ラプラスの魔物 千年怪奇譚 74 刀の思案
三人の悲しみが去った世界で、緑珠は己の刀に思いを馳せていた。彼女が抱く思いとは。そして、彼女の刀の話が語られる──!
扉閉められた。鈴が鳴った。記憶を、向こう側に置いて来た。
「緑珠様。」
「良いじゃないの。貴方が謝る必要は無いのよ。」
イブキの震える声に、緑珠は優しく声をかける。
「……は、い。」
「気持ちは分かるわよ。でも、妥協をしましょうよ。無事で良かったって。後ろめたい気持ちでいても救われないわ。」
声も上げず、ただ涙を流しているだけのイブキに、緑珠はイブキの手をぎゅっ、と握った。
「……ねぇ伊吹、耳貸して。」
「……はい。」
少しだけ屈んで、緑珠は秘密を打ち明けるように、
「……帰って来てくれて、『有難う』。」
その言葉に彼は目を見開いた。それでもやっぱり涙は止まらない。
「……は、い。そうです、よね。……でも変ですよ、涙が止まらないんです。」
少しだけ口角を上げた彼の顔に、緑珠はそっと手を伸ばして目尻を拭う。
「ん。よしよし。」
「おーい路上でイチャついてるカップルー!」
真理が走り寄ると、緑珠の頭を撫でながら、イブキに袋を見せる。
「ほらよ。今日だけはくれてやる。白子だ。」
「えっ!白子があるの!」
目をきらきらさせて真理を見つめる緑珠に、彼は優しく返した。
「緑珠の分もあるよ。今日はいっぱい頑張ったから、皆で美味しいもの食べよっか。」
「そうね!……あ、でも……華幻ちゃんの分が……。」
しょぼん、と悲しそうに表情を曇らせた緑珠に、真理は一つ指を鳴らした。
「ふっふーん!僕は神様だからね!何でも出来るんだよ!今日だって明日だって、明明後日だってご馳走を出せる!」
だからね、と続けて、
「だからね、今日はゆっくりしよう。」
かちゃ、と家の扉を開くと、否応なしに染みた赤い畳が見える。
「うわぁ……替えの畳って有りましたっけ……。」
イブキが呆然と立ち尽くしているのを横目に、緑珠は自分の部屋へと戻った。
血濡れた刀を携えて。
緑珠は部屋の電気を付けると、部屋の隅に刀を置く。蒼い旅装束も血でべったり濡れている。服を脱ぎ捨てると何時もの服に替えて、剣を抜いた。
白銀の、緑珠の顔を写す刃。切っ先にまだ血がついている。緑珠は濡れた布巾で血を拭き取ると、台座に刀を置いた。
「偶にはお手入れしてあげなくちゃね。」
周りの物を一掃して、手入れ道具を置く。目釘抜き、油、拭い紙、袱紗、打粉だ。
おっと、忘れない内に紙も噛んでおこう。喋らない為だ。
目釘抜で柄に入っている竹で出来た目釘を押し出し、更に片手で柄を掴む。
目釘は小さい。紛失しないように道具の近くに置いておこう。
とんとんとん、と柄を叩くと、大人しく刃が出て来る。ふと、緑珠の目に止まった茎の部分に、彼女はそっと指を這わせた。
『蓬泉院 緑珠李雅』
この刀を貰ったのは何時のことか。いや、正しく言うと『この神器を貰った』のは何時のことか。
そんな回想は構わないか、と緑珠はゆるゆると頭を振った。手入れは雑念が混じってはならないのだ。
刀身を右手に持ち、拭い紙で刀身を拭い、古い油を取り去る。更に打粉を刀身の表裏及び棟の間隔で打つ。
拭い紙で打ち粉で打った白い粉を拭い去った。これを何度か繰り返す。
考え事が回らないうちに拭い去ると、刃紋と地鉄がはっきりと見えてくる。これの喜びはひとしおだ。
刀身を袱紗で支えながら異常が無いかを確認すると、刀身に油を塗る。
染み込ませた油で刀身を塗ると、一瞬でそれを拭い去る。うん。中々上手いかもしれない。
順繰りに刀を元に戻していくと、何時もの苗刀に戻っていく。
煌めく刃を隠す様に、刀身を鞘へと戻した。そしてそれを、彼女はぎゅっ、と部屋の隅で抱き締める。
「……貴方は、裏切らないわよね。好きよ、七仙女。私のお友達。」
十五の誕生日を迎えた時に、この苗刀を飾る宝玉を渡されたことを、今でも鮮明に覚えている。
この神器『月の錠前』は持ち主の心を写す。渡されたあの日、試しに心を委ねてみろと言われたから委ねてみたものは良いものの、姿は刀に変わった。
女王や姫は大概扇子や鏡、装飾に変わるというのに刀とは。ざわめく周りを他所に、お前は特別だと、両親は『異端』を『特別』に変えてくれた。
冷たい冷たい鞘を抱いていると、ふと障子が開く。
「おや、緑珠様。どうなされたのですか?」
「……寂しかったから、抱いてただけ。気にしないで。」
その言葉で鞘を離すのかと思いきや、そうはならず。イブキはくすりと微笑んだ。
「やぁですねぇ。妬けちゃいますよ。ほら、触るのなら僕の身体にして下さい。」
差し出された手を少しだけ見ると、緑珠は刀から目を離さずに言った。
「あなたは、裏切らないわよね。私と一緒に、居てくれるわよね。」
その言葉は、イブキの喉を引き攣らせるのには、あまりに充分な力を持っていた。
「……だぁかぁらぁ、言ってるじゃありませんか、りょくしゅさまぁ。ねぇ?」
あからさまに激怒した感情を押さえ込んで、這ってイブキは緑珠の頬に手を伸ばす。
「ひっ、あっ、あ、ご、ごめんなっ、」
「僕はずっと貴方の忠臣ですよ。『裏切る』なんてする訳ないじゃないですか。それに、そんなに我儘言ってると……」
「あ、や、ごめんなさ、」
覆いかぶさり、擦らせる様に触っている手に、恐怖のあまり泣いた緑珠の涙が濡れる。そして、目を抉り出すように下まぶたをぐい、と押すと。
「骨の髄まで、喰ろうてしまいますよ?」
「ひ……ぃ……。」
びくびくと震えている緑珠に、イブキはぱっ、と手を離して何時も通りに微笑む。
「……なぁんてね。冗談ですよ。そんなに怯えないで下さい。」
「……ぅ……あ、貴方が怖い事を言うからっ……。」
「冗談ですってーもーやだなー緑珠様はー」
やぁですねぇ、と言わんばかりにイブキは冗談を装う、のだが棒読みが甚だしく信用に値しない。
「何をしていらしたのですか?もうご飯ですよ?」
緑珠はゆっくりと鞘から剣を抜くと、光に生える刃を眺めた。
「偶にはお手入れを、と思ってね。綺麗にしていたのよ。美しいでしょう。」
あ、と緑珠は何かに気付いて慌てて刀を仕舞った。
「や、やっぱり自分を傷付けた刀なんて見たくないわよね、ごめんなさいね。」
「あぁいえ、お気になさらずに。誰だってあんな事をされたら身を守ろうと思うでしょうし。」
仕舞った刀を部屋に置くと、緑珠は思いっ切りイブキに抱きついた。
「んー……お腹空いた!」
「ほらほら、そんな事をしている間に行けるでしょう?」
しかし緑珠は頭をグリグリとイブキに押し付ける。どうやら、
「はいはい。よしよし。頭を撫でてあげますからね。」
「やっぱりイブキは良く出来る子だわー。」
「あ、伊吹君だけ狡いなぁ。」
居間で待っていた真理が待ち切れなくなったのか、頭を撫でられている緑珠のほっぺたを触る。
「ご飯食べようか。お腹すいたでしょう。」
「食べるー!」
そう叫んだ緑珠は、滑るように居間へと走って行った。
「……お腹いっぱい。」
「僕はもう暫く魔力が使えないと思う。」
真理の魔力が枯渇するまで料理を出させた緑珠は、眠いのかうつらうつらとしている。
「……ねむい……。」
「寝ちゃダメですよ。ほら起きて。お風呂入らなくちゃダメでしょう。」
「んー……。」
緑珠は起き上がると、綺麗に正座をして、
「いぶき。ちゃんり。かむひぃあ。」
おいでおいで、と緑珠はぱんぱんと近くの畳を叩く。不思議そうにイブキと真理は顔を見合わせると、言われるがまま緑珠の傍に寄った。
「どうしたんですか?」
「どうしたの?」
寄った二人に、緑珠はそのまま倒れ込んだ。ぎゅうっ、と手を握って、そしてまた緩む。
「りょ、緑珠様!?大丈夫で」
「静かにしなよ。寝てるだけだし。」
「寝るなと言ったそばから……。」
その途端にタイミングが良いのか分からないのか電話が鳴る。自然に緑珠の身体はイブキにもたれる。
「あ、あぁ……緑珠様。お風呂入らなくちゃダメですよ。それだけ入ったら他は僕がしますから、ねぇ?起きましょう。」
「……こわい……。」
「……え?」
電話が終わる、がちゃん、という重い音を聞くと、真理はイブキへと言った。
「華幻ちゃんが帰ってくるんだって。華佗君が送ってくれるらしいし……じゃあ、」
真理は優しく緑珠の頭を撫でた。
「君の寝言でも聞こうかな。」
当の本人はイブキに抱き着いて顔が見えない。が、何か言いたげなのはイブキの服越しに伝わる呼吸で分かる。
「……これは寝言よ。私は寝てるの。明日になったら忘れなさいな。」
「緑珠様の寝言は随分と長いですねぇ。」
くすくす、とイブキは笑うと、服が少し湿っていることに気付く。
「……わたし、ね。自分が死ぬのが、怖いの。寿命で死ぬのは構わないの。殺されそうになるのが、怖いの。怖くて何も出来ない時もあれば、相手を殺してしまいそうになる。」
ぽつり、ぽつり、と言葉を紡いでいく緑珠。
「がんばる。わたし、頑張るわ。でも……私のこと、これからも守って。私、我儘だからね。ちゃんと甘やかすのよ。お姫様として扱いなさいよね。ちゃんと抱き締めるのよ。頭も撫でて良いわ。甘いものを食べさせるのよ。」
それと、それと、と彼女は付け加える。けれどもやっぱり言いたかったのは。
「あとね、それとね……私と、一緒に居て。三人とも。私と、伊吹と、真理と、華幻ちゃんと。皆で居て欲しい。」
「そんなの言われなくても、ですよ。」
「……寝てるから答えられないわ。」
すやすや、と棒読みで緑珠は言うと、真理は緑珠の頭に手を翳した。
ふわっ、と一瞬風が起こると、『眠っていた』はずの緑珠が慌てて顔を上げる。
「えっ、ふぇっ、あれ?」
「何したんですか、真理。」
予想以上の距離感で慌てふためいている緑珠を逃がすまいと、イブキはがっちりと彼女を抱えている。
「ん?因果を変えた。今までは緑珠が『お風呂に入っていない状態』だったけど、『お風呂に入って抱き着いた状態』に変えた。」
がらがらがら、と扉が開く。すると頭と腹に包帯を巻いた少女と華佗が立っていた。
「華佗先生!」
緑珠が叫んで華幻に駆け寄ると、イブキはその傍らに控える。
『傷はもう大丈夫。縫ったからまた糸を外しに来てね。』
「えへへ、心配かけてごめんなさい。でももう元気ですから!安心してね。」
イブキは深々と華佗に頭を下げる。
「華佗先生、有難う御座いました。」
『( -ω- `)フッ……当然の事をしたまでさ……(。 ー`ωー´) キラン☆』
小さな白板に描かれるコミカルな絵に、真理はくすりと微笑んだ。
「何キャラなのかな、華佗君は。」
『ふっふっふっ…… (何書こうかな。そろそろ戻るね。) じゃあね!』
「心の声も書くのね……。」
また扉が閉まると、緑珠は痛々しい華幻へと視線を戻した。
「あの、緑珠様。御心配をおかけし」
「お帰りなさい。」
ぎゅうっ、と緑珠は痛いくらいに華幻を抱き締める。
「貴女の事だもの。生徒を庇ったのよね。」
「えっ、あ、はい。止血方法を子供達に教えていたのが功を成した様で……。」
そっか、と緑珠はこぼすと、もっともっと華幻を抱き締める。
「知は人を救うのよ。そして殺しもする。……今はそんな難しいことは抜きにして──」
じぃっ、と華幻の顔を見ると、緑珠は目を潤ませて、
「貴女が生きていて、本当に良かった!」
緑珠の安心しきった顔を見て、華幻もそれにつられて微笑む。
「っ、えぇ!ただいま帰りました!」
華幻から手を離すと、緑珠はその場でくるっとターンして自分の部屋へと足を進める。
「華幻ちゃんも帰って来たから寝るわね。お休みなさい、華幻ちゃん、真理。イブキ、着いて来て。」
「仰せの通りに。」
ひらひら、と蝶が舞うように手を振ると、薄暗い廊下へと足を進める。外の空気がひしひしと闇に溶け込んでいた。
緑珠は、彼女自身の部屋の障子を開けて、イブキの手を引っ張って障子を閉める。
「さて。何か言いたげそうだったものね。何でも言っても良いのよ。私は貴方の主なのだからね?」
ふふん、と自慢げに笑った緑珠に、イブキはまだ苦い表情をしている。
「何か言いたい時は左を向く。貴方の癖ね。基本的に左を向くのは視覚的想像で、過去の考えを示す事が多いのだけれど……貴方は理系と言うかは文系寄り。文系思考の人間は考え事をする時に左上を向く事が多いの。と、言う訳で!」
「あー分かりましたよ分かりました。貴女には敵いません。言いますから理論詰めで僕を責めないで下さい。」
楽しそうに緑珠は微笑むと、イブキは深々と頭を下げた。
「……僕の妹を救って頂いたこと、本当有難う御座いました。」
「えっ、あ、ちょっと、顔を上げて、」
予想外の出来事だったのか、緑珠は頭を下げているイブキを前にわたわたしている。
「あと……っ……。」
「い、伊吹?どうしちゃったの?」
一度だけ、涙を拭うためにイブキは顔を上げると、もう一度顔を下げて、
「……ぼくをッ、僕を救って頂いて、本当に有難う御座いました!」
「……ふぇ……?」
伊吹がゆるゆると顔を上げると、緑珠は呆然としながらつー、つー、と涙を零している。
「……いや、何でりょくしゅさまが泣いてるんですかぁー……。」
「わ、わかんなっ、分かんない、あ!わかった!」
分かったんかい、とツッコミを入れそうになったイブキの前で、緑珠はひたすらに微笑んだ。
「ふふふ、貴方を救えて良かった、って思ったんだわ。えへへ。それは良かった。私、貴方を救えたのね……。」
ごしごし、と緑珠は目を擦る。
「駄目だわ。地上に来てから涙脆くなっちゃった。変だなぁ……」
擦ろうとした手をイブキが止めると、慈しみを込めた笑顔を見せた。
「涙脆くなる、というのは幸せな証拠ですよ、緑珠様。……すみません、寝るのが少し遅くなりましたね。」
緑珠は幸せの証拠を嬉しそうに見つめながら、布団の上でイブキへと言った。
「……お休みなさい、伊吹。貴方も早く寝るのよ。」
「分かってますよ。……これ、貰って行きますね。」
ちょいちょい、と刀をつつくと、緑珠は不満げに頬を膨らませる。
「……むう。」
「どうせ抱き枕にでもしようとしてたんでしょう。何で鉄の塊を……。」
持っていかれる刀を見ながら、緑珠は嬉しそうに手を叩いた。
「そうだ。イブキ、明日は手合わせして頂戴な。」
もう瞼が重い。その妙な温もりと、イブキの声が谺響する。
「構いませんよ。……お休みなさい、愛しい主。」
次回予告!
緑珠が初っ端から失踪したりイブキの暴論のやばみを感じたり真理が茶々を入れたりとギャグ話!




