ラプラスの魔物 千年怪奇譚 87 鮮明な空気と恐怖※
伊吹がガチで緑珠にキレたり手を上げたり真理が分からなさに頭を抱えたり緑珠が罰を与えたりする話!
緑珠の目の前で、それは匕首によって。鮮血が飛ぶ。目の前の出来事に対して、彼女は悲鳴にならない悲鳴を上げた。
「あ、あ、あぁ……。」
「ご無事ですか。」
素っ気ない伊吹の一言に、緑珠は頷く事しか出来ない。
「う、ん……。イブキ、どうして血を……。」
血を被ったイブキは吐き捨てるように言った。
「こんな下衆の血が貴女に付くなんて、僕には耐え難いです。」
ぽろ、と恐怖で流れた緑珠の涙を、イブキは舐めとる。
「ひゃっ……。」
「そんな震えないで下さい。何も酷い事はしませんよ。」
そっ、と緑珠はイブキの頬を流れる彼自身の血液を触る。
「怪我、してる……。」
思い付いたようにイブキは緑珠を見ると、指に血をつけて緑珠の口へ持って行った。
「焦点あってませんね。ほら、吐き出しなさい。」
「あ、ふん、や、やめ、やだ、」
突っ込まれた手を必死に抜こうとして、緑珠はイブキの手を掴んだ。一瞬だけ手が緩む。そして、もっときつく。
「……聞こえなかったんですか?は や く !」
喉から掻き出す様にして、イブキの手が手前に出される。見事に口から錠剤が転がりこんできた。
「げぼっ……。」
「まだあるんですよね。」
緑珠はもう一度奥に向かおうとしている手を抑えようとするが、鬼の力に叶う訳もなく。
「や、ぁ、かはっ、がぁぁぁっ、や、だ!」
「出しなさい。……出せ!」
それとも、とイブキは緑珠の顎を掴んで、ずるりと手を抜いて、睨みつけて言った。
「腸を抉り出されるのが御所望で?」
「いっ……。」
げぼっ、と汚い音を立てて緑珠の口から錠剤が零れ落ちる。緑珠の目からはぽろぽろと涙が零れた。
「なんで、ひどい、いぶき、なんでこんな事を……。」
「飲 み す ぎ です。貴女、地獄でも見放されたいんですか。」
「……ううっ、うぇぇん、ひぐっ、いやだ、あ、やだ、おくすりが、やだやだぁ!何で!やだ!おくすり、おくすりがっ……!」
地面に散らばった汚い薬を拾って飲もうとする緑珠に、イブキの怒号が飛ぶ。
「緑 珠 様 !」
「ひぃっ!」
びくっ、と緑珠の肩が震える。ころん、ころん、と色とりどりの錠剤が落ちた。イブキは緑珠の首に手を伸ばす。
「あ、あっ、やだやめて殺さないで!」
「知ってますか。緑珠様。首を絞めてトぶ瞬間は、凄く気持ちが良いそうです。」
「や、やだ、やめっ……かはっ……!」
どうでも良い知識を広げて、イブキは緑珠の首元を一気に掴んだ。
「暫くそれで眠ると良い。貴女は少々おいたが過ぎた。」
「やぁっ……。」
緑珠は目を一瞬見開くと、直ぐに目を閉じて倒れる。イブキはそれを担いだ。
「……伊吹君。」
「…………おや真理。現場はこんな感じですよ。」
ちらり、とイブキは険しい表情で真理を見詰めた。そして、一つ。
「……幻滅しましたか。僕が主に無体を働く人間だと。」
けろりとして、真理は答えた。何の悪びれも無く、何の含みも無く。
「いいや。全く。僕は人の内面が見えるからね。別に?」
吐き捨てる様に、イブキは顔を顰めて言った。
「……気持ち悪いですよ。貴方。」
「かもしれないねぇ。」
「……なら、良いです。」
緑珠を担いだイブキは、真理を横切って歩いて行く。一瞬だけ、何かを言いたげに止まった。
「……貴方は些か、無機的過ぎます。」
それだけ言って、イブキはエルフィア邸へ向かった。どうせ聞こえないだろうと、否、聞こえる様に真理は大声を上げた。
「感情って難しいよ!」
振り返って、イブキは真理を見詰める。
「貴方は何につけ理由を求め過ぎている。……それが、貴方が『感情を難しい』と感じる理由です。」
しっとり、しっとり、と。静寂の中で、足音が遠ざかっていく。
空気が青く澄み渡った空間で緑珠は目を覚ました。
「……何で、誰も居ないの。」
起き上がって、一人で呟いた。ふわっふわの布団を抜けて、恐る恐る廊下を覗く。静寂がぽっかり口を開けてと笑っている。
「ひと、り、なの……?やだ、いぶきは?ちゃんりは?えるふぃあさまは?さいぞうは?」
一人なんて、誰もいないなんて。また王宮時代に逆戻りだ。足が震える。怖い。歩けない。立てない。耳元で誰かがぶつくさ喋っている声が聞こえる。
「やだ……!誰か居ないの?ねぇ私を一人にしないでよ。やだっ……。」
震える足をなんとか動かして、色々な部屋を見渡すのに誰も居ない。
「嫌だ嫌だ、一人にしないで……そうだ。」
緑珠はゆっくりと深呼吸をした。慣れてるんだ。寒いことは慣れてる。伊吹の言葉も、真理の見る世界も、全て夢で。大丈夫。ほら、直ぐに息が整った。
「……ふう。うん。少し取り乱しただけね。お姫様たるもの、何時だって完璧でいなきゃ……。」
そうだ、と緑珠はまた続ける。
「これ夢なの。また起きたら苦しい日々が待ってるわ。そうよ。全て起きたら忘れるの。寒いのは、慣れてる……。辛いのは、罵詈雑言を吐かれるのは、そう、私はお姫様なの。一人の女の子なんかじゃないわ……。そう。お姫様なのよ。」
震える足はもう無い。ちゃんと立ち上がれる。なのに、なのに、どうして。
「どうして……どして、涙が出るの……。」
辛くならない様に歯を食いしばる。大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫。
大丈夫、本当は全く大丈夫じゃなくて、本当は全く救われていなくて、本当は全く全く全く全く全く全く、素晴らしいお姫様じゃないけれど。
きっと、大丈夫。また歩ける。苦しくない。さぁ、塩っぱい唾を飲み込んで?涙なんて嘘よ。
「んっ……そう、私は、可憐なお姫様、で……。」
ふわ、と背中に何かがかかる。しっとりとした足音が背後にある。
「……毛布?」
背後に誰か居るのが分かる。でも振り返っちゃダメな気がするの。あぁ、そうだ。それで合ってるんだ。
私の選択が、私を正しくするんだ。
なら今すべきことは?寝ること?そうじゃないでしょ?
「うっ……えっ、うっ、うわぁぁぁぁぁぁん!」
ごめんなさいと謝ることはもう止めたんだ。じゃあ泣いてる時には何を言えば良いんだろう。
「……。」
ふっ、と背後から手が回される。病人が居るのに煙草を吸ってきたのね。悪い子よ。って言いたいのに。何時も通り、強がりで居たいのに。
「ええぇぇぇぇん!ううっ、うぇぇんっ、えぐ、はーっ、はーっ、ううっ、やだ、うぅっ、」
初めて地上に降りてきた時。世界はもっと灰色だった。冷たかった。硬かった。
知らなかった。
この世界がこんなに色があった事、美味しい物があった事、とろけるような世界がある事。水蜜桃の様に甘い事。それと。
思い出が彩やかに輝き続けること。
角砂糖が暖かい紅茶に溶けるように、私は世界を見たんだと。止める事が得意だった涙が、これ程直ぐに出るものだと。
「……ねっ、ねぇ……伊吹。」
背後の人間は──伊吹は、何も言わない。呼吸もしていないみたいだ。どんな表情かも分からない。
「もう、一人にしないでよね。……すごく、ふあん、だったから……。」
御意、と答えんばかりに、伊吹はぽんぽん、と緑珠の背中を叩いた。答えないという事は、言葉を紡がないという事は。
きっと此方を見るなという事なんだろう。
緑珠は背中の毛布を掴んで、部屋へと足を進める。涙はやっぱり止まらない。背後で扉が閉まった。
でももう、冷たくない。とても、あったかい。何だかとっても嬉しい。何が、なんて言えないけれど。
「……ふふ。」
幸せな涙を、緑珠は布団へ流していた。
その、扉の前で。
「……りょくしゅ、さま。」
きっともう聞こえないだろう、小さな声でイブキは言った。
「…………僕、躍起になっちゃいました。救いたくて。死んで欲しく、なくて。」
扉に凭れて。その言葉の返答は要らない。ただ、世界に聞いて欲しいだけだ。
「僕、死ぬのは怖くないんです。他人に死んで欲しくないなんて思った事も無かった。」
初めて感じた。生きている人間を見詰めるのも悪くない。
「でも、貴女は……まだ、あともう少しでも良いから、生きて欲しい。」
だから、そう。最後に言いたかった事を言うんだ。
「……貴女に、何時か『生きたい』と言われたら……どれだけ幸せでしょうか……。」
それから数時間経って。緑珠がまた目を覚ました時には、空は夕焼けに染まり、イブキがベットの傍で座っていた。頭だけ見える。
「……ごめんね。イブキ。薬を吐かせる真似しちゃって。汚かったでしょ。」
よしよし、と緑珠は見える頭を撫でると、その頭は擦り寄った。そして、懺悔を一つ。
「……貴女は僕を許しますね。気持ち悪いですよ。そんなの。変ですよ。」
緑珠の手がぴたりと止まる。だが、また動いた。その間にもイブキの悔恨の言葉が続く。
「ねえっ、緑珠様、お願いです。僕を軽蔑して下さい、汚いって言って下さい。変だって、救われないって、狂ってるって、お願いっ……お願いだから……!」
「……よしよし。」
何をも認めない緑珠に、イブキは悲しそうに、小さく呻いた。
「……嫌だ……お願いですから、お願いだから……!」
「可愛い、可愛い、私の伊吹。私を泣かせるなんて、そんな汚いマネはよして頂戴。ねぇ?」
少しだけ緑珠は起き上がって、掴まれている右手を見る。ぽたぽたと、水で濡れる感覚がある。
「………………ばかですよ、あなた……。」
「そう?」
くすくす、と緑珠は微笑んだ。まるで駄々を捏ねている子供だ。そういう所は可愛らしい。
「貴女が僕を軽蔑しないから、侮蔑しないからっ、僕はまた貴女に甘えてしまう、それじゃダメなんですよ、ねぇ分かって下さいよ!」
「……そうかもね。でも、私はちゃんと貴方に罰を与えているつもりよ。」
イブキは懇願する様に、緑珠へと顔を上げた。
「甘いです。お願いです、怒って下さい。僕、壊れちゃいそうです……壊れたらどう責任取ってくれるんですか。貴女がめちゃくちゃになっちゃうかも、知れないんですよっ……!」
「罰が欲しいって……罰を与える側が何を言ってるのかしらね。」
両手でイブキの涙を拭い取る。だが、緑珠の言った言葉をイブキは睨み付けた。
「……緑珠様。」
「上げるわよ。罰くらい。私が持っていて、あげれるものなら。」
緑珠は濡れた涙をぺろりと美味しそうに舐めて、顔を寄せてイブキに耳打ちする。
「……そ、れは……。」
「出来そう?私の罰はこれよ。丁重に受け取りなさいね。」
にこっ、と緑珠は微笑む。その微笑みが美しい。余りにも残酷な事を言っているのに。なのに。
「別に死ねと言っている訳じゃないわ。私は試しているだけ。私の為にどれだけしてくれるかって。それだけよ。」
緑珠はイブキの顔を手で包む。
「あはは。良い目ね。私、貴方の感情が揺れ動く目が好きなの。嘘を付くのも苦手よね。貴方の事なら私、」
そっ、と耳に口を寄せて。吐息が聞こえるくらい、甘ったるい声で。
「なぁんでも、知ってるわ。」
「……。」
イブキは緑珠の両手を掴んで、優しく微笑んだ。
「……良いでしょう。貴女が御所望とあらば、僕はそれを遂行するのみ。」
だから、とイブキは緑珠へと跪いた。
「今この瞬間、そして明日に至るまで。僕は姿を現しません。構いませんか?」
くつくつ、と緑珠は喉を鳴らして微笑む。
「私が寄越した『罰』はそれだけよ。貴方がその罰を遂行出来るのなら、私を煮るなり焼くなり好きになさいな。」
それでは罰になりませんと、イブキはその場を去ると、遠ざかる足音を見計らって緑珠は立ち上がる。
「あらあら、可愛らしい洋風寝間着着ていたものだわ。」
剥ぎ取るようにして脱ぐと、何時もの水浅葱の部屋着に変える。そして、才蔵に案内されたあの場所へ、緑珠なすたすたと歩いて行った。
「あら真理。姿が見えないと思ったら。」
「おやまぁ、良く此処が分かったね。……ふふ、褒めて遣わそう。」
態とらしく真理は威厳たっぷりに言うと、緑珠は真理の隣に座った。
「……真理。あのね。イブキが罰を欲したの。」
「だろうね。」
あんまりにもはっきり言われた言葉に、緑珠は髪の毛を風に揺蕩わせながら、真理の顔を見詰める。
「ねぇ緑珠。これで分かったろ?人間という物はある程度罪悪感が溜まり続けてしまうと壊れるんだ。だから『罰』という物は存在してるんだよ。」
「……うん。……でも、私。やっぱり三人が良いわね。」
一応は納得する。そう、なのかもしれない。真理は呑気に言った。
「そっかぁ。早く伊吹君、帰ってくると」
「貴方も帰って来なさいよ。」
言葉の途中で切られた緑珠の言葉に、真理は慌てて振り返った。
「……何を言ってるの、緑珠?」
「帰って来てね。真理。……貴方は夢中だから。私達を守る事に。貴方も、私達と一緒に……。」
「居るよ。ずっと。……たぶん。」
緑珠の願いにはっきりそうだ、とは言えない。自分にも自覚はあるんだ。
「……だってずっと、魂此処に有らずって感じなのだもの。」
ちらり、と悲しそうに見詰めた緑珠の目に、真理はふふ、と笑う。
「…………そうかもね。最近は特に。ねぇ緑珠。僕が何時か……君に死刑宣告する様な事を言っても、僕と一緒に居てくれる?」
「ふふっ……例えが酷いわ、真理。」
真理の笑みに緑珠も釣られる。他に例えは無かったのか。
「仮にもだよ、仮にも。」
「……貴方がそう言うのなら。きっとその事柄は近いのでしょうね。」
ずばり言い当てられた緑珠の言葉に、真理は項垂れた。どうしようもならない。
「……そう、かもね。」
「我慢してくれていて、『有難う』。」
真理は少し救われた様に顔を上げた。そして、聞きたかった事を問う。
「……うん。そうだね。ねぇ緑珠。話は変わるけど、伊吹君への罰は何にしたの?」
「『私の事を一切考えないこと』。……これだけ。簡単でしょ?」
いじめっ子の様に緑珠は微笑むと、真理は御愁傷様と言わんばかりに笑う。
「うわぁ……難しそう……。」
「あはは!イブキにはあれくらいしなくちゃね!」
遠くから才蔵の夕飯の声が聞こえる。さぁ、行かなくては。緑珠は密やかに、伊吹の『罰』を笑いながら、才蔵の声へと答えた。
次回予告!
珍しく真理の心情が垣間見えたり人魚姫にアポ取りに行ったりまさかのイブキが○○されたり相変わらず緑珠が照れたりするそんな話!