第三章 礼砲二十一発
1
門番は重孚と別れた後すぐさま、自分の持ち場である門へ、雑賀を迎えに駆け戻った。
門の内側、木戸の脇には樫棒が立てかけられている。雑賀の来訪を重孚に伝えに行く際、門番が立てかけておいた物だが、立てかけた時の状態のまま、樫棒は少しも動いてはいなかった。
門番は、腰を落として、木戸の閂を横に外した。
木戸を手で押して、身を潜らせると、表へ顔を出す。
「入られよ」
門番は、よく確かめもせずに、そこにいるはずの雑賀に対して声を掛けたが、立っていたのは別の者だった。門の前には、刀を帯びた、十数名の男たちが、たむろしていた。
門番は、慌てて首を引っ込めると、木戸を閉じた。だが、門番が閂を掛ける間もなく、木戸は外から力づくで引き開けられた。
開いた木戸からは屈強な男の腕が入ってきて、門番の襟首を掴んで、門番を表へ引きずり出した。
門番は木戸脇の樫棒に手を伸ばしたが、掴むことはできず、樫棒は乾いた音を立てて地面に転がった。
門番は、門の前に敷き詰められている、平石の上に突き倒された。次いで、自分を引きずり出した男に手で口を塞がれ、馬乗りになって押さえつけられた。
門を去る前はなかったはずだが、門番の顔の脇には、真っ赤な血溜まりが存在していた。ブーツから、雑賀がこぼした血でできた血溜まりだが、門番には、男たちが誰かを斬ったためとしか思えなかった。
門番は、何とか眼だけを動かすと、周囲の状況を確認した。
帯刀した十数名の男たちに、門番は見下ろされていた。近くには、馬も繋がれているようだった。
逃げたのか、すでに斬られてしまったのか、雑賀の姿はない。この血溜まりが、雑賀のなれの果てかもしれなかった。
口を塞がれているため満足に息ができず、門番は必死に首を振って、自分の口を押さえつけている手を、どうにか外した。
馬乗りにされたままの体勢で、門番は、喘ぐような深い呼吸を何度かした。
大声で助けを求めたかったが、それはできない。助けが来るより、興奮した男たちに殺されてしまうほうが早いに決まっていた。
もし男たちにその気があれば、取り押さえるのではなく、一息に門番の息の根を止めてしまうことだってできたはずだ。例えば血溜まりの主の誰かのように。
「何だ、おまえらは?」
門番には、震える声で、小さく男たちに問いかけるのが精一杯だった。
だが、男たちから、返答は戻らない。
「放してやれ」
と、馬乗りにされている門番からは首を向けたくても向かない方角から、声が飛んだ。
門番の上から、重しがどいた。門番は、急いで立ち上がると同時に、助け船があがった方角を振り向いた。
藤田小四郎が、白壁に背をもたれて座っている。
門番は、小四郎の顔を知っていた。藩の仕事で、何度か、この屋敷を訪ねてきた覚えがあったからだ。
門番は、小四郎の前に走り寄った。小四郎の袴は、雑賀に撃たれた右太股の傷から出た血で、真っ赤に染まっていた。
「すまない」と小四郎は、門番に頭を下げた。
「田丸殿が到着するまで待つつもりだったが、その前に戸が開くとは思わなかった。騒がれて、相手に我らの存在を知られたくはなかったのでな」
「藤田様。これは、どういうことです? それに、その傷は?」
「俺を撃ったアメリカの間者が、この屋敷に逃げ込んだ恐れがある。覚えはあるか?」
門番は口ごもった。
「その顔は、あるな。申せ」
「殿様に自分を取り次げと、さきほど尋ねてきた者があります。ここで待てと申し伝えて、殿様に伺いを立ててから、今、戻りましたが、姿が見えません」
「あれよ」
小四郎は、人差し指を立てて天を指し、自分の頭上の壁についた、雑賀の血の足跡を指し示した。
「まさか、壁を乗り越えて、すでに中に!」
「恐らくな。至急の事態だ。すまぬが、入らせてもらうぞ。じき田丸殿も、捕り方を連れて参られる」
小四郎は、痛みに顔をしかめながら、立ち上がった。朋輩が、小四郎に肩を貸す。
「お待ち下さい!」
門番は、慌てて小四郎にすがりつこうとしたが、朋輩に阻まれて近付けなかった。小四郎は、木戸を潜り抜けて屋敷に入る。
その際、小四郎は、門の内側に転がる門番の樫棒に気がついた。小四郎は、朋輩から身を離すと、樫棒を手に取り、杖代わりにした。
小四郎に続いて、残りの男たちも木戸を潜る。門番は、一番最後だった。
すでに、小四郎は、樫棒を杖代わりにして、先を歩いている。
歩みは遅いが、守るように小四郎の脇と後ろを朋輩が固めているため、門番は、直接、小四郎に追いすがることはできなかった。
「お待ち下さい!」
門番は、全速力で小四郎の朋輩たちを迂回して走ると、小四郎の前方に回り込んだ。
「邪魔だてをするな!」
小四郎は、門番を烈火の如く一喝した。
「邪魔をされては、貴公を取り押さえねばならなくなる。それより、重孚殿に、疾く間者の侵入をこそ、伝えられよ」
2
雑賀は、重孚の部屋にいた。後ろ手に両手を畳について、両足をまっすぐに伸ばしている。
血で汚れた右足の靴下を脱いで、ズボンの裾を膝まで捲り上げていた。銃とベルトは外して畳に置いてある。
雑賀の右脛の、小四郎に斬られた傷口が、剥き出しになっていた。長さにして、二寸弱の刀傷だ。大した怪我ではない。
その刀傷を、濡らしてから固く絞った布で何度も拭いて汚れを落とし、重孚自ら、器用に針と糸で縫いつけているところであった。
「誰にやられた? 水戸藩の人間か?」
重孚は、針を操る手を動かしたまま、淡々とした口調で、雑賀に確認した。
「さあ、名前までは。よほど私が気に入らないのか、横浜に上陸してこの方、つけ狙われています。どうも、水戸者であるようなのですが」
「我が藩の方針は、尊皇攘夷だ。そんな姿では、命がいくつあっても足りはせんぞ」
重孚は雑賀の洋装姿を、ちくりと皮肉っぽく指摘した。
雑賀は、なめした鹿の皮のズボンにシャツである。日本全国、どこへ行っても目立つに決まっていた。
「今さら、刀には戻れません」
雑賀は傍らの拳銃に手を伸ばすと、ホルスターから一丁を抜き出した。右手でグリップを握り、左手で銃身を優しく撫でる。
「こいつには何度も命を救われていますから」
雑賀は、拳銃を元に戻した。
重孚は糸切り鋏で、雑賀の足と繋がっている余った糸を、ぷちんと切断した。鋏と針を文机に置き、ようやく顔を上げる。
重孚は、感慨深そうに、雑賀の顔をしみじみと見詰めていた。その目頭には涙が浮いている。
「よくぞ、無事で」
重々しく、万感の思いを込めた短い言葉を、重孚は、ゆっくりと口から出した。
「漂流中、帰国する黒船のペリー提督に救われ、養子に入ってアメリカで生活していました。横浜が開港されたと聞き、やっと帰国を」
重孚は、何か思うことでもあったのか、一度ちらっと天井を見上げてから、眼をしばたたき、それから雑賀に顔を戻した。
「開国も、悪いことばかりではないのだな」
しみじみと、重孚は呟くと、糸で縫っても、まだ血が滲み出している雑賀の傷口を、再び布で拭った。
薬を塗って、油紙で覆ってから、包帯を巻き付ける。
「もういいぞ」
「ありがとうございます」
雑賀は、ズボンの裾を直した。
重孚は治療に使った道具や汚れ物を手早く片づけてから、雑賀に、勝海舟の身分証明書を差し出した。
雑賀は、身分証明書を懐にしまった。
「そもそも勝殿とは、どういう関係だ?」
「日米修好通商条約の批准交換のため、使節としてアメリカに来られた際に、通訳を務めました」
重孚は唖然とし、ぽかんと口を開けた。
「その時、同じ船で一緒には戻れなかったのか?」
「そういう話もありましたが、向こうに、まだ恩を返しきれていない相手がおりましたので、お断りしました」
「ならば、せめて手紙くらい」
「会うことも叶わぬ異国で生きていると知れても、父上に余計な心労を掛けるだけかと」
「馬鹿者が。どこであれ、生きていてさえくれれば、親は良いのだぞ」
「申し訳ありません」
雑賀は、深々と頭を下げた。
その頭を、すぐにひょいと上げ、
「ところで姉上も、お変わりありませんか?」
「大坂で元気にしているよ。もっぱら最近は手紙のやりとりだけだがな。八つと五つの二児の母親だ」
「それは良かった。子供がいるならば、この家が絶えても、血は残ります」
「馬鹿を申せ。ここにも、おまえが戻ったではないか。絶えるものか」
重孚は、力強く雑賀に断言し、真っ正面から、雑賀の顔を見据えた。
雑賀もまた、重孚の顔を、真っ向から見返した。
「わたしには任務があります」
重孚の表情が、ぴくりと引きつった。
「任務? 勝殿のか?」
「いえ」
雑賀は重孚の目を見据えて、首を横に振った。重々しく、言葉を続ける。
「アメリカ合衆国大統領、アブラハム・リンカーン」
「なに!」
重孚は、呆気にとられたようであった。口を開いたまま、すぐには二の句が口をついて出てこない。
だが、やがて、
「ふふ。ふはは。ふははははは」
と、重孚は剛毅に笑い声をあげた。
「それでこそ、雑賀の男だ。我が先祖、雑賀孫市は織田信長を狙撃した男ぞ。天下人に銃を向けるのは、一族の本懐よ」
雑賀は、にこりとした。
「父上なら、お分かりいただけると思っておりました。これで、気兼ねなく任務につけます」
雑賀の先祖、雑賀孫市こと、鈴木孫三郎重朝は、戦国時代に石山本願寺方について、織田信長を苦しめた武人であった。
紀州雑賀衆の領主として鉄砲集団を率い、自身もまた鉄砲の名手であったという。
織田信長の死後は、豊臣秀吉、伊達政宗に仕え、後に水戸藩初代藩主の徳川頼房に、三千石を賜って家老に准ぜられている。
本来の姓は鈴木だが、家督を継ぐ者一人に限って雑賀と称していた。
神武の東征時、神武天皇を熊野へ案内したという三ツ足の鴉、八咫鴉が雑賀鈴木家の家紋である。
そのとき、縁側を小走りに誰かが部屋に近づいてくる足音がした。雑賀は、拳銃と薬莢を収めたベルトを、自分の手元に引き寄せた。
雑賀も重孚も、縁側に通じる障子戸を見る。足音の誰かが、障子戸の向こう側で足を止めた。
「殿!」と、切迫した口調で、足音の主から室内に声が掛けられた。門番の声である。
「入れ」
と、重孚は鋭く応じた。
門番により、障子戸が開けられた。門番は、室内に雑賀の姿を発見し、ギョッとして動きを止めた。
「貴様!」と、雑賀に怒りの声を投げかける。
「良い。何事だ?」
門番は、重孚に平伏して報告した。
「アメリカの間者が屋敷に逃げ込んだ恐れがあると、藤田小四郎殿と朋輩の方々がお見えです」
門番は、雑賀を睨みつけた。
「この男のことであるのに違いありません」
「追い返せ」
門番は、言いずらそうに一度躊躇ってから、小さな声で言葉を続けた。
「それが、すでに邸内に」
「誰が入れて良いと言った!」
重孚の声には、怒気が含まれていた。
「申し訳ありませぬ」
門番は、畳に額を擦りつけんばかりに、深く頭を下げた。重孚は、それ以上は何も言わず、ただ門番を睨みつけた。
やがて、諦めたように、ふう、と息を吐く。
「すぐ行く。引き留めておけ」
「ハ」
門番は部屋を去った。
「藤田小四郎とは、何者です?」
重孚の慌てた様子が、雑賀には不思議だった。小四郎が誰だとしても、まだ年若い。重孚が動じる理由など、なさそうに思えた。
「藤田東湖の息子だ。父親以上の激派だよ」
藤田東湖は烈公が、最も頼りにしていたとされる重臣で、尊皇攘夷の急先鋒であった。
安政二年(一八五五年)の大地震で圧死したが、その思想は、より先鋭化して、息子の小四郎に受け継がれていた。
水戸藩は、そもそも尊皇攘夷思想を持つ藩であるが、内情は一枚岩ではない。あくまで幕藩体制の秩序を尊重する鎮派と、時に幕藩体制に反してでも、尊皇攘夷活動を進めようとする激派に、藩内は二分されていた。
小四郎は、激派中の激派である。
重孚は、むしろ鎮派に属していた。もともと小四郎とは反りが合わない。重孚は、両腕を組み、一層深く、重い溜息を吐いた。表情が曇っている。
雑賀は、重孚を心配した口調で問いかけた。
「いかがされました?」
「いくら勝殿の証明書があっても、おまえを雑賀聖人と認めると、無断で脱藩し、出国をした事実まで認めることになる。裁かれて、小四郎に首を斬らせる事態にもなりかねん」
「なんだ、そのようなことですか」
雑賀は、重孚の懸念を一笑に付した。
「ならば死人は死人のままで。わたしが雑賀聖人でなければ良いのでしょう。これからは堀居九郎とお呼びください。他藩の人間なら脱藩の罪を水戸藩に問われる筋合いはない」
「堀居九郎、勝殿の身分証明書の宛名だな」
「聖人の『聖』は、アメリカの言葉で『ホリー』。雑賀の旗印八咫鴉の『鴉』は、同じく『クロウ』。ホリー・クロウ・ペリーがアメリカでの呼び名でした。勝さんには、ホリー・クロウに日本語をあてて、堀居九郎と名乗っております」
3
重孚は、雑賀を室内に残して、部屋を出た。樫棒を杖代わりに、藤田小四郎が朋輩と連れ立って歩いてくるのを、縁側で待つ。
小四郎らは、梅林に沿って、門から続いている小道を歩いていた。
門番が、ちょろちょろと小四郎らの前となり後ろとなり、追いすがっては邪魔をして、到着までの時間を稼いでいた。
だが、やがて、小四郎たちは、重孚の部屋に面した庭に到着する。
重孚は、縁側に立って腕を組み、小四郎を見下ろした。小四郎の非礼を咎めるべく、小四郎を睨みつけた。
「何事だ、この騒ぎは?」
重孚は傲然と口を開いた。小四郎は、重孚に、ぺこりと頭を下げた。
「アメリカの間者が、この邸内に逃げ込みました。ぜひ、捜索のご許可をいただきたい」
「断る。当家の門番の目は節穴ではないぞ。そのような者の侵入の報告は受けておらん」
重孚は、にべもなく突っぱねた。
小四郎は、よもや断られるとは思ってもいなかったのであろう。顔を熟柿のように真っ赤にして、重孚に突っかかった。
「表の塀に血の跡がありました。間者は足に傷を負っています。塀を越え、侵入したのに違いありません」
「ならば、当家の者で捜索いたそう。貴公も怪我をしているではないか。帰って早急に治療されい」
小四郎は左手に樫棒を握り、右手で赤黒く染まった袴を、広げて見せた。
「この傷は間者に受けたもの。この手で捕えて処罰をいたさねば、悔しくて治る傷も治りませぬ」
「くどいわ」
重孚は、これ以上の問答は無用と、犬でも追い払うように右手を振るって、小四郎を追い払う仕草をした。
邪険にされて、小四郎は、不愉快そうに顔を歪めた。
だが、そんな小四郎の瞳が何かを捉えたらしい。
不愉快そうであった小四郎の表情が、途端に合点顔となった。
「なるほど。なぜ間者めが、このお屋敷に逃げ込んだのかと不思議でしたが、そういうことですか」
小四郎は、独り言にしては大きすぎる声で、つぶやいた。
「何を言っておる?」
重孚は、突然の小四郎の変化にとまどった。小四郎は、意地悪く微笑んだ。
「ところで、お袖はどうされました?」
「袖?」
重孚は、両手を上げて、左右の袖を見た。
右手の袖口に、血が乾いてこびりついていた。治療時についた、雑賀の血だ。
「はて、どこぞで引っかきでもしたか」
重孚は惚けたが、語尾が震えた。
小四郎は、畳みかけるように言葉を続けた。
「他人の血がついたとも考えられましょう。治療中、間者の血がついたのかも」
「儂が匿いでもしておると?」
重孚は、より一層、小四郎を睨みつけた。小四郎は重孚の眼光を、さらりと受け流した。
「いないと仰せなら、なおさら捜索をさせていただきたい。さもなければ、鈴木重孚に謀反の疑いありとして、訴え出ねばなりませぬ」
重孚は、両手の拳を強く握りしめた。だが、握っただけでは、あふれ出る怒りを吸収しきれず、ぶるぶると拳が震えた。
食いしばった歯の隙間から、絞り出すようにして、重孚は吐き捨てた。
「貴公に、捜索の権限はない」
「そう思い、すでにお呼びしております」
小四郎は、あっさりと自分には権限がないことを認めて、背後を振り返った。
小四郎らが歩いてきた梅林脇の小道を、捕り物時の装備で身を固めた、多数の捕り方が小走りに駆けてくる。先頭は、元目付で現在は水戸町奉行の、田丸稲之衛門だ。
「町奉行の田丸殿であれば、権限に申し分はないでしょう」
「馬鹿者が騒ぎ立ておって」
重孚は、苦々しげに吐き捨てた。
田丸稲之衛門以下、数十名の捕り方衆が、重孚と小四郎らのもとへ到着した。田丸は、重孚よりも年上である。
重孚は、田丸にお辞儀をした。
「これは田丸殿。お役目ご苦労様でござる」
緊急事態だと小四郎に呼ばれて、慌てて駆けつけてきた田丸は、息が切れていた。ぜいはあと、息を吸ったり吐いたりしてから、ようやく切れ切れに言葉を口にした。
「お屋敷に、間者が、潜伏したとか」
重孚は、鷹揚に頷き、静かに口にした。
「左様。私の部屋で休んでおります」
田丸は、唖然とした表情で重孚を見詰め返した。
激高した小四郎が、声を荒げた。
「おのれ、開き直られるか!」
小四郎は、ずいと、重孚に詰め寄った。
「騒ぐでないっ!」
小四郎よりも、さらに大音声で、重孚は、小四郎を一喝した。
重孚の剣幕に、小四郎は沈黙する。
諭すように、重孚は言葉を続けた。
「そう簡単な話ではない」
「どういうことですかな?」
田丸が、落ち着いた口調で問い質した。
「うむ」と、重孚は、重々しく頷いてから、
「藤田殿らが間者のつもりで襲い、怪我を負わせた男は、幕府のご公務の最中だったのです。水戸藩士に、いきなり斬りかかられたと、私の元に苦情を言いに参られました」
「何をぬけぬけと」
小四郎は、より一層、顔を赤くした。
重孚は、やれやれといった感じに、首を振った。
「下手人不明のまま、穏便に処理したいと思っている儂の気も知らず、貴公が騒ぎ立ててしまっては、もう庇いようがないわ」
そのとき、重孚の背後の障子戸が開いた。
ベルトと銃を、もとどおりに身につけた雑賀が、両手で障子戸を左右に開いて、悠々と立っていた。
雑賀は、庭に立つ一同を睨め付けた。小四郎の顔の上で、視線を止める。
雑賀は感嘆したように大仰に声を上げた。
「ほう、もう下手人を捕らえましたか!」
「貴様!」
小四郎は、今にも斬りかからんとばかりに、腰の刀に手をかけた。小四郎の朋輩たちもまた、一斉に同じ行動をとる。
「待てい!」
田丸は、刀の柄を握る小四郎の手首を、がしりと掴んで、無理矢理ぐいっと引き剥がした。
雑賀は、部屋から縁側に出てきて、重孚の脇に立った。雑賀は、今は亡き母親似であった。誰も雑賀が重孚の息子であるとは疑わなかった。
雑賀は、上から、見下したように小四郎を見詰めて、にやりと微笑んだ。
「あいかわらず、物騒な奴らだな」
雑賀は呆れたように、吐き捨てた。
田丸は、小四郎が暴発してしまわないよう、小四郎と雑賀の間に割って入る構えで、雑賀の前に立ちはだかった。
田丸は、丁重に、雑賀に質す。
「貴殿はご公務の最中だとか、何か身を明かす物をお持ちかな?」
雑賀は、田丸の顔を見詰めた。
「あなたは?」
「水戸町奉行の田丸稲之衛門と申す」
「堀居九郎です」
雑賀は田丸に、頭を垂れた。次いで、懐から勝直筆の身分証明書を取りだして、田丸に差し出した。
田丸は身分証明書を両手で開いた。勝の書には、勝の署名と併せて花押もある。
田丸は、残念そうな表情で、首を振った。
「あいにく当奉行所では、勝殿の花押の照らしあわせができませぬ。江戸表に問い合わせをしたのでは日数がかかりますので、この紙の他に貴殿が信用できる人間だという、何か証明は?」
「さあてねえ」
雑賀は腕を組み、左手の親指と人差し指で、自分の顎を掴むようにして数回擦った。
雑賀は、そのまま少し思案をしていたが、「おおそうだ、証明ならあるぞ」と、おもむろに小四郎を指差した。
「藤田小四郎が、まだ生きている」
「何をっ!」
小四郎は、声を上げた。
雑賀は、小四郎には頓着せずに、揚々と言葉を続ける。
「殺す気満々の藤田小四郎らに囲まれたが、俺は誰も殺さなかった。逃げるには追っ手を殺したほうが確実なのに、殺さなかったのは、俺に悪意がないからだよ。信じてもらっていい」
「貴様、よくもぬけぬけと!」
小四郎は、田丸を押しのけて雑賀に詰め寄ろうとした。
「待てと言っておるだろうが!」
田丸は小四郎の肩を強くつかんで、小四郎を引き留めた。続いて、縁側から見下ろしている雑賀の顔を、田丸は見上げた。
田丸は、雑賀の目を覗いた。雑賀は、落ち着いて、田丸を見詰め返した。
そこで田丸は、小四郎に視線を転じた。
田丸は、無理矢理、小四郎を自分に振り向かせた。やはり目を覗く。
小四郎の目は、大きく見開かれて充血していた。小四郎は、ひどく興奮していた。
田丸は、大きく息を吐いた。
どう見ても、軍配は雑賀にある。
「明日、奉行所で話を聞こう。双方、本日のところは治療に努められよ」
田丸は重孚に向き直った。
「鈴木殿。その者、本日はそこもと預けでよろしいか?」
「やむを得まいな」
重孚は、勿体をつけて大きく頷いた。
「かたじけない」
田丸は重孚に頭を垂れ、配下に撤収の指示を出した。
「ほれ」と田丸は、小四郎の肩を小突いた。
小四郎は数歩、蹈鞴を踏んだ。右足に激しい痛みが走ったと見え、小四郎は苦悶の声を上げた。
小四郎は、苦々しげに雑賀を睨みつけた。雑賀は、まったく動じない。
そこで小四郎は、重孚に顔を向けた。慇懃無礼に口を開く。
「よもや、お逃がしになどなりませぬように」
小四郎は、深々と頭を下げた。
4
和田台場は、那珂川の河口左岸にある和田岬に、天保七年(一八三六年)、水戸藩で初めて築造された台場である。
築造当初は、海面から二・五丈程(約七・五メートル)の高さまで石垣を積み上げ、海に迫り出すように平場を造成して、さらに土塁を築いて大砲を設置した低台場と、低台場の後方の崖の上に土塁を築いて大砲を設置した高台場の上下二段構造であった。
だが、低台場は人家に隣接していることもあり、安政年間に行われた改築の際に、低台場からは土塁と大砲が撤去されていた。そのため、現在、台場として機能しているのは、高台場のみである。
敵の砲弾から、大砲と人間を守るために築かれる土塁は、台形に土を盛って造った小さな山である。普段は、台場に大砲は設置されておらず、格納庫に収められているだけだが、有事には土塁と土塁の間に大砲を設置して、土塁と土塁の隙間から、身を守りつつ、大砲を海の敵に向けることになっていた。
台場には、大砲を収容しておく倉庫の他にも、火薬庫や兵士が詰めるための屯所等がある。海上を見張るための物見櫓も建っていた。
文久三年五月二十一日(一八六三年七月六日)未明。
物見櫓で、当直の任務についていた水戸藩士は、まだ太陽が水平線の向こう側から顔を出す前の、漏れ出すように海面を照らし始めた段階で海上に目をやり、呻き声を上げた。
湊の沖合に、見たこともない形状をした一隻の外国船が、悠々と停泊していたのである。モビーディックだ。
慌てた見張りは、首から下げた笛を、音が台場中に響き渡るように強く吹き鳴らした。
金属製の半鐘は、大砲鋳造のために鋳潰されてしまっていたので、設置されてはいない。櫓の上に吊されている木製の半鐘を強く打ち鳴らして、建物内でまだ眠っている味方を、とにかく叩き起こした。
すぐさま、兵たちが、着のみ着のまま、わらわらと屯所から飛び出してくる。
兵たちは、烈公ご自慢の『ごろり二分』を台座に据え付けるべく、それぞれ自分の決められた持ち場となっている、土塁後方の大砲格納庫へと走っていった。
同じような騒ぎは、海に向かって和田台場の左側に位置する旭ケ丘の東塚原台場、同じく右側で、那珂川の対岸にあたる祝町向洲台場でも発生していた。
これら三箇所の台場は、那珂湊は勿論だが、水戸城を守るためにも、最重要の施設である。万一、那珂川への敵船の侵入を許すと、川を遡上した敵船から上流の水戸城へ、直接、砲撃が行われてしまう恐れがあった。
台車に載せて、格納庫から、ごろごろと兵たちに引き出された大砲が、土塁の間に次々と並べられていく。砲弾と火薬も準備された。
夜中の内に沖合に到着したのであろうモビーディックは、恐らく、暗闇の中、水深の浅い岸近くへ近づくことを避けて、そのまま沖合に停泊していたのだと推察された。
モビーディックの旋回砲塔は、陸地ではなく、太平洋の彼方を向いている。
台場に対して、砲塔を向けていないところを見ると、少なくとも直ちに交戦の意志はないという意思表示だろう。
だが、パニックになっている和田台場には、モビーディックの意志を読みとれるだけの余裕のある人間は、一人もいなかった。誰もが必死に抗戦の準備に取りかかっている。
水平線から顔を出しかけていた太陽が、ようやく完全に姿を現した。陸地での騒ぎを知ってか知らずか、モビーディックが碇を巻き上げた。
蒸気機関に火が入り、煙突からは煙が上がった。スクリュー制御で、船体が動き出す。モビーディックは、船首をまっすぐに、和田台場に向けた。
和田台場は、和田、東塚原、祝町向洲の三箇所の台場が連携して那珂湊を守るにあたって、最も要となる、中央に位置する台場であった。モビーディックからすれば、一番最初に沈黙させたい台場ということになる。
モビーディックは速度を上げて、和田台場の前面に迫ってきた。
「発射準備よし」
最初に据え付けられた大砲の狙撃手から、嬉々として大きな声が上がった。次々と、その他の大砲からも、「準備よし」の声が続く。
和田台場の、すべての大砲の準備ができた。
だが、まだモビーディックは、射程の外である。
台場にいる、すべての水戸藩兵は、攻撃の時はまだかと、迫るモビーディックの様子を注視していた。
モビーディックの船首では、風に大きく旗がはためいている。
台場に近づいたことで、翻るモビーディックの旗の模様が、注視する全ての水戸藩兵の目に、はっきりと見て取れた。
旗は、アメリカ国旗ではなかった。水戸藩兵にとっても馴染みの旗だ。
「あの旗は!」
全員が、一斉に驚嘆の声を発した。
5
雑賀が、鈴木重孚邸に預けられた翌朝。まだ夜が明けて間もないうちに、重孚邸の門の脇の壁に、外から三本の梯子が掛けられた。
すぐさま、捕り方用の衣装の上に、甲冑で身を固めた男たちが、梯子を登ってきた。
男たちは邸内に飛び降りた。二人が見張りに立ち、残る一人が門の閂を抜いて、門を開けようとする。
そのとき、門に隣接して建つ、門番が寝泊まりするための小屋から、物音に気づいた門番が慌てて飛び出してきた。
門番が声を上げる間もなく、見張りに立った、二人の捕り方が、門番を取り押さえる。
手出しをできず、見守るだけとなった門番を尻目に、ついに門から閂が抜き取られた。
門が開かれ、田丸稲之衛門を先頭に重装備姿の数十名の捕り方たちが、続々と邸内になだれ込んできた。
捕り方たちは、手に手に刺股や突き棒、袖搦みなどを持っていたが、中には先ほど壁に掛けて使った、梯子を抱えている者もいた。どの得物も、下手人を取り押さえるための道具である。
門番には、捕り方たちは、雑賀を捕えに来たのに違いないと思えた。だが、もしかしたら、雑賀を匿った主人、鈴木重孚までも捕えに来たのかも知れなかった。
いずれにしても雑賀を邸内に入れたことで、やはり余計な面倒まで呼び込むことになったようだ。
捕り方たちには、昨夜、門番が見た覚えのある顔も多かったが、藤田小四郎と朋輩の姿は見あたらなかった。純粋に、田丸稲之衛門と、田丸の配下だけだ。
田丸が、門番に近づいてくる。
「田丸殿!」
門番は、悲痛な声を上げた。
「今朝未明、那珂湊に異国船が入港した。昨日の男が手引きをしたとも考えられるので、拘束に参った」
田丸は、淡々と今回の狼藉の目的を告げた。居並ぶ配下の者たちに、雑賀捕縛の指示を出す。
捕り方たちは、一斉に屋敷に向かって走り出した。田丸も後へ続く。
後には、ただ一人、門番だけが取り残された。
6
重孚は、がちゃがちゃと、庭を大勢の人間が走る物音を聞きつけ、障子戸を開けて、縁側へ出た。
布団に入る際に着用している、長襦袢姿だ。
昨夜、雑賀と遅くまで杯を汲み交わしていたので、まだ眠かった。
庭先には、重装備の田丸配下の捕り方たちが犇めいている。
「何ごとだ!」
重孚は、土足のまま屋敷に上がりそうな様子の捕り方たちを、怒鳴りつけた。
「水戸町奉行、田丸稲之衛門様の命により、預け人の身柄を拘束しに参りました」
「拘束だと?」
捕り方の集団が左右に割れ、背後から田丸が、重孚の前に進み出た。
「田丸殿、こんな時間から、これは一体、どういうおつもりですかな?」
重孚は、激しく田丸を睨みつけながらも、なるべく平穏な口調となるように心がけて、田丸に問いかけた。
「それがしが逃がさぬと信用して、あの男をお預けになられたものとばかり思っておりましたが」
田丸は、重孚に頭を垂れた。
「和田の台場から先ほど早馬で、不審な外国船が入港したとの報が届きました。お預けした男が何か手引きをしたとも考えられ、急ぎ、拘束に参った次第です。あの男は、どこです?」
重孚は、田丸の言葉に対し、即答はしなかった。
雑賀の部屋は隣室だ。当然、騒ぎには気がついているだろう。
外国船と雑賀との繋がりは分からなかったが、どう庇い立てするのが一番か、重孚は、頭を素速く回転させた。
だが、重孚が、答を出すよりも早く、
「そう大声を出さないでくれないか。馳走になった昨夜の酒を飲み過ぎて、頭ががんがんと痛いんだ」
隣室の障子戸が開き、右手で頭を押さえながら、雑賀が姿を現した。
雑賀は、すでに着替え済みである。腰の左右に拳銃を下げ、体には薬莢のベルトを巻きつけていた。
言葉とは裏腹に、弱っているような表情はしていない。むしろ、すっきりと目が覚めたような顔立ちだった。
捕り方たちが、一斉に雑賀に得物を向けた。
田丸が、一言「かかれ」と指示を出せば、雑賀は、たちまち捕縛されてしまうのに違いなかった。
だが、雑賀は余裕すらある表情で、緊張感漲る捕り方連中に対して、飄々とのたまわった。
「お迎え、ご苦労さん」
雑賀は、田丸に顔を向けた。
「拘束ではなく、本当は俺の助けがほしいんだろう? あんたらはその外国船をどう取り扱ったら良いのか、対応を決めかねているはずだ」
田丸は雑賀に図星を指されたのか、驚いたような表情をした。
重孚は、落ち着き払い、すべてを承知したような雑賀の様子に、どうしても口を挟まずにはいられかった。
「何か知っているのか?」
雑賀は、相手がまんまと騙されている様子を、してやったりと楽しんで見ている悪戯っ子のような表情で、にやりと笑った。
雑賀は、からかうような口調で、田丸に声を掛けた。
「その外国船、ただの外国船じゃあなかったんだろう? どんな旗だった?」
田丸は、困惑の表情を浮かべた。ただ捕えて、和田台場に連れて行くだけのつもりが、逆に追いつめられてしまっていた。
捕り方たちも、どう対処したものかと、基本は雑賀に得物を向けたままの姿勢で、田丸の様子を、ちろちろと盗み見る。
末端の捕り方たちには、勿論、早馬から田丸への報告内容の詳細は伝えられてはいない。田丸の指示を受けて、ただ出動しただけである。外国船の旗が何かなど、知るよしもなかった。
「助けてやるから言ってみろよ」
雑賀は畳みかけた。
田丸は、己の敗北を認めたのか、ようやく、苦々しげに口を開いた。雑賀ではなく、重孚に対して回答したのは、せめてもの反骨心の現れなのだろう。
「外国船は三葉葵の旗を掲げているそうだ」
7
雑賀と重孚は、田丸らと一緒に和田台場に駆けつけた。
崖の上の高台場は、もともと台場に配置されていた藩兵のみならず、急遽招集された非番の藩兵や、戦闘補助のために動員された農民らのために、早朝にもかかわらず、ごった返していた。
水戸藩では、文久三年三月の将軍上洛に、藩主の徳川慶篤が同行した際以来、有事には、その日の当番の農家を、一日二百文で戦闘補助員として動員することができる、当番編成が整えられていた。水戸藩内の全ての農家が、水戸藩の軍事動員体制に組み込まれているわけだ。
水戸藩としては、農民に戦闘員としての働きまで期待しての制度改革だったが、現実には、せいぜい戦闘補助員としての働き程度までしか役には立たなかった。戦闘補助員としてすら怪しい、というのが、正直な実態である。
雑賀は、台場の群衆の中に、藤田小四郎の姿を認めた。
小四郎は杖を突いて立ち、「さっさと撃たんか」と、土塁の隙間に大砲を設置したまま一向に砲弾を発射しようとはしない水戸藩兵たちに対し、しきりに騒ぎ立てていた。
沖合から岸近くに移動をしたモビーディックは、和田台場の前方の海に、悠々と停泊していた。船首では、三葉葵の旗が、風にたなびいている。
雑賀は、田丸配下の捕り方たちに物々しく囲まれたまま、田丸に案内されて、台場の前面にある土塁の近くまで足を進めた。
縫いつけた足の傷は、歩くのに支障はなかった。ブーツの傷も、昨晩、縫って補修したため、問題はない。
雑賀らが目指した先とは異なる土塁の水戸藩兵にからんでいた小四郎が、雑賀の到着に気がついた。
小四郎は杖を突き、右足を引きずりながら、雑賀に向かって、一直線にやってきた。
「あの船は横浜で貴様が降りた船だろう! どういうことだ!」
小四郎は雑賀に向かって、飛びかからんばかりの勢いで、がなり立てた。
だが、小四郎が、雑賀に掴みかかるよりも早く、雑賀を取り囲む捕り方たちが、近づく小四郎を食い止めた。
捕り方たちによる雑賀の囲みは、勿論、雑賀の逃亡を防ぐことが一番の目的であったが、雑賀を警護する役割も担っていた。水戸藩にとって今の雑賀は、現状を打破するための鍵を握る、重要人物だ。
小四郎は、捕り方らにより、雑賀に近付けぬよう引き離されてから、背中を押されるようにして解放された。
踏ん張りの効かない体の小四郎が、地面に転がった。
「何をするか!」
激高して、自分を転ばせた捕り方を打とうと、小四郎は杖を振り回した。
捕り方たちの意識が、一斉に小四郎に集中する。
その瞬間、雑賀は、するりと捕り方の囲みを抜けると、台形の土塁の上まで駆け上がった。
土塁の上から、モビーディックの様子を眺める。それは逆に、相手からも、雑賀の姿が丸見えになる状況を意味した。
いや、むしろ、モビーディックに、この台場に雑賀がいると認識してもらう目的で、雑賀は、土塁の上に立ったのだ。
モビーディックは、左舷を和田台場に向けて停泊していた。
砲塔は二門とも、太平洋の彼方へ向けられている。和田台場とは、正反対の方向だ。やはり、交戦の意志はないように見受けられる。
「船からは何も?」
雑賀は振り返り、土塁の下に立っている田丸に向かって声を掛けた。田丸の隣には重孚もいる。
和田台場の指揮官らしき水戸藩士も立っていた。水戸藩士は、田丸に状況を伝えているところだった。
モビーディックの周囲は、水戸藩兵を乗せた十数艘の小船によって、遠巻きに取り巻かれている。
小船の乗組員たちは、周囲を囲むことで、モビーディックを威圧しているつもりのようであった。
ところが、腰が退けて遠巻きになってしまっているため、威圧の役目など、少しも果たしてはいなかった。むしろ、弱腰である事実が明らかだ。
「接触を試みてはいるが、音沙汰無しだ」
土塁の下から、田丸が叫んだ。
風が強いために、声が、よく届かない。
田丸と重孚が土塁を上り、雑賀に並んだ。
「勝さんも人が悪い。焦らさず、すぐに出てきてくれればいいものを」
二人が横に並び立つのを待って、雑賀が口を開いた。浮き浮きとした、悪戯の最中のような、弾んだ声だった。
「あの船には安房守殿が乗っているのか! 一体、何をしに?」
田丸が、仰天した声を上げた。
将軍である徳川家茂からも信任の厚い、海軍奉行並の勝海舟が出てくるとなると、水戸藩としても、それなりの地位にある者による対応が必要だ。急いで、水戸城から呼び寄せなければならなかった。
「さあ、きっと海防のご視察でしょう」
飄々と応える雑賀の声は、どこまでも明るく弾んでいた。
8
土塁の上で、にこにこと何やら談笑をしている様子の雑賀、田丸、重孚の三人を、小四郎は、憎々しい思いで見上げた。
小四郎と、雑賀、田丸、重孚の三人の間には、ただ距離があるだけではなく、田丸配下の捕り方たちが壁となって立っている。制止されずに近づく真似は絶対に不可能だった。
小四郎は、視線を海に転じた。
海には、こちらもまた憎々しいモビーディックが、悠々と停泊していた。
近づいた小船から、再三、声を掛けているようだが梨の礫だ。一向に応答は行われていなかった。
小四郎は、ぎりぎりと歯噛みをした。
モビーディックからは応答こそなかったが、陸地の様子を観察しているはずだった。
恐らく、水戸藩兵が、右往左往している様子を見て喜んでいるのだ。そうに違いない。
「馬鹿にしおって!」
小四郎は、吐き捨てた。
「そんなに見たければ、目に物見せてやる!」
小四郎は、足を引きずり、手近の大砲に近付いた。
大砲は、大きな車輪が左右についた、専用の台車に乗せられて、土塁と土塁の間に設置されている。
発射後の大砲は、反動で大きく後退をしてしまうため、復座から再装填、再発射といった一連の動きには、通常、八人程度の人間が必要だった。
だが、ただ点火をするだけならば、一人だけだ。
「やめろっ!」
そんな小四郎の動きに気づいたのか、土塁の上から、雑賀が叫んだ。
小四郎は、勿論、止まらなかった。
「寄越せっ!」
小四郎は杖を捨てた。いつでも砲撃できるようにと、準備を整えて配置に着いている砲撃手の内、先端に差し込み式の導火線をつけた棒を持つ男から、点火棒を奪い取った。
男の足元に立てられている、種火用の火がついた点火棒で導火線に点火をすると、大急ぎで大砲後部の火門に向けて棒を伸ばす。
次いで、差し込み式の導火線を、火薬の詰まった薬包に差し込む。すべては、一瞬の出来事だった。
大砲の先端は、すでにモビーディックに向けられている。撃てば、砲弾は、一直線に敵の船だ!
大砲が火を噴いた。
反動で、大砲を載せた台車が車輪を回転させて、大きく後ろへと後退する。
砲弾は、モビーディックに向かって砲身を飛び出し、ひゅるひゅる~ちゃぽんと、崖の下、今は平らに均されてしまった、かつての低台場の前方の海に、かろうじて着水した。モビーディックまでは遠く及ばない。
「あははははは」
土塁の頂上で、腹を抱えて、雑賀が笑った。
「さすが、ごろり二分!」
小四郎は、あまりに不甲斐ない出来事に、真っ赤になって、砲撃手たちを叱りつけた。
「ええい、どこを狙って大砲を据えている! 早く、次の弾を込めんか!」
「駄目です」
砲撃手の一人から、悲痛な声が発せられた。
試射など唯の一度もしたこともない烈公ご自慢の大砲は、早くも砲身に大きな罅割れが生じていた。
「では、次だ」
小四郎は、隣の大砲に向き直った。
「他の大砲は、どうしている! 早く撃たんか!」
小四郎は、台場の他の大砲に配置されている砲撃手たちに向かって、声を上げた。
「馬鹿者!」
年齢からは、とても考えられぬ速さで土塁を駆け下りて、田丸が、小四郎の頬を殴りつけた。
小四郎は地面に転がった。口の端が切れ、鼻からも血が吹き出した。
「三葉葵の旗に向かって砲撃をするとは、おまえは、水戸藩を幕府の敵にするつもりか!」
田丸は、倒れた小四郎を、傲然と見下ろした。目が、赤々と血走っている。怒りのあまり、握った拳が激しく震えていた。
「おまえは! おまえは!」
それ以上、田丸は言葉が続かない。
事ここにいたって、ようやく小四郎にも自分のしでかした行為の重大さが、明確に認識された。
小四郎はただ、憎い異国船に対する攘夷活動のつもりで砲撃を行っただけである。だが、相手が三葉葵の旗を掲げている事実を承知で攻撃をする以上、幕府に対する反乱の意思表示と同義だった。
水戸藩対徳川幕府の戦争だ。水戸藩が、お取り潰しにされる咎めを受けても、おかしくはなかった。
すぐさま、モビーディックが報復に動く。
太平洋に向けられていた砲塔が、旋回を開始した。ギリギリという、砲塔の回転音すら聞こえそうだった。
砲塔は、瞬く間に和田台場に向けられた。
小四郎も田丸も重孚も、モビーディックの動きを見た者は皆、あっと一様に息を飲んだ。
雑賀だけが、落ち着き払って、悠然と立っている。楽しそうですらある表情だった。
「来るぞ」
空気の張りつめた沈黙の中、そう大きくもない雑賀の声が、和田台場の中に響き渡った。
水戸藩兵も動員された農民も、慌てて地面に身を伏せた。重孚も土塁から駆け下りて、土塁の陰に、身を隠す。
ドン、という、モビーディックからの砲撃の音が聞こえるのと同時に、着弾した。
台場の外側、右の端で、山が吹き飛んだ。植えられていた松の茂みが粉々になる。爆風が、もうもうと辺りに舞い上がった。
モビーディックのすぐ近くでは、小船に乗っていた水戸藩兵が驚いて海に落ち、その衝撃で、小船がひっくり返っていた。
「まず一つ」
と、雑賀の声が台場に響いた。
続いて第二弾。今度は台場の左端の松の茂みが吹き飛んだ。
前後左右の砲塔から、モビーディックは、休みなく砲撃を繰り返す。台場の左右に、あわせて二十一発の砲弾が撃ち込まれた。
「これで二十一だ。立ってもいいぞ」
激しい砲撃の中、一人だけ、山門の仁王像のように雄々しく、土塁の上に立ったまま、冷静に数を数えていた雑賀が、宣言した。
地面に身を伏せ、頭を抱えて震えていた者たちが、恐る恐る首を上げて、一人、また一人と立ち始める。
転がっていた杖を手に取り、小四郎もどうにか立ち上がった。辺りには、まだ土煙が舞っている。
小四郎は、きょろきょろと周囲を見回した。
阿鼻叫喚の地獄絵図を覚悟したが、死んだり、怪我をしてのたうち回っているような様子は、ただの一人も見受けられなかった。台場の左右では、松林が消え、禿げ山と化していたが、和田台場そのものは無傷だった。
「ははは、奴ら、おおはずれだ」
力なく小四郎は、虚勢を吐いた。
勿論、そうでないのは明らかだ。モビーディックは、意識して砲撃を台場の左右に撃ち分けたのだった。もし狙われれば、土塁などあったところで、ひとたまりもなかったはずだ。
「馬鹿。全部、俺たちに撃ち込むことだってできたのを、わざと外したんだよ」
いつの間にか、土塁を降りて近づいてきていた雑賀が、小四郎に言い捨てた。
9
モビーディックの前部旋回砲塔上には、司令室がある。分厚い鉄板で囲まれた司令室は、船上で一番見晴らしの良い場所だった。
勝海舟は、艦長であるジョナサン・デビットの横に立ち、陸地の和田台場の様子を、双眼鏡で覗いていた。
台場の左右に撃ち込んだ砲弾の成果か、台場は完全に沈黙している。
撃たれたところで、水戸藩の大砲が、モビーディックまで砲弾を届かせることなどできるとは思わなかった。
とはいえ、反撃をする気にもなれないほど、相手の戦意を削ぐ行為に成功したようだった。白旗こそ掲げられてはいなかったが、台場には、まったくといっていいほど活気が見受けられなくなっていた。
ほんの少し前まで、来るべき合戦の準備で、無数の人間が、大砲の配置に右往左往していたのと同じ台場とは、とても思えなかった。
モビーディックの旋回砲塔は、二基とも、まだ和田台場に狙いをつけたままである。
モビーディックのすぐ近くの海では、モビーディックの砲撃の衝撃でひっくり返っていた水戸藩の小船が、何とか船体を起こそうと奮闘していた。
濡れねずみのような状態になりながら、ようやく起こした船の上に、投げ出されていた水戸藩兵が登っていく。
「ちょいと行ってくらぁ」
立て直された小船を見詰めていた勝は、双眼鏡を唐突にジョナサンの手の中に押し込んだ。
ジョナサンが止める間もなく、勝は、金属製の手すりに手を掛けると、司令室から、甲板上に飛び降りた。
勝は、甲板上を、左舷の船縁まで一息に走り抜けた。転落防止用の柵から身を乗り出して、水戸藩兵の小船に手を振る。
「おい」
勝は船縁から、小船に声を掛けた。
小船の上で、濡れねずみになっている水戸藩兵たちが、驚きの表情で勝を見上げた。
外国船から日本語で話しかけられた事実が驚きだったのか、それとも、今まで応答のなかった相手から、声を掛けられた事実に驚いたのか。
いずれにしても、水戸藩兵たちは、勝に対して、すぐには返事も満足にできず、呆然と船上に立ちつくしたままだ。
勝は、いらいらとした口調で、小船の水戸藩兵を怒鳴りつけた。
「聞こえてんのか、聞こえてねぇのか! 聞こえてるんなら、とっとと返事をしな。返事を」
「聞こえております」
指揮官らしい水戸藩兵が、か細い声で、ようやく答えた。
「よぅし、おまえ。すぐ、この脇に船を寄せて、俺を乗せな。三葉葵に大砲を撃ち込むような阿呆の面を、俺が行って確かめてやる!」
10
高台場と、かつての低台場は、石段によって行き来ができる構造になっていた。
勝を乗せた小船が、和田台場へ近付いてくる。雑賀らは、石段を降りて低台場跡地へ移動した。
高台場と同様、以前は土塁が築かれ、大砲を収容しておくための倉庫や火薬庫、兵士の屯所等も設置されていた低台場跡地は、今では雑草が生い茂った、単なる広場と化している。
地面の高さは、海面から、二・五丈程(約七・五メートル)である。
小船が着いても、そのままでは人が乗り移れる高さではなかった。だが、広場前面の海に面した石垣の一部が切り欠かれて、さらに石段で降りられる仕組みになっていた。
石段の下には、海面の高さに小船が一艘横付けできる程度の、簡単な船着き場がある。
雑賀と重孚、田丸、小四郎の四人は、勝を出迎えるため、船着き場へ降りる石段のすぐ上に立って、近づいてくる勝が乗った小船を見詰めていた。その他の水戸藩兵たちは、石段からは少し離れて整列している。
田丸は、緊張の面もちを、浮かべていた。
小四郎は、しゅんとなり、へこんだ様子で田丸の脇に立っていた。
「馬鹿めが、一時の感情に流されおって! いずれは我が藩の重臣となる貴様が、その体たらくでは、この先、藩の舵取りを誤るぞ」
田丸は小四郎に毒づいた。不安から、何か言わずにはいられない。沙汰を待つ罪人の心境だった。小四郎は、反論する気概もなく、ただ、うなだれて立っているだけだ。
勝を乗せた小船が、船着き場に接近した。
勝は、小船が船着き場に横付けに接岸する時間すらもどかしいのか、まだ小船が止まってはいないのに、船縁から船着き場へと飛び移った。そのままの勢いで、石段を駆け上ってくる。
田丸が、ごくりと唾を呑んだ。
勝が、石段を登りきった。勝は、居並ぶ人間の顔を、目だけで見回した。
身なりからは、明らかに田丸が一番格上だ。当然、台場の責任者だと推察された。
勝は、まっすぐに田丸に向かった。
「勝安房だよ。出迎え、ご苦労」
田丸が口を開こうとしたが、その前に、勝は早口で捲し立てた。
「撃ったのは、おまえさんかい? 水戸藩は幕府と合戦をしようっていうんだね?」
勝は田丸に向かい、唾が掛かるほどの距離まで顔を近付けて、詰め寄った。
田丸は、勝の剣幕に何も言えない。田丸の脇で、うなだれているだけだった小四郎が、かっと目を大きく見開いた。
「御免!」
腹を斬るため、小四郎は、両手で前をはだけた。次いで、腰の脇差に右手を伸ばす。
だが、小四郎が脇差を抜くよりも早く、雑賀は、小四郎の右手首を自分の右手で、強く掴んだ。小四郎の右手は、もう動かない。
誰もが小四郎が何をしようとしたのか一目で分かったが、雑賀は、飄々と勝に言ってのけた。
「合戦ではなく、先刻、撃った大砲は、祝砲ですよ。だいぶ弾数が足りませんが、『貴艦の航海の無事を祝う』です」
勝は、ギロリと雑賀を睨んだ。雑賀は涼しい顔で、勝の視線を受け流す。
手首を掴まれたままの小四郎が、雑賀と勝、双方の顔を、きょろきょろと見比べた。
雑賀も勝も、すでに小四郎の存在など眼中にない。
勝は、モビーディックの砲撃によって形成された禿げ山を、顎をしゃくって、指し示した。
「なら応砲二十一発。確かに返したぜ」
勝は、ぶっきらぼうに吐き捨てた。
雑賀は、小四郎を、田丸に対して突き飛ばした。田丸が慌てて小四郎を受け止める。
雑賀は、右手を上に挙げて掌を勝に見せ、勝にアメリカ海軍式の敬礼をした。
「受け取りました」
勝は雑賀に、ニヤリとして見せた。緩んだ口が、アメリカでの雑賀の通り名を呼んだ。
「ホリィ!」
勝は、大仰に両手を広げた。
雑賀の体に腕を回して、雑賀を抱きしめる。
「お久しぶりです」
雑賀も、勝の背に手を回した。
小四郎を受け止めた体勢のまま、田丸がおずおずと、勝に対して声を掛けた。
「応砲というのは?」
「あん?」
勝は雑賀から身を離すと「こいつ、何も知らんのだな」といった表情を田丸に向けた。
「西洋では船が港に到着すると、航海の無事を祝って、陸から二十一発の大砲を撃つんだよ。船からそれに応えて、同じく二十一発の大砲を撃ち返すのが応砲だ」
「普通は、空砲なんですがね」
咎めるような口調で、雑賀が言った。
勝は、底意地の悪そうな表情で微笑んだ。
「身のほどを知らぬ水戸藩士に、外国船の強さを見せつけてやろうと思ってな。いくら攘夷を唱えたところで、現実にこの威力に勝る力を持っていなけりゃ、何もできねぇんだ」
勝の言葉に、キッと小四郎が顔を上げた。
小四郎は、勝の前に立ちはだかった。雑賀と勝の親密な様子に、腹を切るという自分の崇高な覚悟を、すっかり虚仮にされた思いだったに違いない。
小四郎は、真っ赤な顔で勝に噛みついた。
「それでは幕府は、帝との攘夷決行の約束を破るというのですか!」
「これ!」
慌てて、田丸が小四郎をたしなめた。
「ふん。おめぇさんも攘夷かぶれかい」
勝は小四郎の足元に向かって唾を吐いた。
「現実、外国との条約を反故にする破約攘夷なんて、できるもんかよ。外国船の大砲は、水戸藩のおんぼろ大砲なんぞとは違って、江戸湾から江戸城まで弾が届くんだ。いざ合戦になりゃ、真っ先に将軍が死んじまうよ」
「江戸城が危険だというのなら、川越藩でも高崎藩でも、将軍は弾が届かぬ城に移って、そこから指揮を執ればいいのです」
「阿呆。将軍一人だけ生き残ったって、何の役にも立ちゃしねぇよ」
勝は雑賀に顔を向けた。
「ホリー、おまえさんなら、どうやって日本を攻めるかね?」
雑賀は、躊躇なく即答した。勝がした質問に対する答は、既にシミュレーション済みだ。
「モビーディックで江戸湾の入口に陣取って、全国から物資を積んで江戸に来る船を、片っ端から沈めるだけですよ」
「なるほど。そうすりゃ、百万の江戸市民の食料は、瞬く間に底を突くか。暴動になるだろな」
「暴徒と化した江戸市民は、江戸城に備蓄されている、兵糧を出せと叫ぶことでしょう」
「はっ、将軍が食い詰めることになるわけだ。どうせなら大坂湾で同じ戦法をやって、京都の御威光に、少しわからせてやるといい」
「何と恐れ多いことを!」
小四郎は、青くなった。
「現実に目を向けな。あの船は、今はああして三葉葵の旗を揚げているが、ちょいと借りているだけなんだ。もし本気で江戸湾に陣取られたら、日本にゃ、あれに勝てる船は唯の一隻もねぇんだよ。同じ攻撃を、ロシアやイギリスがやるかもしれねえ。やらせぬためには、強い海軍を持つしかねえだろう。開国して、外国から船を買ってくるしか、手はねえんだよ!」
「船などなくとも、元寇の時代より、神国日本の危機には神風が吹きます」
「このド阿呆!」
勝と小四郎は睨み合った。今にも、取っ組み合いになりそうだ。
雑賀が勝を、田丸が小四郎を、それぞれ取り押さえた。
「やめんか!」
田丸は、小四郎を一喝してから、勝に声を掛けた。
「安房守殿。それで、本日は、いかなる御用向きから水戸藩へ?」
「うるせぇ。この勝は、海軍奉行並として日本の海岸線を守ってるんだ。海がありゃ、どこにでも、いつでも好きに行くんだよ」
「勝さん!」
雑賀は、呆れて声を発した。さすがに勝は、自分の大人げのなさに気がついたようだ。
勝は、指先で頭を掻いた。
「すまねぇ。ちいと熱くなりすぎちまった」
勝は、田丸に頭を下げた。田丸は恐縮して、かしこまった。
対照的に、くだけた様子で、雑賀が勝に話しかける。
「ずいぶんと早い到着ですね。もう少しゆっくりさせてもらえるものと思ってましたが」
「京都守護職の松平中将様から、至急のお呼び出しだ。陸路より、おまえさんの船を借りたほうが、早く着くからな。すまねえが、一緒に行ってくれねぇか」
勝は、雑賀の返事も待たずに、石段を降りていく。
「今すぐですか!」
驚きの声を、雑賀は上げた。
「おうよ」と、勝は、簡単に返事をした。
雑賀は天を仰いだ。こうと心に決めた勝には、何を言っても、もはや無駄だった。
雑賀は重孚に向き直り、深々と頭をさげた。
「昨夜は、お世話になりました」
だが、本当に雑賀が言いたかったのは、昨夜一晩の感謝ではない。言下に、これまで育ててくれた年月に対する感謝を込めていた。
「なに、気になさるな」
重孚は、軽い口調で返答した。それから、とってつけたように付け加える。
「おお、そうだ。お体に気をつけられろよ」
「重孚殿も」
「おい!」
すでに船着き場に着き、小船に乗り込んでいたせっかちな勝から、催促の声が飛んだ。
雑賀は、苦笑した。
「では、これで」
雑賀は石段を駆け降りた。
11
雑賀と勝を乗せた小船がモビーディックに到達した。
まず勝が、次いで雑賀が、モビーディックに乗り移っていく一挙手一投足を、低台場の海沿いの石垣の上から、重孚は、ずっと見詰めていた。
田丸以下の捕り方と水戸藩士たちは、高台場に戻り、もはや使う必要がなくなった大砲の片付けに励んでいる。
重孚から少し離れた場所では、小四郎もまた、熱い視線でモビーディックを見詰めていた。重孚の興味が雑賀にあるのに対し、小四郎の興味は、船そのものだ。
やがて、モビーディックは動きだし、今まで和田台場に向けていた左舷が太平洋側へ、太平洋へ向けていた右舷が和田台場へ向くように、百八十度ぐるりと方向を変えると、京都へ行くため、大阪湾に向かって出航した。
船足が速まるにしたがって、モビーディックの姿は、どんどん小さくなっていく。
悔しいが、今まで小四郎が見た覚えのある、他のどんな船よりも、モビーディックは素速かった。
そのうえ、攻撃力もある。
日本には勝てる船がないと言い切った、勝の言葉が思い起こされた。確かに、神風すらも乗り越えてしまうように感じられる。
小四郎は振り返って、高台場を見上げた。台場の両脇にあったはずの松林は、跡形もなく、禿げ山となっている。
小四郎は再び、モビーディックに視線を戻した。
モビーディックは、遙か彼方で、すでに点にしか見えなくなっていた。
つくづく、凄い船だ。
小四郎の口から、思わず声がこぼれ落ちた。
「あの船さえ手に入れば」