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Torrey Pines

 街の中はやはり人の気配が無い。砂埃を被った廃屋ばかりが軒を連ね、疎らに生えた草も殆どが茶色く萎れている。



「Here! Home!」



 腰の辺りで色の黒い少女が声を上げた。

 現役高校生を舐めてもらっちゃ困る。あの後直ぐに、俺は三人共々捕まえてやった。そして彼女達は大人しく一緒に歩いていたという訳だ。肩の上はそのままだが。

 この「Vroom Vroom」言ってはしゃいでいる彼はコリンと言うらしい。この黒い肌の少女アニタが教えてくれた。更に俺を、捕まえてご覧、と挑発してきたブロンドヘアの少女はエミリー。そして、エミリーの影に隠れるようにこっちをチラチラ見てるのはディディ。ふわふわの天然パーマは赤毛。引っ込み思案みたいだ。だが、さっき捕まえようとした時に背中からあの白い翼が出かけていた。近くで見ると、本当に天使みたいな子だ。


 アニタが指さした先、そこには古びた教会があった。門は朽ち果てているし、壁もヒビがあったり、その隙間から蔦が枯れた様なのがプラプラとぶら下がっている。屋根の上のクロスも錆び付いていた。

 先に到着していたライラが手を振っていた。錆び付いたドアノブのついた扉の前で子供たちに服の裾を引っ張られている。相変わらず唇は紫のままだし無表情だが、穏やかな雰囲気だ。



「トネリコさんは……」


「あの男に呼ばれたから、中に」


「なんや、ワテらは外で子守りでもやれ言うんか? 冗談やおまへん」



 そろそろ限界だと言うように、善治がライラに食って掛かった。しかし、ライラは赤く冷たい目を向けるだけ。板挟みの俺は一体どうすれば……?

 コリンが降りたそうに俺の髪を引っ張った気がしたのでしゃがんで降ろしてやった。アニタ達と何処かへ走り去ってしまう。小さな背中が建物の裏手に消えていった。

 その時、背後の扉がギッ……と開く。



「ハロー。日本語で……良かったですか?」



 出てきたのはフード男でも、トネリコでも無い。女性だった。歳は俺よりも少し上に見える。淡いブロンドの短髪と、白い肌に目立つそばかすが印象的だった。ヘーゼル色の目が俺たちの顔を順に見据える。

 海の蒼の様に澄んだ声をしている彼女は流暢な日本語を話した。



「ええ。貴方、名前は」


「イザベルと言います。こんな身なりですが、此処の修道女(シスター)です」



 こんな身なり、と言ったが確かに俺が思っていたシスターのイメージとは違う。黒っぽい修道服では無く、子供たちと同じような地味な色の七分袖のTシャツに、丈の長いスカートを履いている。胸元には銀の十字架(ロザリオ)が揺れていた。

 口角を小さく上げて目を細める。



「さ、中へどうぞ。大したものはありませんが、お食事でも如何ですか。子供たちがこれから朝食を食べるので」


「いえ、お構いなく」



 ライラが俺達に代わってずっと受け答えをしてくれている。どう見ても歳下に見えるが、物言いがしっかりしてるし、実はこだまパターンでずっと歳上だったりするんだろうか。何れにせよ、流石はネメシスの一角だ。

 丁寧に断っているが、その言葉の影には警戒心もちゃんと潜めている。



「ですが、顔色が優れませんよ。温かいスープだけでも如何ですか」


「ワテは要らん。それより、充はんを何処へやった」



 目を細めたままの善治。岸野の事が余程気がかりなのは分かるけど……。正直俺は体のだるさに加えて空腹に襲われていた。助けて貰えるならそれに越したことは無いと思うんだが。

 善治に睨まれるイザベルはそれでも終始微笑んでいた。



「先生は凄い方です。御安心下さい。神の御手は力無き者に差し伸べられます」



 彼がヤクザなのを知らないからこの余裕なのか、それとも、カタギじゃないのも理解した上での対応なのか。本当に唯のシスターか?



「立ち話も何ですから、中へどうぞ」



 そして彼女は半開きだった扉を大きく開けた。中に見えたのはもう一枚の扉。ライラが白髪を揺らし、一歩二歩と踏み込んで行く。

 俺も勿論それに付いていく。しかし、背後の彼はあからさまに舌打ちをした。何故か俺を憐れむように一瞥して回れ右をする。



「充はんに会えるようなったら呼べや。ワテは……基督の世話にはならん」



 彼はそう吐き捨て、来た道を引き返して行った。俺が呼び止める暇もなかった。白いコートとアッシュグレーの髪が砂煙の中に消えて行く。

 イザベルさんは少し残念そうに肩を竦めたが無理強いする気は無いらしい。では参りましょう、と外扉を閉ざし、中扉に手を掛けた。何だか申し訳ない。



「スープを持ってきますから、此処に掛けていて下さい」



 通された先は礼拝堂の様だった。長い椅子が縦に三列ほど並べられ、奥には数段上がった所に祭壇がある。十字を刻んだ説教台を見下ろすのは磔となった救世主。彼の姿を模していたのは薄い光を通すステンドグラスも同じ。色彩豊かな透過光が講壇を鮮やかに彩る。

 外の印象と同様に、中も砂っぽくて寂れていた。だが、よく見れば手の届く所に埃は溜まっていない。見上げた先の天窓からは真珠色が講堂の中を明るくしている。



「名前、何ていうの」


「え……」



 物珍しさに落ち着きもなくキョロキョロしていた俺だったが、不意に訊ねられて内心焦った。何より、ライラから話しかけて来るとは思ってもみなかったから。声に抑揚のない彼女がルビーの如き瞳をこっちに向けている。



「番号でしか覚えていなかったから」


「そっか……成程な。俺はアキト。本城(ほんじょう)暁人(あきと)だ」


「私はライラ」



 彼女はトネリコの白衣で身体をキツく巻き、しきりに腕を摩っていた。華奢で棒みたいに細い手足だ、仕方ない。へそ出しの妙な軍服もどきもかなり寒そうだし。

 髪と同化しそうな程に白い肌のライラ。こうして話してみると、普通の女の子にも思える。あの夜やついさっき砂浜で感じたような危険な空気が幻だったかのようにさえ感じた。

 歳は? と聞くと「十六」と返ってきた。十六歳と言うと、神威と同学年って事で良いんだろうか。若干ジト目で睨まれた気もするけど、気の所為……だよな?



「あの目つきの悪い男、誰」



 閉ざされた扉に目を向けながら彼女は問うた。善治さんの事だよな。俺も特に知り合いというわけじゃないからなんとも言えないんだけどなぁ。



「俺もあのヘリの中で初めて出会ったんだ。苦爪善治って名前らしい」


「銀狼会絡み?」



 間髪入れないご明察に、俺は三度首を振った。

 にしても、思ったより喋ってくれるんだな……この子。ネメシスの非人間的なイメージが少しマシになった気がする。

 その時、キィと音がして祭壇の横の小さな扉が開いた。イザベルと名乗る修道女が身を屈めて入ってくる。手には盆に乗ったふたつのマグカップ。



「お待たせしてごめんなさい。ほんの少しだけですが、お口に合えば」



 ヘーゼル色の目を細めて近づくと、それらを手渡してくれた。白い湯気と共に良い香りが漂ってくる。素朴なのに、猛烈に空腹を刺激する──コンソメスープに似た香り。中を覗くと赤茶色のさらさらの液体とほんの少しだけ黄色い粒が浮いていた。



「温かい……ありがとう、頂きます」


「ありがとうございます。戴きます」



 ライラはカップの底に手を当てて手を温めているが、俺はそれよりも空腹が勝った。冷たい縁に唇を沿わせ、頭を傾ける。塩味の効いたスープが前歯に触れ、舌の上を這う。俺の知っているコンソメスープとは少し違うが、美味い。五臓六腑に染み渡るとは上手く言ったものだ。黄色い粒はトウモロコシだった。奥歯で潰すとプチン、と弾けた。

 そんな俺の様子を見てなのか、やっとライラもそれに口をつけた。ん? もしかして俺、毒味役にされた?



「おいし……」



 少し、ライラの頬に赤みがさした。初めて、彼女の歳相応な表情を見た気がする。イザベルもそれを見てふふ、と笑った。聖母と称しても良さそうな、そんな温かみがある人だ。何処か惹かれるような気持ちさえする。彼女は俺達に向かい合うように長椅子に腰掛けた。


 たった一杯、されど一杯。冷たい海で冷えきった身体が喜んでいる。ググッと最後の一滴まで飲み干した。



「ご馳走様です、イザベルさん。美味しかったです」


「いえ。余り物で申し訳ないです。日本人の方々ならば、今日は豪華な料理をお食事になる日でしょうに」



 彼女は俺達の文化にも理解がある様だ。修道女って、そんな事も勉強するんだろうか。すると、イザベルは「神父様が日本好きだったのですよ」と微笑んでくれた。いつもの如く、思っていた事が顔に出ていたらしい。

 ちびちびとスープを飲むライラが首を傾げていた。何か考え事をしている様子だ。



「つまり、今日は一月一日」


「ええ。ちょうど朝の八時になる所ですよ。子供たちが初日の出を見に行った所で貴方達を見つけた様です」


「此処の地名は、何と」


「トーリーパインズ……で分かりますか」



 トーリーパインズ──聞いた事がない。あの太陽の向きを考えれば西海岸である事は想像がつくけど、何処だろう。ホッとしたからか、頭が少しぼうっとする。

 俺だけでは無い、ライラもマグカップ片手に首を捻っていた。やはり、とイザベルは苦笑した。



「サンディエゴはご存知ですか。その近郊にある小さな街の跡地です」


「サンディエゴ……北米大陸西海岸の旧都市、ですね」



 ライラの言葉にイザベルは、ええ、と頷いた。サンディエゴならば俺も辛うじてわかる。

 1500年前は超大国がその殆どを配下に収めた北米大陸。今では東西南北で国家は分裂。東側のニューステイトはかなり発展したが、西側の此処、ピードモントは一部の街を除けば廃れていると習った。

 もっと北にはアラスカという国があり、此処からもう少し南下すればメキシコがある。

 距離は確か……東京から九千メートル位離れてるんじゃなかったか? まさか、岸野はそんな距離を飛んだ? しかも、彼を含めた五人を纏めて?



「ルチアが言っていましたが、貴方達は異能力者のようですね」



 穏やかな口調で訊ねられ、俺は思わず頭をふった。しかし、隣のライラは何の反応もしない。コト、とマグカップを傍らに置いた。

 ルチアという名前に聞き覚えはなかったが、それも顔に出ていたらしく、イザベルが「少し背の高い年長の女の子ですよ」と補足してくれた。あぁ、もしかしてあの目つきの悪い子供だろうか。コリンを叱っていた子。

 目つきと言えば、ライラの視線が少し鋭いように感じる。俺に向けるものも、イザベルに向けるものも。



「それは貴方もですよね、イザベルさん」


「バレていましたか」


「彼はどうか知りませんが、私に精神干渉は無駄ですよ。出来るだけ自分達の事は話さないでおきたいんです。お互いの為に」



 な、なんだ……? 女二人の話になかなか付いて行けないんだが。



「仕方ありませんね。ゆっくりして行ってください。あの赤い髪の方も後程此処にお呼びしますから」



 肩を竦めたイザベル。ロザリオがチェーンに当たってちゃらちゃらと音を立てた。(あかぎれ)だらけの手が差し出される。マグカップを持って行ってくれるらしい。ギクシャクした空気に申し訳なさが募るが、横からの視線が痛い。一先ず従うのが良さそうだ。

 イザベルは軽く会釈して俺達に背を向けた。さっきと同じドアを潜り、姿が見えなくなる。

 それを待っていたようにライラが口を開く。



「気付いてない顔だね」


「何がだよ」


「あの人多分、魅了能力者(チャーム)



 これだから素人は……と言いたげなライラの赤い視線。イザベルが魅了能力者? 何故俺達にそんな事する必要があるんだ。

 それに、仮にそれで探りを入れているにしても助けて貰ったんだし話せる事は話しても良いんじゃないか。



「腑に落ちないみたいだけど、人はそんなに簡単に信用しちゃダメ。特に私達は追われる身なんだよ。もっと自覚して」



 抑揚のない言葉が俺を叱責する。それも、そうか。いや、それにしても、俺達が追われてるのは分かるけど何故ネメシスのライラも追われるんだ?



「分かった。俺は何も言わない。でもひとつ教えてくれ。何でネメシスなのに追われてるんだよ。岸野を撃ったあの女は? あれもネメシスなのか」


「違う」



 間髪入れない否定。ずり落ち掛けたトネリコの白衣を手繰り寄せるライラは眉をひそめて唇を噛んだ。



「ネメシスは、無くなった」


「え?」


「あの女はサディ・シュート。UNAの軍人」



 待て待て待て待て。俺はやっぱり夢を見てるのか?

 状況がカオス過ぎて、メルデスに「君は選ばれた存在だよ」とか言われたあの時に並にパニック。まさに、青天の霹靂だ。

 ネメシスが無くなった? サデ……サディスト?

 多分、俺は今とんでもなく阿呆な面を晒しているのだろう。ライラが俺を見る目は明らかに呆れている。すみませんね、ただの一般人的思考回路の持ち主で。

 頭痛でもするのか、ずっと険しい顔をしていた。



「兎に角、後ろ盾がない以上迂闊なことは出来ないの。分かった?」


「それは分かったけど……」



 年下の彼女に説教をされているが、反論の余地は無い。というか、彼女が正論過ぎて俺はイエスマンにならざるを得ないのだ。

 その時、ライラの華奢な身体がクラりと傾きかけた。すぐに持ち直したが、頭を押さえて歯を食いしばっている。どうした、何か持病でもあるのか。それとも、海で冷えたのが今になって襲ってきたのだろうか。



「大丈夫か?」


「平気……トネリコが、来れば、治してもらえる。いつもの事だから」



 痙攣を起こしたように髪を掴む手が震え、視線も定まっていない。呼吸も早くなってる。全く平気なはずがない。

 だが俺には何も出来ない。イザベルを呼ぶべきか……いや、それはライラが許さないだろう。



「兎に角、そこで横になったらどう、かな」



 若干言葉を噛みつつも、休むように提案してみたが首を横に振られてしまった。「平気」の一点張りで。そう言えば……あの時、ネメシスの牢獄から出される時に彼女の《痛い》と言う深層意識が聞こえた。

 慢性的な頭痛? しかし、それだけで俺の異能に引っかかるのか?



「やっぱり、横になる」


「え、うん。これ貸すよ。湿ってるけど」



 やはり耐えきれなかったらしい。着ていたジャンバーを差し出す。彼女は消え入りそうな声でなにか呟き、それを枕にして長椅子の上に臥した。どんな痛みなのか想像もつかない。ガサゴソと楽な体勢を探っているらしく、白衣がまた落ちそうになっていた。

 地面に着きかけた袖口を拾い上げ、白い肩にかけてやる。病的に白いな……ほんと。

 俺の行動を察したのか、ライラが手を伸ばしてきた。冷たい手が俺の手に触れる。



「……ッ!」



 何かが濁流の様に俺の中に入ってきた。脳を突き刺すような痛みと、映像。古いフィルム映画のようにチカチカと明滅を繰り返す。白い髪に赤い瞳の少女が振り向いた。その怯えた目は突然光を失う。ゴロゴロと転げ落ちた何かと、指令機関を失った白い身体。赤い花が咲いていた。

 その向こう側に立っていたのは……。



「どうか、した?」



 苦し紛れな彼女の問に、首を振る。そう、と呟いたきり黙り込んでしまった。今度は俺の呼吸が早くなっている。

 首の無い少女の向こうにいたのは、同じ特徴を持った──いや、俺の目の前に居るのと同じ少女だった。俺は、何を見たんだ。夢ではない。彼女は起きていた。それに、ここへの道中にコリンから感じたアレも未だに良くわからない。


 外からキャッキャと騒ぐ子供たちの声が聞こえてきた。

 悶々とした気持ちを吐き出すことも出来ないままに暇を持て余す。特に信仰心などを持ち合わせない俺だが、十字架を見詰めて大きく深呼吸をした。

 磔となったキリストの姿を拝む。彼を地上に下ろした神は、何を思って人間(俺達)に試練を与えたのだろうか。何故リリーと呼ばれる存在を創ったのだろうか。そもそも、何故、終焉(終わり)あるものを創造(始め)しようとしたのだろうか。そして、何故俺を選んだのだろうか。


 こんなに心の中で訊ねて居るのに、何の反応もない。やはり、俺は神なんていないと思う。居たとすれば、一発殴ってやりたい。

 自らが遣わした救世主(キリスト)にさえも残酷な死を与えたどうしようもない奴でしかない。苦痛に顔を歪めたその姿は心に深く突き刺さった。



 □◆□


 少し薄暗い部屋に通された赤い髪の男。緊張した面持ちで周囲を窺う。出入口付近にはが雑多に置かれている。その部屋の中央には人が一人寝られる大きさの台が鎮座し、大きな照明器具がそれを照らしていた。

 彼を招き入れた男は、海岸では鬱陶しそうだったボサボサの黒髪を一纏めにした。薄汚れたローブは壁の杭に雑に掛けられており、黒いシャツ姿になっている。袖を捲りながら口を開く。



「助手をやれ。そのカバンから剪刀とメス出して加熱消毒、ついでに点滴も用意しろ」


「分かった」



 上裸の男──トネリコはすぐさま行動に移った。目配せされた先にあった黒い鞄を探ると、彼にとっては見慣れた道具が入った箱が見つかった。更に、顎で示された棚の中には薬品のパック。湯はもう沸かされていた。白い湯気を上げるヤカンが部屋の奥に置かれている。

 指示を出した男は台に横向けに寝かされた男の身体を隈無く眺める。穴のあいたコートは既に脱がされていて、ほぼ全身に彫り込んだ刺青が露になっていた。背部には、赤黒い銃創がポツリと口を開けている。



「ヤクザか」


()やとおもいます。一応」



 やや落ち窪んだ黒い目を細めた男は「そうか」と呟いてその蔦のような模様を指でなぞった。そのような言葉がサラリと出てくるあたり、日本人か、日本に永らく居を構えていたのだろうとトネリコは思う。そうしている間に用意が整った。彼の手際の良さに少し驚いたようだったが、すぐに神妙な顔になり、ゴム手袋を嵌めた。

 次の指示を待ったトネリコだったが、岸野を仰向けにした男は徐ろにメスを胸へと突き立てる。銃創は後回しらしい。


(速い。速いのに、正確や)


 トネリコの視線は男の手元に釘付けだった。



「ぼさっとするな。吸引だ。肺に溜まった海水を抜け」



 わざわざ言わせるな、と言いたげな視線。ハッとしたようにトネリコが手を貸した。その間も男は手を休めない。上手すぎる。トネリコはここまで上手い人物は一人を除いて見たことがなかった。いや、前者よりも上を行くかもしれないと感嘆する。鮮やかだ。医療機関の手術(オペ)とは掛け離れている。ただし、衛生的にはギリギリのラインだ。



「何処からどうやって来た」



 まさか、手術中に話し掛けられると思っていなかった彼は手元が狂いそうになったが、どうにか平静を装った。



「多分、東京湾の沖やと思います。この男に空間移動(テレポート)してもろて。気が付いたらあの海岸に」


「……道理で。脳にちょっとしたダメージがある。後遺症は無いだろうが、治っても暫くは能力使わせるなよ」



 それだけ言うと男は黙り込んだ。カチャカチャという音だけが狭い部屋に響く。すると、何処からか子供達の遊ぶ声が聞こえてくる。古びたシェード越しに黄ばんだ光が差し込んだ。



「闇、ですか」



 縫合を始めようとした彼にトネリコは訊ねた。『闇』とはつまり『闇医者』──過去に医師免許を持っていた場合もあるが大抵の場合は無免許で医療行為を行っている医者、或いは、免許などを有するが()()()()()()()()()()()()患者を診る医者を指す言葉。一瞥すらもなく「そうだ」と答え、手の空いたトネリコに縫合糸を取らせた。

 黒い合成繊維を巧みに操り、メスを入れた場所を縫い合わせていく。


 そして、トネリコは再び目を奪われた。手際の鮮やかさだけではない。教育機関では絶対に教えられる事の無い独特の技法。雑という事ではない。寧ろ、普通にするよりも美しく閉じられていく。彼は、同様の技術を持つ男を知っていた。真似をしようとしたが、出来なかった。彼に教わろうとしても、口を閉ざされてしまった。彼は男でも惚れ惚れするような銀色の髪を持つ麗人。その技術が今、目の前にある。



「何突っ立ってる。次は弾頭摘出だ」



 男に叱責されるまで、彼は息をするのも忘れていた。そして、震えた唇が旧友の名を呼ぶ。己の記憶を確かめるように、男を試すように。



「レン……」


「は?」


「レンに、似とる」


「──お前、アイツを知ってるのか」



 男は初めて手を止め、トネリコと目を合わせた。



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