ラプラスの魔物 千年怪奇譚 111 水場の水子
最近見てないあの人が何やかんやしたりイブキがなんやかんや泣いたりそれを緑珠が宥めたりするなんやかんやなお話。
「……何、これ。」
目の前の景色を見詰めて、見るべきものだった埃を被ったお風呂を見る為の双眸で、緑珠は全く別の物を見ていた。
水だ。水があるのだ。まるでゼリーの様に、お風呂の入口にピッタリと張り付いている。脱衣所に零れ落ちるまで、あと数秒と言った所だ。
「……は?いや、なん、きゃ、いやぁっ!」
ざばぁっ、と水が緑珠の脚を掬う。助けてと声を上げる前に、開けた口に水が入り込む。扉を叩くがそれは岩になる。
脱衣所だった場所は池に変わり果てたらしい。水面を見上げると緑が見える。
こぽこぽと空気が踊る音を耳で聴きながら、緑珠は一生懸命に藻掻く。
「ぷはっ、はーっ、はー、なに、なにここ……。」
必死にもがいてもがき尽くして、池からはい出る。はい出た最初の一言は。
「わたし、ただおふろに入りたかっただけなのに、ひくっ、うぅ、いぶき、ちゃんり……どこ、どこぉ……。」
ひっくひっく、と嗚咽を上げながら緑珠は立ち上がると、目の前に石畳が見える。階段だ。
「くしゅんっ……さむい……。」
べったりと冷水が身体に張り付き、しんしんと寒い森に雨が降り注ぐ。
ぺちゃ、ぺちゃ、と石畳を進むと、古ぼけた鳥居が望める。
「じん、じゃ……?とにかく何でも良いから、さむいし……。」
ばしゃ、ばしゃ、と足を進めて行く。寒さで足の感覚は無くなっていく。石畳を抜けて、本堂が見えるはずだ。
【あぁ、やっと来て下さったのですね!】
緑珠が聞いたのは、その声だった。
「い、いざなみちゃん……?」
紫の番傘を差して、彼女の事をじっ、と見詰めている。それはもう、きらきらした瞳で。
【遅いですわ。私待ちくたびれて仕舞いましたわよ。あぁもうこんなに冷えて!ほら、早く本堂に入って下さい!】
「いざなみちゃん、ちょっと待って、何でそんなに他人行儀な……。」
ぐっ、と抗えないような力で緑珠の手首を掴むと、良く言えば嬉しそうに細めた瞳、悪く言えば、あるがままに言えば、焦点が全く合っていない瞳を、彼女に向けて、一言。
【さぁイザナギ様!沢山お話をしましょうね!】
「ちが、いざなみちゃん、私イザナギ様じゃ……!」
緑珠の声なんて全く届いていない。とにかく温めてくれるのなら御の字だ。言われるがまま、本堂に連れてこられる。
【布巾ですよ。この布巾はですね、この間友に譲って頂いたのです。ほら、直ぐに乾くでしょう?】
あぁでも、身体を這う手は暖かい。とても相手の事を思っている手だ。
【眠いのですか?イザナギ様。】
「だから、私はイザナギ様じゃ……。」
言い終わる前に抱き締められる。しかし、頭上から降ってくる声は優しく、暖かいものだった。
【……ずっとずっと、お会いしとうございました……。イザナギ様、イザナギ様……。】
そっ、と頬に触れると、目の焦点が完全に会っていないイザナミは、嬉しそうに目を細める。
【あぁ……触れて頂けるなんて、いつぶりでしょう。愛おしい御方。】
「緑珠様!」
イザナミの声の奥から、案じる愛おしい声が聞こえる。呼んだ声だ。
しかしイザナミは全く聞こえていないらしく、ぎゅうっ、と緑珠を抱き締めている。その腕の中で、彼女は言った。
「イブキ。控えていなさい。」
その言葉を聞いて、イブキが控えるのが障子に映る影で分かる。
「イザナミちゃ……イザナミ。」
【はいはい、何でしょう?】
嬉しそうに声を上げるイザナミに、緑珠は告げた。成る可く知らない口調を似せて。知らない声色を寄せて。
「私は、帰る。」
何を、と言った目が、徐々に『緑珠』を捉える。
「……帰るわね、イザナミちゃん。」
沈黙が訪れて、悲しそうな目が降り注ぐ。
【…………ごめんなさい。どうしても会いたくて、悲しくて、辛くて……。結界が不安定になってたのね、ごめんなさい、ごめんなさい……。】
嗚咽一つも上げず涙を零すイザナミちゃんに、緑珠は言った。
「イザナミちゃん。辛かったら、話くらいは聞けるから。一緒に居れるから。ね。帰ろう?」
【有難う、有難うね、緑珠……。】
ぽたぽたと零れた涙を拭って、イザナミちゃんは言った。
【……先に帰っててね。直ぐに行くわね。ごめんなさいね、まだ気持ちの整理が……。】
「うんうん。待ってるからね。今はね、妖探しをしているの。」
【妖探し……また面白そうな事をしているのね。何を探しているの?】
慈愛のこもった笑みを見せるイザナミちゃん。それに答えるのが誠意だと緑珠は言った。
「それがよく分からないの。亡国荒らしの黒い獣の妖怪で……狼の様な、凄く早い妖怪なのだけれど……。」
【あぁ、それは……『黒眚』ね。】
「シイ?」
疑問ごもっともな言葉だ。イザナミちゃんは頷いて、簡単に説明する。
【凶兆の前触れで、亡国の兆し。良くない妖怪ね。倭国にも出たわ。懐かしい。】
でも、とイザナミちゃんは首を傾げる。
【あくまでもあの妖怪は凶兆の前触れであって、もう亡国には用は無いはずなのに……。】
「何か探してるみたいなんだって。花ノ宮公女が言ってたの。」
その言葉で納得したのか、彼女は緑珠の帰りを催促する。
【……ふぅん。なるほど、ね。】
「え?何か分かったの!」
【さ、さっさ帰るのよ。従者が外でお待ちだわ。】
「え、ちょ、いざなみちゃん……。」
ぐいぐいと本堂から緑珠を押し出すと、イブキが控えている。じろり、と疎ましいそうに見詰めている。
「……イザナミ女史、貴女何したんですか……。」
【さっさと帰んなさい。私はまた行くからね。安心しなさいね。】
「来なくて良いですよ。」
【じゃあ言い換えるわ。貴方が緑珠に手を出さないように行くから。】
意地悪く言い換えたイザナミちゃんは、目の前の青い結界を指さす。
【また水を介してお戻りなさい。人の子が神の家に来るのは危ないからね。】
「……私達、人の子じゃないわ。」
緑珠の不思議に言った言葉に、イザナミちゃんはくすくすと微笑んだ。
【私から見れば、貴方達なんてまだまだ人の子よ。】
妙に納得した表情を緑珠は作ると、イブキの手を掴んで、イザナミちゃんに言葉を。
「それじゃあね!イザナミちゃん!また会いましょう!」
にこにこ笑いながら手を振るイザナミちゃんを最後に、そのまま緑珠とイブキは結界を突っ切る。
冷たい水を越えて、温くなって、タイルが足元について、水面が浅くなった時には、もう。
「ぷはぁっ……。」
ぬっくぬっくの、楽しみなお風呂に使っていた。
「……ふふ。何だか冒険したみたいね?」
「現在進行形で冒険してます。」
ぴちょん、ぴちょん。と、耳に優しい雫が零れる音がする。
そうだ。もうお風呂の湯船に浸かっているのだ。ならもう、この手を使えるのは今しかない。
「ねぇ緑珠様。もうお風呂浸かっちゃってるんですから一緒に」
良く言えばキラキラした目を、悪く言えば下心しか無い目を緑珠は一蹴する。
「入らないわよ。」
「意地悪」
「言ってないから。」
「……つれないですねぇ。」
むう、とイブキは態とらしく頬を膨らませる。緑珠はその頬を伸ばさんが如く、みょーんみょーん、とイブキの頬を伸ばした。
「つれなくない。……水も滴る良い男って、貴方みたいな事を言うのかしらね。黙ってたらもっと良いのに。」
それを聞いて、伊吹は嬉しそうに目を細める。
「黙ってなくても?」
こつん、と額を合わせて、緑珠は一言。
「格好良いわ。大好きよ。愛してるわ。貴方の事も、皆の事も。」
「……のぼせ、ました。」
ずず、と後退りをする彼に、淡々と言い放った。
「そ。じゃあ早く上がんなさい。倒れるわよ。」
「は、い……。」
イブキはすくっ、と立ち上がると、びしょびしょになった髪の毛と服をそのままに、俯きながら湯船を後にする。最後に一言。
「緑珠様、馬鹿です。」
「はー?勝手に言ってなさいな。」
ガタン、と閉まったお風呂の扉を見詰めながら、そしてお風呂の支度をしながら、緑珠は言った。
「……全く初心で可愛らしいわねぇ。」
「やっぱりお風呂は最高だわ。ぬくぬくで、毛布とはまた違う夢と希望が詰まってるわ……。」
「暖かい物は夢がありますね。」
「暖かい物も良いけれど、月面上は寒いねぇ……。」
ボロくなった暖炉の赤々とした火に手を添えながら、真理は言った。
「月面は地上に比べて寒いからねー。春なんて一ヶ月遅れで来ちゃうもの。」
三人は大きな部屋にある暖炉に集まっていた。緑珠は髪を乾かされている。
「乾かせたー?」
「乾かせましたよ。」
ふわ、と口元に手を当てて、緑珠はうんと伸びた。
「寝るわ……眠い……。」
「ん。お休みなさい、緑珠。」
「おやすみねぇ、真理……。」
まるで先程建ったかのような綺麗な廊下を歩く。それは勿論、真理の魔法のお陰だ。
「明日も頑張らなくちゃね……。ふかふかのべっどはみんなの夢と希望だわ……。」
ぼふん、と思いっ切り布団に転がると、背後から悲痛な声が聞こえる。
「ね、ねぇ?緑珠様、僕どうすれば良いんですか、ねぇ……。」
「イブキ?」
「僕、やっぱり欲しくて、自分だけのモノが欲しくて、ずっとずっと、人じゃない方に逃げてたのに、遅かったみたいなんです、ねぇ、りょくしゅさまぁ……。」
まるでお菓子を強請る幼い子の様に、伊吹は涙を零しながら独白を続ける。
「……。」
「りょくしゅさまが、ほしく、て、ほしくてたまらないんです、こわれちゃいそうです、どうすればよいんです、か、ねぇ、こんなの恋なんかじゃないです、いやだ、りょくしゅさま、たすけて……!」
「……おいで。抱き締めてあげましょう。」
緑珠が大きく手を広げると、伊吹は駆け寄った。ぎゅう、と抱き締めてやると、背中に爪が立てられるくらいきつく抱きしめ返されるのが分かる。
「こ、こわい、こわいです、ぼく……。」
「怖くない、怖くない。私が抱き締めているでしょう?」
「ぼく、こわくて、」
「えぇ。」
優しく緑珠が答えると、伊吹は少し安心したらしい、どろどろとした気持ちが流れていく。
「あなたが欲しくてたまらないんです、でもそんな事をしてしまえば、僕は堕ちてしまう、いやだ、まだ人で、あなたのそばで、きずつけたくなんて、ないのに……。」
「……よしよし。良い子、良い子。」
「やだ、やめてください、お願いします……。」
抱きしめ返そうともっと力を強くすると、押し返されるのが分かる。それをやんわりと静止して、緑珠は優しく続ける。
「そうやって手を回して?そう。良い子ね。私の目だけを見るのよ。泣かないで。怖くない怖くない。」
「いやだ、やだ、やだ、りょくしりあ、さま……。」
あんまり怖がるので抱き寄せてしまった。ぎゅう、と手に掴まれるのと、暖かい涙だけが服を濡らす。
「私の鼓動だけを聞いて、私だけを感じなさい。……ふふ。良い子、良い子。私が抱くのは良い子だけだからね。貴方は良い子よ。可愛い可愛い、私の従者。」
「りょくしりあ、さま、ひめさま、ひめさま、ねぇ、ひめさまぁっ……!」
えぐえぐ、と嗚咽が大きくなる。何か怖い物でも見たのだろうか。離れないのに。大丈夫だと言っているのに。永遠を約束したのに。
「私の名前を呼びなさい。私も貴方の名前を呼ぶわ。伊吹。光遷院 伊吹。私に愛された可愛い子。愛しい子。」
「……あ、う……ひっ……く……。」
突然嗚咽が止んで、掴んでいた手も緩む。ただただ、静かに。滂沱している。
「貴方を抱くのは私だけ。私を抱くのは貴方だけよ。素直で可愛い子。愛しい子。大好きな人。何時だって私は、貴方の傍に居るわ。貴方が居れば、其処に私は居るのだからね?」
「……は、い……。」
「戻った?」
「……こわい、です。ねぇどこにもいかないで?ぼくを、一人にしないで、ください……。」
すがりついたまま、伊吹は緑珠を見詰める。どろどろの瞳には、はっきりと姿は映らない。
「……私の名前を呼びなさい。敬称を抜いて。」
「おそれおおい、です。」
「今更私を監禁だのなんだのしておいて、それは無いでしょ?」
気まずそうに、それでもはっきりと。
「……りょく、しゅ。」
「もっと詰まらずに言いなさい。」
「りょくしゅ。緑珠。」
それを聞いて緑珠はよしよしと伊吹の頭を撫でる。
「そうよ。この名前は貴方が一番最初に呼んでくれた名前。私の名は、貴方と共にある。貴方は一人じゃないわ。」
暫くの間の後、とろん、とした声が続く。
「……ねむいです。」
「泣き疲れるだなんて……貴方子供?」
「まだまだ子供です。」
よしよしと撫で続けると、イブキは緑珠を押し倒す。
「ねましょう。」
「私は寝ても良いけれど、貴方は駄目でしょう。まだ色々しなくちゃいけない事があるんじゃない?」
「……やだなぁ。貴女の傍から、一秒も離れたくないのに。」
名残惜しそうにその場を離れると、緑珠は寝転びながら言った。
「明日も会えるわ。心配しないで。私はずっと、貴方達と一緒に居るから。怖くなったらおいでなさい。私も怖くなったら行くわ。」
こくん、と静かに頷いたのが見えて、安堵の笑みを零す緑珠。そして扉が閉める前に、彼は言った。
「お休みなさい。良い夢を。」
「えぇ、貴方こそ。」
バタンと扉は閉じられ、その音を最後に緑珠は目を閉じた。
次回予告!
珍しく緑珠様が自発的に起き上がってなんかしたり真理とお話したりイザナミちゃんを窘めたりするお話。