後日談
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新撰組による公式発表では、文久三年九月十八日の深夜、新撰組筆頭局長・芹沢鴨は、京都壬生村の八木源之丞宅において、潜入した長州藩士に寝込みを襲われ、殺害された。
同十六日の大坂港での長州藩士の決起を、新撰組が事前に察知して阻止した事件の、報復を受けたため、と説明されている。
刺客は複数であり、芹沢と同衾していた愛妾のお梅と、芹沢の側近である平山五郎も、刺客の凶刃に懸かって死亡した。
九月十八日には、新撰組の隊名拝受の一ヶ月と、長州藩士の決起を阻止した祝いの宴会が、島原の角屋で開催されていた。
筆頭局長である芹沢は終始、頗る機嫌が良く、相当量の酒を飲んで酩酊していたとの、複数の隊士の証言が残されている。
「そうでもなければ、神道無念流の免許である芹沢先生が、刺客ごときに後れを取るとは、全く考えられませんな」とは、今や唯一人の新撰組局長・近藤勇の弁である。
芹沢と平間の葬儀は、新撰組屯所に程近い壬生寺において、九月二十日に執り行われた。
両名の遺骸は、田中伊織同様、壬生寺内の壬生塚に埋葬されている。
同日、近藤勇は、隊の内外に、不逞浪士の取締り強化と、組織の拡充を宣言した。
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文久三年九月二十八日。
次いで、十月四日及び五日。
アメリカ合衆国大統領全権大使、ホリー・クロウ・ペリー大尉と幕府の役人立ち合いの下、薩摩藩とイギリスの講和談判が開かれた。
談判の中で、薩摩藩は、イギリスに対して、生麦事件の賠償金二万五千ポンドの支払いと、イギリス人リチャードソン殺害の下手人の捕縛・処分を約束した。
だが、同時に、賠償金支払いに応じる交換条件として、イギリス艦隊の旗艦・ユーリアラス級の戦艦の購入について、イギリスに斡旋を申し入れた。薩摩藩は、先の戦争で主力であった三隻の蒸気船を失っており、即戦力となる戦艦の確保が急務だった。
『今後、外国と対等に渡り合うためには、長崎で手に入るような、商用蒸気船や小火器ばかりではなく、何より強大な戦艦が必要です』
島津久光から長崎での武器買い付けの任を命じられていた松木弘安と五代才助が、久光に対して強く嘆願をしていたのだ。
久光は二人の嘆願を聞き入れ、イギリスとの談判においては、何より『戦艦購入』を最重要交渉項目とする旨を、実際に談判にあたる重野厚之丞に伝えて、談判に臨ませた。
イギリスには、開戦前に、薩摩藩の蒸気船を拿捕・沈没させたという負い目があるはずだ。談判を成功させるためにも、薩摩藩からの申し入れを、無下に断る訳にはいかないだろうとの読みを、薩摩藩は持っていた。
果たしてイギリスは、薩摩藩の交換条件を承知した。
この瞬間、日本における、薩摩藩の一層の強大化が確定した。




