第十二章 開宴
1
文久三年九月十六日、戌の刻過ぎ(一八六三年十月二十八日、午後八時過ぎ)。
大坂湾内に碇泊中のモビーディックの周囲を十艘余りの小型船が取り囲んだ。所謂、和船である。
すでに日没を迎えていたが、どの船も目立つのを拒んでいるのか、篝火の類をぶら下げてはいない。
約束通り、他人目に触れぬようにと、日没を待ってから、芹沢が、雑賀らモビーディックの船員を迎えに来たのだ。
全長五間程の和船は、船の後方に取り付けられた一本の艪のみで操作される。船は、艪を操る船頭を除いて、一艘につき、十名程の人間が乗り込める大きさだ。
現在、モビーディックに搭乗しているアメリカ兵は、百名余りだ。
旋回砲塔一つをとっても、実際に砲を撃つ者だけでなく、砲弾を運搬する者や装填する者が必要だ。砲塔を回す役割の者もいる。
船そのものを動かす機関要員は勿論のこと、衛生担当や食事の担当も乗っていた。他にも様々な役割があるので、モビーディックのような艦では、どうしても百人規模の搭乗になる。
砲塔の数が三十五門と多い、イギリスの旗艦ユーリアラス級ともなれば、乗組員は、五百名を超えているだろう。
雑賀は、モビーディックの甲板上から、和船の舳先付近に、悠然と立っている芹沢らしきシルエット姿を確認した。
目鼻立ちまではよく見えなかったが、恐らく、芹沢であるだろう。芹沢が乗っているのと同じ船には、他に真柴と思しき人影と、船頭がいるだけだ。
芹沢が乗り込んでいる船以外の残りの船には、それぞれ新撰組の隊士と船頭が、一人ずつ、対になって乗っていた。それぞれの船の空いている席に、アメリカ兵を乗せて運ぼうというつもりなのだろう。
小船に乗っている芹沢の側でも、反対に、雑賀の姿を発見したらしい。
芹沢は、揺れる小船の上で、両手を振った。
「お迎えに参上つかまつったぁ!」と、大きな声で、芹沢は、雑賀に声を掛けた。
雑賀は右手を軽く挙げて、芹沢に応えた。
傍らに立っているジョナサンに、甲板上に兵を集めるようにと指示を出す。
兵たちは、即座に集められた。
モビーディックの補給が滞っていた原因は、新撰組隊士・田中伊織による妨害工作のためだと、雑賀は、兵たちに知らせてあった。
結局、田中は同胞の手で処分されて、新撰組の筆頭局長である芹沢鴨主催で、これからお詫びの宴会が開かれるのだ、とも説明済みだ。
兵たちにとっては、久しぶりの陸地と、酒である。皆、そわそわとした様子であった。
雑賀は、艦を移動させるために必要な最低限の人員だけをモビーディックに残すと、留守番役以外の百名近い兵たちを、それぞれ小船に分乗させた。
雑賀とジョナサンは、芹沢と同じ小船に乗り込んだ。
後を任されて艦に残った士官が、甲板上で敬礼をした。
だが、士官は、恨めしそうな表情である。
完全な貧乏籤なのだ。士官とて、居残りの任務よりも、宴会が良いのに決まっていた。
雑賀は、苦笑した。苦笑したまま、「艦を頼む」と敬礼を返す。
士官が浮かべた恨めしそうな表情の意味は、芹沢にも正確に伝わったようである。
「留守居役の方々へは、後で何か美味いものでも運ばせましょう」
芹沢は、生真面目な顔で、雑賀に告げた。
雑賀は、芹沢に頭を下げた。
「ご配慮、痛み入ります」
芹沢が、頷いた。
雑賀らは、それぞれ、船の思い思いの席に腰を下ろした。
船頭が、「出発します」と、皆に告げた。
2
雑賀ら、アメリカ兵を乗せた和船の一団は、目立たぬように、一艘ずつ、一定の距離と時間を置いて、大坂湾へ注ぐ、淀川の河口を登っていった。
舟運のため、大坂市内に網の目のように隈無く張り巡らされた、淀川へ注ぎ込む水路の一本へ、船を乗り入れる。
半刻ほど、水路を縦横に曲がって進んだ末、雑賀らを乗せた船は、小さな船着き場に碇泊した。
木造二階建ての、豪奢な建物の裏手だった。
水面の高さから建物の基礎の高さまで、水路の土手を登るための石造りの階段が続いている。
階段の両脇と船着き場の周辺の土手には、人工的に、こんもりとした常緑樹の茂みが造られていた。階段を上り下りして、船と建物を行き来する人間の姿を目隠しするためだ。お忍びの来客用のあつらえである。
芹沢が言うとおり、外国人が他人目に付かずに出入りできる店だった。
船着き場には、既に数人の新撰組隊士が立っており、雑賀らの到着を待っていた。
真柴、芹沢、雑賀、ジョナサンの順で、船から陸上へ飛び降りた。
全員が降りるのを待って、船頭は、再び、船を動かし始めた。次に着く船が、船着き場に接岸できる空間を確保するためである。
雑賀らが乗ってきた船は、幅三間程の水路上で器用に旋回すると、今やって来た水路を戻り出した。
反対に、距離を開けて後に続いていた、二艘目の船が、向こうから、船着き場に近づいてくる光景が見てとれた。
「お待ちしておりました」と、船着き場で待っていた隊士の一人が、恭しく雑賀とジョナサンに頭を下げた。
「こちらです」と隊士は雑賀らに背を向けると、石の階段を上り出した。
芹沢が、気さくに、雑賀の背を叩く。
「参ろう」
芹沢は、雑賀の先に立って、階段を上り出した。すぐ後に、真柴が続く。
雑賀と、ジョナサンも後に続いた。
階段を登りきった先には、建物に至るまで、植栽の間を縫うようにして、平たい石を敷き並べた小道が続いている。
雑賀は、芹沢らに従って小道を進んだ。
小道の切れた先、建物の入口の前には、出迎えの女中が立っていた。
背後では、船着き場に、次の船が着いたようだ。がやがやと、岸に降りた兵士たちの交わす会話が聞こえてきた。勿論、英語だ。
思ったよりも届く声が近いところを見ると、船を下りるなり、我先に階段を駆け上がって来ているのだろう。
慌てた様子で、女中が店内に引っ込んだ。
すぐさま、どやどやと、店の主人らしき男を筆頭に、番頭や他の女中など合わせて十名程の人間が、店内から飛び出してきた。
一同は、店の入口の前に、左右に分かれて整然と並ぶと、来客の到着を待ち受けた。
どういうわけか、皆、顔色が青白く、緊張した面持ちである。来客を明るく迎え入れようという表情には、とても見えなかった。
店主が何か口を開くよりも先に、芹沢が重々しい口調で、店主に声を掛けた。
「大事な客人だ。くれぐれも粗相のないようにな」
芹沢の言葉に、店主は顔を引き攣らせた。
店主の視線は芹沢の頭越しに、雑賀の脇にいるジョナサンと、まだ姿は見えないが、雑賀らに続いて階段を登ってくる様子の、アメリカ人兵士らの声の間を行き来している。
雑賀は、ぴんと来た。要するに、店主は、外国人を客として迎えるのが嫌なのだ。
尊攘過激派の長州藩は、失脚したとはいえ、巷では、まだ攘夷風が吹いている。
横浜や神戸であれば、いざ知らず、本来、外国人の上陸は認められていない大坂では、店主が外国人を客として迎えるのに不安を感じても、無理はなかった。
雑賀には、不安に思う店主の気持ちが理解できた。
兵士たちは残念がるだろうが、本日の宴会が流れてしまっても、やむを得まい。
覚悟を決めたのか、店主が言いずらそうに、おずおずと、芹沢に対して、口を開いた。
「外国からのお客様だとは、伺っておりませんでした」
「はて、そうだったか」
芹沢は、惚けた口調で応答した。芹沢は、店主を冷ややかな目で見据えると、ぶっきらぼうに断言した。
「問題はあるまい。それだけのものは払っているはずだ」
「しかし、万一、外国からのお客様を受け入れたと世間に知れれば、幕府から、きついお咎めを受けます」
「手配済みだ。心配はない」
芹沢は、一層ぎろりと冷たい眼差しで、店主を見つめた。
苛々として、今にも抜き打ちに店主を斬り捨ててしまいそうな殺気を、芹沢は、醸し出していた。
「それ以上は何も言うな」という、警告である。
店主は、息を呑んだ。来客を拒むわけにはいかないと悟ったようである。
芹沢は店主の脇を抜けて、進もうとした。
店主は、悲痛な表情で芹沢に縋ると、言葉を吐いた。
「では、せめて、お腰の物を預からせてくださいませ」
芹沢が店主を睨みつけた。
芹沢は左手を腰に差した刀に伸ばすと、鯉口を切った。右手を柄に掛ける。無礼打ち寸前だ。
悲鳴を上げ、一斉に、店主を除く、店の者たちが後ずさった。店主は、固まったまま、身じろぎもできない様子である。
その時、石段を上って小道を歩いてきたアメリカ人兵士たちが、雑賀らに追いついた。
がやがやと英語で、何か会話をしながら歩いてきた兵たちだったが、場の険悪な雰囲気が伝わったのか、ぴたりと沈黙した。
今にも惨劇を起こしてしまいそうな芹沢の様子を見かねたのか、店主の体を芹沢から引き剥がすようにして、真柴が、芹沢と店主の間に割って入った。
「我らが信用できぬとでも申すのか?」
真柴は、感情を排除した事務的な口調と、無表情で、店主に問い掛けた。
特に脅す口調ではないだけに、店主には、余計に恐ろしく感じられたことだろう。店主は、弾かれたように顔を上げると、慌てて首を振り、全身全霊で否定した。
「滅相もございません!」
店主の顔面は、蒼白を通り越して土気色になり、もはや死人だ。
芹沢は、鯉口を切った刀に手を掛けたまま、憮然として、依然、店主を睨んでいる。
雑賀の背後で、あからさまに、がっかりとした空気が、アメリカ人兵士たちから湧き起こった。
久しぶりの上陸と宴会を楽しみにしていたのに、どうやら中止になりそうだという雲行きを感じたのだ。
振り返らずとも、雑賀には、アメリカ人兵士たちの様子が、目で見たように察せられた。
ご褒美のおあずけは士気の低下に直結しかねない。宴会の中止はやむを得ないとも思っているが、できれば、避けたい事態ではある。
雑賀は、無言でベルトを外した。
ベルトには、拳銃が収められたホルスターが装着されていた。
雑賀は、店主に歩み寄ると、店主の腕に、自分のガンベルトを押しつけた。
「丁寧に扱ってくれ。ずどんと暴発するような目に遭っても、知らねえからな」
雑賀は、芹沢を振り返った。
「参りましょう」
雑賀は、芹沢に気さくに声を掛けた。
言いつつも、雑賀は、もう一丁の拳銃を吊り下げたベルトや、体に巻き付けた弾丸のベルトを外して、店主に押しつけている。
雑賀は、店主にウインクをした。
店主は、ほっとしたような笑顔を浮かべた。死人のようだった顔に、やや血の気が戻ってきた。
芹沢の仏頂面にも、笑みが浮いた。
「よかろう。拙者は、酒が過ぎると、いささか気が大きくなりすぎるきらいがあるようだからな」
芹沢は、刀の鯉口を元に戻すと、左手で帯から二本差しを引き抜いた。
「案内せい」
芹沢は、二本差しを店主に押しつけた。
返事も待たずに、芹沢は店内へ入っていった。
店主は、慌てて拳銃と刀を番頭に渡すと、芹沢を追いかけた。
真柴が、自分の二本差しを、さらに番頭に押しつけた。
真柴は、芹沢の後に続いた。
他の隊士らも、真柴の行動に従った。
雑賀は、ジョナサンに手早く経緯を説明した。続く兵らにも、同様に銃を預ける措置をとらせるように、との指示を出す。
雑賀は、店内に入っていった。
3
「じゃんじゃん、酒を持て!」
芹沢は、用意された宴席の間に入るなり、唸るような声を上げた。
店主は「はいっ!」と、飛び上がるような声を発すると、大声で店の者たちに、急いで銚子をお持ちするようにと、指示を出した。
宴席は畳敷きで、二百畳程の空間だ。
勿論、一室だけでは空間を確保できない。そこで、隣接する複数の部屋から、仕切りとなる襖を取り払って、一続きにしたものだった。
宴会場には、店が日本人客のつもりで用意していた、百名余りの人数分の箱膳が、ずらりと並べられている。
箱膳は、『コ』の字型ではなく、上座に対して垂直方向に、四列に並べられていた。それぞれの列につき、向かい合わせに二人一組にして箱膳が置かれているため、座る人の列で数えると、十人強の列が、都合八列だ。
対する上座は、雑賀の席を中心として雑賀の右に芹沢、左にジョナサンの三人だった。
雑賀は、芹沢自らの誘導に案内されて、ジョナサンと共に、上座に用意された、自分の箱膳と向き合って座った。
芹沢も、どさりと、自分の席に着く。
雑賀らに続いて、部屋に入ってきたアメリカ兵たちは、新撰組隊士の誘導の下、手前から順次、空いている席へと座らされていた。
ところどころに、接待役となるのだろう、新撰組の隊士たちが、二人一組で座っていった。言葉は通じなくても、身振り手振りで、飲み食いを促す役目は果たせるだろう。空いた銚子を確認して、酒の追加も注文する役だ。
平山、平間、真柴といった、芹沢の側近的な隊士たちの席は、最も上座寄りに確保されていた。
モビーディックから、まだ、すべての小船が到着したわけではないので、会場の席は埋まってはいない。
だが、人数の不足を差し引いてもなお、宴会場には、かなり空間にゆとりがあった。
縦方向の、それぞれの列と列の間には、大柄なアメリカ兵たちが寝転がっても、十分なくらいの幅がある。本来ならば、三百人、四百人といった大人数でも、十分に対処できる程の広さの空間を、余裕を持って使っているのだ。
酒が入った銚子を、十数本も立てた盆を持ちながら、何人もの女中たちが、室内に入ってきた。
芹沢は、自分たち上座の三人それぞれに一本ずつ銚子を置いて、次の席に移ろうとする女中の動きを、手を挙げて遮った。
「全部ここへ置いていけ」と、女中を唸り飛ばす。
女中は、慌てて芹沢の脇の畳の上に、銚子を載せた盆を置いた。
芹沢は、そそくさと去っていく女中には目もくれずに、銚子の一本を右手で掴むと、ぐいっと、雑賀の胸元に突き出した。
「さ、堀居殿」
雑賀は、自分の箱膳の上に伏せられていた猪口を摘み上げて表にした。
芹沢が、とくとくと酒を注ぐ。
「存分に楽しまれよ。本日は、我らの貸し切りとなっておる。この先、先程のような無粋な邪魔は入らぬはずだ。そうだな?」
芹沢は、自分たちを宴会場に案内してきたまま、近くに、おろおろと立ち尽くしていた店主に対して、睨みを利かせた。
「勿論でございます」
店主は、青い顔で応じた。
芹沢は続いて、ジョナサンに対しても、銚子を差し出した。
雑賀を真似して、ジョナサンも自分の猪口を指で摘み、芹沢の酒を受けようとした。
筋肉の塊のようなジョナサンと比較すると、猪口は、いかにも小さく見える。熊が蜂の子を、一匹ずつ指で摘んで食べようとするような、不釣り合いな滑稽さだ。
芹沢は店主に、鋭く声を掛けた。
「客人たちには、猪口では小さい。皆様に、湯飲みを用意しろ!」
店主は「直ちに!」と言い置いて、喜び勇んで走り去った。場を離れる良い切っ掛けができたためだろう。
店主と入れ替わりに、盆に山ほどの湯飲みを載せた女中が、すぐにやってくる。
女中が、ジョナサンの箱膳に、湯飲みを置いた。
ジョナサンが、湯飲みを手に取った。
芹沢は、銚子からジョナサンの湯飲みに、なみなみと酒を注いだ。あっという間に、銚子が空になる。
芹沢は、空いた銚子を、畳の上に転がした。
ジョナサンは、湯飲みに溢れそうなほど注がれた酒を嬉しそうに、一息に飲み干した。
芹沢は、すかさず別の銚子を掴むと、ジョナサンの空いた湯飲みを、再び、満たした。
身振りで、食事もするようにと、ジョナサンに促す。
ジョナサンは不器用に、箸を握った。
芹沢は、雑賀の箱膳に置かれた湯飲みにも、酒を注いだ。
「二の膳、三の膳も用意してあります。皆様方に、どんどん召し上がるようにと、お伝え下さい」
雑賀は、室内を見回した。
モビーディックから続々と到着したアメリカ兵たちが、それぞれの席に着いていた。
雑賀が何か言うまでもなかった。皆、嬉々として、酒を呑み、がつがつと飯を喰っていた。
雑賀は、同胞のあさましい姿に、呆れ果てた。誇りあるアメリカ海兵ではなく、まるで海賊だ。
雑賀は真剣な口調で、芹沢に忠告した。
「責任は持たんぞ。こいつら、全く遠慮を知らん連中だ」
雑賀は湯飲みに手を着ける前に、まだ残っていた猪口の酒を口に含んだ。
芹沢が、剛毅に微笑んだ。
「費用は、会津候につけておきましょう」
雑賀は思わず噎せて、咳き込んだ。
「なら、心配は要らんな」
雑賀は無造作に銚子を握ると、芹沢の前に突き出した。芹沢が、自分の湯飲みを持ち上げる。
雑賀は、芹沢に酒を注いだ。芹沢が、湯飲みを空にした。
芹沢は、ふい~、と、酒臭い息を吐いた。
室内には、すでに全てのアメリカ兵たちが到着しているようだ。列と列の間は広々としていたが、食べ手のいない箱膳はなさそうだった。兵たちは十分に楽しんでいるようだ。
十分な酒があって、十分な食い物がある。
『あとは、女か』
思った後、雑賀は自嘲して苦笑した。
廊下へ通じる襖は閉じられ、部屋は閉め切りになっている。
おもむろに、芹沢が立ち上がった。雑賀は、芹沢の顔を見上げた。
芹沢は、雑賀の反応は見もせず、大きく二度ほど、柏手を打った。廊下へ通じる襖が開いた。
廊下には、着飾った若い女たちが、ずらりと立って並んでいた。
女たちは二列になって、しずしずと部屋に入ると、思い思いに分かれて、各膳に散っていく。
銚子を手に取り、それぞれの場所で酌婦役を担い始めた。兵たちの数より、むしろ、女たちのほうが多いくらいだ。
芹沢の愛妾であるお梅が、かつての伝手を活かして、大坂の岡場所中から、綺麗どころを選りすぐって集めてきたのだ。
勿論、担わせる役目は、酌だけであるはずはない。雑賀やジョナサン、芹沢の隣にも、女が付いていた。
雑賀付きの女が、にっこりと雑賀に微笑んだ。上座にいる雑賀に付くだけあって、選りすぐりの中の選りすぐりだ。
雑賀は、女の酒を受けた。芹沢が再び、腰を下ろす。
「祇園の太夫とまではいかなんだが、男だけで酒を飲むなぞ、無粋極まりないからな」
芹沢は下卑た顔で、雑賀とジョナサンに笑い掛けた。
芹沢は、左手で湯飲みを握り、芹沢付きの女に、なみなみと酒を満たさせていた。
だが、右手は早くも女の裾の内に入り、張りのある女の太股を、ゆっくりと撫で回している。
太股ばかりか、もう少し奥の、黒い繁みの辺りまで、裾が捲れていた。
ジョナサンには、芹沢の言葉が分かるわけもなかったが、言わんとした意味は、何となく通じたようである。
ジョナサンが、雑賀の脇を小突いた。雑賀は、ジョナサンの顔を見た。
船長として、部下に規範を示すべきか否か、雑賀の助言を求めている顔だった。
だが、ジョナサンの心が、どちらに強く傾いているのかは、一目瞭然だ。だらしなく、鼻の下が伸びていた。
全くもって、これでは海賊だ。
とはいえ、雑賀も野暮天ではない。芹沢の言葉を借りれば、男だけで酒を飲むなど無粋極まりない話だった。
「エンジョイ」と、雑賀は、小声でジョナサンに囁いた。
ジョナサンの顔から、迷いが消えた。ジョナサンは、立ち上がった。
部下のアメリカ兵たちの視線が、一斉にジョナサンに集中する。船長が、清濁どちらの側に属する言葉を口にするかで、今後の楽しみ方が変わるのだ。注目もするだろう。
部屋の隅に、折り畳まれた敷き布団が、いくつも積み重ねて置かれているのを、兵たちは知っていた。勿論、布団の使い道も。
ジョナサンは立ったまま、湯飲みに満たされた酒を干すと、空になった湯飲みを、高々と頭上に突き上げた。
「エンジョイ!」と、雑賀と同じ言葉を、大音声で、部下たちに飛ばした。
禁欲生活が続いていた兵たちから、「ウォオオオゥッ!」という、獣のような歓声が湧き起こった。
気の早い者は、すでに自分のベルトを、ズボンから抜き取ってしまっている。
寝転べるほど無駄に余裕があると思えた宴会場は、まさしく必要な広さだったのだ。
4
同じ頃、モビーディックの甲板上では、当直の兵が、海上の様子を見詰めていた。
戦時ではないために、夜間に航行する他の船に衝突されるのを防ぐべく、甲板上に篝火を灯して、モビーディックの存在を周囲に示している。
雨こそ降ってはいなかったが、今にも降り出しそうな分厚い雲が空にあるため、月明かり、星明かりの類は、望めなかった。
ただ、甲板に立てられた篝火だけが、当直兵に、周囲の暗い海上の様子を照らして見せている。
とはいえ、見えるのは、わずかな範囲だ。
陸地にある大坂の町並みには明かりがあったが、海は、全くの漆黒だった。
聞こえる音も、波の音だけだ。
身を切るような冷たい風が、絶え間なく、当直兵の体に、吹き付けていた。
当直兵は、陸地の明かりに思いを馳せた。
同胞たちが酒を酌み交わしているのは、はてさて、どの明かりの下なのだろう?
当直兵は、自分の籤運のなさを呪った。
陸上での宴会の人選から洩れたばかりか、よりによって、寒い思いまでさせられているとは。
その時、どこかで、波ではない音がした。当直兵は、耳をそばだてた。
ギイ、と、櫂が軋む音が聞こえた。
篝火が作る明かりの輪の内側に、和船が姿を現した。
雑賀らを陸地へ運んでいった和船の内の一艘が、再び、戻ってきたようである。
先刻と同様に篝火を焚かず、さらに暗くなった夜陰に紛れるようにして、モビーディックに近づいてきていたのだ。
だが、何のために?
宴会が終わって、朋輩を連れて戻って来るにしては、まだ早すぎる時間帯だ。
当直兵は、ライフルの銃口を和船に向けると、「フリーズ!」と、鋭く、声を掛けた。
狙いは、和船を操作している船頭だ。船頭は船の後方に立って、櫂を握っていた。
船には船頭の他にも、十名程の人間が乗っている。
宴会から戻ってきたアメリカ兵ではない。
何者なのか、頭から、すっぽりと布を被って、素性を隠した者たちだった。性別も老若も分からない。
正体不明者たちは、船内の左右に分かれるようにして座っていた。
あからさまに怪しい船だ。
「フリーズ!」と、当直兵は再度、警告を発した。
船頭は、船を止めなかった。
チ、と、当直兵は、舌打ちをした。恐らく、船頭には英語が通じないのだ。
当直兵は、ライフルの狙いを船頭の体から外して、空中へ向けた。
引き金を引き絞る。
銃声が、波間に轟いた。
きゃ、と、正体不明者たちの間から、悲鳴が上がった。女の声だった。
当直兵は再び、狙いを船頭に定めた。船頭が、船を止めた。
船頭は、動じた様子もなく、当直兵を見返していた。まだ若い男だ。
モビーディックと和船の間の距離は、五間程だ。当直兵が、標的を撃ち損じるような距離ではなかった。撃てば、あっけなく、船頭は倒れるに違いない。
銃声を聞き付けて、旋回砲搭上の司令室と艦内から、他のアメリカ兵たちが飛び出してきた。
駆けつけてきた兵たちもまた、不審船を発見した。当直兵と同じように、和船に乗る正体不明者たちに、銃を向けた。
「フー アー ユー?」
無駄を承知で、当直兵は、高圧的な口調で船頭を誰何した。
船頭に言葉は分からなくとも、当直兵たちが友好的ではないとは、口調と銃を向ける態度から通じているはずだ。撃たれたくなければ、逃げ去るだろう。
にもかかわらず、船頭には、逃げようという素振りは見られなかった。
当直兵らの反応を恐れる風もなく、にんまりと微笑み返す。
船頭が、たどたどしい英語で、口を開いた。
「プレゼント フロム ユア キャプテン」
当直兵たちは、船頭が何を言いだしたのやらと、訝しがった。
キャプテンからのプレゼントとは、何の話か?
当直兵らは、とりあえず推移を見守ろうじゃないかと、互いに目配せを交わし合った。
目配せの意味は、船頭にも通じたはずである。
船頭は、同乗の正体不明者たちに、小さく声を掛けた。船頭の言葉と同時に、正体不明者たちが、一斉に立ち上がった。
衝撃で、和船は、激しく揺れた。
正体不明者たちは、被っていた布を、船内に、はらりと落とした。布の下から、若い全裸の女たちが、姿を現した。
揺れる船の動きに併せて、女たちの豊満な乳房も、ゆらゆら揺れている。
「ワーオ!」と、当直兵は感極まって、声を上げた。一様に、他の兵士たちからも、歓声が上がっている。
当直兵は、ホリー・クロウ・ペリー大尉の粋な計らいに感謝をした。
歓声を上げる兵士たちを尻目に、船頭は、再び、船を動かした。怪我でも庇っているのか、船頭は、心持ち、右足を引きずっていた。
女たちを乗せた和船は、誰にも拒まれずに、モビーディックに横付けされた。
拒むどころか、兵たちは我先に、女たちをモビーディックに招き入れようと、手を出している。
当直兵も、遅れをとらぬようにと、精一杯に手を伸ばした。
もはや、誰も、銃を構えてはいなかった。
「行け」と、船頭が手近にいた女の、ぷりりと丸い尻を、ぴしゃりと叩いた。
「あ~ん」と女が、喘ぐような声を上げた。
女たちは、それぞれ兵たちが伸ばした手を握った。兵に引かれるまま、モビーディックの甲板に飛び移っていく。
和船には、女だけではなく、直径が四尺程もある大きな酒樽と、料理が詰められた多数の重箱も積まれていた。
アメリカ兵たちは嬉々として、酒と料理も受け取った。
船頭を残して、和船は、すっかり空である。
モビーディックの甲板上には、裸の女を抱きかかえて、ご満悦な男たちが群れていた。
だが、すぐ、彼らは、もともとの当直兵一人だけを残して、船内に消え失せた。
船頭が、モビーディックに横付けにしていた和船を、再び動かした。和船の舳先が、大坂港方面へ向くようにと、ゆっくりと旋回しながら離れていく。
女も、酒も、食い物も、モビーディックに運んだので、もう船頭の役目は済んだのだろう。
見送りは、当直兵のみである。
船頭は、一語一語を区切るようにして、たどたどしいが、当直兵がはっきりと聞き取れるような発音の英語で、口を開いた。
「アイ ウィル ビー バック トゥモロー モーニング」
要するに、朝まで楽しめ、という、ホリー・クロウ・ペリー大尉の配慮なのだと、当直兵は理解した。
まさか、プレゼントの送り主が、ホリー・クロウ・ペリー大尉ではないなどとは、疑いもしなかった。
すでに、当直兵の頭の中身は、船内で待つ『お楽しみ』で一杯だ。
せっかくの大尉の配慮なのだ。
見張りなどしている場合ではない。
「オーライ」
当直兵は、船頭に軽く手を挙げて応じた。
あっさりと、当直を放棄して、船頭に背を向けた。
背を向けた当直兵に向かって、船頭が「してやったり」という、嘲りの笑みを投げ掛けたのには、全く気づかない。
船頭は、藤田小四郎だった。
5
夜半過ぎ。雑賀は、何者かに見詰められている気配を感じて、目を覚ました。
横になったまま、身動きをせずに、気配の元を探る。
雑賀がいるのは、宴会に使っていた部屋ではなかった。宴会の部屋とは襖で隔てられた、また別の部屋である。
部屋には、衝立と夜具の用意が調えられていた。飲み食いの後、女と共に、部屋を移ったのである。
雑賀のように、別の部屋へ移動した者たちもいれば、宴会場で、そのままという者たちも多くいた。
いずれにしても、室内には、酒と男女の体液の臭いが充満していて、鼻が曲がりそうに凄まじい悪臭だ。
部屋の隅に置かれた行灯の菜種油が燃える臭いも、混ざっていた。
行灯の薄明かりで、ぼんやりと部屋の様子が見てとれる。
雑賀の脇では、雑賀と行為を交わした女が、雑賀の右腕を枕代わりにして、寝息を立てていた。
雑賀も女も、全裸のままだ。
一枚の薄い敷き布団を、二人で使っている。お互いに、相手の体温で、暖を取っていた。
衝立毎に、室内の随所で、似たような光景が見られるはずだ。
飲み、喰い、獣のように交わり合った、強者どもの夢の跡だった。
もはや、行為に励んでいる者はいない。
酷い鼾を掻いている者もいるため、寝静まっているとは言い難かったが、疲れて、皆、ぐっすりと眠っていた。
隣室の宴会場と隔てた襖が、微かに開いている。
気配の主は、襖の隙間の向こう側にいた。
誰かが、様子を探っているのだ。
やがて、気配が離れていくのが感じられた。
雑賀は女を起こさないように、そっと腕を抜くと、静かに布団を出て、襖に近寄った。
襖の隙間から覗いていた相手を、反対に覗き返す。
平山五郎が、宴会場から、そそくさと廊下へ出ていく後ろ姿を、確認できた。
雑賀は素早く、脱ぎ捨ててあった衣服を身に着けた。
襖を、そっと開け、宴会場に出る。
随所に、二人ずつ、敷き布団毎に、男女が転がって眠っていた。
中には、逞しくも、一対二、一対三というような組もある。どちらも、一が男だ。
見たところ、部屋で寝ている男は、アメリカ人ばかりである。新撰組隊士の姿は確認できなかった。
隊士たちは、どこか、別の部屋で眠っているのか、それとも、十分に接待は終了したものと判断して、揃って、すでに引き揚げた後なのか?
雑賀の勘は、どちらでもないと告げていた。
別の部屋だとか、接待終了などというような、穏便な理由ではない。
襖の向こうで平山が放っていた気配は、不穏なものだった。
だからこそ、雑賀は、目覚めたのだ。
勿論、部屋には、芹沢の姿もない。
恐らく、芹沢も他の隊士たちも、何か別の不穏な理由があって、この場にいないのだ。
平山は、雑賀が完全に寝込んでいるのを、確認する役回りだったのだろう。
だが、平山の役回り故の気配が、雑賀の目を覚まさせてしまった。
雑賀は、平山が消えた廊下へ、音を立てずに、素早く出た。
平山が去ったであろう方向へ、歩みを進める。雑賀らが、建物へ入る際に使った裏口ではなく、玄関へ続く方向だ。
前方から、玄関の引き戸が、静かに閉められる音が、微かに聞こえた。
誰かが、外へ出たのだった。恐らく、平山だ。
雑賀は平山を見失うまいと、小走りに玄関へ向かった。
6
店を出た平山は、特に辺りを気にする様子もなく、通りを、まっすぐに進み出した。
飲食関係の多い通りだ。
通りの両端には、雑賀たちがいた店の他にも、いくつか店が建ち並んでいたが、どこもしっかりと雨戸を閉じて、静まり返っていた。
勿論、夜半を過ぎているため、他に通りを歩いているような人間は、誰もいない。
平山は、脇目も振らずに、早足で歩いていた。どこか目的地へ急いでいるようだ。
今にも雨が降り出しそうな闇夜のため、視界はひどく悪い。
そのため、さほど平山から距離を空けなくても、雑賀には、気づかれずに平山の追跡が可能だった。
逆に言えば、視界の悪さのため、離れすぎると、平山を見失ってしまう可能性がある。
雑賀は、平山に気づかれないように、細心の注意を払って平山を追跡した。
平山が、前方の路地を右折した。平山の姿が、視界から消えた。
雑賀は平山を見失わないように、かといって、気づかれもしないように、足音を立てずに素早く駆けると、平山が曲がった路地を、おもむろに曲がった。
途端に、振り上げられていた白刃が、雑賀に対して振り下ろされた。平山が待ち伏せしていたのだ。
雑賀は反射的に、前方へ身を投げ出した。
白刃が描く軌跡の下を潜るようにして、平山の足元へ転がり、刀を握る平山の両手を、強く蹴り上げた。
平山の手から、刀が弾け飛ぶ。
刀は、路上へ落っこちた。
雑賀の拳銃は、店に預けてしまっていたため、今はない。
雑賀は咄嗟に、落ちた平山の刀を掴んで立ち上がった。
両手で雑巾を絞るように柄を握ると、刃を平山に向けて構えた。
平山が、雑賀の姿を見て、嘲るような表情で不敵に微笑んだ。
芹沢同様、平山五郎は、神道無念流の免許を受ける程の腕前だ。平山にしてみれば、雑賀の構えは、よほど屁っぴり腰に見えるのに違いない。
「やはり、目を覚ましていたのだな」
平山は落ち着いた口調で、雑賀に告げた。
「わざわざ、俺を追ってくるような無駄足、ご苦労様だ」
平山は、急いで行く目的地があって、店を出て、ここまで歩いていたわけではなかった。
雑賀を起こしてしまったと察して、誘き出すために、歩いていたのだ。
平山は、ゆっくりと脇差を抜いた。
雑賀に対して、脇差を構える。
剣の世界で長年ずっと生きてきた男であるらしく、平山の構えには隙がなかった。
一方の雑賀は、切っ先が揺れている。
もし、銃口が同じだけ揺れてしまったら、絶対に弾丸は、標的に当たるまい。
銃の場合は、武器を、ぴたりと制止させられる雑賀も、刀では、上手にできなかった。
恐いのではなく、刀の扱いに不慣れなのだ。要するに、未熟者だ。
「銃とは、勝手が違うようだな」
平山は、余裕綽々といった態度で、刀を握る雑賀の姿を小馬鹿にした。
「どうやって、貴様に銃を手放させるかと思案していたが、まさか自分から預けると言い出してくれるとは、とんだ、お人好しめ」
雑賀は、悔しさで、ぎりぎりと歯を噛みしめながら、言葉を吐き出した。
「どういう謀りごとだ?」
平山は、せせら笑った。
「今頃は、貴様の船を乗っ取るべく、我らの同胞が、迫っているところよ」
『ぬかった!』
雑賀は、自分の見解の甘さに、愕然とした。
最初から、芹沢一派の狙いは、モビーディックを奪うことにあったのだ。
強奪の邪魔になる、モビーディックの守備兵を削ぐために、芹沢は、同胞の新見の首を刎ねてまで、雑賀に宴会を承知させた。
さも、苦渋の決断で、新見の首を刎ねたかのように振る舞ったのは、すべて芹沢の演技だったわけだ。
だとすると、宴会の前に、店の裏口で、「武器を預ける・預けない」で店主と揉めていたのも、芹沢の奸計であったに違いない。
恐らくは、真柴あたりが仲裁に入って、芹沢が店主に二本差しを預けた後、「すまないが」と、雑賀らにも、店に銃を預けるようにと、頭を下げる段取りだったのだろう。
そうなる前に、雑賀から、さっさと銃を預けてしまったのだから、お人好しだと笑われたところで、雑賀には、返す言葉もない。
騙されたショックか、怒りのためか、はたまた未熟さを露呈しているのか、雑賀が握る刀の先は、相変わらず、小刻みに揺れている。
揺れは、動揺も意味していた。
立ち合いに、動揺は禁物だ。
動揺は、敗北を導き寄せる。
一方、平山が雑賀に向けている切っ先は、微動だにしていない。雑賀の眉間に、真っ直ぐに向けられたまま動かなかった。
雑賀と平山の剣の力量の違いは、一目瞭然だ。
「笑止だな。銃のない貴様なぞ敵ではないわ」
吐き捨てるや、平山は、無造作に雑賀に斬りかかった。
途端に、揺れていた雑賀の切っ先が、ぴたりと止まった。
動揺は、偽りだったのだ。
向かい合う刀身の長さは、大刀を握る雑賀のほうが、脇差を握る平山よりも上である。当然、刀身が長いほうが、相手の体には早く届く。
そのうえ、平山には、雑賀が、刀を不得手だと信じた油断があった。
無造作に斬りかかってしまったという、隙もある。
雑賀は、両手で握っていた刀を、素早く右手のみに持ち替えた。同時に、身を低く沈める。
斬りかかってくる平山の左手首に対して、一直線に突きを出した。西洋剣術の突きの動きだ。
雑賀の刃は、平山の左手首に刺さると、そのまま肘まで、深く縦に裂いて、抜けた。
平山は、身を捩って、右に逃げた。
左手が駄目になったので、右手のみで、大きく弧を描くように脇差を振り回す。雑賀に追撃されないように、との咄嗟の行動だ。
だが、雑賀は、落ち着いて脇差をやり過ごした。
片手で握った刀を前に突き出した姿勢のまま、逃れる平山の身を跳躍して追う。
今度は、振り回して、元に戻る動きの最中の平山の右手首に、突きを繰り出す。
刃は、きっかりと平山の右手首を捉えて、深々と貫いた。
瞬間的に、刀を捻る。
平山の右手首が、切断された。
手首は、脇差を握り締めたまま、宙を舞った。
地面に落下する。
愕然と目を大きく見開いて、平山が、雑賀の顔を見詰めた。先を失った右手首は勿論、左手の傷からも、止めどなく、血が溢れ出している。
「なぜ、俺が刀を使えないなんて思ったんだ。外国にも、剣術はあるんだぜ」
雑賀は、嘯いた。
競技としてのフェンシングの確立はまだだが、ヨーロッパでもアメリカでも、中世の騎士に端を発する、独自の剣術が育っていた。
「貴様、素人の振りをして、騙したな!」
苦悶の中から、平山が呻いた。
「お互い様だよ」
雑賀は、非情に言い放つと、骨を断ち、刃こぼれを起こした刀の切っ先を、ぶすりと平山の喉に刺した。
平山が、絶命する。
雑賀は、刀から、手を離した。
刀を喉に刺したままの平山が、前のめりに倒れきるのも待たず、雑賀は、平山に背を向けた。
雑賀は、ジョナサンらを叩き起こすべく、店に急いだ。
7
雑賀は、ブーツを履いたまま店に駆け込んだ。
「起きろっ、起きろっ、起きろっ!」
怒鳴りつつ、建物の各所で、女としけ込んだまま眠っているアメリカ兵たちを蹴飛ばしながら、廊下を駆け抜けた。
ジョナサンの許に走る。ジョナサンは、雑賀が寝ていたのと同じ部屋で、まだ、ぐっすりと眠っていた。
女が先に雑賀に気がついた。
女は、「ひっ」と悲鳴を上げ、布団から這い出そうとした。雑賀の顔は、平山の返り血で、赤く濡れていた。
ジョナサンは、寝ぼけた様子で、逃げていく女の尻を追いかけ、抱きつこうとした。
雑賀は、ジョナサンの肩に手を掛けて、無理矢理ぐいっと、振り向かせた。
「起きろ!」と、声高に叫んで、ジョナサンの頬を張る。
ジョナサンの瞳に、意志が戻った。
ジョナサンは、雑賀の表情と姿から、一刻を争う危機が生じたと悟ったようだ。
「何があったっ!」と、雑賀に、鋭く問いかけた。
雑賀は、苦々しげに、吐き捨てた。
「芹沢に、騙された。奴ら、俺たちが留守の間に、モビーディックを奪うつもりだ」
ジョナサンは、艦と命を共にする艦長らしく、決然とした顔で立ち上がった。
「艦に戻るぞ!」と、兵たちに声を掛ける。
全裸のため、間が抜けているのは仕方ない。ジョナサンは、いそいそと衣服を身に着けた。
雑賀に起こされ、渋々といった様子で集まってきた兵たちにも、すぐに危機の状況は伝わった。
皆の酔顔が、凛々しい兵の顔に変貌していく。
突然の深夜の騒ぎに、何事が起きたのかと、店主が、番頭らを引き連れてやってきた。
「俺たちの銃を出せ!」
雑賀は厳しい口調で、店主に命令した。
店主は、あからさまに困った顔を見せた。
「芹沢様が、お持ちになりました」
店主は、蚊の鳴くような小さな声で、もごもごと口を動かした。
『畜生』とは思ったが、店主の言葉は、特段、雑賀を驚かせはしなかった。芹沢ならば、当然、それぐらいの手は打ってくるだろう。
雑賀は、即座に、二の手を放った。
「これだけの店ならば、自警用の刀の用意ぐらいあるだろう。それを寄越せ。すぐ船を出して、モビーディックまで送ってくれ」
店主は、さらに困ったような表情で、頭を振った。
「船は、ございません。すべて芹沢様たちが、乗って行かれました」
チ、これも当然だ。
「なら、すぐ手配しろ」
「無理です。こんな時間に!」
店主は、悲鳴を上げた。
確かに、そのとおりだ。ならば、港まで走るか?
いや、間に合うわけがない!
雑賀は、瞬時、思案をした。
落ち着いた声で、店主に確認する。
「船問屋の雑賀屋は、ここから近いのか?」
雑賀は、雑賀屋の住所を告げた。
店主は、生真面目な顔で頷いた。
「すぐ俺を連れて行け」
雑賀は、ジョナサンに向き直った。
「雑賀屋に船の手配をつけておく。刀を受け取って、後に続け」
8
雑賀は、雑賀屋の木戸を激しく叩いた。
中から、がたがたと音がして、戸が開く。
戸を開けたのは、利平だった。
どういうわけか利平は、憔悴しきった表情だ。仕事で疲れたという顔ではない。何か、心に重荷を背負っている人間の表情だ。
「聖人殿!」
利平は、雑賀の顔を見るなり、表に飛び出し、雑賀に縋り付いた。普段の利平なら、絶対にしない振る舞いだ。
「小夜莉が攫われたっ!」
雑賀は、眼前が真っ暗になった。
誰が、姉を攫ったというのか、訊くまでもなく、答は分かりきっている。
芹沢だ。
芹沢は、万が一、雑賀に計画を察知された場合を考え、小夜莉を人質に取るという、担保を取っていたのだ。
利平は、雑賀に、小夜莉が攫われた原因が誰にあるのか、詰め寄るような真似はしなかった。
誰のせいであるかより先に、どう対処するかだ。
「小夜莉を助け出してくれ」
利平が、雑賀に訴えたのは、心の底からの願いだった。
「必ず」と、雑賀は、力強く頷いた。
雑賀は、利平に、突然、深夜に訪れた理由を説明した。モビーディックのアメリカ兵たちが、やってきたら、港までの足として、小船を貸してほしい旨を伝える。
利平は、承知した。
往路、港から宴会場までは、淀川を遡上したため、時間が掛かった。
だが、ここから、港へ出るのであれば、下りのため、水の流れに沿って行けるはずだ。
大坂港には、淀川の他にも、多数の小河川が流れ込んでいるが、どの川も、水は上流から下流へ流れている。当たり前だ。
雑賀屋の裏手を流れている水路からならば、尻無川を利用して下るのが、一番の早道となるだろう。
どの川であれ、河口に出て港にさえ入れば、モビーディックが碇泊している場所まで行き着くのは、船乗りであるジョナサンたちには簡単だ。
「芹沢は、港にいるはずだ。姉上も近くでしょう。預けた拳銃は、今、どこに?」
利平は家に入ると、すぐに雑賀の拳銃を持って戻ってきた。
細長い、布の包みも持っている。
「銃ならば、これもある」
利平は、包みの口を広げた。
中には、三百年は前に製造されたのであろう、年代物の火縄銃が入っていた。恐らく、雑賀孫市が生きていた時代の品だ。勿論、先込め式である。
利平は、骨董品を掲げて見せた。
雑賀は、否定的に首を振った。
「もう、使えないでしょう」
「二・三度、試しに撃ったことがある」
ただ弾が出るのと、狙いどおりに弾が出て当たるかは別の話である。ましてや三百年も前の代物だ。雑賀には、役に立つとは思えなかった。
だが、雑賀は、否定も肯定もせずに、曖昧に微笑んだ。
雑賀は、利平から受け取った拳銃を、無造作に、背中側のベルトの隙間に差し込んだ。
「後は頼みます」
雑賀は、雑賀屋の裏手に回り、船着き場にある、二・三人乗りの小船に乗り込んだ。
利平が後に続き、船内の荷物が濡れない場所に、骨董銃の包みを置いた。
そのまま、利平は、櫂を握った。
決然とした顔で、雑賀に告げる。
「私も行きます」
「しかし!」
「船の手配は、店の者に任せました。聖人殿より、私が操ったほうが、早く着ける」
利平は全く譲らなかった。
確かに、流れに身を任せれば大坂港に至るとはいえ、航路を知り、船にも習熟した利平が操作したほうが、確実なのは間違いない。
雑賀は、折れた。
「着いたら、姉上を悲しませることにならないよう、義兄上は隠れていてください。危険は、俺が引き受けます」
雑賀は、利平に、ウインクをした。




