ラプラスの魔物 千年怪奇譚 86 泥の思案
緑珠とイブキが共闘して大空に舞ったり主の元に足早に向かったり緑珠がまたまたとんでもない事をするなど波乱が終わらない話!
「……真理、先に行ってて。直ぐに追い付くわ。」
「おっけー!先に行ってるね!」
走り去った真理を、緑珠は虚ろな目で見ていた。倒れそうだ。
「……飲まなくちゃ……。それとも打とうかしら。」
注射器はあと二本しか無い。しかし、効き目は長く続くのだ。でも、どうするか。
「飲まなくちゃ、ね……。」
考える前に飲まなくては。緑珠は口元にぼろぼろと錠剤を投げ込んだ。ふわふわ、する。
「……ふう。大丈夫。沢山動いたからその分沢山飲まなくちゃダメだったみたい。」
この薬を飲む時に、医者に言われた事があった。
『この薬を飲めば、君は戻れなくなる。けれど、この薬を飲まなければ、君は生きていけないよ。』
選択は二つに一つだった。死ぬのは怖かったから。嫌だったから。それは、今も、だけど。……多分?
「……冴えてる。」
最初は確か苦かった。でも、何だろう。もう味も分からない。あれ、変だ。こんなのおかしいでしょ。
「……もしかして。薬を飲む事によって、触られる感覚以外全部鈍くなってる?」
だから先程から手に触れる小石が疎ましいんだろう?だからさっきから触れる風が、服が、全てが、疎ましく感じるの、で、は、?
「気の所為ね。そう。気の所為。」
さぁ、歩き出して?私なら出来るわ、と緑珠は立ち上がると、真理の後を追った。
アルメハは走っていた。地下を抜けて走る。この人数なら篭城していた方が良い。
「走れるか、姫。済まない、こんな事になるなんて……。」
アルメハは少し走る速度を落とすと、ルーザは微笑んだ。
「気にしないで。私の我儘ですし、それに、」
に、という言葉は続かなかった。アルメハは振り向いた。
「おい!此奴が王子だぞ!」
男が走りながら声を上げる。アルメハはルーザの手を引いて走り出した。
この先を抜ければ安全地帯だ。だが、それまでに捕まってしまえば終わりだ。
「……くっ……!」
だが、男とアルメハの距離と、安全地帯となら、断然男とアルメハの距離とが近い。
路地裏の突き当たりだ。アルメハはルーザを座らせると、ばっ、と手を広げた。そして叫んだ。
「……ボクは、ボクは!武器も何も使えない!女顔で刺繍が得意な男だ!君を守る事なんて出来やしない!」
「……アルメハ王子?」
何を仕出かすのだろう、とルーザは不思議そうにアルメハの背中を眺めている。
「だけど!君を想う気持ちは負けないし、ボクには武器がある!誰にも負けない武器が!」
武器が振り下ろされるその瞬間に、アルメハは大きく叫んだ。
「この命を賭して、ボクは君を守るっ!」
ゴンッ、と鈍い音が響いて、男は音を立てて倒れる。
「……あのですねぇ、『人を殺す』、というのは偽物世界では簡単なことですが、現実では難しいんですよ?」
「う、ひいぃ……。」
うめき声の上から、異常に冷静な声が降ってくる。
「何時も通りの笑顔と、身体が裂けるほどの激情。この二つが揃わないと、人は殺せないんです。」
ふう、とイブキはため息をつく。
「……全く。人の逢瀬を邪魔するとは、一体どんな不届き者かと思えば……。雅も知らぬ賊でしたか。」
立ち上がろうとしている男に、イブキは手と頭を踏んづけた。
「頭を垂れろ。賊如きが顔を上げて良い方では無いぞ。……という訳で、此奴は海に沈めてきますね。」
その瞬間だった。頭上から声が降って来た。キラキラ輝く、あの声だ。
「イブキ!」
「緑珠様!?」
どうすれば良いのかどぎまぎしていると、髪の合間から悪戯っ子の様に目を細めた緑珠の顔が見える。あぁ。何だ、そんな簡単な事だったのか。
「……貴女は毎度、無茶な事を仰る!」
その場でイブキは跳躍すると、右腕を伸ばした。緑珠はそれを足蹴にして、また飛んだ。
「あははっ!優秀な従者だこと!」
嗚呼、とイブキは空を見上げた。きっとこの場にいる誰もが思っているのだろう。だから誰も言葉を紡がないんじゃないか。
綺麗だ、と。
緑珠の青いベストと、空と、海が混ざって。何が空で、何が海で、何が彼女か分からない。存在を誇示する白刃と、ベストの端にある金色の刺繍だけが健在だ。
白雲に黒髪が舞う。射干玉の、黒髪が。きらきらとした、美しい翠玉の瞳が煌めいて、そんな目をされたら、誰だって見とれてしまうじゃないか。
そんな、純真無垢な、何をも疑わない瞳を空に撒き散らして、一体何をするつもりなんだろう?
「……ふふ。」
きっとまたとんでもない事を仕出かすんだ。それが僕の主だ、とイブキは微笑んだ。ずっとこの瞬間を見ていたいのに、時間がそうさせてはくれない。
きっと時間も、見とれていたんじゃ無いか。だなんて。自惚れかもしれないな。
とても、綺麗で儚げで。だからこそお姫様なんだろう。って。
緑珠は一人の盗賊に目をつけると、飛んで来たついでで首元を掴み、思いっきり投げた。因みに海まで飛んで行った。
「おぉ……!良く飛んだこと!」
所は戻って王子の場所。イブキが消えたその場所で、アルメハは姫へと声をかけた。
「っ……済まない、姫。怪我は無いか?」
「は、い……。」
怪我は無くても大丈夫では無い。びくびくと震えながら、ルーザは辺りを見回していた。
それを案じて、アルメハは言葉を紡ぐ。
「……ボクは、不甲斐なかったかな。」
しかし、その言葉はあっさりと砕かれる。
「いいえ。」
はっきり、そう言った。綺麗だった。透き通っていた。ルーザは綺麗に、断言したのだ。それにアルメハは押し黙ってしまう。
「……。」
「咄嗟に人を庇うという行動、並の行動力じゃ出来ないと思います。……助けてくれて、有難う。」
その言葉にアルメハは大きく目を見開いた。救われた。ふと、アルメハの思考に何かが過ぎる。
人は、武器を持たなくても人を救う事が出来る。
「……そう、か。有難う。」
アルメハは胸を撫で下ろすと、ルーザへと手を差し伸べた。姫は上手く立ち上がる。
「姫。お詫びと言っては何だが、一緒に甘い物でも食べないか?何でも良い。」
それを聞いてルーザは微笑んだ。甘い物。良いかもしれないが、私は、
「ふふふ。私は地上に詳しくないの。だから、貴方が好きな物で構いません。」
ルーザの答えが少しだけ冷たく感じたのか、アルメハは俯いた。
「でもそれじゃあ……。」
「貴方が好きな物が、私の好きな物です。」
「……なら甘藍菓を食べようか。ボクは大好きなんだ。ふわふわして甘くて、政務の合間に良く食べるんだよ。」
ふわふわ、という感覚が海には無いらしい。ルーザは不思議そうに首を傾げた。
「ふわふわ、ですか?」
説明しようとして吃ってしまう。ふわふわって何て言えば良いんだろう。でもまぁ、とにかく。
「ま、まぁ!食べれば分かるよ!甘い物は、皆を幸せにするから!」
アルメハはルーザと手を繋ぐと、姫は少し微笑みながら言った。
「ふふ……もしかして、王子様は甘い物がお好きなんですか?」
「好きだよ。とても。……こっちを真っ直ぐ行けば……!」
少し崩れた街に、キラキラとした声が響いた。
所は変わって。
「ふっふーん!やっぱり私は凄いわね!これだけ、敵を、たおっ……!?」
周りの敵を投げ倒した緑珠の身体に、異変が起こった。力が入らないのだ。崩れ落ちてしまう。
「……な、何これ……。」
薬が切れたのか?それとも禁断症状なのか?ただただ、小石の上に転がる自分の手を見る事しか出来ない。
「やだ、どうしよう……。」
言葉は発せられる。打つべきなのか。しかし、手に力が入らない今、注射器を割ってしまう可能性が高い。
「……待つ、しか無いの?」
立ち上がることも出来ないのだ。待つしかない。この状態で服用するのはあまりに危険すぎる。
「二人に、怒られちゃう……わね。」
昔は怒られるのが嫌いだった。罵倒に等しく、恐怖の対象。
『怒られる』のが好きになったと言うのは何だか変な物だが、本当に好きになったのだ。自分の為を思って、言ってくれているから。
「…………私、大丈夫じゃ無いわ。」
緑珠は空を見上げた。薄い月が、青空に揺蕩っている。
「何時かそれに気付いて、ちゃんと私も気付けて、怒ってくれると、嬉しいわね……。」
あぁ、どんどん身体が怠くなっていく。眠くて眠くて仕方ない。きっと怖い夢を見るだろう。でも、こんなに穏やかなら。
「道端で寝るなんて……ふふ、はじめてだわ……。」
緑珠はそっと背中を壁に預けて、目を閉じた。
「伊吹君。防衛戦は上手くいったみたいだね。」
「そうなんですけどね。緑珠様が見当たらないです。」
まだ少しだけ憑き物が残っている視線をイブキはしながら、真理を見据える。
「うーん……先に行ってて、って言われたから先に行ったんだけど……。」
ふぅ、と深く息を吐くと、イブキは落ち着いてゆるりと顔を上げた。
「……心配ですね。あの人はまた凄い事を仕出かす……。別れたのはどの辺で?」
「あの場所だよ。森を出た所だ。」
イブキは真理に神器を押し付ける。
「持てるでしょ。貴方神様なんですから。」
「いや持てるけどさ……あれだけ自信満々に『凡百世界の中で僕しか持てない』っていっ、ちょ痛い痛い!」
黙ってイブキは真理の足を踏んづけると、振り返る事なく走って行く。まだほんの少しだけ火の手が上がっている。煙が見えるのだ。
「……ん?」
がり、と何かを踏み潰した音がする。何か粉物を踏み潰した感触だ。
「……これは……。」
しゃがんで散らばっている何かを拾うと、泥にまみれた白い錠剤が見える。
「薬ですね。……また服用したのか。拙いな。また何かあったら……。」
イブキは足早にその場所を去った。
冷たい、冷たい、刃。緑珠はそっ、と目を覚ますと、賊の一人が彼女の白い首筋に、同じくらい真白い刃が突き付けられている。
「女か。」
その声に緑珠は顔を上げた。逆光でよく前が見えないが、殺すか何か辱めを与えようとしているのだろう。
「……えぇ。そうよ。」
こういう時は良く動く。緑珠は愛おしそうに刃に触れた。
「可愛がって下さるの?」
「っ!?」
翠玉の瞳が賊を凝視した。殺気と、妖艶が混ざる瞳だ。そんな瞳、有り得る筈はないのに。なのに、何故か目の前に存在している。
「何か言って下さらない?」
さらさらと、優しい音を立てて黒髪が白刃に落ちる。何本かの髪が斬れた。
「困ってしまうわ、私。」
ただ、賊はぼんやりとそれを見ていた。喰われる。反射的にそう想う。呑まれる。だが、剣は抜けない。手に力が入らない。
そんな事はお構いなく、緑珠の蒼いベストに、白刃の刃が仕舞い込まれていく。
「これを抜けば私は死ぬでしょうね。さぁ、どうなさるの?」
こんなの異常だ。どう考えたっておかしい。何故自ら死にに行く?何故それ程綺麗な瞳が出来る?
「……お引きにならないの?」
異常だ。その異常が美しい。賊がその刀を、ゆるりと抜いて、首を絶とうとした瞬間だった。
次回予告!
伊吹がガチで緑珠にキレたり手を上げたり真理が分からなさに頭を抱えたり緑珠が罰を与えたりする話!