちに、顎で示した。
「そいつらを連れて消えろ」
及び腰で、抜いた刀を雑賀に向けていた刺客たちの間に、躊躇の気配が漂った。
雑賀は、「もはや刺客に興味などない」と言わんばかりに、抜いたばかりの左手の拳銃を、大仰な動作でホルスターに戻した。
「退くぞ」
と、ようやく決断を下したのか、刺客の指揮官らしき男が、重い声を発した。
刺客らは刀を鞘に納め、怪我をした朋輩に肩を貸すべく、小走りに駆け寄ろうとした。
その瞬間、雑賀と刺客らのやりとりを、黙って見守っていた眞柴が、動いた。刀を納め無防備になった刺客に対して、一方的に斬りかかったのだ。
眞柴は手始めに、指揮官を斬り捨てた。
即座に近藤が、眞柴の後に続く。
刺客らに刃を突き立てつつ、近藤は「逃すなっ。一人残らず斬れぃ!」と、隊士たちに命令を出した。
隊士たちは、弾かれたように局長に従った。
慌てふためいて背を向けて逃げようとする刺客、はたまた、再度、刀を抜いて戦わんとする刺客、どちらも瞬く間に斬られていく。
「馬鹿もんっ!」
勝が、大音声で、制止を命じた。
「やめんかっ! 無闇に殺すんじゃないっ!」
勝の制止に、まず近藤、次いで平隊士が従った。
奇襲時には二十人余りもいた刺客が、すでに一人を残すのみとなっていた。
最後の一人は、泣き声のような悲鳴を上げた。身を翻して、なりふりも構わずに逃げだしていく。
そこへ眞柴が追いすがった。
眞柴は追いつき、無防備な刺客の背中に、袈裟懸けに、刀を振り下ろした。
背中を斬られて、刺客は転倒した。
刺客は、手をついて衝撃に備える体勢すらもとれずに、無様に頭から地面にぶつかった。
眞柴が、転がった刺客を見下ろす。
刺客は、急いで仰向けになった。
両手を体の前に突き出して、身を守るように掌を広げる。自分を斬った眞柴が、なお止めを刺そうと追撃してくるのを、何とか思い留まらせようという、必死の動きだった。
眞柴は、刺客の喉笛に、刃を突き立てた。
傷口から鮮血が溢れ出して、手を突き出したまま、刺客は絶命した。
眞柴は、刃を喉笛から引き抜いた。眞柴は刀を一振りさせて、血潮を飛ばした。懐紙で拭ってから、鞘に納める。
勝と雑賀を中心とした周辺の地面には、二十名余りの刺客が倒れ、呻き声を上げていた。
大半は死んでいるか、明らかな致命傷を負っている者だが、手当をすれば、まだ命が助かりそうな者もいるように見えた。
眞柴は、護衛対象である勝の元へ、ゆっくりと歩きながら戻ってきた。
戻るなり、無表情に隊士たちに告げる。
「まだ動いている者に、止めを刺せ」
隊士たちは、顔を見合わせた。勝から「殺すな」と言われたばかりだ。眞柴にも、勝の制止の声は聞こえたはずである。隊士たちが戸惑いの表情を見せるのも、無理はなかった。
「おいおい、おまえさん、いってぇ、どういうつもりだい?」
怒りを、無理矢理どうにか押し殺した声で、勝が聞いた。
「そう簡単に、人の命をとるもんじゃないよ」
「生かしておいては、いつまた襲ってくるやもしれません」
眞柴は、勝に頭を下げた。
「早くしろ」と、頭を上げるなり、隊士らをせかす。
隊士らは、近藤の顔を見た。近藤は、何も言わずに、ただ頷いた。
隊士らは指示に従った。
「生かしときゃ、素性の一つも聞き出せるだろ」
雑賀は不機嫌な口調で、口を挟んだ。殺さぬように、逃がさぬようにと、わざわざ膝を撃ったのだ。安易に、とどめを刺されてしまったのでは苦労の甲斐がない。
「素性は長州だ」
眞柴は、吐き捨てるように断言した。
「大方、姉小路卿を薩摩に暗殺されて、同じ攘夷派として焦ったんだろう。だが、ただ数を頼んだだけの無策な襲撃の様子は、功を焦った末端の暴走だ。ろくな情報など持ってはいまい。生かしても、明日の敵が増えるだけだ」
眞柴は、雑賀に異論を挟む隙を与えなかった。揺らぐことのない信念に満ちた瞳で、眞柴は、雑賀を睨みつけた。
雑賀は、何も言わなかった。
眞柴の言葉が正しいのか誤りであるのか、帰国したばかりの身である雑賀には、直感的な判断はできなかった。ただ、眞柴を見つめ返すだけである。
「けっ」と、勝が、呆れたような声を出した。
「敵が増えるのは、おまえさんたちが殺してばかりいるせいだ。死んだほうが良い人間なんざ、いねぇんだぜ」
勝は、眞柴を睨みつけた。
眞柴は、動じずに首を振った。
「良い長人は、死んだ長人だけでございます」