ラプラスの魔物 千年怪奇譚 239 天へと至れ、富士の煙
真理が己の子らに力を託して、色付いていた物語があっという間に終わる話。まだ最終回じゃないですよ!
「良い朝だね。」
真理はエレクトローネという街の外れにある岬に居た。潮騒が耳に優しい。そよ風が頬を撫でた。
「……ほんとに神代が終わっちゃうんだね。」
空を見ると、もう龍や妖精が翔ける空では無い。青い空が見えるだけだ。
「おじい様。」
背後から聞こえる声に振り返る。その様、まだ齢六つほどの美しい金髪を持った少女だった。
『おじい様』とは言われるが、直接的な祖父では無い。九百年前自分が遺した人間が、今此処までに至っているだけなのだが。
「凍蝶。」
「おじい様、お話とは?」
「渡したいものがあるんだ。」
真理は凍蝶と目が合う様にしゃがみこむと、幼子の左目に手を被せた。ぽう、と明るく優しい光が辺りを照らす。
「これを持っていくといい。おじい様はそろそろ行かなくちゃならないからね。」
凍蝶に授けたのは『ラプラスの魔物』の力だった。今までも授けてはいたが、完全には渡していなかった。
一介の人外には過ぎた力かもしれないが、地上に神がおいそれと出られなくなった今こそ、世を導く力になるかもしれない。
「凍蝶!何処にいるの!」
幼子を呼ぶ声が聞こえて、凍蝶は声のする茂みの方へと振り返る。
「行きなさい。お母様がお呼びだよ。」
凍蝶が真理の居た方を見ても、もう誰も居なかった。残り香だけが其処にある。そっと目を撫でて。
「……はい、お母様。今参ります。」
黎明、緑珠はふと目を覚ました。自然に。目が冴えて起きたとかじゃなくて、元から起きることが決まっていたかのように。
外はまだ少し薄ら寒いが、春の風が少し吹き始めていた。同時にイブキの鍛錬の様子も聞こえる。
むくりと起き上がって、廊下に出た。お腹が空いたなぁ。でも空いているくらいが丁度いいかもしれない。
立ち上がって、縁側に出る。縁側の襖を開けると、イブキが神器を握りしめて鍛錬をしている。
ふと緑珠に気付いて鍛錬の手を止めた。
「お早よう御座います。良い朝ですね。」
「……あのね、イブキ。」
「お水ですか?それとももうお起きになられますか?」
「ねぇ、」
「それとも久しぶりに鍛錬でもします?手加減無しですよ。」
「お願い、」
「何かご入用だったら仰って下さい。前仰っていたお菓子でも食べますか?朝だけど今日は特別ですよ。」
「伊吹!」
周囲を一喝する叫びに、イブキは黙り込んだ。そしてまた呟くようにして言う。
「……変だと思ったんだ。朝から真理は居ないし、周囲から音が全く聞こえない。人が起こす音が何にも聞こえ無いんです。それに、貴女が起きて来た。」
絞り出す様にイブキは言った。
「言わないで、下さい。分かってるんです。貴女はきっと、望まない。残りの一ヶ月、永く生きる事を。」
足取りはふらふらで、緑珠に近付く。
「僕に分かるんですよ。美しいままで居たいんでしょう?美しく死にたいんでしょう?」
何とか笑顔を見せて、イブキは緑珠に縋りついた。
「……まだいて欲しいっていうのは我儘なんですか?」
だけどその答えを自分で見つけて。
「……違うな。貴女が望むのなら、此処で真理が帰ってくる筈。……帰って来ないから、違うって事なんでしょう。」
空は明るくなって、瑞々しい水色が覆う。光り輝く太陽が影を作る。
「ねぇ……。何とか言って下さい。僕は貴女の声が聞きたい。」
「だって貴方が言っちゃんたんだもの。全部全部、私の気持ちを。」
緑珠は少し気恥しそうに言った。その表情、今から死ぬ者とは思えない。
「……僕は緑珠様の事なら何でも知って居ますから。」
「その言葉に嘘偽りは無かったってことね。」
「えぇ。今も昔も。……そして、これからも。貴女の心が見えなくなる事は無い。」
イブキは下駄を脱いで緑珠の立っている縁側へと上がった。
「私の部屋がいいわ。色々と後始末が厄介でしょう。」
「辛くて僕の涙が止まらないってう点では厄介ですね。」
いつになく神器を握る手がぬるつく。何とか前を歩く主に声をかけて思い留まらせようとしても、喉から出て来るのは何も無い。
乾いた口からは、気の利いた言葉は出て来ない。一応口が上手いと言われた部類なのに。
緑珠は障子を開けて、自室に入る。そしてすとんと布団の上に座った。イブキを見詰めて、事が成されるのを待っている。
「……緑珠様。」
「なぁに?」
「痛く、しないようにしますから。」
意を決して、何とか当たり障りの無い言葉を紡ぐ。
「貴方の腕を見込んで頼んでるのよ?」
「本当に、楽しかったですよ。」
「有難う。」
「貴女との毎日は……僕の願望を通り越して、本当に、貴女との、毎日は……。」
「私も楽しかったわ。」
「貴女は毎朝起きるのが遅くて……。」
「そうね。」
肯定しか下されないのが辛い。お願いだからもっと心の底から笑って。そんな儚げに笑わないで。
「朝食を毎日作っていたあの日々は、僕の宝物ですから。」
「私もだわ。」
「夜寝る前、少し話したりするのも楽しかったです。」
「私もよ。」
「怖い夢を見て、僕の布団に忍び込む貴女が可愛らしかった。」
「……中々懐かしい事を言うわね。」
「最初は吃驚しましたけど、貴女を守らなくてはと思ったんです。」
「私もとっても安心だったわ。」
「ね、ねぇ……?緑珠様、僕、本当に、貴女の事が、っ……う、く……。」
どれだけ言っても思い留まってくれない。そっと零れた涙を優しく膝立ちした緑珠は触った。
「泣きたかったら泣いたら良いのよ。」
「……貴女の事が、僕は、本当に大好きで、愛していました。」
「ええ。私もよ。貴方のことを愛しているわ。」
「……ね、ねぇ……。」
「……また会えるでしょう?」
「そうですけど、それでも……。」
もうこれ以上は無理だ。改めて命令される前に、イブキはとびきり優しい笑みで、
「……僕も、直ぐに会いに逝きますから。」
「皆に迷惑かけちゃダメよ?」
「ちゃんとやる事やってから逝きますからね。安心して下さい。」
「じゃ、少しの間のお別れね。」
「……えぇ。」
ふと緑珠は思い出した様に、最期に遺した。
「今までね、大変だったわ。殺されそうになったけど、私。私ね……。」
飛び切りの笑顔で。
「貴方に殺される為に、今までずっと生きて来たの。」
その瞬間を永遠にする為に、イブキは神器を振り下ろした。最初に嬉しそうな緑珠の笑顔が見えて、肋骨の重み、心臓を貫く引っ掛かりが抜けると。
心臓に大きな穴を開けて微笑む緑珠が居た。イブキはがたん、と大きな音を立てて遺骸から引き抜いた神器を落とす。
糸が切れた様に膝から落ちると、緑珠を抱き締める。口元についた返り血を舐めると、暖かくて甘い。
返り血。主の、返り血。神殺しを行った、罪深き返り血だ。閻魔の罪は皆流れる。だから緑珠の罪を共に受けることは出来ない。
今だけでいいから、この血を浴びていたい。そうすれば罪が残る。それと同時に無駄な思考が脳を占有する。
こんな事になるくらいだったら無理に閉じ込めておいたほうが良かったのではだの、今なら身体を好き勝手出来るだの。
死んでいるとはとても思えない。今手を出しても誰の与り知るところではない。
尊厳無く踏み躙っても良いが、それは既のところで理性が抑えた。変わりに別の本能が首をもたげる。
止めようとした頃には既に遅く、ぐっと緑珠の頭を掴んで、大きく口を開けて肩に噛み付いた。
じゅわ、と甘い味が広がって、肩から肉を噛み取る。咀嚼して飲み込んで、血で潤った喉から出たものは。
「うぐっ、全然満たされないです、美味しくない、貴女のちにく、しょっぱいですよ……っ……。」
嗚咽一つと、甘く感じた血液が涙に混じった味だった。顔を上げると、机の上に幾つもの封筒が並んでいる。遺体をお姫様抱っこして、イブキはそれに手を伸ばす。
各々の宛名と、その中に『伊吹』の名前がある。血で濡れた手でそれを仕舞うと、皆の分も汚れない様に別で持つ。
緑珠を抱えながら居間に戻ると、電話の目盛盤を回した。繋がる先はハニンシャの執務室だ。
「ハーシャ。お元気ですか。」
『えぇ……まぁ。どうしたんですか?こんな朝早くに。僕まだ出仕したばかりですよ?』
「大丈夫です。直ぐに用事は終わります。」
『はぁ……。それでまた、用事というのは。』
「緑珠様を。……緑珠様を、僕が殺しました。至急国葬の準備と、僕の逮捕を。」
其処からは早かった。ふとイブキが目を瞑っている内に、役人が来た。多分長い時間が経っていたのだろう。体感時間はひどく短いものであったが。
役人はおずおずと今に座り込んでいるイブキに近付いた。それを見て彼は遺骸を置いて、背後に下がる。
一気に役人が緑珠の遺骸を引き取ると、その合間からハニンシャが現れた。別れ際に皆から渡し青い 外套と襟飾、胴衣を纏って。
「……分かる気がします。貴方がこんな事をした理由が。」
ハーシャは役人に命じて動かなくなったイブキに薬剤を投与すると。
次回予告!!!
緑珠を弑した罪で捕まった伊吹は、月影の牢屋に監禁されていた。しかし彼に対して現宰相であるハニンシャが下した決断とは……?




