第一章 銃の国から帰った男
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文久三年五月十日(一八六三年六月二十五日)。
USSモニター型戦艦モビーディックは、船首にアメリカ国旗を高々と掲げて、江戸湾に進入した。
第十四代将軍・徳川家茂が孝明天皇に約束した、攘夷決行の期限日のまさに当日のことである。
モビーディック専任通詞、雑賀聖人{さいかひじり}は、艦内から甲板にでるためのハッチを押しあけた。
途端に、陽光と、青い空が目に飛び込む。まぶしさに、雑賀は、目をしばたたいた。
敵船からの砲撃を艦体に受けないよう、喫水が浅い、半潜水式の船として、モビーディックは設計されている。高波を艦内に入れないため、ハッチは、四角い煙突状の筒の上に設置されていた。
雑賀は、甲板に飛び降りた。
雑賀の肌は、浅黒く日に焼け、伸ばした黒髪を、後頭部で一つに束ねている。
年齢は二十八。
なめした鹿の皮のズボンとシャツを身につけ、ふくらはぎの中程までの高さの、牛革のブーツを履いている。腰の左右でガンベルトに通したホルスターには、それぞれ拳銃が納められていた。
S&Wモデル2アーミー。三十二口径、六連発式の拳銃は、一八六一年にアメリカで発売された途端、圧倒的な使い勝手の良さから、南北戦争中の南北両軍の兵士から、三年待ちの予約が殺到したという代物である。
ガンベルトには、革製の小さなループが無数に縫いつけられ、ループには、同じだけの数の金属薬莢が入っていた。腰のガンベルトとは別に、やはり、金属薬莢を納めたカートリッジ・ベルトを、雑賀は、両肩から襷掛けに身につけている。
雑賀は、船首に向かって歩きだした。
歩くのに支障を来すような揺れはない。江戸湾の海面は、穏やかに規則正しく上下しているだけであった。
船首に立つ、アメリカ国旗を掲揚している支柱を、右手で握りしめ、身を海上に乗り出さんばかりにして、雑賀は、近づいてくる横浜村の町並みに目を凝らした。
日本らしからぬ西洋風の家々が、港の奥、外国人居留地と呼ばれる一帯に広がっている。小さな庭と花壇に囲まれた住宅は、すべて新築か、新築同様に新しい建物ばかりである。
モビーディックは速度を落とし、ゆっくりと投錨予定地点へと向かっていた。
史上初めて旋回式の砲塔を搭載した、戦艦モニターの改良型であるモビーディックは、甲板の前後に一基ずつ、計二基の旋回砲塔を備えている。それぞれに、口径十五インチのダールグレン砲が、二門ずつ装備されていた。
砲撃時に邪魔になるような帆はなく、蒸気機関による、スクリュー制御のみで航行する船だ。
2
海風が、雑賀の顔をなぶる。
日本を離れていた十年間、雑賀が、ずっと脳裏に思い描いてきた祖国の町並みは、軒の突き出た木造平屋建てで、瓦屋根と障子戸がある家だ。
だが、今、目の前にある町並みは、雑賀が思い描いてきた景色ではなかった。
多くの家が二階建てで、障子戸ではなく、木製の板戸に囲まれている。
家の中と、外との境目となっている空間は、縁側ではなく、ベランダやバルコニーという呼び名こそがふさわしい代物だ。
多分、内部も畳ではなく、テーブルと椅子が並んだ、板敷きの部屋だろう。
雑賀が記憶している限り、以前の日本では、ほとんど見かけなかった建築様式だ。
マシュー・カルブレイス・ペリー提督の来航によって始まった変化は、建物のような、目に見える物ばかりではなく、政治体制といった、目に見えない物にまでも及んでいた。
アメリカが、まさしく南北戦争の最中であるように、日本もまた、ほぼ内乱状態にあると、雑賀は聞いていた。
雑賀が離れた十年前の日本と、今の日本は、様々な面で大きく変わってしまっている。
日本の変化は、生き別れたきりの雑賀の家族にも、多かれ少なかれ及んでいるのに違いなかった。
変化が吉とでた者もあれば、凶と出た者もあるだろう。はたして、家族は、吉凶いずれの側に属していようか。
歯痒さで、雑賀は、奥歯を強く噛んだ。
いずれにしても、違う国にいた雑賀には、家族に変化が及んだ当時、何の助けにもなれなかった。
帰国が叶い、今まさに、日本の地に着こうという状況となったが、任務のため、この先も、家族を助けられるとは限らなかった。
歯痒い限りだ。
艦は、歯痒さと同じくらいに、ゆっくりと進んでいる。
「遅い」
雑賀は、苛々と、前部旋回砲塔を振り返った。
分厚い鉄の装甲に覆われた砲塔上には、同様に分厚い鉄の装甲に守られた司令室がある。旋回砲塔の上こそが、甲板上で、砲撃を邪魔せずに司令室が存在できる、唯一の場所だった。
司令室では、艦長以下、数名の士官が任務に就いている。
艦長たちが、故意に雑賀の帰国を遅らせようとしているわけではないのはわかっている。にもかかわらず、雑賀は、理不尽な苛立ちを胸に抱いた。
雑賀は、司令室を睨みつけた。
司令室では、モビーディック艦長、ジョナサン・デビット大佐が、双眼鏡で近づく横浜港の様子を視認していた。
ジョナサンが、雑賀が司令室を睨んでいる姿に気がついた。
ジョナサンは、双眼鏡を、雑賀の顔に向けた。ジョナサンの目には、恨めしそうな雑賀の表情が、大写しに見えているのに違いない。
濃い髭に覆われたジョナサンの口元が、面白い玩具を見つけた子供のように、にやりと微笑みを形づくった。
「まだよ、まだまだ」と、ジョナサンの口が動く。
聞こえはしなかったが、雑賀には、ジョナサンの言わんとした意図が、はっきりと伝わった。
雑賀は、照れ隠しに、ぷいと前方に視線を戻すと、港に浮かぶ、他の船に目をやった。
アメリカ船はない。だが、英仏数隻ずつの軍艦が停泊していた。
すべての艦が、太い帆柱を持っている。皆、蒸気船だが、帆走も行うのだ。モビーディックのような、完全な蒸気走行のみの艦は、一隻もない。
軍艦に比べて、数倍の数の商船も停泊していた。
他にも、荷のやりとりや、陸上との乗員の往来用の小船が、大型船の間を、何艘もちょこまかと動いている。
3
やがて、モビーディックは、完全に足を止めると、碇を降ろした。
轟音とともに、二基四門の砲塔が、空砲を放つ。到着の礼砲である。
二十一発の礼砲が撃ち終わると、遠く神奈川村の砲台から、返答の礼砲の音が聞こえた。
「おあずけされた犬みたいな顔をしているぞ」
突然の背後からの声に、雑賀は振り向いた。
にやにやとしたジョナサン・デビットの笑い顔が、すぐそこにあった。
年齢は雑賀より二つ上だ。日本人である雑賀より、そう背が高い訳ではないが、筋肉の固まりのような男である。
太い首の上に、人懐こい笑顔が乗っていた。
「目から、涎だ」
雑賀は、自分が涙を流している事実に、ジョナサンの言葉で初めて気がついた。
とはいえ、恥ずかしいとは思わない。
ジョナサン・デビットと雑賀は、アメリカでは、同じ戦場で肩を並べて戦った友である。涙など、散々に見せあっていた。
雑賀の腹が、ぐう、と鳴った。
にやにやとしたジョナサンの笑顔が、爆笑に変わった。
「ほらみろ、おあずけをされた犬だ」
流石に、雑賀は、ばつが悪くなって、ジョナサンから、顔を逸らした。
雑賀は、嘯いた。
「潮風が、夢にまで見た醤油と味噌の匂いを運んできたんだから、仕方ないだろう」
「ははははは。すぐ降ろしてやるから、しこたま食ってきな」
「サンクス」
雑賀は、ジョナサンに右手を差し出した。
「おまえのおかげで帰ってこられた」
「なぁに、任務だよ」
ジョナサンは、短く髪を刈り込んだ頭を、右手で、ぼりぼりと掻きむしった。
同じ手で、雑賀の右手を、グッと握り返す。
ジョナサンの顔から、笑みが消えた。濃い眉毛と髭の間の小さな目玉が真剣だった。
「気をつけろ。日本じゃ、志士とかいう輩が、外国人を見ると、斬りかかってくるそうだ」
雑賀は、軽く笑った。
「俺は日本人だぜ」
「そのナリじゃ、誰も日本人とは思わんさ」
雑賀の腰では、モデル2アーミーが、青黒い輝きを放っていた。上半身には、百発を越える弾丸を納めたベルトも、巻かれている。
「すっかり、臨戦態勢だな」
「この船が港へ着くまでは、専任通詞。だが、その先は大統領直属のエージェントだ。『内戦中の日本の勝ち馬と手を組め』というのが、閣下のご命令だ」
雑賀は、左目を瞑って、ウインクをした。
「自分で勝ち馬をつくりだすとなったら、これくらいは持ち歩かんとな」
ジョナサンは、呆れたような声を上げた。
「やっぱり、志士に狙われるよ」
4
山手の丘の上から、数名の水戸藩の朋輩と一緒に、藤田小四郎{ふじたこしろう}は、横浜村を見下ろしていた。
外国人居留地越しに、横浜港に居並ぶ、外国軍艦の威容が見てとれる。
乗組員の誰かが、上陸をしようという心づもりなのだろう。入港したばかりの、帆柱のないアメリカ船から、小船が離れたところだった。
「夷人めが!」
小四郎は、吐き捨てた。
偉丈夫だが、色黒で、顔立ちは、おかめによく似ている。年齢は、二十一歳。
小四郎は、朱鞘の大小を、腰に差していた。
「攘夷期限日に、夷敵の船が入港したというのに、幕府の腰抜けどもは、なぜ討たんのだ!」
小四郎は、眼下の住宅街を睨みつけた。忌々しい、夷人どもの住みかだ。
「清河八郎殿さえ殺されなければ、こんなところ、今頃、灰燼となっていたものを」
小四郎は、去る四月十三日に、幕府の刺客により討たれた、攘夷活動家の名を口にした。
朋輩と一緒に横浜の外国人居留地を焼き討ちする計画を立てていた事実が、幕府の知るところとなり、暗殺されたのだ。
小四郎は、桟橋へ近づく小船に、視線を戻した。
小船には、褌を身につけた以外は裸の漕ぎ手が二名と、洋装の男が乗っている。
小船が接岸し、洋装の男が、桟橋に降りた。男は黒髪で、腰の左右に拳銃をさげていた。
「なんだ、奴は? 日本人みたいだぞ」
「下男として、船に雇われた支那人では?」
小四郎の言葉に、朋輩の一人が応じた。
「自分の国を阿片づけにした相手に雇われるか。死ぬまで戦う気概がないから、戦に負けるのだ」
清国は、イギリスとの二度にわたる戦争、アヘン戦争とアロー戦争に敗れて、半ばイギリスの植民地と化していると聞いた。
支那人がイギリス人に雇われているのであれば、先の小四郎の言葉はあてはまる。だが、アメリカ船に雇われているのだとしたら、小四郎の言葉は正しくはなかった。
とはいえ、小四郎にとっては、イギリスだろうと、アメリカだろうと、夷人の国など、どこでも同じだ。
夷人どもは、清国に続いて、日本を植民地にするつもりに違いない。夷敵の植民地にされる前に、何としてでも、日本から夷人を排除しなければならなかった。
攘夷は、孝明天皇の御意志でもある。
小四郎は、左手で、朱鞘に触れた。亡き父、藤田東湖{ふじたとうこ}の形見の品である。
朱鞘を握った左掌の触感から、初めて、この刀を身につけようと思った時の決意が、小四郎の身の内に、思い起こされる。
水戸藩の重臣であり、攘夷激派の急先鋒であった父の遺志を継ぐのは、自分しかいない。
二人の兄が、床の間の飾りとして、身につけることのなかった大小を、あえて妾腹の小四郎が帯びるようになった理由は、他でもない。父親の思想を最もよく受け継いだのは、他でもない自分だという信念があればこそだ。
小四郎は、荒く息を吐いた。興奮が、血液とともに、体内を駆けめぐっている。
「幕府がやらんのなら、我らがやる」
小四郎は、口を開いた。朋輩に対する決起の言葉であると同時に、自身への宣誓の言葉だった。
「手始めは、あの支那人だ。夷人どもに、我らの力を示すのだ」
5
外国人居留地と日本人居留地を結ぶ通りは、通称、骨董通りと呼ばれている。横浜に滞在する外国人の財布をあてにして、道の両側に、所狭しと、骨董品を商う店が建ち並んでいた。
漆器、青銅、象牙、磁器、水晶といった骨董品が、値段も質も様々に販売されている様子は、さながら骨董の展覧会といった趣だ。
怪しげな物から、掘り出し品まで、何か珍しい日本土産はないかと探し求める外国人相手に、商売熱心な日本人商人が、片言の英語と身振りで、盛んに商談に精を出していた。
雑賀は、港から外国人居留地を抜けて、骨董通りを、日本人居留地へ向かっていた。
「ヘイ、ミスター!」
熱心すぎる一人の日本人商人が、商品を手に、雑賀の前方に立ちはだかった。
やや小太りの、小男である。
雑賀は、足を止めた。
商人の顔に、困惑の表情が浮かびあがった。
雑賀の身なりから、よく顔も見ずに、てっきり外国人だと思って声を掛けたが、雑賀の顔立ちが、あまりにも日本人のものであったので、とまどっているらしかった。
雑賀は、苦笑した。
「日本人だ。通訳としてアメリカ船に乗っている」
「ああ」
商人は合点が行った様子で声を上げた。
「じゃあ、ぜひ買ってくださいな。岩亀桜{ヤンキロー}あたりで芸妓に渡せば、おおもてになれますよ」
岩亀桜とは、横浜の遊郭で、一番有名な茶屋の名前だ。
商人は、雑賀に、持っていた簪{かんざし}の束を見せた。赤、青、黄など、様々な色がついたガラス玉で飾られた簪だ。
雑賀は、赤い玉の簪を手に取った。
ガラス玉が濁っている。お世辞にも、質がいいとは言いがたかった。それに、今のところ、芸妓に会う予定もない。
とはいえ、十年ぶりの日本人との日常会話を、むげにうち切るのも、しのびがたかった。
「ドルでいいのか?」と、会話を続ける。
商人は「もちろん」と自慢げに頷いた。
「日本の金より、よっぽど信頼できますよ。開国このかた値上がり続きで、昨日一分{イチブ}で買えた物が、今日は一分じゃ、もう買えません」
商人は、大仰に、身をすくめた。
「わたしらは、商品を値上げすればすみますが、毎年一定の俸禄しかもらえない武士だったら、開国を恨んで、攘夷を唱えたくもなるでしょうね」
年俸が変わらずに、物価だけ上がれば、実質的に年俸は下がったも同然である。
その原因が、開国後、外国人が大量の小判を、横浜から、海外に流出させたためだと知れば、外国人を排除したくもなるだろう。
開国当時、日本では、金一グラムの価値は、銀五グラムに相当していた。
一方、国際的な金銀の重量換算比率は、一対十六。金一グラムは、銀十六グラムに相当していた。
日本から一グラムの金を外国に持ち出して交換すれば、十六グラムの銀になる。その銀を再び日本に運んで金と交換すれば、三グラム超の金が手に入った。
日本と外国の金の価値に差があるために、金貨である小判は、どんどん外国人に買われて、海外へ流出することとなったのだ。
徳川幕府は、日本での金銀比率も、他国同様、一対十六とすることで事態の収拾を図ったが、このとき、広く通貨として国内に流通していたのは、一分という銀貨であった。
それまでは、一分銀貨四枚が、小判という金貨一両に相当していたのが、外国人の小判買いあさりを防ぐために、突然、金の価値が、銀の十六倍に変更させられた。
しかしながら、実際に国内に流通している通貨の多くは一分銀であったため、何を買うにも、四倍の一分銀を支払わなければならなくなったのだ。要するに、物価が四倍に上昇したのである。
庶民も勿論だが、庶民よりも、毎年決められた年俸しか収入がない武士階級の生活が、一気に困窮した。
すべては、開国と外国人のせいである。
外国人相手の商売にうまく成功した者を除けば、誰だって攘夷を唱えたくなるだろう。
「かもしれねえな」
雑賀は、簪の代金を支払うと、胸元に花を挿すように、簪を胸ポケットに挿しこんだ。
「志士には気をつけて下さいよ。イギリス領事に通詞として雇われていた日本人が、このあいだ斬り殺されましたからね」
「だから、こんな物を持っているんだよ」
雑賀は、商人にウインクをして、腰のホルスターの銃を叩いた。
途端に話題を変える。
「ところで、美味い飯を食わせる店を知らねえかい?」
6
横浜村は、全体が、人の背丈の倍もある、高い板塀によって囲まれていた。
居留地と居留地の間にもまた、高い板塀が設置されている。
それぞれの居留地内では、さらに通りと通りが交差して作られる、区画の単位毎で板塀に囲まれ、細かく区分けされていた。
区画から区画へ移動をするためには、通りごとに設置されている、木製の門を通る必要がある。日中は開放されているが、夜間は完全に閉鎖されて、安易な往来はできなかった。
外国人と日本人の間の、無用な揉め事を防ぐためであると同時に、ひとたび事件が起こった場合には、犯人を現場区画内に閉じこめて捕えやすくする。板塀の設置目的は、これである。
実際に、そのとおりに門が管理されているのであれば、有効な仕組みだろう。だが、時として門番は、所定の場所にいなかった。
いたとしても、小金を渡せば、見返りに、何も目撃しなかったことにできるという、もっぱらの噂だ。
先に殺された、イギリス領事の通詞殺害の犯人も、まだ捕まってはいなかった。
雑賀は、板を打ち付けて作られた、観音開きの大きな扉が開け放たれた門を抜け、日本人居留地の中に入った。
取り調べのような行為は、何もない。
門番らしき二人の男が、通り過ぎる雑賀を、ちらりと見ただけだ。
雑賀は、簪売りから、美味い飯を食わせる店の場所を聞きだしていた。日本人相手の美味い店は、やはり日本人居留地の中である。
日本人居留地には、雑賀のよく知る日本風の家屋が建ち並んでいた。
道の左右や家と家の境界部分には、よく手入れをされた、人の背丈ほどの高さの生け垣があり、濃い緑色の葉を茂らせていた。
雑賀は、道に沿って進んだ。
行き交う日本人たちは、雑賀を好奇の視線で眺めながらも、道を譲った。
雑賀を好奇の目で見るような日本人連中は、雑賀とすれ違った後には、振り返ってまでも、雑賀の様子を目で追ってくる。
だが、時折ちらほら、好奇とは違う種類の視線が、自分に向けられているのを、雑賀は感じていた。何らかの目的があって、雑賀を見ている者がいるのやも知れぬ。
『確かめてみるか』
雑賀は、わざと人混みを外れ、道を折れた。人通りの多い大通りではなく、通常は、その路地に面した家に住む人が、自分の家へ行くためだけに使うような、細い路地だ。
両脇を生け垣に挟まれた路地の幅は、かろうじて人がすれ違える程度の広さしかなかった。
前方に、人通りは、まったくない。
その途端、背後から、駆け寄る複数の足音が聞こえてきた。音にすら、殺気が籠もっている。
雑賀は、苦笑した。
『目的が、露骨にわかりやすくて、実にいい』
雑賀が振り向くと、三尺手拭いで作った頭巾で顔を隠した、数人の男が、抜刀し、雑賀を目がけて駆け寄ってくるところだった。
先頭に立つ男が、声高に叫びを上げた。
「待てぃ!」
「嫌だね」
雑賀は、逃げだした。追われるままに、細い路地を疾駆する。
全身に金属製の薬莢を身につけているにもかかわらず、雑賀のほうが刺客よりも足が速かった。追いつかれずに、距離を開けていく。
道は、前方で、まっすぐと、右への曲がり角に分かれていた。まっすぐ先からは、刀を抜いた別の志士が数人、駆けてくるところだった。
むろん、狙いは雑賀である。
雑賀は、生け垣に身を擦らんばかりにして、右へ曲がった。直後に立ち止まる。
雑賀の目の前に抜刀した志士が立ち、抜いた刀を振りかぶっていた。
全速力から急停止するため、雑賀は、両腕を左右の生け垣に突っ込んで、その枝を握りしめた。
雑賀の手の中で、葉がちぎれ、擦れた枝で、擦り傷ができた。
振り下ろされた志士の白刃が、雑賀の眼前で空を斬った。
立ち止まらなければ、一歩後には、雑賀がいたはずの場所である。
頭巾を被っているため、志士の顔は、わからない。目だけが見えていた。若い男だ。
男は、腰に、朱色の鞘を帯びている。
藤田小四郎だ。
振り下ろされた小四郎の刃が、動きを止めた。突きへと変化して、雑賀を襲う。
雑賀は右へ跳び、生け垣を突き破った。
跳躍の勢いのまま、そう広くもない、民家の庭で前転をする。
片膝をついて起きた時には、雑賀は、両手で拳銃を抜き放っていた。同時に、銃声。
小四郎の刀が、半ばから折れて、吹き飛んだ。
雑賀の右手に握られた拳銃の銃口から、紫煙が上がっている。
雑賀により、へし折られた生け垣の裂け目から、路地に立ちつくす、小四郎の姿が見えていた。
その他の志士たちも、合流したようだ。 生け垣の向こう側に、複数の人の気配があった。
雑賀の銃口は、志士たちの気配に向けられている。
「俺に用かい?」
雑賀は、ごく何気ない口調で、生け垣の隙間から見える顔に問い掛けた。
小四郎は答えない。雑賀も、答を期待して問うたわけではなかった。
「銃声で、役人がやってくるぞ。それとも、このまま続けようか?」
気配に向かって撃ち込めば、弾丸は生け垣を貫通して、志士たちに当たることだろう。
生け垣越しでは、体のどこに弾を当てられるかはわからない。それでも、志士たちがこれ以上しつこく雑賀を斬ろうとしたところで、刀が届く範囲内まで相手を近づけるつもりは、雑賀には一切なかった。ごり押ししてきたら、言わずもがなだ。
頭巾から唯一見えている小四郎の目玉が、眇められた。
「退けっ!」
小四郎は、同輩に短く指示を出した。
生け垣の裂け目から、小四郎の姿が消えた。その他の志士たちも、後を追っていく。
足音が去り、完全に志士たちの気配はなくなった。
雑賀は立ち上がり、両腰のホルスターに銃を納めた。
雑賀は、民家を振り返った。
すぐ目の前に縁側がある。
戸が全開に開け放たれているため、民家は、中の様子が丸見えだった。
縁側からつながる畳敷きの部屋に、丸い金属製の鏡がついた、鏡台が置かれていた。人並み以上の暮らしであれば、どこの家にも一台はある、嫁入りの際の持ち込み家具だ。
この家の奥方と思われる婦人が、豊満な胸元を大きくはだけて、白粉で、肌が真っ白に見えるよう化粧をしているところだった。
雑賀より明らかに若い婦人は、突然、湧き起こった乱闘騒ぎに、化粧の体勢のまま、凍りついていた。手に、化粧用の布を握ったままである。
「こりゃ、失礼」
雑賀は、素知らぬ風を装い、胸ポケットから赤いガラス玉の簪を抜いて、縁側に置いた。
次の瞬間、素早くきびすを返すと、雑賀は、生け垣の裂け目を抜けて、路地に出た。
足元に、折れた小四郎の刃が落ちていた。
雑賀は腰を屈めて、刃を拾った。
きらりと陽光を反射した刃に、雑賀の顔が映り込む。無表情を装ったつもりだったが、心なしか、鼻の下が伸びていた。
ようやく呪縛が解けたのだろう、後にした民家から、今頃になって婦人の悲鳴が高く上がった。
脱兎のごとく、雑賀は、その場から逃げだした。
7
細い路地にいる間は全速力で走ったが、前方に、もといた大通りが見えたところで、雑賀は早足に切り替えた。
歩きながら、やや荒くなった呼吸を整える。
路地から、もとの大通りへ出た時には、雑賀の呼吸は、すっかり平常に戻っていた。
「今の銃声は貴公の仕業か?」
雑賀の前に、二人の男が立ちふさがった。
雑賀より背が低く、やや腹が出た男と、背が高く、顎の鰓の張った男の二人連れだ。どちらも腰に刀を帯びている。さきほど、日本人居留地へ入る門を抜けた際に、雑賀をちらりと見ていた役人たちだ。
口を開いたのは、背が低いほうの男である。
「許可のない銃の使用は禁止されている。いかなる了見での発砲か、聞かせてもらおう」
「斬りかかられたから撃ったまでだ。自分の命を守るために銃を抜くことは、禁じられてなどなかったはずだぜ」
雑賀は、役人に折れた刀身を差し出した。
「門の内外を自由に悪党が行き来しているぞ」
役人は刀身を手に取り、自分の顔の前に翳して、よく見るような仕草をした。
背の高いほうの男が朋輩の脇を離れ、挟撃するように、雑賀の背後に移動する。
雑賀には見えなかったが、背中の後ろで鯉口が切られる音が聞こえた。もし逆らえばどうなるか、といった脅しなのだろう。
刀身を受け取った役人は、相棒が配置に就いたのを確認してから、
「よく口が立つ。貴様、支那人ではないな」
「だとしたら?」
「怪しい身なりだ。奉行所まで同行願おう」
雑賀は、両手をホルスターの間近に、だらりと下げていた。抜く気なら、すぐ抜ける。
背後をとって有利に立ったつもりでいる相手が刀を抜くよりも、よほど早く銃をつきつける自信が、雑賀にはあった。
「あいにくだが、俺の身元はアメリカ預かりだ。ここの奉行には裁けないよ」
「では、そのアメリカに確認をするまでだ」
雑賀は、腰の両脇にある銃を抜いた。
身をねじり、右手の拳銃を背後の男の蟀谷{こめかみ}に向ける。と同時に、左手の拳銃で前の男の蟀谷に狙いをつけた。
あまりの早業に、役人は二人とも微動だにしていない。二人の男の顔からは血の気が引き、額に汗が浮きあがった。
雑賀は、かわるがわる前後の男の顔を見比べ、目で「動くな」と牽制した。
前に立つ男の手の中から、折れた刀身がこぼれ落ちる。
「今日、入港したモビーディックだ」
雑賀は、無愛想に吐き捨てた。
「艦長のジョナサン・デビットに聞いてくれ」
雑賀は無造作に拳銃を下げると、ホルスターに、再び戻した。
へなへなと、二人の役人は崩れ落ちた。
8
入港に伴う雑事に追われていたジョナサン・デビッドが、雑賀を迎えに、奉行所にやってきたのは、暮れ六つだった。
特に取り調べがあるわけではなく、もちろん、茶や飯が出るわけでもない。単なる嫌がらせとして足止めをされているだけだった雑賀は、すぐに解放された。
その足で雑賀は、ジョナサンと連れだち、飯屋に向かった。簪売りが言っていた、美味い飯を食わせるという店である。
簪売りの評価は本当なのだろう。暖簾を潜り、入った店内は、すでに人で一杯だった。相席で、気軽に食事をするための卓には、まったく空きがない。
ほどよく酒が入った客たちから、好奇の視線が、雑賀らに集まった。横浜では、外国人を見かける機会など珍しくないはずだが、純粋に日本人相手の商売をしている店に、外国人が立ち寄ることは、あまりない出来事のようであった。
店内には、醤油と味噌で味付けされた、日本の食事の匂いが、充満していた。
雑賀の腹が、ぐうと鳴いた。
「まだ、おあずけのままなのか」
ジョナサンが、高らかに笑い声を上げた。
「おまえが早く来ないからだ」
と、雑賀は毒づく。
ジョナサンは、意に介さずに笑っている。
突然、笑い出した外国人の様子に、愛想良く「いらっしゃいまし」と出てきた女中が、びくりと身を震わせた。十七~八歳といったところだろう。
女中は、案内すべきか否か、逡巡の色を浮かべた瞳で、雑賀の顔を窺った。
雑賀は相手の不安を取り除くように、女中に向かって破顔して見せた。
年頃の女中の頬が微かに朱に染まる。
「朝から、ずっとおあずけなんだ。腹が減って倒れちまうよ」
女中の返事を待たず、雑賀は、おもむろにブーツを脱いだ。すぐ、ジョナサンも後に続く。
「奥に部屋があるんだろ?」
と、雑賀は、廊下の奥を手で示した。
「ここじゃ満員だし、目立ちすぎる」
雑賀らと女中のやりとりに、店内の客たちの視線が集まっていることに、女中は初めて気がついた。女中の頬が、ますます赤くなる。
「こちらです」
消え入るような声で囁き、女中は二人を先導した。板張りの廊下を進んでいく。
二人は、八畳間に案内された。
「白い米を丼で。それから、味噌汁を」
雑賀の言葉に、女中は、部屋を去った。
薬莢と拳銃のベルトをそれぞれ外し、雑賀は、自分の席にあぐらをかいた。ベルトは、畳の上に置く。
慣れない様子で、ジョナサン・デビッドも、同様に座った。ジョナサンも、拳銃のベルトを外して置いていた。最新式の雑賀の銃と違い、一般的な軍仕様の拳銃だ。
女中が、炊いた白米を入れた丼と味噌汁の椀を、膳に載せて戻ってきた。どちらも出来合いを器に盛るだけなので、あっと言う間だ。小皿に載せた梅干しと、漬けた大根の切り身が添えられている。
雑賀にとっては懐かしい食事だったが、ジョナサンにとっては、初めての食べ物だ。
もちろん、箸も初めてだった。
困惑顔で食事を眺めるジョナサンに、雑賀は、にやりと微笑んだ。
「こうするんだよ」
雑賀は、味噌汁の椀を掴むと丼の白米に味噌汁を掛けた。白米の上に、賽の目に切られた豆腐が、ころころと載っかった。
しゃりしゃりと、茶漬けのように、湯気の立つ味噌汁飯を、雑賀は、喉に掻き込んだ。
雑賀は、瞬く間に丼を空にした。
「お代わりちょうだい」
と雑賀は、空になった丼を、女中に突き出した。しげしげと女中は、雑賀を見つめていた。
「ん?」
「いえ。異国の方? では、ありませんよね?」
「乗ってた船が嵐で沈んでね。海の真ん中で、ペリー提督の黒船に拾われて、そのまま十年もアメリカ暮らしさ。今じゃ、すっかりアメリカ人だ。おかげで、こんなのと一緒だよ」
ジョナサンは、雑賀の真似をして味噌汁を米に掛けたまではいいが、箸がうまく握れずに、苦闘しているところだった。
女中は、「こんなの」呼ばわりされた、ジョナサンの奮闘に目をやり、口元を軽く押さえながら席を立った。
「ついでに、匙を持ってきてやってくれ」
雑賀は足を伸ばし、後ろ手に両手を畳についた。大きく、伸びをする。
どこかの部屋から、酒に酔った複数の男の声と、やはり複数の女の嬌声が聞こえてきた。よろしく、楽しんでいるらしい。
「アメリカも日本も、やるこた同じだね」
雑賀は、紫蘇の葉が巻かれた梅干しを一つ指で摘むと、口に投げ込んだ。
しょっぱさに、顔をしかめる。
雑賀のように箸を持つことを諦めたジョナサンが、逆手に棒を握るように箸を握って、味噌汁飯をすすり込んだ。
9
誰かに手を差し入れられたのだろう、だらしなく胸元が乱れた芸妓が傾ける銚子の酒を、藤田小四郎は自分の杯で受けとめた。
二十畳程の部屋である。美味いと評判の店の一室だ。
料理が載った膳が並べられ、十数名の男女が宴を張っていた。室内には、空いた銚子が、そこここに、いくつも転がっている。
京都から、遠路、蒸気船で駆けつけた同志のための、ねぎらいの宴だった。水戸藩は、攘夷を支持していた。
小四郎は席次の中程に座っている。
芸妓の胸のふくらみが気になったが、煩悩を振り切るように、小四郎は杯を傾けた。羽目を外して、失態を演じるわけにはいかない。
京都から来た同志は四名。芹沢鴨、平山五郎、平間重助、眞柴十三{ましばじゅうぞう}だ。
文久三年二月、今は亡き攘夷派の同志、清河八郎の発案を受け、京都の治安を悪化させている関西の浪士に対処するため、幕府により集められた関東の浪士、二三〇名余りが京に上った。
だが、攘夷活動家である清河の真意は、集めた浪士を攘夷のための兵に転じることにあった。そこで、京都に着いた清河は、浪士たちによる攘夷断行を、もともと攘夷を望む朝廷に願い出、認められたのだ。
幕府は開国の立場であったが、朝廷が認めた以上、反対するわけにもいかない。清河は、一行の内の二〇〇名余りを率いて、イギリスとの戦争に備えるため、江戸に帰還する。
結局、清河は、横浜の外国人居留地襲撃を企てたとして、四月に幕府により暗殺されることとなるが、京都で清河と袂をわかち、残留した二〇名余りの浪士たちを、共同で率いているのが、芹沢鴨だった。他の三人は、芹沢の同胞だ。
だが、実際には、清河と芹沢は、袂をわかってはいなかった。関東での攘夷活動を清河が率い、京都での攘夷活動を芹沢が率いるという、東西同時挙兵の役割分担が目的だった。東西同時挙兵のための活動資金の一部を、水戸藩が出している。
京に残った芹沢らは、藩主の松平容保{かたもり}が京都守護職に任じられている会津藩お預かりの立場となり、活動の拠点とした壬生村{みぶむら}の地名から、壬生浪士組と名乗っていた。
表向き、京都の見回りを役目とする芹沢だが、清河の暗殺により狂いが生じた攘夷活動の計画変更と、水戸藩からの軍資金受領のため、密かに横浜に入ったのだ。そのねぎらいの宴である。
小四郎は、上座に目をやった。
芹沢の兄でもある、小四郎の二名の上役と、芹沢ら四人が、上座である。
小便にでも行ったのか、芹沢鴨は、自分の席にいなかったが、平山五郎と平間重助が、だらしなく半裸で芸妓に絡んでいた。芸妓は、半裸以上に剥かれている。
その脇で、眞柴十三だけが居住まいを正して座り、ちびりと酒を含んでいた。一人だけ異質な空気に包まれている。
小四郎は銚子を摘んで席を立つと、眞柴の対面に移動した。
「眞柴殿」
と、眞柴に銚子をさしだす。眞柴は、自分の杯を空にした。
男女を問わず、部屋にいる誰もが顔を赤くしていたが、眞柴だけは、白く透き通った顔色をしている。月代を剃りあげ、残りの髪は一本に束ねて、背後に垂らしていた。
女性のように整った顔立ちをしていたが、眼光はきつい。顔立ちが整っている分だけ、余計に近づきがたい雰囲気を、眞柴は放っていた。年齢は、二十八。
小四郎は眞柴の杯を満たし、頭を垂れた。
「眞柴殿からも、芹沢殿に、私を推挙していただくようお願いします。清河殿が担っていた攘夷のお役目、必ずや、私が成功させます」
眞柴は、小四郎を見つめた。
頭を垂れているため、眞柴の顔は見えなかったが、眞柴の視線が貫くように自分に向けられていることを、小四郎は感じた。
頼み事を口にするからではなく、眞柴の視線を避けるために頭を下げたような気が、小四郎はした。
眞柴は無言だ。
『言わなければ良かった』
眞柴の沈黙に、悔恨の思いが小四郎を包む。眞柴は、小四郎が注いだ酒を口にした。
「私は、芹沢局長の護衛として、この場にいるだけ。貴殿を抜擢するか否かは、局長が、ご自身で判断なさることだ」
独り言のように、眞柴はつぶやいた。小四郎は、動けない。
二人の様子を、端で見つめていた平山が、芸妓に抱きつくように、小四郎に抱きついた。
「駄目だよぉ、小四郎ちゃん。そんなこと、眞柴ちゃんに頼んだって、固いんだから。芹沢さんには、俺から言ってあげるからさ」
「ありがとうございます」
小四郎は、感謝の言葉を口にした。推挙に対する感謝なのか、助け船に対する感謝なのか、自分でもよくわからなかった。
「いいよいいよ」
平山は、ひらひらと小四郎に手を振った。にやけた顔が、突然、思案顔になる。
「芹沢さん、遅いねぇ。小便に行っただけなのに、何かあったかな」
眞柴が、畳に置いてある刀に手を伸ばした。
「にゃはははは。冗談だよ」
と平山は笑ったが、意に介さずに、眞柴が立ち上がった。
「探してくる。迷ったのかもしれん」
「では、私も」
小四郎も、慌てて自分の刀を掴み、眞柴の後を追った。
10
部屋を出た女中により閉じられた襖が、すぐまた開いた。
ジョナサンは、箸での食事をすっかり諦めて、匙の到着を待っていた。
てっきり女中が戻ったものと思ったジョナサンは、襖を開けた相手をよく見もせずに、
「サンキュー、サンキュー」
と、相好を崩して、感謝の言葉を連呼した。
だが、その声を掻き消して「フリーズ!」と、制止を命じる雑賀の声が飛んだ。
ジョナサンは硬直し、ぎくっと動きを止めた。
雑賀の言葉は、ジョナサン・デビットと、襖の開放者、双方に向けられたものである。襖を開いたのは、芹沢鴨だった。
持病の梅毒により崩れかけた芹沢の、元々かなり赤黒い顔が、酒酔いのため、さらに赤くなっている。
襖に掛けていた手を離し、芹沢は、室内を一瞥した。さすがに、部屋を間違えたと気がついたらしかった。
だが、続いて出た言葉は、謝罪ではない。
「異人どもが、調子にのりおって」
「部屋違いだぜ」
と、雑賀は応じた。
「女子{おなご}なら大歓迎だが、あんたみたいのじゃ、飯が不味くなる」
芹沢の、ぎょろりとした瞳が、雑賀を睨みつけた。雑賀は、ウインクで受け流した。
芹沢の目が、さらに大きく見開かれる。
「貴様、日本人だな!」
芹沢は、腰の刀に手を掛けた。
「この異人気触{かぶ}れめが、なんだ、そのナリは!」
芹沢は罵声を発するや、室内に足を踏み入れた。
すかさず雑賀は、右手で畳に置いたベルトのホルスターから銃を抜くと、芹沢の額に狙いをつけた。
「部屋を間違えた上、斬りかかろうだなんて、どういう了見だい?」
芹沢は刀を抜こうとした体勢のまま、足を止めた。
雑賀は、口の中の梅干しの種を、舌で転がした。銃口は、芹沢の額に向けたまま、ぴくりとも揺らさない。
もちろん、視線も外さなかった。芹沢も、雑賀から視線を逸らさない。
それ以上は、芹沢は無理に踏み込んでこなかった。かといって、あっさり退く気もないようだ。
額に銃口を向けられて、芹沢が足を止めたのは、恐怖で足が竦んでしまったためではない。単純に、このまま斬りかかるのが、無謀な攻撃だと悟ったためである。
酔ってはいたが、止まるか否かの判断は正常だった。だからといって、銃を恐れて退いたと思われるのも癪なのだろう。
「ぬぬぬ」と、芹沢の口から、声が漏れた。
廊下を走る複数の足音が、雑賀のいる部屋に近づいてきた。
まず、眞柴十三が、続いて藤田小四郎が、芹沢の背後の廊下に姿を現した。
「芹沢殿っ!」
銃口を向けられた芹沢の様子に、小四郎は、ぎょっとした表情で声を上げた。だが、眞柴は、顔色を変えはしなかった。
「誰かっ! 早く来てくださいっ!」
小四郎は、自分が走ってきた廊下の奥に声を掛け、朋輩を呼んだ。
ジョナサン・デビットが、飛びつくようにして、自分の拳銃に手を伸ばした。
「志士か? こいつら志士か?」
と、ジョナサンは早口で、雑賀に問うた。
「イエス」と雑賀。
雑賀もまた、空いている左手で、畳の上の、自分のもう一つの拳銃を掴んだ。掴んだ拳銃を、芹沢同様に、ぴたりと眞柴の額にも向ける。
ジョナサンは、小四郎に狙いをつけた。
「まだ撃つなよ」
と、雑賀は、ジョナサンに釘を刺した。
雑賀は、眞柴の顔を見つめた。眞柴に動じた様子はない。
雑賀の眼光と、眞柴の眼光がぶつかり合った。
「失礼する」
眞柴は、無表情のまま、両掌を雑賀に向けて、肩の高さで、小さく万歳をした。刀を抜かない、という意思表示だ。
そのまま眞柴は、室内に足を踏み入れた。落ち着いた足取りで歩を進めてくる。
眞柴の歩調に合わせて、眞柴の額に狙いをつけていた雑賀は、狙いが外れぬよう、左手の向きを、少しずつずらしていった。
眞柴は芹沢の前まで進み、自分の体を芹沢と雑賀の間に入れると、芹沢を狙う雑賀の射線を遮った。
眞柴は、雑賀に対峙するように足を止めた。芹沢を狙う銃口の射線と、眞柴を狙う銃口の射線が一本になった。
雑賀は、今は眞柴の額のみを、左右の拳銃で狙っていた。
「邪魔立てするな」
と、芹沢が、自分を庇うようにして背を向けて立つ、眞柴に言った。
芹沢は、体勢を戻してはいなかった。今にも刀を抜くぞという、体勢のままだ。
「どかぬと、貴様から斬るぞ」
憎々しげに、目の前に立つ眞柴の背中を、芹沢は睨みつけた。
「ご随意に。ですが、大事の前です。清河八郎亡き今、あなたまで失うわけにはいきません」
眞柴は、さらりと言ってのけた。
しばしの後「ふん」と、つまらなげに芹沢が刀から手を離した。雑賀は、銃口を降ろさない。変わらずに、眞柴の額を狙っていた。
眞柴の背後で、芹沢は身を翻して廊下を振り返った。廊下には、藤田小四郎が立っていた。
部屋を出る芹沢にとっては、邪魔な位置だ。小四郎の顔からは、血の気が引いていた。膝が小刻みに震えている。
小四郎には、ぴたりとジョナサンの銃口が向けられていた。
騒ぎを聞きつけ、他の水戸藩士らが、駆けつけてきた。立ちつくす小四郎の背後の狭い廊下に、水戸藩士らが犇{ひし}めき合った。
「退けい」と、野太く短い一語で、芹沢は、小四郎と水戸藩士らを一喝した。
弾かれたように、芹沢を避けた小四郎は室内に立ち入った。きょろきょろと、小四郎の視線が、雑賀と眞柴、ジョナサンの間を往復する。
雑賀と、小四郎の目が合った。小四郎が、頭巾を被った襲撃者の一人だと、雑賀は見破った。目に見覚えがあった。
「あんたの目は、どこかで見た目だな」
と、軽く笑いを含んだ声で、雑賀が、小四郎に声を掛けた。二丁とも、拳銃は、眞柴に向けたままだ。
「貴様など知らん」
小四郎は雑賀から、視線を逸らした。雑賀は、にやりとした。
「抜けるのかい? その朱鞘にも見覚えがあるんだぜ」
雑賀は右腕を動かし、拳銃を小四郎に向けた。小四郎の膝の震えが大きくなった。
「昼間は、世話になったな」
小さく、ぶっきらぼうに、雑賀は、吐き捨てた。
続いて雑賀は「バン!」と大声をだした。同時に雑賀は、梅干しの種を、口から吹き出した。
種は、狙い違わず小四郎の額に当たった。
「ひゃあっ!」と小四郎は、背後に跳ねるようにして、どでっと廊下に尻餅をついた。大股を開いて、ふんどしが剥き出しになった。
「そんなもの、見せるなよ」
小四郎は、慌てて立ち上がった。小四郎の脇には、芹沢が立っていた。
芹沢は、小四郎を見もせずに言った。
「清河の代わりは、貴様にゃ早い」
小四郎はがっくりと、うなだれた。
そのとき、犇めく水戸藩士を掻き分けて、小柄だが、恰幅のいい男が進み出てきた。四十代半ばに見受けられた。
男は、芹沢に頭を下げた。
「この店の主人です」
「けしからんな。客を不快にさせる店だ」
「申し訳ありません」
主人は自分の着物の袖で、芹沢の右手を包み込んだ。
「お飲み直しの席を、ご用意させていただいております」
主人と、芹沢の手が離れた。
「よかろう」
芹沢は、つまらなそうな顔で、主人の袖の内で受け取った物を懐へしまい込んだ。
主人は、廊下の水戸藩士たちの背後を振り返り、柏手を打った。
水戸藩士らを脇へ押しのけるようにして、歓声を上げながら、多数の芸妓が進み出てきた。
芸妓らは、抱きつくようにして、芹沢を取り囲んだ。芹沢の元まで辿り着けない芸妓は、手近の水戸藩士の腕を引いた。
「綺麗どころを集めました。ほら、お客様たちを、早くご案内して」
芹沢と水戸藩士らは、芸妓に手を引かれ、背中を押されるようにして、部屋を去った。
歓声が消え、途端に辺りは静かになった。
残ったのは雑賀とジョナサン、雑賀に銃を突きつけられたままの、眞柴だった。主人も残っている。
「失礼いたした」
と、眞柴が、ぺこりと頭を下げた。雑賀は銃をさげ、二丁とも畳に転がした。
「驚かさないでくれ。俺は気が弱いんだ」
眞柴は、雑賀の顔を見つめた。
「そうは見えませんな」
「あんたほど、肝は据わっちゃいないよ」
眞柴は、再び頭を下げた。
「それでは」
「あいよ」
眞柴は、部屋を去った。
11
「お怪我は、ございませんでしたか?」
にこにこと、満面に人の良さそうな笑みを浮かべながら、店の主人が雑賀に近づいた。
とはいえ、目までは笑っていなかった。客向けの愛想笑いの類であるのは明らかだ。
主人に銃を向けようとするジョナサン・デビットを、雑賀は右手を挙げて制した。
「この店の主人だ」
ジョナサンは、銃を下げた。
「なんだい、あの怖い連中は?」
と、雑賀は、主人に尋ねた。
「水戸藩の方々でしょう。『攘夷』のためなら、街ごと灰にしかねない過激な者たちです」
「水戸藩か」
雑賀は、水戸藩の志士たちが立っていた廊下を、しばし見つめた。
「間に入っていただき、助かった。迷惑を掛けてしまったな」
「連中の機嫌を損ねて店に火を点けられたのでは、たまりませんから」
主人は、満面の笑顔のまま、頭を垂れた。
「お代は要りません。速やかに、お引き取りください」
雑賀は、憮然とした。
「俺たちは被害者だぜ」
主人は、にこにこと笑っているだけで、何も言わなかった。
雑賀は立ち上がり、ベルトと銃を身につけた。
「おまえは、おあずけだ」
と、雑賀は、ジョナサンに声を掛けた。
ジョナサンは、雑賀を恨めしそうに見上げてから、膳の上の丼に目をやった。
一拍後、ようやく諦めがついたのか、ジョナサンは立ち上がって、ベルトをつけた。
雑賀は、ジョナサンを追い立てるようにして、廊下に出した。
ジョナサンに続き、自分も部屋を出ようとしたところで、雑賀は思い出し、足をとめて主人を振り返った。主人に歩み寄る。
「そうだった。迷惑ついでに頼みがあるんだが、これを代わりに出してもらいたい」
雑賀は懐から手紙を取り出すと、拒もうとする主人の手の中に、無理矢理ぐいっと押しつけた。日本に着いてから出すために、航海中に認{したた}めていた手紙である。
主人は、手紙を雑賀に突き返そうとしたが、雑賀は、素早く身を翻して、廊下に出た。
「江戸城の勝海舟宛だ」
雑賀は捨て台詞のように、主人に言った。雑賀の言葉に、雑賀を追おうとする主人が、動きを止めた。
恐る恐るといった口調で、確認する。
「軍艦奉行並の勝様ですか?」
「おー、よく知ってるじゃないか」
雑賀は意地悪く、大げさに微笑んだ。
「届かなかったら、幕府から、きついお叱りがあるだろうな。焼き打ちどころか、もう、この店を開けてなどいられなくなるはずだ」
初めて、主人の笑みが崩れた。主人は、必死で、手紙を江戸城に届けるに違いない。
「頼んだぜ」
雑賀と、ジョナサンは、店を後にした。