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第十三章 狸と狸と狸と狸

 雑賀らが、尻無川を下り出してすぐ、雨が降り出した。

 時間帯と雨のせいもあってか、雑賀らは、誰にも見咎められずに、大坂港に到着した。

「天下の台所」と呼ばれるだけあって、港には、犇めき合うように多数の船が停泊している。朝になれば、これらの船が、一斉に積み荷のやりとりをするために動き出すのだ。

 だが、今は、日中の喧騒とは全く無縁な様子で、船たちは、ただ雨に打たれている。

 利平は、無数の船の間を、別の船に船体をぶつけないようにと注意しながら、慎重に小船を操っていた。

 無灯火の上に、雨の晩という悪条件だが、停泊している船の姿は、ぼんやりと視認できる。

 利平は、音もなく、小船を進ませた。

 岸沿いに、淀川河口方面へ船を向かわせる。

 モビーディックは、淀川の河口、一里余りの場所に投錨しているはずだ。雑賀は、船上で目を凝らした。

 だが、モビーディックのものらしき灯火は、見えなかった。

 騒ぎも聞こえない。

 雑賀は、陸上に視線を転じた。

 勿論、小夜莉の姿はない。大切な人質として、芹沢がどこかに監禁しているはずだ。

 雑賀の瞳が、何かを捉えた。

 陸上には、倉庫が建ち並んでいる。

 倉庫の前の、広い荷受け場に、誰かが立っていた。暗闇の中、ぼんやりと、白い衣服が浮かび上がるように見てとれた。

 雑賀は利平に、人影に船を近づけるようにと指示を出した。

 人影は、海に背を向けるようにして立っていた。まさか、雑賀が海にいるなどとは思ってもないだろう。新撰組の隊士だった。

 隊士らが着る、ダンダラ模様の白い羽織が、闇に浮かんで見えていたのだ。雨具は着けていない。隊士は、雨に打たれるままだった。

『あやつ、何をしているのか?』

雑賀は、背後から隊士に近づき、拳銃を突きつけて、小夜莉の居場所を聞き出そうと考えた。

 利平に、船を桟橋に近づけるようにと指示を出す。

 利平が船を、桟橋に寄せた。

 前方に、背を向けている新撰組隊士とは、別の人間の気配がした。

 白でなく、薄汚れた黒っぽい身なりのために、闇に紛れていたが、素浪人風の三人の男が、隊士に近づいていくところだ。

 三人と隊士は、二言三言、言葉を交わした。

 雑賀には会話の内容までは、聞き取れない。

 だが、隊士が身振りで大坂港の淀川方面を示す動きをしたことから、意味は伝わった。要するに、「あっちだ」と、道案内をしているのだ。

 素浪人たちが、小走りに示された方向へ去っていく。

 雑賀は、桟橋には上がらなかった。

 利平に、海から去っていく素浪人たちを追うよう、身振りで伝えた。

 雑賀には、素浪人風の男たちが放っている胡乱な気配に、覚えがあった。

『八・一八の政変』の際、京都御所の前で、十二分に憎悪を込めて浴びせられた気だ。

「奴ら、長州だ」

 雑賀は、小声で囁いた。

『八・一八の政変』に敗れ、大半は国許へ引き揚げていった長州藩士だが、名と身分を変え、京都や大坂に潜んでいる者も多数いる。

「長州が、なぜ会津の新撰組と一緒に?」

 利平は怪訝そうな顔で、やはり小声で問い返した。

 雑賀は、断言した。

「芹沢は、水戸の出身だ。長州も水戸も尊皇攘夷。どこかで通じ合っていても、不思議はない」

 雑賀の睨んだ、通じ合う両者の接点こそが、藤田小四郎だった。

 文久三年二月、水戸藩主・徳川慶篤のお供として上洛した小四郎は、京都で活動する同じ尊王攘夷の志を持つ長州藩士たちと、密かに気脈を通じ合っていた。気脈を通じた長州藩士の一人が、桂小五郎だ。

 帰東後、那珂湊で、モビーディックの高い戦闘能力に心を奪われた小四郎は、上京して、芹沢にモビーディックの強奪を具申した。

 小四郎の意見を聞き入れた芹沢は、『八・一八の政変』の発生と新見の暴走から、一つの作戦を思いついたのだ。

 すなわち、新見を処罰して、モビーディックの守備兵を誘き出すと同時に、モビーディック強奪の実行部隊として、失脚して京都・大坂に潜伏した、長州藩士を採用する。

 芹沢は、小四郎を桂と接触させて、連携を打診した。

 長州藩にとっても、モビーディックという戦力を手に入れるのは、尊王攘夷派の雄藩として返り咲く、まさしく、渡りに船だった。

 桂は承知し、芹沢と桂、すなわち、水戸と長州の連携が成立した。今ここに至る、芹沢らの企みの筋書きは、こういうことだ。

 治安を守る側と乱す側が結託するのだ。悪事を成すのに、こんなに都合のいい話はないだろう。

 芹沢らは、夜間に出歩く長州藩士を、取り締まらずに作戦の実施地点に誘導し、且つ、その他の出歩く者については、実施地点に近づけぬよう追い払う。雑賀が、今見た新撰組隊士も、そういう案内役の一人なのだろう。

 海から素浪人たちを追っていた雑賀らは、やがて淀川の左岸河口に到達した。

 どうやら、雑賀らが追っていた三人は、集合時間に遅れていたクチらしい。

 桟橋の上の広場には、既に百人近い人影が集まっているのが見受けられた。潜伏していた長州藩士と、芹沢たちだろう。

 素浪人たちは、人影の中に混ざって消えた。

 気づかれないよう、雑賀は利平に船を停止させて、遠目から様子を観察した。

人影の近くの桟橋には、雑賀らをモビーディックから宴会場に運んだ、十艘余りの和船が停泊している。

 まだ、和船には、誰も乗り込んではいなかった。今まさに、作戦決行の瞬間を待っている状況のようだ。

 群衆の中に、小夜莉がいるかまでは分からない。とはいえ、もう殺されてしまったという選択肢は、考えなかった。

 簡単に殺すのであれば、わざわざ生かして連れて行くような、面倒な真似をする必要はないはずだ。

 だから、姉は、まだ生きているのだと、雑賀は、信じていた。利平も同じはずだ。

 雑賀は、視線を海へ転じた。モビーディックが、投錨しているはずの海である。

 芹沢の作戦は、まだ決行されていない。

 今から、まっすぐにモビーディックに向かえば、芹沢らが行動を起こすよりも早く、モビーディックに危機を伝えられるかもしれなかった。

 だが、その場合、作戦に失敗したと悟った芹沢は、腹いせに、小夜莉を殺してしまうのに違いない。

 アメリカ合衆国大統領全権大使である、ホリー・クロウ・ペリー大尉にとっては、直ちにモビーディックに向かうのが、正しい行動だ。何より優先すべきは、同胞の危機回避である。

 だが、小夜莉の弟、雑賀聖人にとっては、選べぬ行動だ。姉を見捨てる選択だった。

 ましてや利平に、小夜莉を見捨ててモビーディックに向かえ、などとは、言えるわけもない。

 雑賀は、右腰のホルスターを右手で触った。

手持ちのS&Wモデル2アーミーの回転弾倉には、弾丸は六発だ。予備はない。

 雑賀一人、対、およそ百人。正面から攻撃を仕掛けたのでは、勝ち目はなかった。

 内部に忍び込んで、一息に、主要な首謀者を消しさるしかないだろう。

 同時に、姉の行方も探る。

『しんどいな』

 雑賀は、これからやらなければならない行為の困難さを思って、頭を抱えた。

 だが、時間を稼ぎさえできれば、ジョナサンたちが駆けつけてきてくれる。

 宴会をした店の主人には、『大坂港で攘夷の企みあり』として、大坂町奉行所に、直ちに連絡をするよう命じてあった。

 大坂町奉行が馬鹿でなければ、多数の捕り方を率いてやってくるはずだ。

「義兄上。着物を替えてください」

 雑賀は上着を脱ぎ、自分の上着と利平の着物を交換した。

 利平の着物を羽織って、帯を締める。

 頭には、髷のない髪型でばれぬよう、手拭いを被った。雨のため、雨除けだと思ってもらえると期待したい。

 足元はブーツだが、暗闇だし、雨も降っている。群衆にうまく紛れ込んでさえしまえれば、パッと見は、雑賀とわからぬはずだ。

「その服を着ていれば、私の縁者だと通じるはずです。義兄上には、モビーディックに危険を伝えていただきたい」

「何と言えばいいんだ?」

 不安そうに、利平が問うた。

「エマージェンシー」

 雑賀は、一言だけ、利平に覚えさせた。

 雑賀の服を着た男が、『緊急事態』と叫べば、モビーディックの同胞たちは、陸地で何かあったのだと悟るだろう。

 警戒さえしてくれれば、芹沢たちに、おめおめと艦を奪われるような事態にはならないはずである。

 雑賀は利平に、群衆からは見えない位置に着岸させた。

 雑賀は、音もなく、岸壁に飛び移った。

「お気をつけて」

 雑賀は、利平に敬礼をした。

 頷いて、利平は、船を出航させた。

 利平はモビーディックに舳先を向けた。

 雑賀は身を翻すと、芹沢たちに向かって、小走りに駆け出した。

        2

 芹沢は、どっしりと床几に腰を下ろして、目を閉じて、平山の到着を待っていた。

 新撰組のダンダラ羽織を着てはいない。素性を隠すために、他の素浪人たちと同様、薄汚れた暗い色の着物を纏っている。

 芹沢の背後に立つ真柴も、同様の服装だ。

 真柴は、常と同じ無表情で、芹沢の護衛役として、周囲に気を配っていた。

 芹沢の隣には、桂小五郎の床几がある。

 だが、桂は、作戦決行を間近に控えて落ち着かないのか、床几には腰を下ろさず、せわしなく、同じ場所を行ったり来たり、歩いていた。

 藤田小四郎が、血気に逸った興奮の面持ちで、近くに立っている。

 芹沢と桂、対極的な水戸藩と長州藩の指揮官の様子を、広場に集まった百名近い長州出身の素浪人たちが、食い入るような視線で見詰めていた。

 全員、雨に打たれるがままである。

 素浪人たちは、作戦決行の命令が下るのを待っていた。命令があり次第、和船に分乗して、モビーディックに向かう手筈となっている。

 今頃、モビーディック内部の乗組員たちは、色と酒で腑抜けきっていて、完全に外への警戒を怠っているはずだ。

 圧倒的多数の戦力でモビーディックに乗り込み、乗組員たちに抵抗の余裕を与えずに捕縛し、艦を占領する。これが、作戦の段取りだ。

 乗組員を殺さずに捕縛するのは、占領後の艦を長州まで航行させるためである。さらには、長州藩兵に艦の操作方法を教える、指導者にしたいという目論見もあった。

 奪ったモビーディックは、長州の好きにさせる約束になっていた。

実際に、作戦のために動員されている人間の大半は長州側だが、作戦の立案者は、あくまで芹沢だ。

 作戦が成功して、長州藩が再び攘夷派の雄藩として返り咲ければ、大きな貸しである。見返りは、今後の芹沢の活動に対する、潤沢な資金の協力だった。

 広場には、水戸藩側の人間は、芹沢と真柴、小四郎の三人しかいない。

 残る新撰組隊士らは皆、案内役兼邪魔者を寄せつけぬ係として、大坂港の各所に散っていた。

 雑賀の姉の小夜莉については、お梅に見晴らせて、港の別の場所に監禁してあった。

 女には女だ。見張りを男に行わせないのは、万が一の馬鹿な考えを起こさせぬためだった。

 せっかくの見張りに傷を付けては、いざ、堀居九郎と交渉が必要となった際、交渉道具としての価値が落ちると、芹沢は考えていた。

そのとき平間が、闇と雨を掻き分けるようにして、どこからか広場に駆け戻ってきた。

 芹沢は、平間の気配を感じて、カッと目を見開いた。

苛々と歩き回っていた桂が、足を止める。

 真柴と小四郎も、平間に注目した。

「平山はまだか?」

 芹沢は、唸るような野太い声で、平間に問うた。予定では、最終確認役の平山が戻り次第、作戦決行の手筈になっていた。

 平山の帰りが遅いので、途中まで、平間に様子を探りに行かせたのだ。

 平間は、深刻な表情で首を振った。

「戻りません。気づかれて、消されたかも知れませんな」

 桂の眉が、ぴくんと跳ねた。

「藤田くん」と、桂は小四郎にのみ囁いて、小四郎を傍らに呼び寄せた。

「どうやら、作戦にケチがついた様子だぞ。決行を取りやめるべきじゃないか?」

 小四郎は唖然とした顔で、あんぐりと口を開け、声を荒げた。

「今更、何を仰るのです!」

 芹沢は、ぎろりと二人を睨んだ。

 桂は、しぃ、と指を立て、小四郎に声を小さくするように促した。

「臨機応変の対応だ。問題が起きたのなら、無理な力押しには頼らず、次の機会を待ったほうがいい」

 桂は落ち着いた口調で、小四郎に主張した。

 だが、二人の会話は、すべて、芹沢の耳にも届いている。

芹沢は、がはははは、と、大声で笑った。

「長州の桂小五郎の異名は、『逃げの小次郎』とは聞いていたが、いやはや、見事なまでの臆病ぶりだ」

 芹沢は、聞こえよがしに、桂を嘲笑した。

「何をっ! 拙者を臆病者と愚弄するか!」

「こりゃ、失礼。流石、見事な慎重ぶりだと言い直そう。だが、貴殿の同胞たちには、出直すつもりは微塵もないようだぞ」

 広場に居並ぶ素浪人たちは、皆、ぎらぎらとした瞳で、芹沢や桂を睨んでいた。焦らさず、さっさと命令を下せと、上気した顔が、訴えている。

「今夜を逃すと、次の好機など永遠に訪れんと存ずるが、貴殿が同胞を説得できると申すならば、説得されてみよ」

 桂は気圧されたように、口ごもった。

「別に、拙者は、絶対に止めろと申しているわけでは」

 芹沢は、ふん、と鼻を鳴らした。

 床几から立ち上がる。

 いよいよか、と、素浪人たちの緊張が、最高潮に高まったのを、芹沢は感じた。素浪人たちが期待している言葉は、一つだけだ。

 芹沢は、大音声で、期待に応えた。

「乗り込めい!」

 うぉおぉ、と、興奮した素浪人たちの間から、声が上がった。

 素浪人たちは、かねての手筈どおり、自分が乗るべき和船に向かって、一斉に走り出した。

        3

雑賀は、さも、後から遅れてきた風を装い、広場に集まった素浪人たちの中に、素知らぬ態度で紛れ込んだ。

 素浪人たちは、皆、長州藩の出身者である。周囲では、長州訛りの言葉が行き交っていた。

 雑賀に話しかけたり、手拭いの下の顔を覗き見たりすれば、雑賀が同郷の人間ではないのは、一目瞭然だ。

 だが、作戦前の緊張状態にある集団は、わざわざ雑賀に注意を払ったりはしなかった。

 皆、一様に前方を注視している。

 前方には、芹沢鴨がいた。

 芹沢が、素浪人たちの集団に向かって、大声で命令を発するところだった。

「乗り込めい!」と、芹沢が吠えた。

「うぉおぉっ!」と、素浪人たちの間から歓声が湧き上がった。

 素浪人たちは、一斉に和船に向かって走り出した。

 雑賀は、あっという間に、取り残された。

 素浪人たちは、桟橋に早く着いた者から順番に、次々と和船に乗り込んで行く。

 雑賀は、軽く舌打ちをすると、駆ける素浪人たちを追いかけて、自分も走り出した。

 命令を発した芹沢は、和船に乗り込む素浪人たちのほうを向き、乗船行動を見詰めていた。雑賀には背を向ける形になっている。

 真柴十三と、桂小五郎が、芹沢の左右に立っていた。真柴も桂も、芹沢と同様に、雑賀に対して後ろ向きだった。

 誰も、雑賀の存在には、気づいていない。

 作戦開始直後の、一瞬の『虚』の状況だ。

雑賀は、素浪人たちの群れを飛び出した。

 和船ではなく、無防備な、敵の幹部たちに向かって走る。

 雑賀にとって、芹沢たちを背後から、ただ撃つだけならば簡単な仕事だ。パンパンパンと、三回、引き金を絞るだけである。

 だが、敵幹部を背後から撃つだけでは、確実に、モビーディックへの襲撃を止められるとは限らない。

 陸上での騒ぎの大小に拘わらず、既に和船に乗り込んでいる者たちが、そのまま、作戦を実行し続けてしまう恐れがあった。

 確実に、和船の動きを止められないのでは、駄目だ。せめて、利平が、和船に先行してモビーディックに辿り着くまで、もう少し、時間を稼ぐ必要がある。

 その上、雑賀は、小夜莉の命も救わなければならなかった。

 否。むしろ、小夜莉の命のほうが大切だ。

 雑賀が見る限り、この場に、小夜莉の姿はない。どこにいるのかを突き止めなければ、助けようにも、助けられなかった。

 人質に対しては、人質だろう。相手にとって、誰か価値のある人間を人質にとって、小夜莉と人質の交換をするのだ。

 雑賀は、そのように考えた。

 雑賀は、利平と着物を交換した際、懐に隠し持った拳銃を右手で抜いた。芹沢たちに向かって駆けながら、空に向けて、銃を撃った。

 左手で、頭の手拭いを脱ぎ捨てる。

「動くなっ!」と、同時に、叫び声を上げた。

 虚をつかれた驚きの顔で、芹沢、真柴、桂の三人が振り返った。

 雑賀の前を走っていた素浪人たちも足を止め、雑賀を振り返る。

 漕ぎ出した和船と、まだ桟橋にいる素浪人たちも、動きを止め、雑賀に注目した。

 雑賀から最も近かった二人の素浪人が、反射的に刀を抜いて、雑賀に斬りかかった。

 雑賀は、パンパンと二度、引き金を絞り、斬りかかってきた二人の、それぞれ膝頭を撃ち抜いた。

『残り、三発』

 雑賀は、頭の中で、残弾を数えた。

 撃たれた二人の素浪人の膝の骨は砕けた。自分自身の体の重みに耐えかねて、本来ならば関節が曲がるのとは別の方向に、膝が折れ曲がった。

 素浪人たちは膝を抱えて、倒れ込んだ。

 雑賀は、構わずに、倒れた素浪人の脇を駆け抜けた。

 雑賀と芹沢たちの間に、雑賀の行く手の邪魔をする素浪人は、もういなかった。

 雑賀と芹沢たちの間の距離は、二間余りだ。

 雑賀は、足を止めた。

 真柴が、芹沢を背後に庇った。

 だが、雑賀は、芹沢と真柴を狙ってはいなかった。

 雑賀は、銃口を桂に向けた。桂の額だ。

 桂は、青い顔で、がくがくと震え出した。

 雑賀が見たところ、作戦の実行部隊は、長州人だった。人質に確保して実行部隊の足を止めるには、同じ長州人である、桂のほうが相応しいだろう。

 目端が利く幾人かの素浪人が、刀を抜いて、雑賀の背後へ、回りこもうと動いていた。

「全員、動くな!」と、雑賀は再度、声を張り上げた。

 やむなく、素浪人たちは、動きを止めた。

 雑賀は、和船へ視線をやった。

 既に、桟橋を離れてしまった船が、二艘。残りは、まだ桟橋に横付けにされて、乗船の途中だった。どの船も、今は停止している。

 船からも桟橋からも、雑賀に対する、強い恨みの視線が、飛んできていた。

 長州の人間は、皆、雑賀を知っていた。

 会津候の軍師、堀居九郎という認識である。

『八・一八の政変』に参加していた長州藩士にとって、雑賀は、ある意味で、敗戦の象徴だ。仇と呼んでも良い。長州藩士にとっての雑賀は、この世から最も消し去りたい男である。

芹沢が落ち着いた口調で、雑賀に話しかけた。

「素早いな。平山を殺して駆けつけたか」

 雑賀は、芹沢に視線を戻した。

「そんなところだ」と、雑賀は、嘯いた。

 芹沢は、雑賀の心の内を見透かしたように、せせらわらった。

「時間稼ぎに飛び出してきたな。後から同胞が、駆けつけてくるわけだ」

 雑賀は、無表情を装った。

 だが、内心では、『チ、ばれてるか』との思いが強い。

 芹沢は、和船と桟橋の素浪人たちに対して、大声で叫んだ。

「構うな。船を出せ。この男の時間稼ぎに付き合う必要は、一切ない」

既に、桟橋を離れている二艘が、芹沢の言葉に即座に反応して、動き出した。

 二艘とも、乗組員たちは座っており、後方にある櫂を操る、船頭のみが立っている。

 雑賀らをモビーディックから連れ出した時と違って、本職の船頭ではなく、それぞれ素浪人の一人が、船頭になっていた。和船がモビーディックに到着した際、船で待つのではなく、船頭自身も襲撃に加わるためだろう。

 長州藩にとっては、起死回生の総力戦なのだ。モビーディックを奪えず、和船で逃げ出すという考えは、想定においていない。

 雑賀は素早く、銃口を二艘の船頭に向けると、引き金を二度、引いた。

 二艘の和船とも、船頭が身を仰け反らせて、海に落ちた。

 雑賀は、再び、銃口を桂の額に向けた。

 船頭を撃った雑賀の一連の動きは、一瞬だ。桂に逃げる隙は与えていなかった。

 桂は青い顔で、雑賀を見詰めている。

 船頭を失った二艘の船は勿論だが、芹沢に促されて乗船を終え、今まさに桟橋を離れようとしていた残りの和船も、動きを止めた。

 雑賀は、桂に銃口を向けたまま、つかつかと歩み寄った。

 火を噴いたばかりで、まだ熱を持っている銃口を、桂の額に押しつけた。

「次は、貴様だ」

雑賀は桂に、淡々と告げた。

 桂は、ますます青くなった。

 雑賀は、本題を口にした。

「嫌なら、人質を返してもらおうか」

 死にたくなければ、桂は、従うしかないはずだ。

 だが、桂が何か口を開くよりも早く、「脅しだ」と、芹沢が、一言の下に吐き捨てた。

「弾丸は、残り一発だろう。撃てば、貴様は丸腰となる。撃てるわけがない」

 雑賀は密かに、芹沢の冷静さに感心した。

『数えてやがったか』と、舌を巻く。

 芹沢の言葉通り、桂の額に突きつけた拳銃に、残弾は一発だけだった。

 弾丸が尽き、雑賀から、もはや撃たれる恐れが皆無になったと分かれば、素浪人たちは一斉に、雑賀に斬りかかってくるだろう。

 斬られぬための抑止力として、常に拳銃内には、弾丸が残っていなければならなかった。

 芹沢の言うとおりだ。

 理屈では、雑賀に、桂を撃てるわけがない。

だからといって、桂に対して、『撃つのは、はったりです』とは、認められなかった。

 桂には、あくまで『殺される!』と思っていてもらわなければ、長州藩士の足を止めることも、人質交換に持ち込むことも、できはしない。

 したがって、ここは強気だ。

 雑賀は、芹沢の言葉を、鼻で笑った。

「なぜ、銃が一丁しかないと思うんだい?」

 芹沢は、動じなかった。

「あるのなら、いつものように、両手に握っているだろう」

芹沢は、すらりと刀を抜いた。

「回り込め」と、真柴に声を掛ける。

 真柴が、自分の刀を抜いた。

 芹沢と真柴は、それぞれ雑賀の左右に分かれて、雑賀を挟み討ちにしようとした。雑賀が、二人のどちらかを撃ったところで、確実にもう一人が、雑賀を斬るという段取りだ。

 芹沢も、強気だった。

「さあ、どちらを撃つ?」

 芹沢は、楽しそうに、雑賀に問いかけた。

 撃たれるのが自分かも知れない場面で笑える芹沢は、相当な胆力の持ち主だ。

 だが、雑賀も、芹沢に対して笑い返した。

「もう言っただろ」

 雑賀は、さらりと断言した。

「桂小五郎」

 桂は、ひっ、と息を呑んだ。死に直面して、ぶるぶると震え出す。

 雑賀は、芹沢に顎をしゃくって、素浪人たちを、指し示した。

「ほら、みんな見ているぜ。桂小五郎を見殺しにしたなら、長州藩は、あんたも水戸藩も許さんだろうな」

 雑賀は、三竦みを狙っていた。

 芹沢は長州藩が恐く、長州藩の桂は雑賀が恐く、雑賀は、芹沢が恐い。

 三者が竦んで動けないでいる間も、時間だけは、着実に過ぎていく。

 すなわち、時間を稼ぎたい雑賀だけが得をする。これが、雑賀の思惑だ。

「なに、戦に死人は付き物だ。桂くんは、名誉の戦死よ。見殺しではない」

 芹沢は、剛毅に言い返した。

 とはいえ、芹沢が、ちろりと周辺や桟橋、既に和船に乗り込んでいる素浪人たちに視線をやった動きを、雑賀は見逃してはいない。

 芹沢も自信がないのだと、雑賀は芹沢の内心を推測した。芹沢と長州藩の間は、まだ、鉄壁の信頼関係ではないと見える。

芹沢に自信がない証拠に、芹沢は、雑賀に斬りかかってはこなかった。ただ、刃を向けて挟み討ちにしているだけである。

 まんまと、雑賀の思惑の内側だ。残るは、人質問題だった。

雑賀は、無様に、ぶるぶると震えている桂に囁いた。

「いずれにしても、俺たち四人の中で、一番早く死ぬのは、あんただぜ」

 桂の表情は、今にも、泣きそうだ。

「次が俺。俺たちの仇は、あんたの同胞にとってもらおうや」

 桂は俯いて、必死に唇を噛み締めていた。

「死にたくねぇなぁ」と、雑賀は、心からの声を、桂に聞かせた。

 ハッとした表情で、桂が、雑賀の顔を見返す。

「助かりたければ、誰かに人質を連れて来させろ。人質交換だ。そうすりゃあ、俺も退ける」

 雑賀は畳み込むように、桂に告げた。

 お互いに『死にたくない者』同士だ。同士の言葉を信用しろよという、雑賀の論法だ。

 桂は、雑賀の言葉に縋った。

「誰かっ!」と、桂は、手近の素浪人に向かって、声を掛けた。

 生きる望みが湧いたのか、桂の顔に、血の気が戻ったのを、雑賀は確認した。

『うまくいった!』

 雑賀が安堵した瞬間、どこかで、ドンという大砲の発射音がした。

 ヒュルヒュルという、風切り音が近づいてくる。

『近いっ!』

 雑賀は咄嗟に、地面に伏せた。

 砲弾は、雑賀を越えて、桟橋に着弾した。

 木製の桟橋は砕け散り、多数の素浪人たちが、あわせて吹き飛んだ。

        4

 雑賀は、伏せたまま、顔を上げた。

 どこから誰が砲撃をしてきたのかは、皆目わからない。

 雨の中である。導火線や種火を濡らさぬよう、大砲は、どこか雨を除けられる場所に据えられているはずだ。

 例えば、桟橋を狙える、適当な倉庫の内などが考えられた。倉庫の内に大砲を据え付けて、開け放った扉の間を通して、砲撃するのだ。

 雑賀は、見回した視界の隅に、砲撃の発火光を確認した。

 やはり、倉庫が立ち並んでいる一画だった。

 同時に、砲撃音。

二発目は、漕ぎ出たまま海上で止まっていた和船の一艘に、正確に命中した。

 和船は大破して、沈没した。

 生きている者も死んだ者も、乗員は皆、海に投げ出された。

 桟橋にいた素浪人たちが蜘蛛の子を散らすように、海以外の方向へ、わっと逃げ出す。

 まだ、桟橋を離れた他の船の上にいる者たちは、逃げ場のない船上で標的にされるのを嫌って、一斉に海に飛び込んだ。

 雑賀は、ジョナサンが無茶をしたのかと、最初は思った。どこかで、うまいこと大砲を手配して、撃ってきたのかと思ったのである。

 だが、よくよく考えれば、現実的な思考ではない。

 雨を除けるため、大砲を倉庫内に据え付けるような時間的余裕が、ジョナサンにあるとは思えなかった。地理にも、詳しくはないはずだ。

 桟橋に芹沢たちが集まるのを知っていた誰かが、雨が降った場合の対応も念頭に置き、事前に大砲の準備をしていたと考えるべきである。

 雑賀は、立ち上がった。

『逃げの小次郎』の二つ名を持つ、桂小五郎は勿論、芹沢も真柴も、周囲には影も形もなかった。

 雑賀は、最初の砲撃で三人が爆風に煽られ、転がったところまでは、確認していた。

 恐らく、その後、即座に立ち上がって、逃げたのだ。

 撤退の時機を誤らないのは、出来の良い指揮官の条件である。

 ただし、この場合、実行部隊は置き去りだった。

『しまった!』

 雑賀は、三人を見失った事実に愕然とした。

 小夜莉の命を失ったのも同然である。

 芹沢が小夜莉を人質にとった理由は、雑賀に作戦を邪魔されないための、担保としてである。

 だが、砲撃という途轍もなく大きな邪魔が入った以上、もはや、人質には、担保としての価値は何もなかった。

 使い道のなくなった人質など、芹沢にとっては、足手まといでしかないはずだ。去り際に小夜莉の命を奪ってから、逃げるに違いない。雑賀への憂さ晴らしにもなるはずだ。

 雑賀は、改めて周囲を見回した。だが、どこにも芹沢たちの姿は見えなかった。

見えるのは、思い思いの方向に逃げていく、素浪人たちの背中だけだ。

 とはいえ、逃げていく素浪人たちの行く先々で、悲鳴と掛け声が上がっていた。

 どこからか現れた、ダンダラ羽織を着た新撰組隊士たちが逃げる素浪人たちに対して、斬りかかっているところだった。

 悲鳴は、斬られる素浪人たちが上げた声。掛け声は、斬りかかる際に新撰組隊士たちが上げた声だ。

 新撰組隊士は、芹沢鴨の一派ではない。近藤勇の手の者だった。

 だとすると、砲撃は、近藤の指示だろう。

『余計な真似を!』

雑賀は、近藤を恨めしく思った。近藤の砲撃さえなければ、小夜莉を助けられるところだったのだ。

そのとき、三発目の砲弾が、雑賀の頭上を越え、海上に浮かんだ空の和船に着弾した。既に乗員は逃げた後で、誰もいない船だった。

 和船は、木っ端微塵に吹き飛んだ。

砲手の狙い通りならば、良い腕だ。砲手たちは、相当な修練を積んでいるはずである。

『狸め!』と、雑賀は、松平容保の澄ました顔を思い浮かべた。

 芹沢が大和屋の焼き討ちをした際、容保は、芹沢に大砲を貸していた。

 要するに、新撰組には、隊で所有している大砲はないわけだ。

 にもかかわらず、所詮は浪人上がりに過ぎない近藤一派が大砲の取り扱いに長けている理由は、誰かが、大砲の修練に協力したからに他ならなかった。

 松平容保しかおるまい。

 容保は、近藤に対して、芹沢による大和屋焼き討ち計画の存在は伏せたまま、同時期に大砲の修練をさせていたのだろう。

 容保は近藤に、芹沢暗殺を仄めかしていたはずである。

 どういう経緯で、近藤が今日の芹沢の計画を掴んだかは知らない。いずれにせよ、ここが芹沢暗殺の好機と、容保から大砲を借りて、待ち伏せをしていたのに違いない。

 芹沢も近藤も、容保の掌の上にいたわけだ。

 だとすると容保は、雑賀に対して、芹沢と近藤の今日の動きを、事前に警告できたはずである。小夜莉を人質にとられずとも、済んだはずだ。

 けれども容保は、雑賀には何も伝えず、黙っていた。

 雑賀も、容保の掌の上。まさしく、容保は、『狸』だった。

 近藤一派の新撰組隊士たちは、逃げまどう素浪人たちを追いかけて斬り伏せつつ、雑賀がいる広場に向かって走ってきた。

 総勢で、二十名程だろう。

 少ないようだが、最初の砲撃で、桟橋に集中していた素浪人たちに壊滅的な被害を与えていたので、問題はない。

 奇襲を懸けた側の、物理的・心理的な、優位もある。

 何より、突然の正確な砲撃を受けた素浪人たちは、戦意を失い、慌てて逃げるばかりだった。もはや、完全な落ち武者狩りの様相だ。

 近藤一派は、取り残されたように、一人ぽつねんと広場に立つ雑賀も、素浪人の一味だと誤認している様子だった。

 何人もの隊士が、雑賀に向かって走ってくる。

 だが、皆、直前で、立っているのが『堀居九郎』であると気づくと、何もせず、雑賀の脇を走り抜けた。

 近藤から、この場には、『堀居九郎』がいるはずだと、聞かされていたのだろう。

 雑賀の脇を駆け抜けた隊士たちは、壊れた桟橋へ向かうと、海から上がろうとしている素浪人たちを見つけては、上から突き刺した。

 砲撃を受け、死にきれずに転がって呻いている者たちも、容赦なく刺していく。

 問答無用の殺戮だ。

 同胞に怪我を負わせる危険が高いため、もはや砲撃はないと見て良いだろう。

 雑賀は、桟橋へ駆け寄った。

 残党狩りをしている新撰組隊士たちに、「ここはいい」と、雑賀は冷たく声を掛けた。

 雑賀に追い払われた隊士たちは、不服そうに、他の残党を求めて離れていった。素浪人を斬った人数に応じて、論功行賞が決まるのかも知れない。

 雑賀は、海面を見下ろした。

 桟橋の破片や和船の破片に混じって、殺された素浪人たちが浮かんでいる。

 可能ならば、雑賀は、まだ息のある者を見つけ出し、芹沢がどこに人質を隠しているのか、吐かせたかった。

 もはや、一刻の猶予もない。見つけた素浪人が、雑賀の求める情報を知っているとは限らない。だが、情報を吐かせるためなら、雑賀は、近藤一派の新撰組隊士以上に酷い真似を、素浪人に行うのも辞さないつもりだ。

 はたして、雑賀は、獲物を見つけた。

 まだ、残っている水中から立った桟橋の柱の陰に、鼻から上だけを水面に出して、隠れている者がいた。

 恐らく、本人は、気づかれていないつもりなのだろう。

「出てこい」と、雑賀は、酷薄な口調で声を掛けた。

 獲物は、ぴくりとも動かなかった。

「柱の陰の貴様だ。口で言われて、自分のことだと分からないなら、銃で撃って、誰が呼ばれたのだか、はっきり分からせてやろうか」

 雑賀は銃口を、獲物に向けた。

 獲物が、ゆっくりと、柱の陰から現れた。

 藤田小四郎だった。

 雑賀は、唖然とした。

 よもや、那珂湊で分かれたはずの藤田小四郎が、このような場所にいるとは、思ってもみなかった。

 小四郎は、襲撃部隊の一員として、和船に乗り込んでいたようである。

 自然と、雑賀の銃口が下がった。

        5

 小四郎は、覚悟を決めたらしく、立ち泳ぎで、雑賀に向かって泳いできた。

 雑賀の足元で、海面から顔だけを出して、雑賀を見上げた。

「馬鹿! こんなところで、何やってんだ!」

 思わず、状況を忘れて、雑賀は小四郎を叱責した。

 小四郎は、壊れた桟橋に手を掛けて海から上がると、雑賀の前に、毅然と立った。

 全身から、海水が滴っている。

 小四郎は、誇らしげに、胸を張った。

「あんたの黒船を奪おうという考えは、私の進言だ。成功すれば、異人どもや、あんたや勝のような異人かぶれに、一泡も二泡も喰わせられた。日本に来る外国船どもを、根刮ぎ、沈めてやれたんだ」

 雑賀は、小四郎の主張に、呆れ果てた。激昂して、怒鳴りつけた。

「貴様のいう異人かぶれとは、何だ! 貴様が言った考えは、まずは平和的に強い船を手に入れ、外国と対等に渡り合えるようになろうという勝さんと、同じではないかっ!」

小四郎は、愕然とした表情を浮かべた。

 やり方はともかく、攘夷派急先鋒の自分が、外国の手先と罵る勝の考えと同じだったと、ようやく思い至ったのだろう。

 確かに勝は、小四郎がモビーディックの強さを思い知った那珂湊で、同じ主張をしていたはずだ。

「馬鹿なっ! そんな、はずは、ない」

小四郎は、嫌々をするように、首を振った。

「全く、同じだよ」と、雑賀は、冷たく吐き捨てた。

 そのとき、雑賀は背後から、巨大な殺気の塊が近づいてくるのを、敏感に感じた。

 雑賀は素早く、小四郎に囁いた。

「死んだ振りしてろ」

直後、雑賀は、大声で、小四郎を怒鳴りつけた。

「今更、自分の愚かさに気づいたとて、もう遅いわっ!」

 雑賀は、固く握った左手の拳で、小四郎の頬を殴った。

 殴り飛ばされて、小四郎は、背後の海に落ちた。

 波飛沫が上がる。

 雑賀は、小四郎が落ちた付近の海に向けて、右手の拳銃の引き金を引いた。

 最後の弾丸が、海に撃ち込まれる。

 近いが、小四郎の体には、絶対に当たらないという、絶妙な場所だった。

 見ていた者がいれば、激高した雑賀が、小四郎を撃ったと見えたはずである。

「堀居殿」

 雑賀の背後から、重々しく、声が掛けられた。

 雑賀は、左袖に拳銃をしまいながら、堂々とした態度で、ゆっくりと振り向いた。

背後には、抜き身の太刀をぶら下げた、近藤勇が立っていた。

 近藤のダンダラ羽織には、返り血が、たっぷりとついている。

 刃からは、血が滴っていた。ここに至るまでに、大勢の素浪人たちを斬ってきたのだ。

 雑賀は、さりげなく、ぷかぷかと仰向けに海に浮かぶ小四郎の姿が、自分の体で近藤の死角に入るような場所に、移動した。

「いや、ご無事で、何より」

 近藤は、四角い顔で、屈託無く、雑賀に笑いかけた。

「ところで、芹沢鴨めを見掛けませなんだか」

「余計な砲撃のお陰で、逃げられたよ」

 雑賀は、不機嫌な口調で、近藤に唸った。

「芹沢の襲撃計画を知っていて、黙っていたな」

 雑賀は、近藤を睨みつけた。

 近藤は悪びれもせずに、種を明かした。

「芹沢の下に潜ませた間者から、計画を掴んでおりました。すまぬが、泳がせてもらいましたよ。貴公も拙者に、芹沢が大和屋焼き討ちを画策しているのを黙っていましたな」

 チ、と、雑賀は、息を吐いた。お互いに本音の部分は隠して、利用し合ってきた結果なのだ。

「ならば、さっさと芹沢を見つけて始末しろ」

「是非もない」

 では、と、近藤は、雑賀に背を向けた。

「待て」

 雑賀は、走り出す寸前の近藤を呼び止めた。

 近藤が、怪訝な表情を浮かべて、振り返る。

「武器を貸せ」

 雑賀は、つかつかと歩み寄ると、近藤の腰から、鞘ごと脇差を引き抜いた。

 自分の帯に差す。

「行け」と、雑賀は、もはや近藤を見もせず、つまらなそうな口調で吐き捨てた。

 近藤は、ぺこりと頭を下げて、走り去った。

        6

「もう、いいぞ」と、雑賀は、海に浮かぶ小四郎に対して、声を掛けた。

 小四郎は立ち泳ぎになって、海面に顔を出すと、何度も大きく、息をした。

「ここからは、上がれん。どこか安全なところまで、泳いで行け」

雑賀を見上げる、小四郎の瞳に、怒りの色が湧いた。

「なぜ、助けるかっ!」

 死を覚悟していたのに、敵に助けられるとは侮辱だ、とでも思ったのだろう。小四郎は、強い口調で、雑賀に詰問した。

 雑賀は、ぶっきらぼうに言葉を返した。

「弘道館では、東湖先生から薫陶を受けた。水戸の後輩が、馬鹿な死に方をする姿は、見たくないんだよ」

 弘道館は、水戸藩の藩校だ。

 藤田東湖は、藤田小四郎の父親である。

 存命中に東湖は、藩校弘道館の建学の精神を記した『弘道館記』の解説書である『弘道館記術義』を著していた。水戸藩の道徳的な指導者だ。

 照れくさくなり、雑賀は、小四郎に背を向けた。

雑賀には、近藤に、小四郎を生かしたまま捕えさせることも可能だった。だが、その後に待つ過酷な拷問への対処は、雑賀の権限の埒外だった。

 近藤らの遣りすぎを止める手立てまでは、雑賀は、持ち得ない。

 したがって、小四郎を助けるためには、ちよっとした芝居が必要だった。

雑賀の突然の告白を受けて、小四郎は、目を剥いた。

 雑賀が同郷であると知った小四郎の驚きは、恐らく、攘夷を目指していた自分の行動が勝の考えと同じだと気づいた以上の、衝撃だっただろう。

 小四郎は、ぼそりと一言、何かを呟いた。

 芹沢が、小夜莉を監禁している場所の所在だった。

 雑賀は、小四郎を振り返った。

 けれども、海には、小四郎の姿は、もう見当たらなかった。

「サンクス」と、雑賀は、小四郎が消えた辺りの海の泡に、礼を言った。

 雑賀は、小夜莉を助けるために、走り出した。

        7

 大坂港に建ち並ぶ、倉庫の一つに、小夜莉は監禁されていた。

 猿轡をされ、縄で、後ろ手に縛られている。

 手を縛った縄の先は、重い荷の入った木箱の、持ち手の金輪に結ばれていた。

 木箱は、とても小夜莉が動かせるような重さではない。

 小夜莉の両足は、特に縛られてはいなかったが、木箱の重さのために、小夜莉は自由には歩き回れなかった。

 小夜莉は、自分から自由を奪っている木箱に、腰を掛けていた。

 倉庫の中には、火が点いた灯明が一つだけある。

 灯明があるのは、小夜莉の縄が届く範囲の、遙か外だ。

 小夜莉がいる場所は、倉庫の奥。灯明がある場所は、入口近くだった。

 距離は、五間ほど離れている。

 縄の長さは、せいぜい半間だ。

 灯明は、入口の脇にある木箱の上に置かれていた。

 灯明が置かれた木箱の隣の、別の木箱には、お梅が座っていた。芹沢に命じられた、小夜莉の見張り役である。

 倉庫内には、他に誰もいない。

お梅は、小夜莉を見たくはないようだ。小夜莉に背を向け、閉じられた倉庫の入口のほうを向いていた。

小夜莉から、お梅の顔は見えなかったが、あまり楽しそうな表情をしてはいないのは、気配でわかる。芹沢の言いつけとはいえ、気乗りのする役目ではないのだろう。

 倉庫内には、他に荷物は、ほとんどない。

 がらんとした、空間ばかりが目立っていた。

 外は、雨だ。絶え間なく、屋根を叩く雨音が、木霊のように反響して、室内に響き渡っている。

 小夜莉は、暗澹たる気持ちで、お梅と、倉庫の入口の開き戸を見詰めていた。

 誰かが、助けに来てくれないかと、ひたすら祈っていた。勿論、誰かとは、雑賀聖人に他ならない。

 突然、雨音とは別の打撃音が、倉庫内に響き渡った。誰かが、外から、激しい勢いで、扉を叩いたのだ。

 小夜莉は、びくりと、身を固くした。

 理由はないが、扉を叩く誰かは、小夜莉にとって、良からぬ来客だと直感していた。絶対に、雑賀聖人ではない。

 倉庫入口の開き戸には、左右とも、内側から、応急の突っかい棒が嵌められている。外からは、扉を開けさせないための細工だった。

 他に倉庫に入口は存在しない。

 倉庫の入口は、本来、外から錠をするものだ。荷物が自ら、錠をするわけではなかったから、通常は、内側に錠は必要はなかった。

 今回は、小夜莉を人質として閉じ込め、さらに見張りとして、お梅がついているため、内側から扉に突っかい棒を嵌めて、関係者以外には、開けさせないようにしているのだ。

「儂だ。開けろ」と、扉を叩いている誰かの野太い声が聞こえてきた。芹沢の声である。

 お梅が立ち上がり、扉に駆け寄った。

 お梅は、開き戸の左右に斜めに立てかけてある突っかい棒の一方を、素早く外した。

 左右両開きの開き戸のうち、突っかい棒を外した側の扉に、お梅は手を掛けた。扉は、がたがたと音を立てて、大きく横に開けられた。

 ずぶ濡れ状態の芹沢と真柴が、倉庫内に滑り込んできた。別行動なのか、桂小五郎の姿はない。

 芹沢は、鬼気迫る形相だった。顔が赤く、上気していた。

真柴は、常と代わり映えのない無表情だ。

「あんたっ」と、お梅が、芹沢を心配した口調で、声を掛けた。芹沢が、どこかに怪我でもしたのかと思ったのだろう。

 芹沢は、軽く右手を上げて、お梅を制した。怪我はない旨を示したのである。

「邪魔が入った」と、芹沢は、肩で荒く息をしながら、素早く告げた。近藤一派の新撰組隊士から身を隠しながら、倉庫まで駆けてきたのだろう。

「しばらく、長州に身を隠すぞ」

 芹沢は、倉庫の奥の木箱に座っている小夜莉を、恨みの籠もった目で見詰めた。

小夜莉は、芹沢と目が合った。

 はっきりとした芹沢の殺意を、小夜莉は感じた。怖気が、全身を這い登ってきた。

 芹沢は、つかつかと、小夜莉に向かって、歩き出した。

 小夜莉は立ち上がり、縄を引いた。

 木箱を引きずってでも、さらに倉庫の奥へ逃げようと試みた。

 けれども木箱は、ぴくりとも動かない。

 小夜莉は、うう、うう、と、声を上げた。

 涙が出てきた。

「やっぱり、殺しちゃうのかい?」と、お梅が、あまり興味のなさそうな口調で、小夜莉に近づく、芹沢の背中に問い掛けた。

 小夜莉への憐憫の感情は、一片もなさそうだ。

「奴にも、痛い目を見てもらわんとな」

 芹沢は不愉快そうに、言葉を発した。奴とは、雑賀聖人を指すのだろう。

「そう全て思い通りに運ばれては、儂の腹の虫が治まらん」

 芹沢は、雑賀が近藤と結託して、砲撃までの時間を稼いでいたと信じているのだろう。

 とんだ誤解だが、そもそも雑賀のほうが、襲撃を受けた側である。逆恨みもいいところだ。

 小夜莉は、ますます身を捩って、縄を引っ張った。近づいてくる芹沢から、少しでも離れようと、我武者羅に藻掻いた。

 効果は全くない。

「濡れたくないねぇ」

 お梅は、開かれたままの倉庫の入口から外の様子を見詰めて、陰気に呟いた。

 外は雨が降り続いており、暗いが、以前よりは、少し、小降りになったようだ。

 小夜莉の命より、自分が濡れる濡れないのほうが、お梅にとっては、切実な問題のようである。

 お梅は、扉の脇に立て掛けてあった傘を、手に取った。

 お梅は小夜莉を見ようともせずに、入口に向かった。

「あたしの見ている前じゃ、嫌だよ。すぐ長州へ逃げるんだろ。外で待つよ」

 お梅は傘を開いて、外に消えた。

「ああ」と、芹沢が唸るような声で、お梅に応じた。

 芹沢が、すちゃりと、刀を抜いた。

 小夜莉は、絶望した。

 もはや、逃げ場は、どこにもなかった。

 小夜莉は、ぎゅっと、目を閉じた。

 そのときだ。

「動くな」と、低く冷たいが、小夜莉にとっては暖かく感じられる、聞き覚えのある男の声が、倉庫の中に響き渡った。

小夜莉は、大きく、目を開いた。

 倉庫の入口に、左掌でお梅の口を塞ぎ、左腕でお梅の体を抱くように押さえ込んだ、雑賀が立っていた。

 雑賀の右手には、拳銃が握られている。

 銃口は、芹沢の後頭部に、正確に向けられていた。

 小夜莉は弟の顔を、しっかりと見詰めた。

 安堵感で、小夜莉の瞳から、さらに涙が溢れ出した。

 たちまち、雑賀の顔がぼやけた。

        8

雑賀は、お梅を抱え込んだまま、お梅を促して、倉庫の中まで、歩を進めた。銃口は、芹沢の後頭部に向けたままだ。

近藤一派に見つからぬよう、迂回をしながら、芹沢と真柴は、倉庫まで逃げてきた。

 一方、雑賀は、誰にも邪魔をされずに、一直線に、倉庫へやってきた。

 結果として、両者が倉庫に辿り着いたのは、ほぼ同時だ。

 真柴が、芹沢の盾となるべく、雑賀の銃口と芹沢を結んだ直線上に身を割り込ませた。

 真柴の立ち位置は、雑賀と芹沢の、ほぼ中間だ。強制的に、雑賀の狙いは、芹沢の後頭部から真柴の額に切り替えられた。

 芹沢は、突然の雑賀の出現にも、全く動じない。落ち着き払った様子で振り返った。抜き身の刀を握ったままである。

 芹沢は、自分の身を挺して芹沢を守ろうとしている真柴の背中に対して、「構わん。下がっておれ」と、鷹揚に声を掛けた。

「ですが」と、真柴は不安げな声を発した。

「案ずるな」と、芹沢は自信に満ちた口調で、真柴に説いた。

 真柴は、もはや何も言わずに、脇へ避けた。芹沢の体が、再び雑賀の銃口の前に曝された。

 芹沢の顔には、雑賀を揶揄する笑みが浮いていた。とても、追いつめられた者が見せるような表情ではない。

「なぜ、撃たん?」と、芹沢は、からかうような口調で、雑賀に問いかけた。

「この期に及んでまで、いきなり撃たずに、わざわざ声を掛ける理由は、何だ?」

 芹沢の言葉は、問い掛けの形式ではあったが、芹沢の瞳は、雑賀に答など求めてはいなかった。

 芹沢の内には、すでに答があるようだ。

「要するに、そうせざるを得んからだ」

 芹沢は雑賀には答えさせず、自ら断言した。

「貴様の弾丸は、もう尽きている」

 芹沢は、楽しそうだった。

雑賀は芹沢に、微笑み返した。

 図星過ぎて、笑うしかない。芹沢の読みは、恐ろしく、確かだ。

「すっかりお見通しとは、嫌な奴だな」

 雑賀はお梅を、ドン、と真柴に対して突き飛ばした。

 真柴は、がっしりと、お梅を受け止めた。

「ご明察だよ」

雑賀は拳銃を地面に捨て、腰の脇差に、手を掛けた。

「近藤の脇差だな。やはり、貴様らは結託していたか」

 芹沢が、したり顔で、頷いた。

「よし。この女が見ている前で、儂が直々に、貴様を消してやる。なに、心配するな。すぐ、女には後を追わせよう」

 芹沢は小夜莉のもとを離れて、雑賀に向かって歩き出した。

 小夜莉は、目を大きく見開いて、事の成り行きを見守っている。木箱に繋がれた縄を引くために藻掻いていた腕は今、胸の前で、しっかりと握り締められていた。

「そんな配慮は要らん」

雑賀は、憮然と吐き捨てた。脇差を、鞘から抜く。

 芹沢が立ち止まった。

 真柴が、お梅の体を支えたまま、雑賀と芹沢の闘いの邪魔にならないよう、壁際まで退いた。

雑賀は、半身になって低く腰を落とし、脇差を、サーベルのように右手一本で握った。芹沢に、刃の先端を向けて構える。

 くるくると切っ先を回して、芹沢の隙を誘う。変則的な、西洋剣術の構えである。

芹沢は青眼の構えで、雑賀に相対した。

 お互いに、刃を向け合ったまま、雑賀と芹沢は、真っ向から対峙した。

「そんな脇差と小賢しい構えで、拙者を斬れる気か?」

 芹沢の口振りには、余裕があった。

 刃を向け合えば、彼我の実力差は、すぐにわかる。握っているのが脇差ではなく、大刀であったとしても、雑賀には、芹沢に勝てるとの思いは、全くしなかったはずである。

 剣の実力差は、圧倒的だ。

「無理だろな」

雑賀は、あっさりと、負けを認めた。

「平山はともかく、あんたは斬れん」

 芹沢が、少し驚いたような顔をして、「ほう」と、感嘆の声を上げた。

「平山を斬れたのか。それだけでも十分、大した腕だ」

「お褒めに与り、恐悦至極」

 雑賀は嘯き、脇差を握っている右掌を、大きく開いた。

 当然、脇差は、地面に落ちる。

 芹沢は、ますます驚いた顔をした。

「諦めたのか?」

「ご冗談でしょう」

 手首を反り返らせるようにして、雑賀は空になった右手を芹沢に向けて突き出した。

 雑賀の袖の中で、バチンというバネが跳ねる音がした。

 雑賀の袖口から掌に収まるほど小さな、単発式の拳銃が飛び出した。本来は、暗殺用に使われる、隠し拳銃だ。

 雑賀は、芹沢にウインクをした。

「奥の手は、隠しておくものさ」

 いつだったか、壬生屯所に田中伊織の非道を訴えに乗り込んだ際、雑賀は無手のまま、抜刀した真柴、平山、平間といった隊士に囲まれたが、全く動じなかった。

 絶体絶命の窮地と見えてなお、雑賀が、自信を失わずにいた理由は、実は、この仕掛けの存在故である。

 先刻、港で、芹沢に『残弾一発』と看破されたにも拘わらず、芹沢と真柴に挟まれて動じなかった理由も、全く同じだ。

「そんな玩具で!」

 芹沢は、獣のように咆哮した。

 吠えながら、跳躍する。

 芹沢は雑賀との距離を、一瞬で詰めつつ、刀を振り下ろした。

 雑賀は、ぴくりとも身を動かさずに、引き金を引き絞った。

 弾丸は、芹沢の眉間に、ほんの小さな穴を穿った。

 だが、致命傷だ。

 芹沢が白目を剥き、ドウッと、横倒しに崩れ落ちた。

「横浜で、こうしておけば良かったな」

 雑賀は特に感慨も込めずに、呟いた。

        9

「あんたっ!」と、悲鳴のような声を上げて、お梅が、真柴の腕を飛び出した。

 その瞬間、眞柴が抜刀した。

 倒れた芹沢に駆け寄ろうとするお梅を、背後から、真柴は斬り捨てた。

 お梅は、芹沢に折り重なるようにして、倒れ込んだ。絶命している。

「残念至極。芹沢局長は、酔って寝ていたところを、愛妾もろとも長州藩士に斬られましたとさ。そう八木さんにでも、証言させよう」

 真柴は、謡うように淀みなく言い切ると、懐紙で血を拭って、刀を納めた。

 八木源之丞は、芹沢が、壬生村で居候をしている屋敷の主だ。

同士討ちでは世間体が悪いので、長州藩士に斬られたものとして処理をしようという、真柴の筋書きだった。しかも、局長が、素面で遅れをとるわけには行かないので、ご丁寧にも、酔っていたという、おまけ付きだ。

「ふん」と、雑賀は、つまらなそうに鼻を鳴らした。

 いつの間にか、雑賀の左手にも、右手と同じ隠し拳銃が握られていた。

 雑賀は拳銃を、真柴に向けている。

「やはり、あんたが近藤の間者だったか」

 雑賀の口調には、驚きの響きは一切無かった。淡々と、事実を確認しただけだ。

「姉君には、ご迷惑をお掛け申した。このお詫びは、いつか必ず」

 真柴は、雑賀に頭を下げた。

 雑賀は、真柴を睨みつけながら、真柴が、頭を上げるまで黙っていた。

「次は許さん」と、雑賀は、不機嫌な口調で、真柴に吐き捨てた。

 雑賀は、左右の隠し拳銃を、再び袖口にしまい、真柴から顔を背けた。

 S&Wモデル2アーミーを拾った雑賀は、腹の前で、銃身を帯に差す。

 雑賀は、近藤の脇差も拾い、小夜莉を見た。

 小夜莉は、身体を動けなく拘束している木箱の前に、呆然とした様子で立っていた。

芹沢の死に続くお梅の死の状況が、理解できなかったのだろう。

 雑賀と、小夜莉の目が合った。

「姉さんっ!」と、雑賀は高らかに、姉を呼んだ。

「聖人っ!」と、小夜莉が、弾んだ声で、雑賀を呼び返した。

 雑賀は、小走りに、小夜莉に駆け寄った。近藤の脇差で、小夜莉の縄を切る。

 それから脇差を鞘に納めた雑賀は、小夜莉を固く抱きしめた。

「帰ろう」と、雑賀は、小夜莉の身を離した。

 小夜莉は雑賀の顔を見上げて、にっこりとした。

 途端に、小夜莉は、すとんと地面に腰を着いた。

「あれ?」と、小夜莉は、不思議そうな声を上げた。

「立てないわ」

 安心のあまり、小夜莉は、腰が抜けたようである。

 雑賀は、小夜莉の慌てた顔を見下ろして、苦笑した。小夜莉に背中を向けて、しゃがみ込む。

「ほら」と、雑賀は小夜莉に、背中に乗るように促した。

 恥ずかしそうに、小夜莉は、雑賀に背負われた。

 悠然と立ち上がった雑賀は、真柴には目もくれずに、真柴の脇を抜けて外に向かった。

 地面には、芹沢とお梅が、折り重なって倒れている。

 雑賀の背中を、真柴の声が追いかけてきた。

「この場の後始末は、任されましょう」

「勝手にしろ」と、雑賀は、吐き捨てた。

 雑賀と小夜莉は、倉庫を出た。

 雨は、ほとんど、止んでいた。

        10

 港の至る所で、大坂町奉行所の御用提灯が、いくつも揺れていた。

 雨は、完全に上がっている。

 雑賀は、小夜莉を背負ったまま、主戦場であった、砲撃で壊れた桟橋のある港まで歩いて戻った。

 もう、小夜莉の腰は抜けてはいないはずだが、雑賀は、小夜莉を降ろせなかった。小夜莉は、眠ってしまっていた。

 密着した雑賀の体温が、小夜莉に、安心感を与えたのだろう。

 港には、近藤派の新撰組隊士らの姿も、ちらほら見受けられた。

 ここで何があり、どう決着がついたかについては、近藤が、自分たちの筋書きに則って、大坂町奉行に説明をしたはずだ。

 事前に長州藩士の攘夷計画を掴んだ新撰組が、奇襲を懸けて事件を未然に防いだことにでもなっているのだろう。

 倒れた芹沢派の新撰組隊士については、『名誉の討ち死に』扱いだ。

 雑賀は、壊れた桟橋の間近まで、海に近寄った。小四郎と別れた場所の近くである。

 雑賀が暗い海に目を遣ると、淀川の河口、一里余りの場所に、皓々と灯りを点けた艦が一隻、停泊していた。

 雑賀の記憶が正しければ、モビーディックの停泊位置だ。

夜間に航行する他船に衝突されるのを防ぐために、モビーディックの当直兵は通常、甲板に篝火を灯している。

 だが、今は、常よりも、明らかに灯りが多かった。陸地の雑賀に、艦の無事を知らせているつもりなのだろう。

 だとすると、利平は無事に、モビーディックに着いたようだ。ジョナサンらも、恐らく、艦に着いているだろう。

 長い晩だった。

 モビーディックから、戻ってきた利平の小船が、どこか近くにいるかも知れない。

 雑賀は、海に利平がいないか、目を凝らして、辺りを見回した。

 わからない。

 代わりに雑賀は、陸地に、自分に近付いてくる者がいるのを発見した。大坂町奉行所の、御用提灯が近づいてくる。

 雑賀は小夜莉を背負ったまま、提灯に向き直った。

「もし」と、提灯を持った男が、近づきながら、雑賀に声を掛けた。どこかに棘のある声だ。

 雑賀の顔を見ようとしているのか、男は、提灯を、雑賀の顔の前に突き出すように、左手で掲げ持っていた。

 男の顔は、提灯を掲げた腕に隠れて、雑賀には、よく分からない。

「堀居九郎殿であらせられるか?」

 男が、言を続けた。

「いかにも」と、雑賀は応じた。

「御免」と、その刹那、男は、提灯を投げ捨てた。

 提灯が地面に落ちる間に、提灯の明かりが、男の顔を照らし出した。

 どこでどう、大坂町奉行所の提灯を手に入れたのか、提灯を持っていた男は、平間だった。

 御用提灯を持って歩いている限り、遠目には、変装と同じである。離れている限り、誰も敵だとは疑わないだろう。

 小四郎と共に、モビーディック襲撃の和船に乗った平間は、砲撃を逃れて、海に飛び込み、雑賀に復讐する機会を狙っていたのだ。

 平間にとっての、機は熟した。

 雑賀の両手は、小夜莉を背負っていて、塞がっている。

 小夜莉を落として、それから隠し銃を出したのでは、間に合わなかった。

 平間は、既に、抜刀の体勢に入っている。

『しまった!』

 そのとき、銃声が辺りに轟いた。

 雑賀に斬りかかろうとした平間の体が、大きく仰け反った。

 銃声は、雑賀の背後からだ。

 背後は、海だ。

 雑賀は、海を振り返った。

 小船に乗った利平が片膝を立てて、骨董銃を構えていた。

 波に揺られて、標的を外さないとは、試しに二度か三度ぐらい撃っただけのような腕では、絶対にない。恐らく、相当な練習をしたはずだ。

 雑賀は、平間に顔を戻した。

平間は、左の肩口辺りから血を流していた。

 致命傷かどうかは、わからない。

 雑賀は、銃声で目を覚ました小夜莉を背から下ろすと同時に、左手の隠し銃を出した。

 銃声を聞き付けて、わらわらと、本物の大坂町奉行所の男たちが集まってくるのが、提灯の動きで見てとれた。

 雑賀は、平間を撃とうとした。

 けれども、平間は、脱兎の如く走って、壊れた桟橋を越え、利平がいる海に向かって飛び込んでいた。逃げ道は海しかなかったのだ。

 それきり、平間は姿を消した。

 利平が、壊れた桟橋を上がって、雑賀のもとまでやってきた。

 利平は、小夜莉と抱き合った。

 雑賀は、利平に笑いかけた。

「二度か三度、試しに撃っただけだなんて、嘘だろう?」

 利平は、照れた顔を見せた。

「私も、雑賀鉄砲集団の末裔だからな」

雑賀たちは、駆けつけてきた、御用提灯の一団に取り囲まれた。

 今度は、本物の、大坂町奉行所の捕り方たちだった。

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