ダークローズ
午前の明るい陽が差す頃、野霧夕子は、古びたアパートの錆びた階段をカンカンと音を立てて上がった。足を次の段へ運ぶたびに、一つに束ねられた彼女の長い黒髪が、リズミカルに揺れた。
周りの住人はもう出勤などで出払っているのだろう。彼女の靴音以外、シンとしている。夕子が二階の一室の鍵を開けて暗い玄関へ入ると、
「きたなっ」
思わず独り言が出た。呆れ顔で靴を脱ぎ、辺りを見渡す。廊下や四畳半ほどの部屋は、ゴミや脱ぎ捨てられた衣服などで散らかり、どことなく酸っぱい臭いが漂っている。
夕子はカバンを置き、中からゴム手袋を出して手にはめると、せっせと片付けや掃除をし始めた。
高い所の埃をハタキで払い落とし、大きなゴミや衣服を拾い、箒で床を掃いた。
洗面台に行くと、鏡や台の上も洗剤を吹きかけ磨き始めた。床も入念に拭いた。
掃除を終えた後、彼女は戸棚の菓子を食べながら居間のテレビをつけて、ワイドショーやドラマを観た。
小一時間後、夕子はふと思い出したように立ち上がり、テレビを消した。
カバンの中からビニール袋を取り出し、さらにその中から綺麗に包装された一輪の紅い薔薇の花を取り出す。その薔薇の包装を解いて居間に飾られた花瓶の薔薇と交換すると、夕子は取り替えた古い薔薇をカバンに入れて外出した。
電車で40分ほど離れた駅で降り、商店街を通り、閑散とした住宅地を歩いて、一軒の家に着いた。
「ただいま~」
夕子はそう言って、今度は本当に帰宅した。
彼女はキッチンで出勤の用意をしながら、あ、と思い出したように顔をあげた。
「スニーカーに小石、入れ忘れてた。ま、次でいっか」
それから数時間が経った。街はとっぷりと夜の闇に浸かっている。
夕子が日中に掃除をしたアパートの部屋のドアの前に、男がやってきた。
男はよれたTシャツと黒いパーカーを羽織り、腰までずらして履いているズボンを引きずるようにして歩いてきた。
そんな服装に反し、緊張した面持ちで、ドアの前に立つ。中へ入るのを躊躇っているようだったが、程なくして男は慎重に鍵を開けた。
中は真っ暗だ。すぐそばの壁のスイッチを押し、点灯する。
「うっ」
男は顔を引きつらせた。
一般的に見れば、なんの変哲のない部屋で、驚くようなものは何もない。空き巣に荒らされた形跡もなく、むしろ、綺麗に整頓されている。
しかし、その状況こそが彼にとって異常なのであった。
彼はスマートフォンを取り出して、電話帳を開いた。彼はスマートフォンを耳に当てながら、忙しなく部屋じゅうを見た。
しばらくして、電話で呼び出した友人らしき男が、彼の家に来た。近所に住んでいるらしい。
「よ、竜どうした?挙動不審じゃね?」
友人に竜と呼ばれた男は、気味悪げに玄関から部屋の中を指した。
「最近……時々だけどよ…なんか部屋が変なんだよ…
俺、普段、全然掃除とかしねーのに…
なんでか無駄に小綺麗つーか……気味悪りーんだよ……」
「竜…それって…」
友人の男は息を呑んだ。
が、次の瞬間には、プッと吹き出して竜の肩を叩いている。
「ははっ!幽霊の仕業かもな!綺麗好きの!へぇー、良かったじゃん、掃除してもらえて!お前んち、その内ゴミ屋敷になるんじゃねーかと思ってたんだからよ!」
「はあ?何、呑気に笑ってんだテメー!こっちゃ、ガチで空き巣かと思ってんだぞ!」
竜はムキになったが、友人は気にしない様子で笑い続けている。
「泥棒がわざわざ盗んだ家の掃除なんかするか?痕跡消すなら分かるけど、他人の家でフツーここまで綺麗にすっかな~?」
「あー、分ぁったよ!テメーに相談しようとした俺が馬鹿だっつーんだろ」
「まぁ、いーじゃん。せっかくだから呑もーぜ!」
友人が自宅から持ってきたらしい缶ビールの入った袋を見せた。部屋で二人で呑む間も、竜は部屋の中で落ち着きがなかった。
「それにしても、えらく張り切って掃除したのな。彼女でもできたのか?薔薇なんて飾っちゃって…オッシャレー!まーた、部屋に連れ込んでお楽しみかよー」
友人は竜が掃除をしたと思っているらしい。
(不気味といえば…この薔薇だ)
竜は居間に飾られた薔薇に目をやった。今まで薔薇どころか、花を飾ること自体、したことがない。
(こんなん飾った覚えねーぞ。彼女ができたってするもんかよ)
そう心の中で毒づいたが、ふと考え込んだ。
(彼女…女の仕業か)
どうしても、部屋に女性の存在を感じざるを得なかった。しかし、思い当たる節が彼には多過ぎた。
数日後、竜は警察が嫌いではあったが、あまりにも不可解な部屋の美化が続いたので、仕方なく交番に行き、相談した。
しかし、当然ではあるが、「部屋が荒らされたならともかく、綺麗になっただけでは事件性はない」「こちらも忙しい」と、まともに取り合ってはもらえなかった。
「これだからサツは気に食わねぇ!」
交番を出た後、竜は悪態をつきながら帰路を歩いた。自宅のアパートへ近づくにつれ、その足どりは重くなる。
竜は踵を返し、近くの電気屋に向かった。
翌日、仕事が終わり帰宅すると、竜はすかさず居間の本棚へ向かい、一冊だけ僅かに浮かせて他の本に挟まれてる本の下から、小型の監視カメラを取り出した。
彼は監視カメラを部屋に仕掛けていたのだ。
(これで犯人が分かる…)
彼は監視カメラからデータカードを取り出し、パソコンに読み込んだ。デスクトップに、本棚から見た部屋の画面が映し出されるはずだった。
しかし、いつまで経っても画面は真っ暗のままで、映らなかった。
「なんで…なんでだよ!?」
前日買ったばかりのカメラだ。電気屋でも機能を確かめたので、壊れているはずはない。
データは入っていなかった。全て消されていた。
彼はなんとしても犯人を見つけるべく、監視カメラをさらに2台買って部屋の見えない所に設置したが、結局、その翌日もカメラには何も記録されていなかった。
「なんでだ…どうして…一体誰がこんな事を…」
竜は途方に暮れた。
その様子を、見ている者があった。
部屋には、竜が仕掛けた監視カメラとは別に、数台の小型カメラが仕掛けられていた。もちろん、竜には知る由もない。
「アンタには永遠に分からないよ」
パソコンの前で頭を抱える竜を小型カメラの映像を通して眺めながら、野霧夕子はほくそ笑んだ。暗い自室の中で、画面の光を受ける彼女の笑みは妖艶だった。
夕子には、3歳年上の真昼という名の姉がいる。真昼は優しく、妹の面倒をよく見る美しい女性だった。
そんな真昼の恋人が、竜だ。合コンで知り合い、竜の方から積極的にデートに誘って来たので、付き合い始めたのだそうだ。勢いに押された感はあるが、彼女は次第に彼を好きになり、幸せそうだった。
だが真昼の幸せは、長く続かなかった。彼女は、大勢いる竜の恋人の1人でしかなかった。付き合って1年、ふとしたことで浮気が発覚し、真昼にバレて慌てた竜は一方的に別れを切り出した。真昼はひどく傷つき、妹の夕子に泣きながら話した。
「もう疲れちゃった」
そう言って、真昼は泣き疲れると微かに笑った。その後、彼女は人知れず睡眠薬を飲んだ。死ぬつもりは、なかったのだろう。少し眠って忘れようとしたのか、飲んだ睡眠薬は少量だった。
しかし、真昼が起きることはなかった。
自宅のベッドの上で、毎日栄養剤と水分を点滴で補い、ヘルパー達の手によって清潔に保たれながら、こんこんと眠り続けている。
ずっと、ただ息だけをしている。
(死んでいるわけではない。犯されたわけでも、殺されたわけでもない)
夕子は、両親と共に、よく眠る姉の顔をそっと触った。
(ただ、これでは生きてさえもいない)
両親には、姉が失恋したことは話していない。両親は、姉が原因不明の強い精神的ショックで眠っていると思っている。
(真昼姉さんをこんなに追い込んだ奴を、許すわけはいかない)
夕子は、何が相手にとって苦痛かを考えた。
(あんな奴、死んで楽になんかさせない。殺したいけど、あんな奴の為に、姉さんを殺人鬼の姉になんかしたくない。姉さんや両親に迷惑はかけられないもの。
幸い、あいつにはたくさん女がいる。酷い目に遭わせた女から付きまとわれたり、別れた女があいつを脅して自殺未遂をしたりしてるそうだから、狙われる動機は尽きない。それに紛れて、直接的な被害のない姉さんから私へは結びつかないはず)
部屋を掃除するだけなら不法侵入にはなるが、バレなければ事件性はなく警察に疑われない。不気味に感じるのは本人だけ。
たとえ靴に小石が入っていて履いた時に不快でも、自転車のタイヤの空気が抜けてても、よくあること。
お風呂場の床がカビが増えてヌルヌルでも、干した布団に付いた食べカスに寄って来た鳩がフンをしても、ただの偶然で片付けられるし、ガスコンロの元栓が開いてても、ベランダの手すりがよく濡れて錆びて折れやすくなっていても、それはただの本人の不始末。
ただ、監視カメラには、気をつけねばならない。細心の注意を払っていたから、部屋の少しの異変にも気付けたけど、もし見逃していたら危なかった。カメラの位置を特定して探し出し、証拠を残さずデータを消すのには苦労した。
今後は音の出る防犯カメラが設置されることも考えて、注意しないとね。
不思議なことに、何かを盗めば騒がれるけど、逆に置くのはそうそう騒がれない。
だからね、竜、あの殺風景なアンタの部屋に、薔薇を飾ってあげたんだよ。
アンタが姉さんに贈った愛の言葉は、薔薇みたいに真っ赤な嘘だったからね。
これからも、小さな不幸をたくさんあげる。生きたまま、じわじわと苦しませてあげる。
これが私なりの、復讐。
いや、もう復讐なんて、大層なものでもなくなってるね。
日課、というか、趣味だね、趣味。
アンタの汚い部屋を掃除するのは気持ちがいいし、
臭い衣類を洗濯するのも案外苦じゃないし、
花瓶に薔薇を飾るのは毎回心踊るの。
まるで、恋人や新婚みたい。
憎んでいるのに、愛しているかのよう。
これはもう、愛だね、愛。
私なりの、愛。
お読み頂き、ありがとうございました。