ラプラスの魔物 千年怪奇譚 104 目覚めと旅立ち
緑珠がやっと眠りから覚めたりもう一人の彼女と出会ったりイブキが泣いたりしたするそんなお話。
「お早う御座います、緑珠様。」
あぁ、もう寝飽きた。起きれそうだ、と緑珠は言葉を紡ぐ。
「ん……おはよ……。」
「おやおや、今日は愚図らないんですね。」
欠伸をしながら、緑珠は答えた。
「そりゃあね……ふわぁ……。」
眠そうな緑珠の気配が部屋の中に広がる。ぺたぺたと足の音を奏でながら、洗面台へと向かう。
「あぁ、緑珠。起きれたんだね。」
「えぇ……。」
緑珠はきゅっ、と蛇口を捻る。すると、冷たい水が流れ出した。
手に取って顔を洗い、ふかふかの石鹸の匂いがするタオルでぽんぽんと顔を拭く。
緑珠は顔を上げると何時も通りの自分の顔が見えた。後ろの自分も眠そうだ。
……後ろの自分も眠そうだ?
「……ひぃっ!?い、いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁイブキぃぃぃぃぃちゃんりぃぃぃぃぃぃぃ!」
洗面台からとんでもない悲鳴が聞こえる。虫でも出たのだろうか。イブキと真理が慌ててそこまで飛ぶと。
「どうされました、緑珠様って……あらら……。」
尻もちを付いた緑珠の前に、瓜二つの女性が同じく同じ服を着て尻もちを付いて頭を摩っている。
【うるっさいわねぇ……何なのこのおん……な……嘘でしょ……?】
「いっいっいっいっ伊吹!この人誰なの!」
びしっ、と緑珠はもう一人の彼女に指をさした。
【全くよ生意気皇子。これ、どういうことなの?緑珠の意識が飛んだから出て来たのに……。】
慌てて駆けつけた真理と、伊吹の声が見事に重なる。
「「……修羅場だ……。」」
と。
「イブキ!真理!これどういうこと!顔を洗っていたら、急に私と同じ女の人が……!」
【アンタほんとにしっかりしてよね。間違えて出ちゃったじゃない。】
「えーっと、御二方、どうか落ち着いて……視線が痛いな……。」
緑珠ともう一人の彼女の視線が、全てイブキに向けられてしまう形で三人は座った。真理はイブキの隣に座っている。
「目、瞑って話せば良いんじゃない?」
「そうですね。真理にしては良いことを言います。」
「僕にしてはって何?」
真理の提案に、イブキは目を瞑った。しかし、それを許す二人ではない。
「駄目よ、イブキ。ちゃんと目を見て話しなさい!」
【そうよぉ、全く困ってしまうわ!】
「うぅ……。」
渋々目を開けると、イブキは少しだけ俯いて話を始めた。
「ええっと、ですね……。緑珠様、この方は貴女の魂にくっついていた……。」
【アンタ話すの下手糞ね。私が話すわ。】
「そうして頂けると嬉しいです……。」
イブキに変わって、もう一人の彼女が話をし始める。
【ええっと。初めまして、よね。私は貴女の魂にくっついていた者なの。】
「……へ、へぇ……。」
緑珠は何とも言えない返答をしながら、話を聞き続ける。
【厳密に言うと、憑いていたのは私の良心。貴女の恨み辛みに反応してね。だからここ数百年怒りっぽかったのか……閻羅にも謝らなくちゃね……。】
そして、彼女は胸に手を当てて核心を述べた。
【貴女を依り代としたのは、この私。本当はそのまま身体を乗っ取るつもりだったのだけれど……。】
目の前の緑珠の姿形と、全く一緒の己の身体を見て。
【……ま。霊体もぼろかったし。新しく出来たのが何よりかな。】
「いや、あの……。」
緑珠は手を差し出して、
「貴女の、お名前は……。」
【あぁ、そうね。初めましてだものね。私は……。】
そのままの体制で、彼女は──イザナミは、言った。
【私の名前は伊邪那美命。かの倭国を創りし、初代お姫様よ。……貴女と一緒ね。】
それを聞いて、緑珠は大きく目を見開いた。
「倭国の、お姫様……死の、神様……。」
「だから僕は死後も緑珠様に顔が上がらないんですよね……。」
イブキはぽそりと呟く。それを無視して、イザナミは続ける。
【これから宜しくね。緑珠。】
「え、えぇ……。ねぇイブキと真理。貴方達のその口ぶり、知ってたの……?」
「……ま、まぁ……そう、ですね……。」
「知ってたよ。」
何で言ってくれなかったの。とは言えなかった。きっと理由があったのだ。責めるつもりは毛頭ない。けど、でも、何だか。
「……っ……。」
何だか、一人ぼっちみたいで。守ってくれているのに、何処か寂しさが残ってしまう。
【……緑珠。私がね。黙っててっていったのよ。】
「……違うの。私が、大人気ないだけ。」
少しだけ寂しい涙を拭って、緑珠はイザナミに視線を戻した。
【で、結局私のことはなんて呼ぶのよ。】
話題を逸らしたイザナミの言葉に、緑珠は乗っかった。そしてイブキに視線を移す。
「イブキはなんて呼んでるの?」
「伊邪那美女史、と。」
彼らしい呼び方だ。となれば、真理はきっとこう呼ぶだろう。
「真理は?」
「僕は伊邪那美かなぁ。」
ふむ。やっぱりその呼び方か。それじゃあ……私は……。
【じゃあ緑珠。貴女はなんて呼ぶの?呼び捨てと女史付けはアウトよ。被ってるから。あと姫とか様とかダルいから止めてね。】
「注文が多いわね……。」
姫で終わらそうとしていた魂胆が見え透いていたらしい。イザナミはそのまま自慢げに言った。
【神様は往々にしてわがままなのよ。】
「様も姫もダメとなると、ねぇ……。」
沈黙が染み渡ったあと。緑珠の一言が響いた。
「イザナミちゃん、とか?」
「イザナミちゃん、ですか。」
「イザナミちゃん、ねぇ。」
三人が首を傾げると、イザナミもそれにつられて首を傾げる。
【イザナミちゃん……。ふぅん。】
思案に耽っていたイザナミの顔が、満面の笑みに変わる。
【気に入ったわ!緑珠!これからは私のことをイザナミちゃんと呼びなさい!】
イザナミ──もといイザナミちゃんは、くるん、とその場で一つ回る。
【あー。やっと私の服に着替えられた。きつかったのよね。あの服。特に胸囲が。】
するとあの紫の着物に変わった。緑珠は恨み言をぽそりと呟いた。
「うっうっ……悪かったわねちっちゃくて……。」
【いや別にあんたが小さい訳じゃないのよ。私が大きいだけ。】
「角が立つことしか言わないわね……。」
それしか言い返せない。悔しい、と思っていたら予想よりも斜め上を行く言葉が飛んで来た。
「大丈夫ですよ緑珠様。貴女のスリーサイズを知っている僕が保証します。」
「嬉しくない……。」
ぐすんぐすんと呻いている緑珠に、イザナミちゃんは耳打ちする。
【……って。どう?】
「……中々いいわね。それ。辛いって言ってたし。」
二人は同時に悪戯っぽく笑うと、これまた同時に手と手を合わせてイブキに叫んだ。
「【イブキ!】」
「……あのですね、目眩がするのでやめてもらっても良いですか。」
軽くその行動に面食らった彼を置いて、緑珠が口火を切った。
「どうして?良いじゃない。」
【好きな『私』が二人も居るのよ?】
「それが無理なんですってば。しかも片方違うでしょう。」
ばっさりと言い切ったイブキに便乗して、真理は宥める様に彼女達へと告げた。
「ほらほらお二人さん、伊吹君を虐めるのもそこまでにしなさい。」
「【別に虐めてなんかいないわよ?】」
同時に声が重なる。
「……ごめん、僕も目眩が……。」
「じゃあ緑珠様の姿から変えて下さったら良いです。流石に緑珠様が二人は胃が痛い……。」
イブキの言葉に緑珠は頬を膨らませた。
「ちょっとそれどういう意味よ?」
【そうね……じゃあ、神代の頃の姿にでもなろうかしら。中々美人なのよ?】
イザナミちゃんは一つの提案を口にする。しかしイブキは疑問を投げかけた。
「ちょっと待ってください。それ黄泉比良坂通る前ですか、通った後ですか。」
【勿論通った後だけど?】
通った後。即ちそれは──
「駄目じゃない!身体腐ってるわよ!?」
【中々綺麗な死体だったのに……。】
「死体の時点で色々アウトでしょ!」
緑珠のツッコミに、イブキが畳み掛ける。
「そう言うのを人は喪屍と呼ぶんですよ。」
少しの沈黙の後、イザナミちゃんは笑って言った。
【あはは!こんなに楽しいのはイザナギ様と一緒に国を創ったぶりくらいだわ!】
「随分と遡りますね……。」
【うーん……でも姿を変える、ねぇ。】
話が飛躍したイザナミちゃんを前に、緑珠は一つの化粧品を出した。
「ねぇイザナミちゃん。これ、塗ってみない?」
【あら。紅じゃない。】
筆と小さな器を緑珠は取り出すと、にこっ、と微笑んで彼女へと言った。
「お化粧。してあげる。得意なのよ。顔に絵も描けるの。」
【あらそう。なら、頼んでみようかしらね……。】
「あんまり凝ったのは出来ないわよ。瑞雲が描ける程度なの。」
緑珠はイザナミちゃんを化粧台の前に座らせると、紅を溶いて筆に馴染ませる。
「はーい。ちょっと目、瞑っててね……。」
【ん……。】
それを見たへんた……イブキは一言。
「やばい。百合も良いかもしれない。」
「落ち着いて伊吹君。」
「ダメですこれ何かに目覚めそうです。」
「マジで落ち着いて。」
「昔から緑珠様は別に攻めでも受けでも全然良かったんですけど、」
「もう頼むから落ち着いて。」
「これは良いかもしれない……。」
「大丈夫か。寝不足か?寝るか?」
「えっ、無理……。」
鼻血が止まらなくなったのを必死に抑えながら、その様子をイブキは見つめ続ける。
「はい出来た!目元に紅を引いてみたの。どう?」
【ふーん……中々センスが良いわね。……うん。良いと思うわ。ねぇこれ毎日してよ。】
「構わないけれど……。ねぇイブキ、これなら……。」
緑珠は目の前の惨事を見詰めて言った。
「……これ、どうしたの?」
「んー?ほっといて良いんじゃないかなー。」
「無理、無理です、しんど……。」
「緑珠!」
ガラッ、と扉を開けてモアが現れる。イザナミちゃんはさっ、と姿を消した。
「あぁ、モア。ごめんなさいね。報告が遅くなってしまって……。」
「いや!良い!気にすんな!目が覚めて良かったー!このままお前、死んじゃうんじゃないかと……。」
「うん。ちゃんと復活したわ。」
微笑んだ緑珠の顔を見て、モアは心底安心し切った声を出した。
「あー……良かった。うん。なら少し家でゆっくりした方が良い。明日には家に帰るんだよな。なら、」
「……ごめんね。心配かけて。」
緑珠の一言に、モアのにこにこ笑っていた顔が、涙で歪む。
「……どれ、だけ、心配したと……。」
「……ごめんなさいね。それしか、言えないけれど。」
静かに滴り落ち始めた涙をモアは拭った。
「帰ってきた時、お前ら、血まみれで……。魔法で治されているのを、隣で、ずっと、見てたから……。」
「心配してくれて、有難うね。」
また溢れ出した涙を拭うと、ニカリとモアは笑った。
「……ん。なら、早く家に帰れよ。待ってる人が居るんだろ。」
「えぇ。」
「……観光はまた今度、しような。」
「あー!待ってモア!僕も付いてく!」
じゃあな、と弱々しそうにモアは手を振ると、真理と共にその場所を去った。
次は自分の番だと、イブキは起き上がってぽん、と緑珠の肩に己の顎を乗せる。
「……左腕の傷は、残るそうですよ。」
「あらそう。それにしてもまだ痛むわねぇ。」
何だか鈍痛がする。筋肉痛の様であって、そうでない様な。不思議な痛みだ。
「……随分とあっけらかんとしてますね。」
「……何よ。『女の身体に傷を残した』っていうのがまだ根に持ってるの?」
くすくすと笑って緑珠はイブキへと返した。
「僕は、貴女に守られましたから。守り人なのに。」
寂しそうな表情をするイブキに、緑珠は振り返って言う。
「……あのねぇ、イブキ。私はね、女とか男とか傷を負うのに関係無いと思ってるの。私は貴方の身体に傷が残るのもイヤだから。」
「……貴女って、ほん、と、そういう人ですよねぇ……。」
暖かい雫が、ぽたぽたと緑珠の手に落ちた。声も出さずに涙を零しているイブキに、彼女は優しく拭った。
「あらあら、泣いてるのね。ふふふ、そうよ。私はそういう人なの。貴方達を庇って守れたこの傷なら、傷じゃなくて絆の証ってね。」
「……そう、ですか。」
彼は少しだけ顔を上げて、不服そうに。けれど何処か安心した表情で、笑った。
次回予告!
無事に家に帰って来たり緑珠が相変わらずとんでもないことをしたり絶対無理なのにイブキから逃げたりする話。