第二章 勝海舟の手紙
1
アメリカ合衆国の二代目駐日領事、ロバート・H・プリュインは、痩せている上に、背がひょろりと高い、針金のような体格の男であった。
もみあげと一体化した顎髭が、もじゃもじゃと顎全体を覆っている。
プリュインは、初代領事タウンゼント・ハリスの後任として、文久二年三月二十七日(一八六二年四月二十五日)に、来日していた。
着任以来の公使館は、江戸麻布の善福寺{ぜんぷくじ}である。
攘夷派浪士による襲撃を恐れた他国が、一様に公使館を江戸から横浜へ移しても、一貫して、善福寺{ぜんぷくじ}に公使館を置き続けた、ハリスの意志を継いだのだ。
善福寺は、浄土真宗本願寺派の古刹である。
関東一円に真言宗を広めるべく、天長元年(八二四年)に、弘法大師が開山したのがもともとだが、鎌倉時代に寺を訪れた親鸞聖人の高徳に傾倒し、一山を挙げて浄土真宗へ改宗したという、歴史を持っている。
とはいえ、つい一月ほど前の文久三年四月七日(一八六三年五月二十四日)に、善福寺は原因不明の出火により、焼失していた。浪士による放火とも、自身の火の不始末とも思われたが、結局、原因はわからずじまいだ。
プリュインは、善福寺に向かう参道沿いにある、同じ浄土真宗本願寺派の真福寺{しんぷくじ}を、焼失した善福寺に代えて、アメリカ公使館にした。
プリュインの執務室は、真福寺の本堂に併設して建つ、居住用の棟の一画にある。
もともと畳敷きであった部屋を、急拵えで板敷きに改装した執務室は、執務用の小さなテーブルと椅子の他に、来客用のテーブルと椅子、それから棚がいくつかあるだけの殺風景な部屋であった。
文久三年五月十七日。応対に出た中国人の召使いに連れられ、近頃、来日したという、アメリカ軍艦の船長と通詞が、プリュインのもとを訪れた。
プリュインは、自身の椅子に腰を掛けて、本を読んでいるところであった。中国人召使いは、プリュインに、来客を案内した旨を告げて、席を外した。
プリュインは、召使いの言葉に鷹揚に頷いたが、本から目を離そうとはしなかった。
マシュー・カルブレイス・ペリーが記した『日本遠征記』だ。言わずとしれた、日本開国の立て役者、ペリー提督の著書である。事務引継ぎの資料の一つとして、ハリスが、プリュインに残していった本であった。
プリュインは、着任以来、すでに何度か、この本を読み返していた。日本人相手の駆け引きの参考書として役に立つ。
ハリスからは、日本人を相手にする際の注意事項として、さも自分には絶大な権限があるかのごとく尊大に振る舞い、些細な問題でも、すこぶる難題であるかのように取り扱うよう、助言を受けていた。その後、難題の解決のため、如何に自分が尽力したかを力説して、相手に恩を着せるのだという。
プリュインは、もともとオランダの名家の出身で、米国ラトガース大学の理事を務めたこともある経歴の持ち主だ。
しがない陶器商あがりにすぎないハリスの助言を受けるまでもなく、高学歴な学識経験者にありがちな錯覚で、他人が自分に従うことは、当然のことだと信じていた。少なくとも、軍人風情に振り撒く愛想など、持ち合わせてはいない。
2
執務室のプリュインを訪ねるにあたり、雑賀は、皮革でできた薄い書類鞄を、携えてきていた。
両腰に拳銃を下げ、体には薬莢のベルトを巻き付けた、いつもの服装だ。
雑賀とジョナサンが部屋に通されても、プリュインは、本から目を上げようともせず、特段、二人の来客に対して席を勧めようともしなかった。
雑賀は、書類鞄を小脇に抱えたまま、ジョナサンと共に、みじろぎもせずに立ちつくした。プリュインが声を掛ける気になるまで、おとなしく待つ。
プリュインは二人を立たせたまま、平然と区切りのいいところまで本を読んだ。
ようやくテーブルに本を置くと、プリュインは、初めて来客に視線を向けた。
プリュインは、大層な勿体を付けて席を立った。
ジョナサンに向かって、歩を進める。
プリュインは、人と人が普通に握手を酌み交わす距離より、半歩だけ近くまで、ジョナサンに歩み寄った。
親密さを装ってはいるが、近付くことで、背の高いプリュインには、真上から自然と相手を見下ろすことができる――そう計算してのプリュインの振る舞いと見て取れた。
自分の高身長には、それだけで相手を威圧する力がある事実を、プリュインは、よく知っているのだ。もちろん、その活かし方も。
プリュインが、ジョナサンを見下ろしながら、声を掛けた。
「失礼。お待たせした。アメリカ合衆国駐日領事、プリュインだ」
言葉とは裏腹に、これっぽっちも『失礼』などとは思ってもいない口調だった。
ジョナサンは、右掌をプリュインに見せるように上げて、海軍式の敬礼をした。
「モビーディック船長、ジョナサン・デビット大佐です。着任の挨拶に伺いました」
プリュインは満足そうに頷いて、ジョナサンと握手を交わした。
当然、次は自分が挨拶をする順番だと雑賀は思っていたが、プリュインは、雑賀とは、視線を合わせようとはしなかった。お互いに英語で会話ができる場においては、通詞などに用はない、という意思表示らしい。
『いけすかねぇ奴だ』
憤然としたが、雑賀は何も言わなかった。
「モビーディックというのか。よい船かね?」
プリュインは、ジョナサンに尋ねた。
かねてからプリュインは、アメリカ本国に対して、自分の権限で動かせる船の配備を要望していた。前任者であるハリス以来の悲願だが、今までのところ、日本に常駐の軍艦の配備は行われていなかった。
だが、今回、その軍艦が入港したのだ。
「最新式です。本国にも、モビーディックに勝る船はありません」
「そうか。よぅし」
ジョナサンの言葉に、プリュインは、強く頷いた。
続いて、口から小さく、ククク、という声が漏れた。笑い声だ。
何を思ってか、プリュインは、『してやったり』という表情だった。
3
文久二年閏八月(一八六二年十月)。プリュインは幕府から、アメリカ政府への新造艦発注の仲介を依頼された。既に、軍艦三隻の購入代金として、六十万ドルを受け取っていた。日本とアメリカ、国同士の取り引きの仲介役だ。
だが、プリュインは、幕府の依頼を、プリュイン自身への軍艦購入の仲介依頼だと故意にすり替えた。代金の内、すでに幾ばくかを使い込んでしまってもいる。もちろん、アメリカ本国に対しては、極秘のことである。
とはいえ、実際には、プリュインに新造艦を調達する、良い伝手などあるわけもない。利鞘目当てに仲介に乗り出したのは良いが、一向に軍艦の手配はできず、幕府からは、
「いつ軍艦は届くのか」
「日数が掛かるようであれば、他国に依頼しなおすので、代金を返還されたい」
と、日々、矢のように強く迫られている状況に追い込まれていた。
そもそもアメリカ国内は、現在、南北戦争の最中である。少しでも戦力が必要な状況下にあって、日本へ売り渡せる余剰軍艦など、あるわけがないのだ。
プリュインは、まったくの手詰まりだった。
かといって、今さら、本国へ話をすることもできはしない。日本人相手の駆け引きを打開するため、あらためて『日本遠征記』を読み直したくもなるというものである。
そこへ軍艦の到着だ。
『ようやく、運気が向いてきたか』
プリュインにとっては、まさしく、渡りに船であった。
『目に見える形で軍艦を示せば、まだ時間を稼げるだろう。南北戦争も、そのうち終わって、使い道の無くなった軍艦の売り手が見つかるに違いない』
自然と、笑い声が零れた。
その時、プリュインは、自分の顔を怪訝そうに見つめる、ジョナサンの視線に気がついた。
ジョナサンは、突然、笑い出したプリュインに対して、どう対処すべきか、図りかねている様子だった。
プリュインは咳払いを一つして、笑い声の余韻を消した。
「失礼した。私にも、他国の領事並みに、自由になる船が与えられたのかと思うと、つい笑いが出てしまった。貴君の着任を歓迎する」
だが、ジョナサンは、生真面目そのものといった顔でプリュインを見据えると、はっきりと首を横に振った。
「残念ながら、領事のために働く船ではありません。自分とモビーディックの任務は、ホリー・クロウ・ペリー大尉を日本に送り届け、大尉の日本での活動を補佐することです」
「なんだと!」
プリュインは、声を荒げた。頬が、ひくひくと引きつっているのが、自分で分かった。
「君は、領事である私を助けるために、日本へ来たのではないのかね!」
ジョナサンは、もう一度、ゆっくりと大きく、首を横に振った。
「残念ながら」
「ノー!」と、プリュインは叫び声を上げた。
両手で自分の頭を掴み、髪をがしがしと掻き毟りながら、プリュインは大股に室内を歩き回った。
「ホリー! クロウ! ペリー!」
と、ジョナサンから、聞いたばかりの名前を、一語ずつ区切って、声に出して言う。
プリュインは、自分の執務机の上にある『日本遠征記』を掴むなり、くるりとジョナサンを振り返った。掴んだ本を、指揮棒のように突き出して、ジョナサンを指し示す。
「ペリーという姓は、この国では、畏怖を持って記憶されている。駆け引きと恫喝で、無理矢理、開国の扉を開けさせた男の姓だ」
プリュインは、早口で捲し立てた。
「それで、その何とかペリーとかいう奴は、どこにいるのだ!」
ジョナサンは、横を向き、脇に立つ雑賀の顔を見た。プリュインも釣られて、雑賀を見る。
腰の左右に拳銃をブラ下げ、両肩から襷掛けに薬莢を付けたベルトを巻きつけている、仰々しい身なりの日本人だ。
『物騒だからな』
外国人のために働く日本人は、志士から、特に裏切り者として命を狙われている状況を、プリュインは知っていた。
だが、プリュインにとっては、通詞など気に掛けるには値しない存在だ。
「通詞がどうした?」
プリュインは、一瞥した雑賀から、視線をジョナサンに戻そうとした。
雑賀が、プリュインに微笑みかけた。
そこで初めてプリュインの視線は、雑賀の顔に釘付けになった。
「まさか」
と、プリュインの口から、声が漏れた。
4
『ようやく出番だ』
雑賀は、大げさな動作で高く足を上げると、一歩、プリュインに向かって歩み寄った。
両足のブーツの踵と踵を打ち合わせる。
右掌をプリュインに見えるように上げて、海軍式の敬礼をした。
「ホリー・クロウ・ペリー大尉です」
雑賀は、プリュインに向かって左目を瞑り、ウインクをした。
プリュインは驚きのあまり、だらしなくあんぐりと口を開けた。惚けたように、涎が垂れかけている。
「日本人ではないか」
プリュインは、ようやく、それだけ口にすると、手の甲で、口を拭った。
そこで雑賀は、左手で小脇に抱えていた書類鞄を体の前に回すと、鞄の口を開けた。鞄の中から、紙でできた大判の封筒を取り出す。
「本国からの訓令です」
雑賀は、プリュインに封筒を差し出した。プリュインは、雑賀から手荒く引ったくるようにして、封筒を受け取った。
糊付けではなく、封筒の封は、糸を巻き付けて閉じる方式の物だった。
プリュインは、もどかしげな手つきで、糸を解き、中から、二つに折り畳まれた文書を取り出した。
文書を開く。
訓令が書かれていた。
『日本に駐在するアメリカ合衆国公使は、ホリー・クロウ・ペリー大尉が、その任務を遂行するために必要とする、ありとあらゆる便宜を図ることを、最優先事項とする』
訓令の末尾には、アメリカ合衆国大統領、アブラハム・リンカーンの署名と、印綬が押されていた。
「馬鹿な」
文書を持つプリュインの両手は、今にも文書を破いてしまいそうなほどに、ぶるぶると激しく震えていた。
「いったい、どんな任務だというのだ!」
「その質問に、お答えをするわけにはまいりません」
雑賀は、冷たい口調で、回答を拒絶した。
「日本政府から、アメリカ本国に対して、軍艦の引き渡しはいつになるのかと問い合わせがありました。領事の個人的な事業について、アメリカ合衆国は何ら関わりを持つものではありませんが、大統領は、いたく失望しておられます」
雑賀は、プリュインの顔を見つめた。
プリュインの顔からは、一転して血の気が引いていた。
「あえて、あなたの任を解くことはいたしません。ですが、これ以降は、日本政府とのいかなる些細なやりとりも、すべて私に伝えてください」
プリュインは、窒息した金魚のように、ぱくぱくと口を開けたり閉じたりした。言葉が声として出てこないのだ。
「な、な、な」
突然、プリュインの蒼白になっていた顔に血の気が戻り、見る見るうちに、通常を通り越して、真っ赤に染まった。
プリュインは、訓令の文書を二つに引き裂き、床に投げ捨てた。
「何を馬鹿なことを! 貴様に、そんなことを言う、何の権限があるというのだ!」
雑賀は書類鞄に手を入れ、別の文書を取り出すなり、ぐいっとプリュインの鼻先に突きだした。
文書には、本文らしき内容は何も書かれておらず、ただ末尾に、大統領の署名と印綬が押されているだけであった。
「何も書かれておらんでは」
文書を受け取ろうと手を伸ばしかけながら、開いたプリュインの口と動きが、そのままの形で凍りついた。
「私の養父が、日本に開国を迫った際にも、大統領から同様の物が委ねられていました」
「まさか、大統領の白紙委任状?」
プリュインは、弱々しく、震えた声で呟いた。
雑賀は、意地悪く微笑んだ。
「ようやく、飲み込みの悪い領事さんにも、俺が誰だかわかったみたいだな。大統領が俺に任せたのは、日本での全権だよ。日本では、俺の言葉は、大統領命令だ」
雑賀の口調は、打って変わって、ぞんざいだった。
5
「俺あてに、手紙が来てるはずだ」
雑賀は、呆然と立ちつくしたまま、何も言わなくなってしまったプリュインに対して、追い討ちを懸けるように言葉を続けた。
「手紙が来てるはず?」
プリュインは茫然と、ほとんど聞き取れない程度の大きさで、雑賀の言葉を鸚鵡返しに繰り返した。
だが、その言葉に全く思考が伴っていないことは、傍目にも明らかだ。反射的に、聞こえた言葉を口にしただけとしか見えなかった。
プリュインは、顔こそ雑賀の方向に向けていたが、その視線は雑賀に焦点を結んではいなかった。実際に目に映っている世界とは、どこか別の世界を見てでもいるかのように惚けている。
「おい!」と雑賀は声を荒げ、プリュインは、ようやく雑賀に注目した。
「手紙だよ!」
プリュインは、弾かれたように自身の執務机に向かい、抽斗を開けた。抽斗の奥から封筒を取り出し、雑賀に差し出す。
封筒の表には『堀居九郎{ほりいくろう}殿』と宛名が書かれている。
「堀居九郎という男が立ち寄るはずだからと、新任の外国奉行、川路{かわじ}が、昨日、持ってきた。誰のことかも全然わからずに預かったが、この手紙か?」
雑賀は、机に大統領の白紙委任状を置き、プリュインから手紙を受け取った。
封筒を裏返すと『勝海舟』と差出人名が記されている。
「勝海舟。そうだよ、これこれ」
雑賀は早速、封筒を開けようとしたが、それよりも早く、プリュインが、恐る恐るといった感じで、机の上の白紙委任状に手を伸ばしていた。
検分するように自分の顔に近づけて、白紙委任状を、よく観察する。できることなら、本物ではない証拠を見つけたい、というのが、プリュインの正直な気持ちなのだろう。
「そいつまで破くなよ」
雑賀は、勝からの手紙の封を開ける手を止めて、動揺の極致にあるプリュインに対して、さらりと言った。
「大統領への反逆罪で、あんたを始末しなきゃならなくなっちまう」
プリュインは、慌てて、さっと白紙委任状を机に戻した。
「さきほど、養父が同じ物を大統領から委ねられていたと言われたが、あなたは、マシュー・カルブレイス・ペリー提督の?」
「養子だよ。太平洋を漂流中に拾われて、養子になって、アメリカに渡ったんだ」
「ホリー・クロウ・ペリーと堀居九郎。なるほど。では、堀居九郎というのが本名か?」
雑賀は、プリュインをにらみつけた。
封筒を持っているのとは反対側の左手で、雑賀は銃を抜き、銃口をプリュインの足元に向けて一発、引き金を引いた。
「そこまでは知らなくていいことだ」
ひゃっ、という情けない悲鳴を発して、プリュインが、飛び跳ねた。
「よせっ!」
ジョナサンが、叫び声を上げて、雑賀の腕を掴もうとした。
雑賀は、身を躱して素早く離れると、ジョナサンに微笑んだ。
「床下に鼠がいたんだよ」
顎をしゃくって、床板に弾丸が開けた、小さな丸い穴を指し示す。穴の縁は黒く焦げていた。
雑賀の左手は、拳銃を握ったまま、穴に銃口を向けている。銃口からは、まだ紫煙があがっていた。
ジョナサンとプリュインも、穴を見つめた。
穴は、床下まで貫通しているようだった。
「穴が開いて、声が聞こえやすくなっただろ? 次は、当てるぜ」
雑賀は、弾痕に向かって言った。
がさごそと、床下で何か大きな生物が動き、急いで逃げていく気配がした。
「何者だ?」と、ジョナサン。
「どっかの志士だろ。ここの警備も、つくづくいい加減だな」
雑賀は、ジョナサンに軽く応じてから、プリュインに向き直り、
「驚かせたな」
雑賀は、プリュインにウインクをして、銃を収めた。そのまま、何事もなかったように封筒に視線を落とす。
ジョナサンとプリュインは、あまりに軽い雑賀の態度に、お互いに顔を見合わせた。
唖然とするプリュインに向かって、ジョナサンは肩をすくめて『諦めろ』と、うながした。
『雑賀には、どうせ言っても無駄だ』
自分が撃たれたとばかり思ったプリュインが、まだ青い顔をしたまま、それでも精一杯の虚勢を張って、雑賀に尋ねた。
「なぜ、ここにあんた宛の手紙が来るんだ?」
「帰国してすぐ、連絡先はここだと手紙を出したからな。これからも、ちょくちょく仲介場所に使わせてもらうよ」
雑賀は封筒を開け、中から折り畳まれた書面を取り出した。書面を開く。
書面には、 次のように書かれていた。
『この者、堀居九郎は公用の任務中であるため、詮索無用。銃剣の所持も認める。
文久三年五月十三日
軍艦奉行並 勝海舟』
雑賀の身元を保証するための、勝海舟の証明書だ。署名と併せて花押もあった。
封筒には、証明書の他に、勝から雑賀への手紙も入っている。
『無事帰国めでたし。異国を見た貴殿の目で、日本の現状を、広く見て回れるよう手配をした。サンフランシスコ以来の再会を心待ちにしている』
勝海舟の特段の配慮に、雑賀の口元に笑みが浮かんだ。
雑賀と勝は、日米通商条約の批准のための使節として、咸臨丸で、勝が、サンフランシスコを訪れた際以来の縁だった。
英語につたない日本使節のため、アメリカ側が用意した通詞が、すでにペリーの養子となり、海軍に勤務していた、雑賀だったのだ。
「ありがたい」
雑賀は、心から、勝への感謝を口にした。手紙を封筒に戻してから、懐に収める。
そこで改めて雑賀は、プリュインに向き直った。
「早速だが、馬を一頭、用意してくれ。それから、軍資金だ。どうせ悪どく貯め込んでいるんだろ」
プリュインは、がっくり力無くうなだれた。
6
善福寺や真福寺に向かう参道沿いには、犇めき合うように、小屋が建ち並んでいた。参拝客に、土産物や食べ物を売るべく、目聡い商人に建てられた小屋である。
日中の参道には、参拝客が途切れなく行き交い、自分の小屋へ一人でも多くの客を呼び込むために、醤油を焦がしたような香ばしい匂いが、いくつもの小屋から、これでもかとばかりに参道へ流されていた。
その参道を、真福寺を通り過ぎて、さらに真っすぐに進んだ、突き当たりが善福寺だ。
焼失したため、すでに建物はない。ただ焼け焦げた地面だけになってしまった善福寺の境内には、入り口付近に巨大な銀杏の木が立っていた。
樹齢六百年余りとも言われる銀杏の巨木には伝説があり、親鸞聖人が自ら植えた物とも、そうではなく、親鸞聖人がついていた杖が根付いた物であるとも言われていた。
四方に長く伸びた枝の先が、自らの重さのため下に垂れ下がっている。
その上、根が迫り上がっていることから、遠目には、地面に対して、木が逆さに突き刺さっているようにも見受けられた。
そのために、この銀杏の巨木は、参拝客からは『逆さ銀杏』の名前で親しまれていた。
藤田小四郎は数人の朋輩と共に、その『逆さ銀杏』の、葉が作る傘の下に立っていた。
青々とした銀杏の葉が、小四郎らの頭上を厚く覆って、木陰を作っている。
小四郎は、真福寺方面に伸びた参道を、半ば待ちくたびれて、苛々としながら見つめていた。
行き交う参拝客の中に、他の参拝客とぶつからないよう、人混みの間をすり抜けるようにして、小走りで走ってくる男がいた。
「来たぞ」
と、小四郎は、鋭く声を発した。
雑談をして、思い思いに時間をつぶしていた小四郎の朋輩たちが、小四郎同様に、参道に目をやった。
走ってくる男の衣服には泥の染みがつき、汗の浮いた額や首筋では、汗が泥水となって、体を汚していた。ねばねばとした太い蜘蛛の巣が、いくつも全身にこびりついている。
男は、小四郎の前まで走ってくると立ち止まり、何度か大きく息を吸ったり吐いたりして、荒い息を整えた。
男の呼吸が十分に整うのを待ってから、小四郎は、男に声を掛けた。
「何かわかったか?」
「奴め、ただの異人かぶれではありません。ホリー・クロウ・ペリー大尉。黒船のペリー提督の養子で、アメリカ軍人です」
男は、顔面を紅潮させて憤然と言った。プリュインの執務室の床下に潜り込んで、雑賀らの話を、盗み聞きしていた志士である。
水戸藩では、国防上、外国の情報を収集し、分析するため、特に優れた家臣を選んで、外国語を学ばせていた。
この男も、そんな選ばれた家臣の一人であり、その能力を買われて、小四郎から、真福寺に潜入するよう、指令を受けたのだ。
「やはり、アメリカの間者であったか」
「勝海舟とも親交があるようです。何やら、手紙を受け取っています」
「中身は?」
「残念ながら。潜入がバレ、銃で追われたので、慌てて逃げ帰りました」
「ご苦労だったな」
小四郎は、男の労をねぎらった。
とは言ったものの、肝心の情報が不足している事実も否めない。
小四郎は、胸の前で両腕を組み合わせると、思案に入った。
「叩っ斬ろう」
そんな小四郎の様子に、気の短い朋輩の一人が、腰の刀を、かちゃりと鳴らして、進言した。
そのとき、別の朋輩が声を上げた。
「奴です」
小四郎らは、一斉に参道に目をやった。
茶色い毛の馬に跨った雑賀が参道を、小四郎らがいる場所へ向かって、悠然と進んでくる。
ジョナサンはいない。雑賀一人きりだ。
雑賀には、小四郎らに気づいている様子は見受けられなかった。小四郎らは、雑賀に見つからぬよう、素早く銀杏の巨木の陰に隠れた。
「向こうから斬られに来たぞ」
さきほど、小四郎に進言した朋輩が、嬉しそうに舌なめずりをしながら言った。
すでに雑賀を襲う気満々になっているようだった。興奮して、鼻の穴が開いている。
あとは、小四郎の命令を待つばかりだ。
だが小四郎は、重々しく首を振った。
「気づかれぬように後を尾けろ」
襲う気を削がれた朋輩の顔が不満気に曇った。
そこで小四郎は、自分の考えを説明した。
「殺すのなんか、いつでもできる。幕閣でありながら、勝は、幕府の転覆を企む反逆者だというからな。アメリカと組んで何をする気なのか、ひとまず泳がせて探るんだ」
7
雑賀は、勝海舟の身分証明書を利用して、金町松戸の関所を抜けると、木下から利根川沿いに馬を歩かせて下流の鹿島まで行き、次いで鹿島灘の海岸線に沿って北上した。
那珂湊の祝町へ入ったのは、文久三年五月二十日の昼過ぎである。那珂川の河口、右岸側の集落だ。
祝町には、水戸光圀が開いたと言われる遊郭もあり、時化で漁に出られない日などは、近郊の漁師らにより、早い時刻から賑わいを見せる時もあった。
雑賀の目的地は、水戸である。那珂湊から水戸までは、那珂川に沿って進めば一息だ。急がずとも、夕刻までには着ける距離だった。
水戸藩の沖合には、以前より英米の捕鯨船が姿を見せることが多く、海岸線のところどころには、大砲の台場が築造されている。
那珂湊には、那珂川の両岸に併せて三箇所の台場があった。
鹿島から見て、那珂川の手前にある祝町、次いで那珂川の対岸の和田岬と、その先の旭ケ丘の三箇所だった。
ぴかぴかと金色に磨き上げられた銅製の大砲は、前水戸藩主で烈公と称えられた徳川斉昭の時代に、領内の梵鐘や銅製の仏像仏具を鋳つぶして製造された代物だ。攘夷派の藩士たちから、さながら烈公の化身のごとく崇められ、信頼されているものであった。
だが、雑賀に言わせれば、
「まるで玩具だな。なんだって、あんなものが昔は頼もしく見えたんだろう」
自嘲気味に呟きたくもなるような前近代的な代物だ。
熔解温度が低いため、加工こそしやすいが、高価につく銅製の大砲は、すでに外国では時代遅れだった。
銅よりも熔解温度が高いため、製造に高度な技術が必要となる鉄製の大砲が一般的だ。
安価な鉄を大量に使って、砲身の強度を上げた外国製の大砲は、日本製の大砲よりも、射程距離が遙かに長かった。
万が一、外国船と戦うことになった場合、藩士ご自慢の水戸藩の大砲では、遠距離から砲撃をしてくる外国船まで、砲弾を届かせることなど、とても不可能だ。
一方的に砲撃を受けるだけの結果となるのは、目に見えていた。
雑賀の目には水戸藩の、いや日本国中の台場など、貧弱な物としか映らなかった。
とはいえ、烈公や幕府も手を拱いていたわけではない。
もともと国防意識が強く、外国の情報収集にも余念がなかった烈公は、外国では鉄製の大砲が主流であることを知るや、鉄製の大砲を鋳造するための反射炉の建設を、幕府に注進した。
その甲斐あって、幕府からの多大な資金援助を得ることとなり、那珂湊の吾妻ケ丘に、二基の反射炉を建設している。
反射炉の建設着工は、安政元年(一八五四年)のことであるから、雑賀が遭難した、ペリーの二度目の来航と同じ年である。
結局、反射炉は、安政二年と安政四年に、それぞれ一基ずつが完成している。
烈公に誤算があったとすれば、外国から技術者を招いて、指導を仰ぎながら反射炉を建設したわけではなく、ただオランダの文献のみを頼りとした建設であったことから、建設も試行錯誤なら、炉の運転も試行錯誤であったことであろう。
完成した反射炉での本格運転は銅のみで、鋳鉄については、未だに実験段階にあるというのが実際であった。
同様の反射炉は、佐賀藩や薩摩藩、幕府が管理する伊豆韮山にもあったが、佐賀藩が少し先行しているとはいえ、鋳鉄の製造状況としては、どこも似たり寄ったりだ。
そのため、国内には、外国船とまともに戦える能力を持つ砲台は皆無であり、雑賀が『玩具』と嘲りたくもなる、貧弱な台場しかないのだった。
ただ、その事実を、多くの攘夷志士たちは、認識していない。
8
海岸沿いに、那珂湊へ向かって馬を歩かせてきた雑賀だったが、台場を守る藩兵からの無用の詮索を避けるため、祝町の台場の手前で、馬首を西に転じた。
那珂川に注ぎ込む涸沼川を渡り、涸沼川に沿って下って那珂川との合流地点へ向かう。
那珂川は涸沼川と合流した後、大きく左に蛇行して、那珂湊の市街、和田岬の前を通り、旭ケ丘の手前で、太平洋に注いでいた。
反対に、那珂川を上流へ向かえば、三里(約十二キロメートル)程で水戸城下だ。雑賀が向かうのは、上流である。
雑賀がいる川のこちら側には、青々と稲が伸びた水田が広がるばかりだが、対岸には林と、いくつもの密集した家が見受けられる。
対岸までは、二町余り(約二百メートル)の川幅であった。
那珂川の流れは、雑賀が立つ堤防の内側に、大量の土砂を堆積させている。堆積した土砂を苗床として、葦が生え、広大な葦原を形成していた。
川風が、葦の頭を揺らしていた。
人の背丈以上に伸びた葦は、川岸ばかりか、堤防の斜面にも根を伸ばし、雑賀がいる堤防の上部まで覆い始めていた。
雑賀は、対岸の林の上に、もくもくと煙が上がっていることに気がついた。
距離もあり、樹木に隠れてもいるため、よくは見えなかったが、林の陰に二本の四角い煙突が突き出ている。
水戸藩自慢の反射炉である。
煙が出ているとなると、炉に火が入っていることを意味する。
熔かされているのが銅なのか鉄なのかは全然わからなかったが、やはり水戸藩では、軍備の増強に余念はないようだ。
製造された大砲は、那珂川の水運を利用して、各地の台場へと運ばれていく。そのためにこそ、反射炉は那珂川の近くに建設されたのだ。
雑賀は、手綱を操って馬の鼻先を那珂川の上流方面へ向けると、馬の腹を軽く蹴って、馬に歩くよう指示を出した。
馬が、のんびりと歩き出す。
雑賀の右手には、視界を遮るほどの葦原が広がり、左手となる堤防の下には、水田が広がっていた。
しばらく進むと、馬がしきりに鼻をひくひくとさせて立ち止まり、背中に座る雑賀の顔を振り返った。
「わかってるよ」
と、雑賀は、馬を安心させるように、優しく声を掛けた。
馬は、前を向き、ぶしゅんと大きなくしゃみをした。
微かだが、空気に火薬の匂いが混ざっている。火縄の焼ける匂いだ。
『どこかに狙撃手が潜んでいる!』
そう思った雑賀は、葦原に向かってカマを掛けた。
「いるんだろ」
雑賀が声を掛けると、右手前方の葦原が揺れ、雑賀の行く手を遮るべく、刀を腰に差した十数人の男たちが葦原の中から現れた。
振り向くと、背後でも同様に、今、横を通り過ぎたばかりの葦原から男たちが飛び出し、雑賀の退路を塞いで立っていた。
雑賀の前後で、現れた男たちのうち何人かが、堤防の水田側の斜面に降りて回り込み、雑賀の逃げ道をなくすように取り囲んだ。
男たちは、刀こそ、まだ抜いてはいなかったが、いずれも皆、雑賀への殺気に満ちていた。
最後に、ゆっくりと藤田小四郎が、前方の茂みから、雑賀の前に姿を現した。
「江戸からこっち、ちょろちょろ後を尾けてくれていたみたいだが、ようやくお出ましかい」
雑賀は、小四郎に向かって嘯いた。取り囲まれても、雑賀は少しも動じてはいなかった。
雑賀と、取り囲む男たちの距離は、五間余り(約九メートル)だ。
小四郎は、そんな雑賀の余裕に満ちた態度を虚勢と思ったのか、はたまた自分たちの圧倒的な優勢に確信を持っているのか、横浜で最後に見た際とは打って変わった、自信に満ちた表情を浮かべていた。
地の利のある地元であるという点も、小四郎の自信の根拠の一つに違いない。
「よりにもよって、貴様の目的地が水戸藩とはな。我が水戸藩が誇る反射炉と砲台は、異人どもには、よほどの脅威と見える」
「はっ! あんな『ごろり二分』がか!」
雑賀は、大きな声を上げた。
『ごろり二分』とは、水戸藩の領民が、藩士御自慢の大砲を指して言う、陰口だった。
あまりにも重いので、ただごろりと大砲の向きを変えるだけでも、二分の金を掛けて、力仕事をする人夫を雇わなければならないためというのが、陰口の由来だ。
それは極端だが、要するに水戸藩の大砲は単なる見かけ倒しで、実戦的ではないという揶揄だった。
「あんな砲台がいくつあっても、モビーディック一隻だけで壊滅できるよ」
雑賀は、吐き捨てるように、豪語した。
さすがにカチンと頭に来たと見え、雑賀を囲む小四郎の朋輩たちが、一斉に刀を抜き放った。
小四郎の朋輩たちから吹き付ける殺気の凄さに、馬がおののき、数歩後ずさった。
「怖くない、怖くない」
雑賀は、馬の首に抱きつくような前傾姿勢となり、自然な動作で右手を手綱から離すと、馬の胴をポンポンと叩いた。
銃を抜く手をフリーにしておくのは、射撃の基礎である。
同時に雑賀は、小四郎らには悟られぬよう、素早く左手首に手綱を巻き付けた。
もちろん、突然の馬の動きに振り落とされないための措置であったが、逆を言えば、突然かつ不測の動きを馬にさせる、という腹づもりからだ。
朋輩と同様、小四郎もまた、怒り心頭の様子だった。おかめに似た顔を真っ赤にして、小四郎は、雑賀を睨みつけていた。
だが、無理矢理どうにか怒りを腹の内に押さえ込んだのか、やや引きつった声音で、小四郎は、雑賀に要求した。
「勝海舟の密書を貰おう」
折れた刀身の修理は済んだのか、まだなのか、朱鞘の大小を腰に差してこそいたが、小四郎は、刀を抜いてはいなかった。
「密書? 何のことだ?」
「とぼけても無駄だよ、堀居九郎。反逆者、勝海舟の命令で、我が藩の軍備を探りに来たのだろう」
雑賀は、小四郎にウインクをした。
「床下にいた鼠がそう報告したのかい? 残念だが、ちょっと墓参りに寄っただけさ」
「あくまでもとぼけるか」
どこまでも、軽薄な雑賀の態度に、小四郎は、それ以上の会話を打ち切りにした。
「他人の墓より、自分の墓の心配をするんだな。銃があるのは、貴様だけだと思うなよ」
小四郎が言った『銃がある』という言葉を受けて、雑賀を囲む男たちのうち幾人かの視線が、葦原の一点と雑賀の間で、行ったり来たりした。
雑賀は、男たちの視線の先を追った。
『狙撃手は、そこにいるはずだ!』
はたして雑賀は、葦の茂みから長銃の筒先が突き出ているのを発見した。
狙撃手本人までは見えなかったが、恐らくは片膝を突いて、雑賀に狙いをつけているに違いない。銃は当然、旧式の火縄銃だ。
「撃て」という、小四郎の声よりも早く、雑賀は行動を起こした。
右手で拳銃を抜き放つと、筒先が突き出た茂みに向かって、弾丸を撃ち込む。弾丸は、狙撃手の左肩に当たった。
撃たれた狙撃主は、もんどりを打った。引き金を引いたが、もちろん明後日の方角だ。
「銃ってのは、こう使うんだよ」
笑うや、雑賀は馬の背に身を伏せて、馬の腹を蹴った。馬は、小四郎らに向かって突進した。
雑賀は手綱を左手で操りつつ、拳銃を握った右手を、前方に突き出した。
弾倉に残っている弾丸は、あと五発。殺してしまわぬよう、雑賀は、小四郎の右太股を撃ち抜いた。
小四郎は、無様に転がった。続けて、手近な四人の男たちの足も撃つ。
撃たれた男たちは、皆、転がり、前方の人垣に切れ目ができた。
男らは、血溜まりに、足を抱えてのたうっている。
だが、足だ。
誰一人として、雑賀は、致命傷を負わせてはいなかった。
肩を撃った狙撃手が一番の重傷だが、まさか、死にはすまい。
雑賀は、できた人垣の切れ目へ馬を突っ込んだ。
「あばよっ」
と、捨てぜりふを吐き、小四郎の左脇を、雑賀は駆け抜けた。
転がったまま、そのとき小四郎が抜刀した。
小四郎は、斜め上へ、刀を斬り上げた。刃の先には、駆け抜ける雑賀の右足があった。
切っ先が、ブーツを横に捉える。雑賀の右脛に痛みが走った。
雑賀は、足を見た。幸い、右足はくっついていた。
ブーツは裂けたが、足自体は、肉を軽く斬られただけであった。縫えば済む程度の浅傷だ。
雑賀は身を起こし、右手の拳銃をホルスターに突っ込んだ。両手で、しっかりと手綱を握る。
雑賀は、馬を走らせ続けた。
9
水戸藩は、徳川御三家の中では、一番、江戸に近く、江戸定府として、参覲交代の制度を免除されている藩であった。
一定期間毎に、藩主が江戸と国元を往復して生活することを定めた制度が参覲交代だが、水戸藩は特例扱いであったのである。
ただ、特例の内容は、藩主がずっと国元に住み続けて良いというものではなく、反対に、始終江戸に住み、近いのだから、わざわざ国元に帰らなくても良い、というものだ。
実際に、烈公の先代である、哀公こと水戸藩第八代藩主の徳川成脩{とくがわなりのぶ}は、生涯一度も水戸の土を踏まず終いだった。
したがって、実質的な藩の運営を行っているのは、国家老を筆頭とする、藩の重臣たちである。
重臣たちの住む屋敷は、水戸にある千波湖のほとりに建つ、水戸城のほど近くだ。
雑賀聖人が、那珂川沿いの堤防で、藤田小四郎らの襲撃を受けた、およそ一刻後。雑賀は、水戸藩小姓頭取を勤め六百石を賜る重臣、鈴木重孚{すずきしげざね}の屋敷の前で馬を止めた。
一万坪は優に有ろうかという重孚の屋敷の周囲は、一丈程(約三メートル)の高さの白壁の塀に囲まれている。塀の上には瓦葺きの屋根がついていた。
塀の一画、屋敷の正面側では屋根が一部高くなっており、騎乗したままでも、軒に頭をぶつけずに通過できる高さの、大きな木製の門が据え付けられていた。
門は固く閉ざされており、腰に刀を帯び、長い樫の棒を持った門番の男が、門の前に立っている。男は、雑賀より若そうだった。
雑賀は、馬を降り、左手で馬の手綱を引きながら、門番に歩み寄った。
走ってきたために雑賀も馬も、まだ息遣いが荒い。
挨拶のつもりで、雑賀は、門番に軽く右手をあげ、「ハァイ」と気さくに声を掛けた。
門番は、雑賀を明らかに不審人物と見なしたらしい。今にも打ち懸からんばかりに棒を構えて雑賀に突きつけると、鋭い口調で詰問した。
「当屋敷に何用だ?」
眉毛の濃い、実直そうな門番の顔立ちが、得体の知れない身なりの雑賀の出現に、引きつっていた。
雑賀は、まったく悪びれずに言葉を続けた。
「殿様はいるかい? 重孚殿だ」
門番は、雑賀の一言に、ますます仰天した。
不審人物を、安易に主人に取り次ぐようでは、門番失格だ。門番は、文字通り、雑賀を門前払いにしようとした。
「ご不在である。早々に立ち去られよ」
雑賀は、門番の顔をしげしげと眺めた。
「俺より若いな。新人さんかい?」
「もう八年もここにいるが、貴殿に新人呼ばわりされる謂われはないな」
門番は、雑賀の足元に視線を落とした。
雑賀の右足のブーツには、まだ新しい刀傷があり、雑賀が歩いた地面には、右側のみ、赤い血の足跡ができている。
ここまで来る途中、雑賀は、応急処置として右脛の傷口に布を巻き、きつく締めつけて止血をしていた。にもかかわらず、ブーツの中に溜まった血が染み出して、足跡が地面に刻印されるのだ。
雑賀は、もちろん雑賀の素性を訝しく思う門番の様子にも、追い返そうとしたくなる門番の気持ちにも気づいていた。
しかし、ここは一向に気づかぬ風を装い、あくまで軽口で言葉を続けた。
「そうか。たったの八年じゃ、俺を知らなくても無理はないな」
だが、残念ながら、門番に取り付く島はないようだ。
「立ち去らぬとあれば、力づくで追い払うぞ」
門番は、棒を振り上げ、雑賀を威嚇した。
脅されているのは雑賀のほうだが、脅えているのは、むしろ雑賀の意図が分からぬ門番の側である。雑賀を睨みつける門番の視線は、おどおどと泳いでいた。
門番の瞳には、雑賀のにやけた、からかいの表情が映っている。
だが、すぐ雑賀の表情は真剣になった。
「悪いが、そうはいかねぇんだ」
雑賀は懐から、勝海舟の身分証明書を取り出すと、門番の鼻先に突き出した。
「軍艦奉行並の勝海舟殿の身分証明だ。どうせいるんだろ? 重孚殿に取り次いでくれ」
門番は、呆気にとられた様子で、唖然と口を開けた。不審人物めが、よりにもよって、幕閣が自分の身分を保証しているなどと抜かしたのだ。
雑賀と門番は、向き合ったまま、しばしお互いの顔を見つめ合った。
だが、結局、引き下がるしかないのは、門番のほうだった。門番は、振り上げた棒を降ろし、雑賀から書面を受け取った。
「ここで待たれよ」
門本体ではなく、脇にある木戸を開け、身を屈めて木戸を潜り抜けると、門番は屋敷の中に消えた。
内側から、かちゃりと木戸に閂が掛けられた音が聞こえる。
「待てだとよ」
雑賀は、おどけた口調で、馬に話しかけると、左手に握っていた手綱を離した。
「早くしてくれ」
雑賀は、捨てぜりふのように、門に向かって声を掛けた。門の前に敷き詰められた平石の上に、どさりと座り込む。
雑賀は、右足のブーツから足を引き抜いた。包帯代わりに傷口に巻き付けていた布が、鮮血で赤黒く染まっている。
雑賀は、ブーツを逆さまにした。ブーツの中に溜まっていた血が、平石の上にこぼれて、幾何学的な模様を描きだす。
「ありゃありゃ、貧血になっちまいそうだぜ」
冗談とも本気ともつかぬ口調で、雑賀は呟いた。
逃げもせず、雑賀の近くに立っていた馬が、耳をぴくりとさせて、聞き耳を立てた。
馬は、ここまで自分が走ってきた方角を振り返った。馬には誰かが近づいてくる足音なり、物音なりが聞こえているのだろう。追っ手かもしれない。
「待ってもいられんか」
馬の様子に、雑賀は、慌ててブーツを履いて立ち上がった。
雑賀は、馬を門の脇の塀の近くに誘導した。
馬の背に紐で括り付けていた旅支度の荷物の包みをはずして、自分の肩に掛ける。
雑賀は、馬の鐙に足を掛けると、馬に跨るのではなく、鞍の上に足を乗せて馬上に立ち上がった。
雑賀の頭が、塀の屋根より上に出る。雑賀は、門の裏を見下ろしたが、門番は、まだ戻ってはいなかった。
雑賀は肩に掛けていた荷物を、塀の上に置いた。塀の屋根に手を掛け、鞍を蹴って、塀の上に飛び移る。
雑賀が乗った拍子に、足の下で割れた瓦が、一枚、外に落っこちた。瓦は、馬の尻にぶつかり、地面に落ちて、さらに割れた。
驚いた馬が、屋敷の塀に沿って駆け出した。
だが、むしろ、そのほうが雑賀にとっては都合よい。雑賀が、ここで馬を降りたことを、追っ手に気づかれにくくなるからだ。
雑賀は身を屈め、荷物を手にとって、塀の内側に飛び下りた。
10
雑賀に囲みを破られた後、小四郎たちは、傷を負った朋輩と、その面倒を見る数名を残して、すぐ馬を出し、雑賀の後を追っていた。
小四郎も怪我をしてはいたが、追跡の指揮を執る立場上、傷口に包帯代わりの布をきつく巻き付けただけの応急処置で、無理矢理に何とか馬に乗っている。幸い、弾丸は、太股を貫通して裏に抜けていた。
とはいえ、無傷の朋輩たちと比べると、走らせる馬の速度が落ちてしまうのは、どうしても否めない。小四郎が操る馬は、縦列となって走る馬の列の、最後尾を走っていた。
馬が走る振動の激しさで、太股にずきずきと痛みが走る。傷口だけでなく、全身が発熱しているようで、小四郎はひどい悪寒を感じていた。
前を見て馬を走らせたいが、どうしても視線が下がってしまう。つい、眼は、太股の傷口にばかり向いてしまった。灰色の袴の布地にできた赤黒い血の染みが、乾く気配もなく、どんどん大きく広がっていた。
落馬しないよう、何とか馬にしがみついているだけというのが、小四郎の現状だった。
馬自身が先を行く朋輩を追うつもりで走ってくれているのと、朋輩が遅れがちな小四郎を気にかけていてくれなければ、早々に追跡班から落伍していたのに違いない。
追跡班は領民と出会う都度、雑賀らしき者を見なかったかと聞き込みをしながら追跡を進めた。すると目撃した者からは、一様に「水戸方面に向かった」と、口を揃えたような答が返ってきた。
雑賀は、目立つ身なりであるから、領民が誰かと見間違えをしている心配は、まずないだろう。それに、雑賀に水戸藩を探索する肚つもりがあるのなら、当然、行き先は水戸であるとも推測された。
朦朧とする頭で、小四郎は馬にしがみついているだけであったが、馬は、いつの間にか水戸城の天守閣に見下ろされる、家臣らの居住区域に入り込んでいた。
長屋のような下級藩士の集合住宅から、重臣が住む広大な屋敷まで、藩士らは有事にすぐ城に駆けつけられるよう、城の近在に集められて生活をしていた。
小四郎の家も、近くである。
左右に、それぞれの屋敷を囲む、白壁の塀が続く通りを、小四郎らは馬で駆けていた。
小四郎は、何とか歯を食いしばって顔をあげた。額に浮いた嫌な脂汗が眼に流れ込まぬよう、袖口に顔面を擦りつけるようにして汗を拭うと、前を行く朋輩たちの様子を確認した。
ちょうど前方で塀が切れた曲がり角を、先頭の朋輩が左折するところだ。他の朋輩も続々と同じ曲がり角を左折して行った。
その直後「いたぞ!」と、角の先で朋輩から歓喜の声が、高くあがった。一足遅れて、小四郎も同じ角を左折する。
路地の遙か先に、小さく駆け去っていく馬の姿があり、競うように自分の馬に鞭を呉れながら速度を上げて、朋輩たちが駆け去る馬の後を追っていた。
もちろん、その馬に雑賀は跨ってなどいないのだが、距離があるため、朋輩にも小四郎にもそこまでは分からなかった。
今、小四郎にはっきりと分かるのは、朋輩に合わせて速度を上げるだけの余力が、もう自分には残ってはいないという現状認識だけだ。
そのとき、小四郎は、瞬間的に背後へ流れ去っていく屋敷の塀の白壁に、壁には、見慣れぬ『色』を発見した。
いや、むしろ、追跡の間中、終始ずっと俯きがちだった小四郎にとっては、逆に見慣れた存在になってしまった『色』である。
直感的な何かが、小四郎の脳裏を駆け抜けた。
弾かれたように小四郎は、手綱を力の限り引きしぼって、無理矢理に馬を止まらせた。
半分落馬も同然の状態で、小四郎は、馬からずり降りる。
小四郎は、痛めた足を引きずるようにして、白壁の所まで進んだ。見た物を、もう一度しっかり確認するべく、白壁を見上げる。
『やはり、そうだ』
小四郎は白壁に背中をつけて、崩れ落ちるように、その場に座り込んだ。
全身で、はあはあと、荒い息を吐く。
小四郎の袴は、右側半分が、ほぼ全体的に赤黒く染まってしまっていた。
小四郎のことを気にかけながら、小四郎の少し先を走っていた朋輩が、急に馬を降りてしまった小四郎の様子に気づいて、心配した表情で馬を走らせて戻ってきた。
「大丈夫か?」
小四郎は、右手の親指を突き立てて手を上げ、自分が背中をつけている白壁の、自分の頭の上を、立てた親指で指し示した。
「奴は、この屋敷の中だ」
小四郎が親指で示した場所には、赤黒い何かの染みがある。雑賀が馬の背から跳躍した際に着いた、雑賀の血の『色』の足跡だった。
「皆を呼び戻せ。それから、我らだけで屋敷へ踏み込むわけにはいかぬから、町奉行の田丸殿をお連れするんだ。捕り方の用意も怠るな」
11
屋敷の当主である鈴木重孚は、自分の部屋で、文机を前にして正座をしていた。
痩身である。歳は、六十のいくつか前か。
重孚は、門番が持ってきた勝海舟自筆だという、堀居九郎の身分証明書を検分していた。行灯が灯っている。
門番は、縁側に通じる障子戸を背にして正座し、重孚から声がかけられるのを、じっと待っていた。
重孚は、文書を文机に置いた。
むう、と、唸るような声を、重孚は発した。
門番は、びくりと身を震わせた。
「それで勝殿の御使者は、儂に何用だと?」
門番は、畳に手をつき、平伏した。
「はっ。ただ『取り次ぎを』と仰るのみでした」
重孚は、再び、むう、と唸った。
「恐れながら」
頭を垂れたまま、門番が、おずおずと言葉を発した。
「御使者は、足に斬り合いの傷があり、血を流しておられます。邸内に入れては、余計な面倒まで呼び込むことになるやも知れません」
「まさか隠密かよ」
重孚はより一層、ふう、と重苦しく、息を吐いた。
「だからといって、会わずに返すわけにもいくまいな」
「申し訳ありませぬ」
「べつに、おぬしのせいではなかろう。すぐに行く。客間へ通して待たせておけ」
12
水戸藩士の屋敷には、必ずのように梅と竹が植えられている。
塀から飛び降りて、重孚の屋敷内に侵入を果たした雑賀は、さながら果樹園でもあるかの如く整然と植えつけられた、梅林の中に身を隠した。
水戸藩は、公称三十五万石ということになっていたが、天保年間に水戸藩が行った検地で判明した実高は、わずか二十五万石である。
にもかかわらず、徳川御三家の一つとして、残る二藩である尾張藩や紀伊藩はもちろん、その他の大藩とも、面子に懸けて見栄を張り合っていたため、始終、財政が逼迫していた。
開国以来の物価の上昇が、水戸藩の財政悪化に、より一層の追い打ちを懸けている。
お借り上げと言い、名目上、家臣から禄の一部を藩が借りていることとして、事前に禄を強引に天引きして対処している始末であった。もちろん、水戸藩には借りた米を家臣に返すつもりも、返せるあても、全くない。
おまけに、他藩では玄米で支給している禄の米を、水戸藩では、まだ殻のついた籾の状態で支給するため、禄としての実質的な米の量は、さらに少なくなる仕組みにさえなっていた。
水戸藩士の屋敷の庭に植えられた梅と竹は、せめて梅干しや筍でも食べて、少しでも腹と収入の足しにしようという、苦肉の策だった。他には、柿も良く植えられている。柿の場合、果実はもちろんだが、若芽も食えた。
鈴木重孚の六百石取りにしても、あくまで公称で、実際の禄高は、お借り上げのために大きく削られてしまっている。
おまけに公称の石高の多少に比例して、藩士は、軍用金を藩に納めることとされていたから、実際に使える手取りとなると、遙かに少なかった。
貧乏こそが、すべての水戸藩士が直面している一番の敵であり、その原因は物価の上昇を招いた開国、すなわち外国人のせいであるとして、水戸藩の方針は尊皇攘夷だった。
雑賀は、そんな水戸藩の重臣の屋敷に忍び込んだのだ。見つかれば、勝海舟の身分証明書があったところで、無事には済むまい。
幸いなのは、他の重臣同様、重孚もまた、公称に見合う決められた数の家臣を雇うだけの体力を持ってはいないことだ。重孚の屋敷の警備は、ほとんどザルも同然だった。
尤も、屋敷と呼ぶから聞こえは良いが、広いのは面積だけで、実際はその大部分が梅と竹の林にすぎないのだが。
雑賀は、下枝を低く仕立てられた、そんな梅林の中を、梅の枝に頭をぶつけぬよう、身を屈めたまま、小走りで移動していた。
踏み込む度に、右足の切り傷に痛みが走る。
梅の実は、すでに収穫されており、梅干しに加工するため、敷地内のどこか別の場所で干されているようだった。甘酸っぱい梅の香りだけが、辺りに漂っていた。
その匂いだけで、雑賀は、口中に涎がわいてきた。
唾を飲み込み、軽く足を引きずって走り続けた雑賀は、やがて屋敷の縁側に面した、ある一室に近づくと、梅の林に身を隠したまま、片膝を地面に突いて、動きを止めた。
暗く、ほとんど人気の感じられない重孚の屋敷であったが、その一室だけは室内に明かりが灯っている。
雑賀は、片膝を落とした姿勢のまま、じっと動かずに部屋を見張った。
雑賀が潜んでいる梅の木と、見張っている部屋の縁側との距離は、六間(約十・八メートル)程である。
日は落ちかけ、梅の葉が木の下に、濃い暗がりを作っていた。黒い衣服の雑賀の体は、闇に紛れてほとんど見えないはずである。
雑賀が見詰める屋敷の一室こそ、当主である、鈴木重孚の部屋であった。
梅は、もちろん、食べ物になるばかりではなく、花を見ても楽しめる。縁側に面した、重孚の部屋の戸を開け放てば、季節には満開の梅の花が楽しめるような配置に、屋敷内の梅の木は植えつけられていた。
雑賀が部屋を見張り始めるとすぐ、縁側に面した重孚の部屋の障子戸が開いて、中から門番が現れた。
すぐに戸を閉め、門番は、縁側を足早に去っていく。
おそらくは、門の外で待っているはずの、雑賀のもとへ向かうつもりなのであろう。
門番は、目の前に雑賀が隠れていることには、全く気づかない様子だった。まさか、雑賀が、すでに目と鼻の先にいるなどとは、想像すらもしていまい。
さらに待つと室内の行灯の明かりが消えた。
再び障子戸が開かれて、痩身の六十絡みの男が姿を現した。重孚である。
重孚は、縁側を門番が去ったのと同じ方向へ進もうとしたが、ふと視界に何かが入ったのか直感を得たか、雑賀が潜む梅の根元へ視線を向けた。
「何奴!」と、重孚は、鋭く誰何した。
雑賀は、「重孚殿」と、低く落ち着いた口調で応答した。
膝を落として、地面に向かって顔を伏せたまま、雑賀は梅の木陰から外へ姿を現した。
とはいえ、すでに辺りは暗く、邸内に無駄な明かりは灯されていない。重孚には、雑賀の顔は見えないはずである。
「失礼ながら、表ではなく、こちらで待たせていただいておりました」
「無礼だな。それほどの切迫した用件か」
不審者に応じる重孚の口調に脅えはなく、淡々とかつ堂々としたものだった。
「恐れながら」
雑賀は、より深く、頭を下げた。
「申せ」
「まずはこれを」
雑賀は、自分の手荷物の袋の中から、一尺ほどの長さの、細長い布包みを取り出した。
片膝を立て平伏したまま、雑賀は思い切って重孚の足元まで近寄った。
縁側から雑賀を見下ろす重孚に対して、雑賀は包みの下に自分の両手を添えるようにして頭上に掲げると、包みを恭しく差し出した。
重孚は、雑賀から包みを受け取った。
布をほどくと、中には短刀が入っていた。
色褪せて古ぼけた短刀だ。真っ赤な鞘に、白い丸の模様があり、白丸の中には、黒で三ツ足の鴉の図柄が描かれている。
「これは雑賀の旗印、八咫鴉!」
不審者を前にしても動じなかった重孚が、悲鳴のような声を上げた。
「死んだはずの息子の短刀だ!」
重孚は、縁側から地面に飛び降りると、一方の手には短刀を握ったまま、雑賀の両肩を、がしりと掴んだ。
顔を伏せたままの雑賀を、重孚は激しく揺さぶった。六十間近とは思えぬ腕力だ。
「おぬし、いったい、どこでこれを!」
重孚の声は掠れていた。雑賀は応えない。
重孚に肩を掴まれたまま、いいように揺すられていた雑賀の口から、くくくくく、と、漏れるような声が上がった。
「何を?」
重孚が、雑賀の肩を放す。
だが、重孚が、肩から手を放してもなお、雑賀の肩は小刻みに揺れているままだった。雑賀は、笑っていたのである。
「まだ、わかりませぬか?」
雑賀は、がばりと顔を上げると、見下ろす重孚の顔を見返した。
「まさか」
重孚の口から、呟きにもならないような小さな声がこぼれ落ちた。そのまま重孚は、へたへたと座り込んだ。
にやりと笑い、雑賀は、左目を瞑って、ウインクをした。
「父上。雑賀聖人、ただ今、戻りました」