ラプラスの魔物 千年怪奇譚 157 訓練
宰相様に追いつこうと必死な副宰相が可愛かったりリリシアンが早速最高の働きをしたり地元の国について知ったりする話。
「遅い。」
「宰相様が早すぎるんですってば!」
「僕くらいので避けられなかったらどうするんですか。こんなの人間レベルでも無いんですよ。」
「クソっ……。」
イブキから向けられる木の短剣を悔しそうに見詰めながら、ハニンシャはもう一度構え直す。
「そもそも構えが甘い。もっと腰を据えて。」
「……はい。」
構えたハニンシャを見ながら、イブキは言った。
「……それ以上無理ですか?」
「いたい、です……。」
無理矢理腰を据えさせ様とすると、
「いやいや痛い痛い痛いですよぉぉ!」
「身体硬いですね。」
「ひ、ひどいです、凄く痛い……。」
身体中を抑えてハニンシャは半泣きである。
「それは謝っておきましょう。でも身体は柔らかくしなくちゃダメですね。」
「は、はぁい……。」
しょげているハニンシャに、イブキは付け加えた。
「そんなに悲しそうな顔をしなくても良いですよ。手首の動きは良かったです。」
「ほっ、本当ですか……!」
詳しくは言わないが、キラキラと目を輝かせている限りずっと練習して来たのだろう。飲み込みが早いし、技術も申し分無い。
「後は……そうだな、柔軟して反射神経動体視力機転身体の動き気配の察知構えを覚えたらいいですよ。」
一息で言い切ったイブキに、ハニンシャは思いっ切り叫んだ。
「ぜ、全部じゃないですか!」
「全部じゃないですよ。前までは手首の動きと真剣さがありましたから。」
「へっ、減ったの二個だけ……。」
「最初はそんなもんです。」
「宰相様もそんな感じだったんですか?」
ハニンシャの何でもない一言に、イブキは詰まる。
「……そんな事を聞く暇があるのであれば鍛錬なさい。」
ぐしゃぐしゃと頭を撫でると、何だか気恥しげに副宰相は目を細める。
「……はい。」
「宿題は?」
「出来てます。」
「後で見ます。部屋に持って来なさい。」
練習用の短剣を直すイブキを見ながら、ハニンシャは少し項垂れて呟く。
「数学って意味あるんですか……?申し分無い働きはしているハズなんですけど……。」
「意味あるとか無いとかじゃないんですよ。勉強はやればやる程自分の力になる。しかも貴方は副宰相なんですから、出来なきゃ舐められるんです。」
短剣を直した木箱を持ちながらイブキは淡々と答える。
「ご、ご尤もです……。」
「別に数三までやれとは言ってないんですから頑張って下さい。」
「はぁい……。」
「何ですかその間の抜けた返事。」
「はいっ!」
「宜しい。書類は回しておいたので確認しておいて下さいね。」
「はいっ!」
緑珠は柱に寄り掛かりながらその様子を見る。何だか親子みたいだ。
「お疲れ様。」
「言う程の事はしていませんよ。」
「教えるの上手いじゃない。」
「それはどうも。」
素っ気ないイブキの反応に、緑珠は返した。
「どうしてそんなにツれないのよ。恐ろしくあの子の武術が上手?」
「違います。……僕は。僕は、努力をして武術を勉強した事が無いものですから。」
彼女の脳裏に彼が『人外だった』という事実が、ありありと映し出される。
「じゃああんなに教えるのが上手なのは?」
「あの子の為に、覚えました。」
「……そう。」
満足気に呟いた緑珠のほっぺたを、イブキはむにむにと掴む。
「何ですか。そんなに僕が悩んでるのが嬉しいですか。」
「すねにゃいでよぉ。」
「拗ねてません。」
「すにょくふゅふゅくしょうよ?」
むにむにとほっぺたを掴まれている緑珠が、リリシアンの視界に入る。
「なっ……!?こ、この国の王と宰相は……。」
やる事が無かったから散歩していたら、驚愕の風景が目に入ってしまった。固まっていたリリシアンの近くから声が聞こえる。
「あれ気にしちゃ負けですよ。何時もこんな感じなので。慣れてくると癒しです。」
「……貴方は?」
「お初にお目にかかります、ご婦人。僕は副宰相……あの方々のお手伝いをしているハニンシャ・月亮=メーヌリスと言います。」
ちょっと付け加えて、
「ま、副宰相と言えども、毎日馬鹿みたいに勉強してるだけなんですけどね……仕事もほぼほぼ宰相様がやってるし……。」
「となると……私の、先輩?」
「そうなりますが、僕は貴女より年下なので。敬語は無しでお願いします。……それでご婦人、お名前は?」
「あぁ、済みませ……ごめんなさい、私の名前はリリシアンっていうの。リリシアン・フォン=エクゼラダート。」
「……名の知れた領主のお嬢様でしたか。あの人もまぁとんでもないことするなぁ……。」
「知ってるのね。」
「えぇ。あの性格がわる……こほん。宰相様から異常な量の勉強渡されて、その中にありました。いやぁ、まさか会うなんて。これからどうぞ宜しくお願いします。」
「あぁいえ、こちらこそ。」
ハニンシャの書類に溢れた目は、リリシアンの持っている茶封筒に向かう。
「おや、それは?」
「あぁ、これはですね……。」
と、先程の敬語の制約を思いっ切り忘れて、リリシアンは見せる。
「メイド長にさせて貰えまして。教科書の様な物を作って欲しいって頼まれたの。その原本、みたいなの、で良いんですかね。」
「お休みを貰っていなかったんですか……?」
「貰ってたんですけど、やること無くて暇だったから。やってたの。こんなのでいいのか分かんないんですけど。」
「で、見せようと思ったらアレだったと。」
苦笑したハニンシャに、リリシアンも肩を竦める。
「そうです。という訳で押し付けて来ようと思います。」
「ふふっ……。ご武運を。それでは僕はこれで。」
ハニンシャの声を通り過ぎて、緑珠の傍へと寄る。まだほっぺたをもにゅもにゅされていた。
「陛下。」
「あっ、リリー。いぶき、むにゅむにゅやめて。」
「……。」
仕方なさそぉうに、もにゅもにゅされる手が止まる。滅茶苦茶触り心地が良さそうだ。
「……あの、そのほっぺた、」
「ダメです。緑珠様のほっぺたは僕のモノです。」
「その前に私のモノなのだけれど……まぁいいわ、御用は?」
リリシアンは茶封筒を差し出す。
「これです。仰っていた教科書の原案をお持ち致しました。」
「……えっ、もう?お、おや、おやすみは……!?」
「お休みが暇だったんですよ。だから書いちゃいました。」
「休んでてくれて良かったのに……!」
茶封筒を受け取って中を幾枚か確認する。
「申し分の無い出来だわ……。あと私がこの国の国民性に合わせて少し改変するだけね……。」
「お褒めに預かり光栄です。」
「褒めざるを得ないわよ、これ……。」
「それだけですので、私は戻ります。」
「えぇ、有難う。お疲れ様。」
一礼して去って行くリリシアンを見ながら、緑珠はイブキへと視線を移した。
「良い仕事するじゃない。あの子。良い子を見つけて来てくれたわね。」
「造作もありません。」
「造作も無い事をもう一つ頼むのだけれど、構わない?」
「……内容によりますが。」
詰まっている宰相に、緑珠は続ける。
「貴方のお友達を呼んで欲しいの。」
「えぇ……。」
明らかに嫌そうな顔だ。そんなに仲が悪かったのだろうか。
「嫌なの?」
「嫌では、ありませんが……。」
「でも顔は凄く嫌そうよ。」
「……呼びますよ。」
「納得しないままで呼ばせるのは嫌よ。」
渋々イブキは口を開く。
「別に。ただ片割れが調子に乗りそうだなぁって。それだけです。」
「ならそんな嫌そうな顔しないの。お友達が来てくれるのよ。寂しくなくなるわ。」
宥める様に言った緑珠に、イブキは押し問答を始める。
「僕は緑珠様が居れば寂しくないです。」
「私に相談出来ない事も相談出来るのよ?」
「貴女に隠し事は出来ません。」
「一緒に飲み会も行けるし。」
「貴女が居ないと僕は酔えないんです。」
「……純粋に呼びたくないだけ?」
「だって貴女、直ぐに誰とも仲良くなるじゃないですか。」
要するに。この目の前で子供の様にむくっつれている宰相の心の内は嫉妬という訳か。
「……妬いてるのね?」
「はい。滅茶苦茶妬きます。僕が軍部も触れば良いじゃないですか。それくらい出来ます。」
予想以上に素直だった。呼吸する様に妬いている。
「私は貴方の実力を甘く見ている訳じゃないのよ。全部自分で抱えると結局全部ダメになるの。」
「……むぅ。」
「大人しく言う事を聞いてくれるわね?」
「……はい。」
じゃあ呼ぶ事にします、と完全に不可解そうな声を聞きながら、緑珠は執務室に急ぐ。そこには先客が居た。
「やぁ。元気にしてたかい?」
「そっちこそ。真理は休めた?」
「もちろん。お休み貰ったからね。で、これがお休みの対価。」
真理が広げた地図には周辺の部族の関係地図があった。
空に浮かぶ国と言えど、決まった場所を浮遊するだけであって、本質は地にある国と変わらない。
「厄介なのが居るんだよね……。」
「何て国なの?」
「匈奴。騎馬民族だよ。御稜威に何度も侵略してる。その度に麗羅が返り討ちにしてたんだ。十年前は討伐隊も出来てね。また盛り返して来てるみたい。」
「はー……。これは軍事力が必要不可欠になりそうね……。」
執務室の椅子に深く腰掛けながら、緑珠は呟くように言う。
「戦争をする武力よりも、戦争をしない武力が必要だと思うの。だから兵部省が欲しいのよ。」
「間違って無いと思うよ。大きな力は使いようによって変わるものだからね。」
「そう言ってくれて嬉しいわ。……戦争をしない為にも、私が強くならなきゃね。」
地図を見ながら、女帝は続ける。
「地上の土地に直轄地が欲しいのよ。直轄地があれば、物がスムーズに運べるし……。」
「郵送業の事は?」
「モアに頼んでテスト運用をしてもらってるわ。今の所問題は無いって。」
「じゃあちょっと一息つけるね。」
「そうなの。色々大変だけど、良く頑張ってるわ、私……。」
んー、と緑珠は伸びる。
「此処の執務室は静かで良いね。」
「でしょう?中々落ち着くから好きなのよね。」
「寝ちゃいそうになるくらいだね。」
「事実寝ちゃってる時もあるからイブキには言わないで頂戴よ。」
「あぁでも、これから煩くなるかもよ。」
ほんの先を見通した紫色の瞳が妖しく光る。
「それってどういう……?」
バタバタという足音が、執務室の前に止まって、
波乱の幕が上がったり緑珠様がてんやわんやしたりするまたまた物語が動きそうなお話になったりする話。