ラプラスの魔物 千年怪奇譚 5 後編の前編
「ほら、水と解毒薬だぞ。」
モアがイブキの居るテントに入り、おぼんの上に水と解毒薬を置いたものを近くに置いた。
「どうもすいません……流石にこんなに広範囲だと、隠し通すのもキツいので……。」
毒に犯された血肉を、手持ちの小刀で抉り取っているイブキを見ながら、モアは言った。
「……緑珠の為にも、絶対に死ぬなよ。少なくとも、犬死だけはするな。」
一瞬だけ、イブキは手を止める。
「……それはどうしてでしょうか?」
モアはイブキを心底莫迦にした様な言い方をする。
「お前は莫迦なのか?」
「ば、莫迦って……これでも一応学校では優秀な方だったんですけどね……。」
「そういう事じゃねぇよ。お前真性の莫迦だな。」
唖然としているイブキを見ながら、モアは胸を叩いた。
「もっとあるだろ。賢さってのは、勿論知恵もあるだろうが……やっぱり、人の気持ちだろうが。」
イブキは抉り取りすぎた肉をうんざりしながら見ると、モアに問う。
「何か……あったんですね。」
少し微笑みながら、モアは言った。
「なぁに……昔の話さ。まだ私が旅を始めた頃、国を一緒に出た男の幼馴染が居た。ソイツから色んなことを教わったよ。食料の分け方から、体調管理、果ては男の口説き方まで。ソイツは、私の守り人だった。」
イブキがそれを聞いて軽く笑った。だけど、とモアの表情が悲愴な物になる。
「ある日、アイツは死んだ。少し体調が悪い事に気付かず、私より何百倍、何千倍と強かったアイツが、不意打ちにあって死んだ。それだけは暫く信じられなかった。」
胡座をかきながらモアは言った。
「人間ってのは、案外壊れやすいらしい。私は暫く精神状態が安定せず、当り散らしたり……かと思えば突然優しくなったり……仲間はそんな私の為に、足を早めたり遅くしたりしてくれた。私の気狂いは治ると、信じてくれたんだ。」
何処か目を潤ませながら、モアは笑った。
「私もそんな仲間に答えなくちゃならないと、そう思った。治す為の極力の事はしたし、何でもした。夜、泣いていたある日の事だった。気付いたんだ。結局私は、我が身可愛さで泣いていただけだったんだって。最初はきっと、勿論悲しさもあったはずだが……だけど、そう気付いてからは早かった。自分を哀れむのをやめたんだ。」
すくっとモアは立ち上がってイブキに言った。
「ま、これは私の話だが……きっと緑珠は、お前が居なくなると、完全に狂うだろう。自分の中の糸がぷつんと切れて、繋げようと、頑張ろうとする度に壊れて行くだろうな。最後はバラバラになって、それでお終い。死ぬか生きるかは分からない。もしかしたら死ぬ事よりも恐ろしい事をするかもしれない。」
そう言えば、とモアはイブキを揶揄う。
「そうやって、自分が居なくなって、狂う事を望む酔狂が、この世に居ると聞くが……お前はどうだ?」
イブキは笑って肩を竦める。
「モアさん、わかって聞いているでしょう。」
「あはは、冗談だよ。冗談。本当に、世の中には色んな奴が居るなぁ……これだから旅は止められない。」
くすくすとモアは笑って、テントの夜の闇を見る。
「……来客だ。それじゃあ、私は此処で。ゆっくり休めよ。……まぁ、出来ないかも知れないが。」
その言葉の意味を、薄々理解した上でイブキは言った。
「本当に有難う御座いました。今度は、ちゃんと……怪我しない様に善処します。」
モアは笑ってその場を去った。入れ代わり立ち代わり緑珠がやってくる。
「イっブっキっー!この私が遊びに……え。ど、どうしたのよ、それ……。」
山になった紫色と黒っぽい壊死した肉を、緑珠は信じられないという瞳で見る。イブキが心底申し訳なさそうに笑う。
「もしかして……甘薯のジュースでもかけたの……?」
「それきっと黄色ですよね。」
「じゃあ葡萄……?」
「身が黄色ですよね。」
「それでは藍苺……?」
「紫色ですがそれは無いです。」
少し考えたあと、緑珠は笑った。
「冗談よ、冗談。毒に犯された肉を切り取ったんでしょう?……って、えぇぇぇぇ!?」
「自分で発見されて自分で吃驚してますね。」
「だ、大丈夫なの!イブキ!直ぐに解毒薬を……!」
「出してもらいました。」
イブキは緑珠に解毒薬をちらつかせる。緑珠は抉り取っていた短刀を手に取って言った。
「そうだ、いい事を考えたわ!」
「嫌な予感しかしません……。」
濡れた短刀を緑珠は首元へ持っていく。
「私と貴方の傷を、共有しましょう。」
「……緑珠様って、そんな趣味が」
「ある訳ないでしょう!?貴女が莫迦みたいに怪我するからよ!そんないたたまれない目で見ないでよ……。」
「あはは、緑珠様の悲しそうな顔って本当に可愛いですよね。」
「これだから貴方は……!そんな事を言っていたら、女の子が逃げちゃうわよ?」
「大丈夫ですよ。僕の笑顔がありますから。」
「……わぁお。」
緑珠は唖然としながらイブキに言った。
「……蜘蛛みたいね。引っかかった者を喰らう、みたいな。」
「昔は酒と髑髏が似合う男って言われてました。」
「……想像に難くないわ。……いやいや!話を戻すけど!」
緑珠はびしりとイブキに指を指す。
「だからね?貴方が怪我をしすぎるから、私と貴方の傷を共有するって言ったら、ちょっとは収まってくれるのかしらと思ってね?」
イブキは少し考えて言った。
「……それは嫌ですね。守っているのに傷つかれるのは困ります。」
「でしょう?妙案だと思わない?」
少しの沈黙のあと、イブキは言った。
「……良いでしょう。」
「やったぁ!」
「但し。」
イブキの止めた言葉に、緑珠がびくりと肩を震わせる。
「僕にもご褒美が無いと、ね?」
緑珠は暫く考え込んでいたが、直ぐに膝を打った。
「いい事を考えたわ!貴方が怪我をしなかったら、私はイブキに『好き』って言うの。どうかしら?」
「……りょ、緑珠様……それは……。」
「わぁ変な所で照れるイブキくんだー。」
緑珠は棒読みで顔を真っ赤にして照れているイブキを見る。
「良いわよ。初回限定特典で言ってあげるわ。」
緑珠はイブキの背に持たれると言った。
「私、貴方の事が大好きだわ。献立を考えてる横顔も格好良いし、人の事に一生懸命になっている貴方も好きよ。」
「あのですね……緑珠様……。」
イブキの一言をガン無視して緑珠は続ける。
「考え事をしている貴方も好きだわ。時折、怖い目をするのは良くないけど。敵相手に手加減をする貴方も好きよ。」
「……。」
イブキは真っ赤になって何も言えない。口を抑えている。
「りょくしゅさま……もう、やめてください……。」
「何時もの覇気が無いわね、イブキ。」
「煩いです……いい加減に怒りますよ……?」
「全然そんな口調に聞こえないけど、怒ったら怖そうだからお暇するわね。ゆっくりお休みなさい。」
緑珠が去っていく足音を聞いて、イブキは言った。
「……本当に、もう、なんと言うか……。」
所変わってイブキのテントの外、緑珠と真理が鉢合わせする。
「あ、真理。貴方に言いたい事があったのよ……。」
若干申し訳なさそうに緑珠は言った。
「本当にごめんなさいね。貴方に酷いことを言っちゃったわ。『私の言うことが聞けないの?』、だなんて……。」
真理は一瞬面食らった顔をすると、直ぐに笑った。
「ああ、それ?最初はびっくりしたけど、君の事だから上手くやると思ったよ。全然気にしてないから、ね?まぁ、長い間生きていると色んな事があるからねぇ。」
緑珠はきょとんとする。
「……貴方と私って……そんなに歳変わらないでしょう?」
真理は若干照れて言った。
「いやぁ、お恥ずかしながら軽く千歳は超えてるんだよねぇ……。」
緑珠は何も言わずざざっと匍匐逆進で真理の元を離れる。
「嘘……でしょ?いや、ちょっと待って。私は貴方の事を勝手に神様って決め付けているけど、違う可能性だってある訳なのよね。何か……そうだわ。無から何かを生み出す魔法なら、神しか出来ないって聞いたわ。」
真理が少し考えて言った。
「良いよ。何が欲しい?」
そうね、と緑珠はにたりと笑う。
「懐中時計を頂こうかしら。次の路銀にでもしましょう。金製の、最も上等な物を。」
真理は手をお椀にすると、その上に光り輝く線が重なり合って懐中時計が作られていく。
「これが……本物だわ!す、凄い……!」
「でしょう?ね、これで信用してくれた?」
「勿論、信用に値するわ。元からそうじゃないかってのは、思っていたけどね。」
緑珠が話を元に戻す。
「でも……貴方がそんなに年上だなんて、思ってもなかったわ!」
「あんまり堅苦しくしてほしくないんだよ。だから、年齢は言わないんだ。」
「なるほど、ねぇ。最もだわ。分からなくも無い……。」
「まぁ、僕は唯一『好きに生きて好きに死ねる』人間だからね。」
緑珠はぽかんとして真理を見る。
「ええっとね、好きな時に天界に逝って、好きな時に現し世へ戻る、という意味さ。」
「へぇ……凄いわね、神様って……。」
「えへへ、そうでしょう?」
さて、と真理は話題を転換した。
「さぁ、早くお休み?明日も早いんだからね。」
「そうね。寝るわ。モアにお話をしてからでもいいかしら。」
「……それで明日起きられるのかい?」
真理が緑珠の痛いところを突く。
「うっ……なるべく早く寝るわ。彼女もきっと明日も早いものね!お休みなさい、真理!良い夢を!」
真理の前から脱兎の如く緑珠が駆けていく。キャンプの少し離れた所に、モアは居た。
「モア!此処に居たのね!お礼が言いたかったの!助けに来てくれて、本当に有難う!」
モアは金髪を靡かせて緋色の瞳を緑珠に見せる。その瞳は、間違いなく濡れていた。
「ど、どうしたの?何か悲しい事が」
「いや、何でもないんだ。ただ、少し……。」
モアは緑珠の言葉を遮って呟く。
「私、何でか知らないんだが、幸せそうな奴を見ると涙が出るんだ。」
緑珠はモアの側に座る。
「そうやって涙が流れる時は、どんな気持ちなの?」
モアは唸ると、呟くように言った。
「ただ……そうだな、胸が暖かくなる、というのか……。」
「ぷっ……ふふ。」
緑珠は少し耐えきれなさそうに笑った。
「どうした?そんなに可笑しい事だったか?」
「あははっ!貴女って素晴らしい人ね!」
「……?」
きらきらと光る星を眺め、緑珠は続ける。
「それはきっと『祝福』よ!これからも、ずっとその幸せが続きますように、と言う、相手に対する幸せを祈る気持ちよ。」
モアは益々分からなくなってしまった様で、緑珠に説明を求める。
「ど、どういう事なんだ?それはいい事なのか?」
「勿論よ。とてもいい事だわ。」
モアは足元の砂を弄りながら言った。
「そんな気持ち、誰でも持っていると思うんだがなぁ……。」
緑珠はモアの発言に驚いて言った。
「いいえ!貴女のその気持ちは、死ぬまで持っていた方が良いわよ。」
人はね、と緑珠は続ける。
「羨望と嫉妬は紙一重の生き物だわ。相手の幸せを素直に喜べる人間なんて、早々いないもの。ましてや人の為に涙を流せるなど、居ないわよ。」
暗い瞳で緑珠は昔を思い出す。
「……昔、私の周りは……そうやって感情を織り交ぜ、履き違えた者達ばかりだったわ。」
「お前は……もしかして……。」
「ふふっ、気にしないでね。昔の話だもの。私は今、只の『緑珠』なのだから。」
ねぇ、と緑珠は話題を転換させる。
「貴女……って言うのも、他人行儀で嫌ね。モアって呼ぶわ。此処で何をしていたの?星読み?」
「あぁ。空を眺めるのはいい事だからな。何でも小さく見えてくる……って……どうし、」
「すー……すー……。」
緑珠はモアに持たれて爆睡している。
「えぇー……こんな所でよく寝れるな……いやいや、起きろ!風引くぞ!」
「すー……あぁっ!その光たるは筒の中光るおみそしる……!」
「寝言が謎過ぎる……。」
「あーあ、やっぱり寝ちゃったかー。」
モアはその声に顔を上げる。
「真理!済まない、助けてくれないか。此奴をテントまで運んでやって欲しい。」
「勿論だよ。僕等のお姫様だからね。」
「……やっぱりそうだったのか。」
「……気付いてたのかい?只の比喩表現として流してくれると思ったんだけどなぁ。」
モアは立ち上がって、緑珠を見ながら言った。
「私は昔から、人を見る目だけはある。……独特の気品の高さも、言葉遣いも、ましてや作法も。並の人間じゃあ出来ない……そうだな、貴族の教育を受けた風体だったからな。」
真理は緑珠を抱えると、モアの言葉を聞いた。
「良いか。真理。覚えておくといい。緑珠は、大器を成す人間だ。その事、努努忘れるな。忘れたら、承知しない。絶対に、忘れるな。」
緑珠にタオルケットを巻いて、真理はモアに問う。
「分かった。忘れないけど……どうして僕に、そんな事を言うんだい?」
少しだけ、ほんの少しだけ空が明るくなる。明けの明星の時間まで、あと少し。モアは振り返らずに言った。
「特に理由は無い。ただ、理不尽なこの世界を創った『神様』って奴に、一杯食わせたかっただけさ。どうしようもない、そんな奴に、ざまぁみろって言ってみたいんだよ。緑珠を通してな。」
真理は目を細めて振り返らないとモアの背中に言った。
「……どうして僕の正体が分かるの?どうしてなのかな。緑珠も伊吹君も、直ぐに分かっちゃったんだけど。ま、伊吹君は別としてさ。」