ラプラスの魔物 千年怪奇譚 71 壊れた『××』
ノルテから帰った緑珠達!しかし、何時ものマグノーリエ本邸では無く、起こったのは惨劇。そして、その惨劇に壊れてしまうモノが現れる……!
がちゃん、と緑珠はマグノーリエ本邸の扉を開いた。しぃん、と沈黙が辺りを飲み込む。
「華幻ちゃん、ただいまーっ!ごめんね、今回は長引いちゃって……。」
何時もは駆け寄ってくる華幻の姿が見えない。
「……洗濯物、かしら?」
懐疑心に塗れた緑珠が不思議そうに言葉を発した。しかし、事はそう上手く動かない。
「いえ……これは……何か、声が聞こえますね……。」
その言葉に緑珠は眉を顰めると、ひっそりとした居間を進む。薄暗い部屋の中で、確かな感覚があった。
「……何だい、それ。」
「血だわ。」
べっとりとした血液を彼女は服の裾で拭くと、閉められた障子をゆっくり開けて、そして、
「華幻ちゃん?」
「緑珠!」
アリーシャの声が聞こえて、緑珠は声のする方へと立ち寄った。其処、には。
「か、華幻先生が、授業中に、皆は、逃げ、て、獣に、噛まれて、し、止血はしたの、でも、ど、すればいいか、わかんなくて……。さっきの、ことなんだどね……。」
辺りの薄緑の畳が血で汚れて黒ずんでいる。緑珠がアリーシャを退かして脈を測った。大丈夫だ。息はある。
「大丈夫よ。生きてるわ。ねぇアリーシャ、よく聞いて。今からお医者様の所まで走れる?」
アリーシャは声も出さずに頷くと、ずるんと畳で滑りながらも決死の思いで走り出す。イブキが、そっと、華幻へ手を伸ばした瞬間だった。
「触れないで。」
緑珠はイブキの手を払い除けると、冷酷無慙な瞳でイブキを睨んだ。そして彼女は華幻を抱き寄せる。
「何故、ですか。華幻は、僕の妹で、家族で……。」
容赦ない瞳をほんの少しだけ緩めると、緑珠はイブキへと言い放つ。
「私が貴方を止めないと、貴方は一生後悔する。だから、ね。ごめんね。」
真理は目の前の惨劇を未だに理解していないらしく、ただぼんやりと突っ立っている。
「どうしてですか、緑珠様。どうして、」
「『伊吹』。」
緑珠の一言に、伊吹はぐらつく。嗚呼、駄目だ、何かが崩れていく。建前が、本音が、本性が、狂気が、一番恐れていたことが、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だまだ壊れたくなんて無いんだ、『僕』はまだ『僕』で居たいのに!
だが、伊吹の脳を殴る警鐘は、いとも容易く打ち切られた。
「りょ、緑珠!何をやってるの!?」
緑珠が、伊吹をなで斬りにしたのだ。紺のベストと白いブラウスが、返り血に染まる。
「私は先生に華幻ちゃんを診せてくるわ。真理は伊吹の相手をお願い。」
「お、お願いって……。」
深くなで斬りにされたのにも関わらず、ゆらりと、ゆっくりと、『骸』が起き上がる。それはまるで、線が切れた様に。緑珠が真剣な面持ちで真理へと言った。
「『鬼』は今、破壊衝動が抑えきれなくなっている。下手すれば死ぬわ。私は先生にこの子を診せたら直ぐに戻って来る。だから貴方は『鬼』と戦って欲しいの。」
そうだ、と緑珠が駆け出した途端、真理へと言い放つ。
「私はね、伊吹が死ぬのも嫌だけど、貴方が死ぬのも嫌なの。もし死にそうになれば……。」
『鬼』の腕をもぎってでも生きなさい。
緑珠が去ると、『骸』が完全に身体を上げて、蜂蜜色だった瞳が濁りきり、真理をただただ、見つめていた。
時間はあまり残されていない。イブキのこともあるが、先ずは華幻の方が先だ。慌てて出て来たのもあって、件の女医の場所が分からない。
「あの、すみません!」
緑珠が通りかかった男性に声をかける。
「マグノーリエの女医の所まで行きたいのよ。場所を教えて欲しいの。」
「女医……あぁ、あの先生か。この道を真っ直ぐ行ったら良いよ。マグノーリエは小さな街だからね。あの先生しか居ないさ。」
「有難う!」
手に益々ぬるぬるとした感覚が増えていく。止血はしてあるが子供の力、緩んでいるのだ。
「此処で皆を失ったら、私は永遠に後悔する……!」
緑珠はこの状態で使えるか怪しい、あの能力を使う。
「お、お願い……『イブン先生のところまで飛ばして』!」
一気に身体に重力がかかる感覚に襲われると、目の前にはピンクの髪を持ったイブンと筆記で会話を試みる黒髪の男の医者が居た。青と赤のオッドアイが美しい。
「い、イブン先生!」
「お、緑珠チャンじゃん。……おや、それは……。」
緑珠が必死に冷静を保とうとするが、どうしても気持ちが決壊してしまう。
「あの、お願いします、この子を、助けて下さい!お願い、お願い!この子を助けて!」
「あーほら、落ち着いて落ち着いて。ちょっと見せてね……。」
緑珠から華幻を受け取ると、てきぱきと彼女の傷口を診る。
「ん。おっけー。今すぐ手術すれば問題ないかな。華佗チャン、手伝いよろー!」
華佗、と呼ばれた男性は、手に持っている小さな白板に『おk』と記す。
「あ、あの、どうか、宜しくお願いします……。」
深々と頭を下げた緑珠に、イブンは一言呟いた。
「ねぇ緑珠チャン。人間の世界に巨大な人外は要らないの。別の世界で巨大な人外は生きなくちゃ駄目なの。……緑珠チャンの優しいところは分かってるけど、それじゃあ誰も救えないよ。」
「……そ、れ、でも……わた、しは……。」
緑珠の言葉を最後まで拾うことなく、イブンは足早に手術室へと入った。
ばたん、と閉じられた扉を見ると、飲み込めない思いを抱えたまま、緑珠は本邸へと駆け出した。
少し、前の時間。
「……何ですか、何で、『お前』が居るんですか。」
「伊吹君?」
泥まみれの蜂蜜の瞳には、真理の姿が写っていない。
「そうだ。お前が居なくなれば良いんだ。そうすれば!もう破壊衝動に塗れることなんて無い!『お前』を!殺せば!」
あ、でも、と伊吹の口から思いが零れる。自身の顔をべたべたと触る。
「でもですよ、でもですね。殺す為には壊さなくちゃ駄目なんですよね。そうですよね、僕は悪くないないです。ねぇ僕。そうですよね。壊すことは大切です。壊して、コわシて、」
ぐるり、とまぁるいまぁるい眼球が、真理をじろりと覗いた。
「『僕』を取り戻さなくちゃダメですもんね!」
左耳に踊った匕首を、真理は身体を右に捩って避ける。恐らく言葉は届かない。
「『ラプラス』。少し力を借りるよ。」
ラプラスが反応したのは薄々分かるが、何せ返答を返すつもりが毛頭ないらしい。ぽおっ、と真理の両目に青い光が灯る。
伊吹の行動が全て遅動になっていく。
「アハハっ!凄い凄い!容易くない!壊せない!面白い!」
適当にぶんぶんと匕首を振り回して居るのだろうか。分からない。
「君は救われたい?」
「……えっと、僕ですか?」
僕ですか?という疑問形に、真理は眉をひそめて頷いた。
「そうですか!そうですよね!僕以外は喋らないし……吃驚しちゃいました!僕は救われてますよ?僕はもう、愛しい愛しい愛しい愛しい愛しい愛しい愛しい愛しい我が主が居るんですから!ねぇ!?」
ぐるぐると回っている瞳に真理は続けて問いかける。
「それじゃあ、聞くよ。君の他に誰が居る?」
「……え?見え、ないんですか?僕だけ?また僕だけ?嫌だなぁ、またまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまた僕だけなんですか!?また僕だけっ、また僕だけ僕だけのモノが無いんですか?」
嗚呼、と真理は気が付いた。この狂った異常空間の中で、である。
「僕だけが欲しいんです。僕だけ、僕だけ、あ、ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
彼の中で何が起こっているのだろうか。末恐ろしい興味本位で、真理は手を伸ばした。
「貸してもらうよ、君の景色。」
伊吹を中心として赤く染まった世界には、溢れんばかりの小動物の死骸が転がっている。
「……君は、君だけのものが無かったんだね。緑珠だけが、君の世界だったんだ。」
それを示すがごとく、緑珠の模した『何か』が血の山に転がっている。何をしたかは想像出来る。
「でもね。それは」
「……あ?」
真理が言い切らないうちに、頭を伏せて叫んでいた伊吹が顔を上げる。
「もう、良いです。もういいや。元々僕は『僕』を取り戻す為に人を壊すんだ。……あれ、僕は僕?僕って何?僕は、あれ、僕は、僕は僕は、何を、僕は、僕は、」
ゆうっくりと、タノシソウに口角を上げて、
「ナニを守ろうとしてイタンでしょうかねェ?」
完全に吹っ切れた伊吹と、それに比例して飛躍的に早くなる動き。真理の左耳は完全に貫通した。
「見切れない……!」
伊吹の視界を切り替えると、元の景色へと戻る。くぐもった音と耳が痛い。
「早く早く早く!早く逃げて下さい!早く逃げて!懇願して!僕に助けを求めて!そして僕に殺されて!?僕に殺されてしまって下さい!さァ!早く!」
逃げろ、早く。
「さァ早く!早く僕に壊させろ!」
ぼろぼろになって欲しい。
「もう守るものなんて何も無いんだ!だから!僕の!狂気を!僕の『本性』を!見て!そして戦け!」
身体に刺さる。痛い。どんどんどんどん、身体にあなボコが空いていく。
その言葉を真理は聞くと、パンっ!と鈍い音のあとに、ぐちゃりと何かが潰れる音がする。伊吹がふと手を止めた。
「くそっ……操作方法をミスった……!」
それでも、真理は。それが、彼の。血に滲んだ左目を上げて、目の前の『空』へと叫んだ。伊吹の首根っこを引っつかむ。
「それでも、僕は人を救わなくちゃならない。……どれだけの時間がかかったって、僕は……っ、それが僕の為だけに人間を創ってしまった最大の懺悔だろう!?だから僕は救う!」
ごくりと、彼は唾を飲んだ。
「僕が、僕の気持ちを知る為だけに創ってしまった、その自己満足の果てに僕が謝る事しか出来ないとしても!」
「……は?」
伊吹のきょとんとした目に、真理はラプラスの力を使って魔力を完全解放する。これに当たればちょっとくらいは目が覚める、はず、なの、だが。
「……痛い、痛いです。痛い痛い痛い痛い!痛くてたまらない!あれ、いた、い?痛い?痛覚が、あれ?痛いのは?僕は痛くない?僕って、僕は、あれ?何だか?」
ぐるぐると伊吹は目を回す。これでも目を覚まさなければ、もう真理に打つ手は無い。
彼の内面で何が起こっているか理解するつもりは毛頭無い。彼を今止めたところで、近いうちに発動するのがオチだ。
「……どうすれば……!」
「『伊吹』!」
「……りょくしりあ、さま……?」
古い名前で彼女を呼ぶと、緑珠は微笑みながら伊吹へと近付いた。
「『伊吹』。帰っておいでなさい。私は待っているわ。何でもしてあげる。」
「緑珠!」
真理が止めるのも聞かず、真理の血で汚れた伊吹の頬を優しく撫でる。
「私、また貴方のご飯が食べたいわ。貴方と一緒に居たい。……駄目、かしらね?」
「……緑珠様……。」
戻ったイブキがぎゅうっ、と緑珠を抱きしめる。そして、耳元の鳴き声を聞く。
「……ご、ごめんなさい、ごめんなさい、お願い、嫌いにならないで下さい、ごめ、ごめんなさい、お願いですから、」
「嫌いになんてなる訳ないわ。だから泣かないで。……帰って来てくれて、『有難う』。」
ひぐっ、ひぐっ、と耳元で鳴き声が聞こえるのを、緑珠はぽんぽんと肩を叩いて慰める。
次回予告!
壊れてしまった心に、それに伸びる手。だが、その手で救われるはずもなく……?真理は女医の元へ。そして『あれ』が動き出している事を知る……!




