Ghost Town
──……キト、どこに居るの、アキト──
誰か、俺を呼んだか?
□◆□
冷たい。そう感じたのはほんの一瞬で、直後、猛烈に咳き込んだ。あまりの苦しさに手探りで何かを掴んだが、それはサラサラとしていて何の意味もなさなかった。もっと言えば、咳き込む度にその粒がジャリジャリと口の中で暴れる。今世紀最悪の目覚めと言ってもいいかも知れない。
未だにヒュウヒュウと異音が混じる呼吸の中、薄らと目を開けた。まず始めに見えたのは、口の中の異物の正体。白い砂粒、そしてそれに覆われた大地だった。薄暗い中、少し赤く色づいて居るのは陽の光のせいだろうか。重い体はそのままに目だけを動かしてみるが、景色は一向に変わらなかった。
不快な触感を吐き出そうとした時に気付く。
塩っぱい。
この白い砂が自分の汗よりも塩っぱいのは何故だろう。さらに、足元の酷く冷たい感覚。段々明瞭になってきた五感が情報を集積し始める。ザザザザ、と心地よいノイズが聞こえた。
(海……砂浜?)
どうしてこんな所に居るのだろうか。
この砂のように、手繰り寄せ辛い記憶の糸を辿る。
そうだ、俺はネメシスの旭って男にまんまと嵌められて、その牢獄の中で──岸野に会ったんだった。
少しずつ継ぎ接ぎされる記憶は、同時に俺を急き立てる。慌てて身体を起こそうとしたが腕に上手く力が入らなかった。力を入れようにも手元が覚束無い。体側に近づけようとした左腕はほんの少ししか動かすことが出来なかった。
「ッ……ううっ」
呻き声を上げながら、やっとの事で顔の向きを変える事が出来た。自分の腕を見上げると、手首には銀色の輪っかが付いていた。動けないのはこの所為らしい。それをずっと辿ると、俺と同様にうつ伏せに倒れる人間の姿があった。
目を閉じても尚吊り上がった鋭い目尻に、左頬から左眼にかけて稲妻の様に走る傷跡。
「岸野、さん」
こんな蒼白な顔色の彼を見たことが無い。唇は青紫色に変色し、動く気配も無い。名を呼んでも、ピクリとも反応しない。眠っていると形容するには余りにも……。
「充はん、充はん!」
さほど遠くない所から聞き慣れない男の声が飛んでくる。岸野を姓でなく名で呼ぶその声はどんどん近づいてきた。確か彼は……。
俺の背後側から回り込んできた白コートが砂の中を滑るように地に手をついた。彼の衣服や顔にも灰白色の砂が付いているが、そんな事は気にも掛けない。反応の無い岸野の肩を掴み、その名を呼び続ける。
彼は確か、苦爪善治という名前だった気がする。銀狼会の一味で、ネメシスに囚われていた俺達を助けに来たのだと言っていた。アッシュグレーに染めた髪や岸野よりも細い目は、少し中性的な印象がある。
涙さえ流していないが、何事にも形容し難い焦りが容姿にも言動にも現れていた。
そんな彼が岸野を仰向けにしようとしたが、その時、腕を掴む者が現れた。
「無闇に動かしたあかん!」
少し色黒で大きな手だった。
そして、善治がそれを振り払った直後。
鈍く、重い音が炸裂する。ゴキッと骨と骨がぶつかる様なそれの後、よろめいた巨体が後退しながら尻餅をついた。上裸の彼の口の端から鮮血が細く垂れる。
白い拳を握った善治が彼を殴り飛ばしたらしい。その手は小刻みに震えていた。
「誰の所為や思てんねんワレ……」
善治が低く呻る。
そうだ、あの色黒の男に手引きされた俺達は、真冬の海へと飛び込んだのだ。
男の名は、トネリコと言った。黒めの肌とは対称的な白い白衣を着ていたのを思い出す。
彼は今、その白衣さえもどこかへ置いてきたらしくジーパンだけを履いた格好だった。口元を拭いながら、善治を睨み上げ、長い脚で立ち上がる。彼の拳が相当効いたのか、足元が少しグラついている。
「オレかって、こんな事なる思ってないわ! せやけど頼む、医者の端くれとして面倒診させて貰えへんか」
切れた唇に顔を顰めながら、善治を窘めた。だが、彼の怒りは収まらない。
俺が間に入ることなど到底不可能だ。そもそも、恐らく俺の存在はこの二人に見えていないのだろう。自分のモノとは思えない程思い身体を這いつくばらせて少しずつ岸野に近づこうとしているというのに、見向きもしない。
「こんな何もあらへんところで、自分何するつもりや。得体の知れん輩が若旦那に指触れるんは許しまへん。償いたい言うんやったら……」
「やめて。トネリコは医者だから」
善治が一歩踏み出しかけた時、二人の男の間に白い影が舞い降りた。青白い顔についた二つの赤い虚ろな瞳が善治をキッと睨み上げる。体に白い布を巻き付けた彼女は、その髪も白い。
「自分ら、グルか。生意気な事言うてたら殺すで」
アッシュグレーの彼は小さな介入者へも怒りの矛先を向ける。
いつの間にか、彼の拳は銀色に光る刃を握り締めていた。言葉の重みが現実味を帯びる。
これは止めないとかなり不味い事になりそうだ。だが、どう止める。俺はすぐ側まで迫った岸野の顔を仰いだ。死んだように眠る──否、考えたくも無いがその逆でも頷けそうな白い顔。血の気が引き、俺の指と触れ合った指先が酷く冷たい。
しかし、その時。ほんの少しだが彼の指が動いた。いや、俺の願望が見せた幻影だったら……。
徐々に自由を取り戻した手脚を奮い立たせ、彼の傍へ。砂浜に膝をつき、恐る恐る己の手を大きな手に重ねた。指輪などの装飾品が全て取り払われたその手は思っていたよりも綺麗だった。
よく見れば彼のコート、その背部に小さな穴が空いていた。そうだ。彼の背を銃弾が穿ったのだった。
睨み合う三人を見て、やっと気付いた事がある。彼はあの状況でも尚、一人も欠けることなくここへ運んだ。此処が何処かは不明だが、彼が俺らの命を救った。仲違いをしている場合では無い。
「善治さん、落ち着いてください……!」
「落ち着け? こないな状況で落ち着け言うんか」
明らかに取り乱している彼は、その激情の矛先を俺にも向けてきた。彼は面を此方へ向けないが、殺気を孕んだオーラが蜃気楼のように彼の周囲に沸き立っている。だが、臆してなんか居られない。彼は大事な事に気が付いていない。
「彼は、岸野さんは俺達全員を助けたんですよ。それを棒に振る気ですか!」
遂に、ほんの少し此方へ顔を傾けた善治。薄い刃の様な視線が俺と横たわる彼を交互に見る。暫くすると、悔しそうに舌打ちをした。
そして、岸野を守るように立っていた場所をそっと退く。
「……妙な真似したら喉笛掻っ切りまっせ」
トネリコ達には目線を合わせること無く、そう言った。袖の中にナイフを仕舞う。気がつけば、周囲はかなり明るくなって来ていた。
背後を見遣ると、黒い海をずっと進んだ先の黒い水平線が見上げるにつれて赤く色付いて見えた。やはり、夜明けだったらしい。身体が動くようになったのも、少しずつ空気が温まったお陰だろう。
岸野の診察を許されたトネリコが駆け寄ってきた。殴られた左頬と口の端が赤く腫れている。
さらに、俺の元にはあのライラという少女がやって来た。身体をカタカタと震わせながらも、服のポケットから何かを取り出して手渡す。よく見れば、しゃがみ込む彼女が体に巻き付けた白い布はトネリコの白衣だった。
手渡されたそれは、小さな鍵だ。
「落としてなくて良かった」
ポツリと呟いた青い唇は薄く、彼女の元から儚げな印象を更に強くしている。ありがとう、と礼を言い、鍵穴に差し込むとこぎみよい音と共に枷が外れる。自由を取り戻した俺は、岸野の右腕からもそれを外してやる。
「大丈夫か」
「寒い……でも、平気」
気力の無い顔は平気そうには見えないが、俺なんかがこれ以上気遣った所で同じ反応しか返ってこないのであろう。
「どうなんや、充はんは助かるんか」
腕を組み、トネリコの動きを監視していた善治が詰問する。
対するトネリコも真剣な表情だ。ネメシスの監獄で初めて見た時のような砕けた印象ではない。
「死んでは無い……生きとる」
「ワテはそんなん聞いとるんちゃう。助かるんか、聞いとるんや。訊かれた事に答えぇ」
トネリコの顔は深刻そのものだった。俺の傍らで縮こまるライラも心配そうに目を伏せている。
「其方さんが言うた通り、此処には何もない。せやけど、放っておいたら助からん。低体温がかなり進んどる上に、呼吸も浅い。傷口も早くどうにかせんと、破傷風も」
「で……どないせぇ言うんや」
トネリコの煮え切らない言い方に噛み付いた。
要するに、何か病院のような所へ行く必要があるということだろう。しかしそこには重大な問題が付随する。ひとつは、協力者が必要という事。公的な機関には行けないだろう。本当にUNAが絡んでいるとすれば、自ら首を差し出しに行くに等しい。
さらに、協力者を得ようにも何処をどう探して良いかわからないのだ。
「人が、集まってきた」
ライラが切羽詰まったように、俺へ囁いてきた。小さな顔は、海岸線とは反対に向いている。
漆黒の壁のように見えるが、よく見ればそれは赤茶けた岩肌。その上に、赤い光を纏った人影があった。距離のせいなのか、とても小さく見える。いや違う。子供だ。逆光で顔は見えない。
「善治さん、あれ……!」
彼もハッと振り返った。
朝焼けの大地に立つ彼らは口々に何かを叫んでいる。そして、俺達の方ではなく、その背後に手招きをしている。ワラワラと集まる頭は十前後あった。
まさか、もう通報されたのか……!
未だにだるさが残る身体だが、立ち上がった。足場が悪い事もありふらついたが、丘の上を警戒して身構える。
その時、大きな影が岩の向こう側から姿を見せた。
この距離でその顔などは見えない。だが、そのシルエットは何となく男っぽい。丈の長い服が風に靡く。彼は、フードを被っているようだった。
「脚がありまへんさかいなぁ……もしもの場合は、消すしかあらへんで」
ゴクリと唾を飲む。噛み締めた奥歯にジャリ、と嫌な感触が走った。まだ、砂粒が口の中に残っていたらしい。確かに、俺達には逃走手段が無い。更に、背後は海。さらに、手負いの岸野や憔悴した少女まで引き連れている。かく言う俺だって、我慢しているが本音を言えば凍えている。
そして俺達は信じられないものを見た。いや、こんな異能が居ても不思議ではないのかもしれないが少なくとも俺は初めて見た。
男の手を引く子供の背後に広がった、真っ黒なモノ。朝日に照らされて縁が薄ピンクを帯びたソレは二、三度前後に揺らされる──翼だ。純白の、それはまるで天使のような両翼。
更に数回羽ばたく。
「待ってくれ!」
その時、浜辺全体に響き渡りそうな声が割って入った。俺とはイントネーションの違う話し方。岩壁に跳ね返ったそれは暫く耳に残った。善治に並列する様に立ち、崖の上を睨み付けている上裸の男。
「怪我人がおるんや……! 助けてくれ! オレは医者やけど、こんな所ではなんも出来ん。力貸してくれ!」
トネリコの叫び。善治は下がっていろと睨んだが、引き下がらない。俺達を見下ろす人影にも動きはない。そもそも、言葉が通じているのだろうか。それでもトネリコは声を張り続けた。
「悪い様にはせん! せやから!」
「事情は説明するんだろうな?」
ハッと振り返ったのは俺だけじゃない。傍らのライラも、頬を腫らしたトネリコも、左手にナイフを忍ばせる善治も。
薄汚れた長い丈のローブを体に巻き付け、フードを目深に被っている──死神のような出立ちの男が岸野の足元に立っていた。傍らには怯えた目をした子供を連れている。その子供の髪はくすんだ栗色で、瞳は薄い青。彼のローブをぎゅっと掴んでいる。十歳位だろうか。
太陽を背に立つその顔はフードの影でよく見えない。見えたのは口元だけだ。
もう一度崖の上を覗くと、翼の生えた子供の傍らにあったはずの大きな影は消えていた。
「分かった」
「よし、決まりだ。お前らは上の奴らと来い」
善治が反論するよりも早く、トネリコは彼に了を示した。
彼は、灰色のローブのフードを払った。歳は若くも見えるし、中年にも見える。手入れがあまりされていなさそうな髭がそう見せているのだろうか。更に、黒い髪も長く伸ばしている。
険しい顔をした彼は、暫く岸野を眺めていた。
「Billy, go back with me and him」
「I see」
彼が少年に囁いた途端、その姿が岸野と共に消え失せた。余りに一瞬の出来事で、俺はポカンと口を開けているしかできなかった。
「オイ、あれは知り合いなんか?」
「いや、ちゃう。初見や」
「妙な真似したら喉笛掻っ切る言うたハズや」
岸野が倒れていた場所をじっと見詰める二人だったが、善治の腕が真っ直ぐにトネリコの首元へ伸び、そのまま押し倒した。得物はまだ出ていないが、止めないとまずそうだ。善治が首を絞め上げている。善治の影の中で藻掻くトネリコの顔が赤くなっていた。
「ちょっと、善治さん!」
「私が止める」
駆け寄ろうとした俺を制したのは白髪の少女だった。そして彼女の小さな身体が、砂へ埋まっていくのを見た。いや、違う。これは……!
「手を離して」
鈍く響いた音と共に、善治の身体が真横に吹き飛んだ。ザザザッ、という湿った音とともに砂浜の上を滑る。トネリコの頭の上では、ライラが足をふり抜いた姿勢で止まっていた。
彼女が飲み込まれていったのは砂じゃない。影だ。太陽に背を向けた俺の影。そして、今度はトネリコに馬乗りになった善治の影から現れた。
「す、すまん、ライラ」
「あの人、医者の匂いがした。アルコールの匂い。トネリコは間違ってない」
赤い瞳で善治を見下ろしながら、彼女は足を下ろした。
「匂いやて? そんな不確かなモンで……!」
華奢な少女の一蹴りとは言え、完全に不意打ちを食らった彼の足は覚束無い。忌々しげに睨みあげるが、彼女は全く動じない。冷やかな視線を保つ。あの神社で見た時のような得体の知れない威圧感に、俺は身震いした。あんな現れ方をすれば、あのオルガナが避けられなかったのも頷ける。
「じゃあ、それを確かめるためにもあの子供達について行った方がいいと思う。行こ、トネリコ」
抑揚の無い声で言った彼女は崖からバラバラと降りてきた小さな影たちを一瞥し、そして、俺と目が合った。あなたは来ないの、と問われている様に感じた。その赤い瞳は、不思議とあの暗殺者を彷彿とさせなかった。背後の海のような冷やかさの中に小さく灯る陽の光が見えたような気がしたから。思わず頷いた。
「善治さん……」
「勝手にせぇ。ワテはあの輩について行くんやおまへん、お前はんに付いてくだけや……組長の言いつけがある」
苦虫を噛み潰したように顔を歪め唾を吐き捨てた彼。コートのポケットに手を入れ、黒いブーツが砂を削る。トネリコやライラはもう先を歩いていた。顎先で俺を促した善治は背中を丸めて歩き出す。
子供達は俺達を物珍しそうに眺めていた。無垢な瞳、とはこの事を言うのだろう。透き通るような青い目をした子供も居れば、俺と同じような茶色がかった目の子供、さらに、トネリコのように黒っぽい肌の子供もいる。歳もバラバラのようだ。だが、皆一様なのは、薄汚れた服を着ているということ。中には、裸足もいる。
「Where are you from?」
ライラと同じ位の身長の少女に手を引かれた碧眼の少年が、俺の顔を見上げていた。赤い毛がクルクルとしている。東洋人のそれとは違う白い肌には泥がついている。
「Close your mouth, Collin! ......Follow me」
少女の方は、彼と違って俺達を警戒しているらしい。更にこっちに近づこうとした少年の手をグイと引いた。そして、鋭い目線を向けてくる。瞳の色は、グレンさんを思い出すような栗色だった。煤けた金色の髪を後ろでひとつに括っている。
付いて来い、か。彼女の声が周囲にも届き、妙に円満な雰囲気のトネリコとライラはその手を引かれて岩の隙間の坂道を登り始めている。俺も、この少し無愛想な少女に続いて先を急いだ。振り向くと、善治もしっかり付いて来ていた。仏頂面のまま。
「若旦那に何かあったら、ワテは死んでも死にきれへん。充はんは組にとって無くてはならんお人や」
唐突にそう切り出した善治。彼の言葉が妙に艶かしいと思うのは俺だけだろうか。その中性的な出で立ちと言い、ぱっと見ただけならば血の気の多い人間には見えない。しかし、トネリコへの一発は鮮やか且つ強烈だった。動きに無駄が無い。ミュートロギアならば易々と強襲部のA隊の精鋭メンバーに選ばれるだろう。
「あの、本当に銀狼会がミュートロギアと……?」
「まだ疑っとるんか。せなやなかったらお前はんなんか助けまへん」
当たり前やろ、と言ってのけた善治。若干気落ちせざるを得ないが、手を貸してくれるのならば心強い。UNAの兵士を不意打ちとはいえ倒せるような人なんだから。
「せやけど、あの緑頭が持たせた機械はお陀仏や。何もかも、あのけったいな奴らの所為やで」
そう言って彼が放って寄越したのは黒い機器。それきり黙り込んでしまう。試しに色々弄ってみたが、ウンともスンとも言わない。緑頭と言うと恐らくセギさんの自信作なのだろうが、それが壊れる程海を漂流していたのだろうか。兎に角、俺達はとんでもないところに来たらしい。確実にここは日本では無い。あのフードの男を除けば、今の所日本語を話しているのは俺達だけだ。訛りがあるのか、単に舌足らずなのか……少し聞き取り辛いが、子供達は皆、英語を話している。
さっきの少年は余程俺が気になるのか、何度も振り返っては微笑みかけてきた。
「How old are you?」
それを無視し続けるのも何だか嫌な感じがして、差し障りの無い、かつ、俺が可能な範囲で会話をしてみようと試みた。俺が反応したのが相当嬉しかったのか、ぷっくりとした頬を更に膨らませてニッと笑った。
「Six!」
幼い子供特有の甲高い声で元気よく答えた彼は、それを再び叱ろうとした少女の手を振り払って俺の足にしがみついてきた。
何だこの例えようの無い愛らしさは。そう言えば、まだお袋も元気だった頃、近所にこんな小さい子がいて……弟が欲しいって言ったことがあったな。今となってみればとんでもない発言だが、姉しか居なかった身としては切実な願いだった。
前を歩く彼女は呆れたように一瞥すると、ずんずん先へ行ってしまった。そんな事は全く気にしない少年はそのまま俺の手を握ってきた。その身長は俺の腰の高さほどしか無い。
その途端、何かが頭に流れ込んで来た。濁流の様に。然しそれはいつもの様に言葉では無い、イメージの様な、メロディの様な……何れにしても、暗い感じがする。この子の深層意識だろうか。
「And you?」
アンジュー? あぁ、俺はどうかってやつか。
「Seventeen」
俺の返事に、彼は益々顔を明るくした。なんだか照れ臭い。たかが年齢を教え合っただけなのに。
ゴツゴツした岩の割れ目のような道を暫く歩き続ける。スニーカーだったのは幸いだが、海水で湿っているのはやはり気持ちが悪い。
「Look!」
その時、彼は俺の手を引いて前方を指さした。余りの眩しさに手を掲げる。指の隙間からは朱色と黄色の狭間のような神々しい光線が差し込んだ。気が付くと、岩の上に立っていた。山々の尾根を従えた太陽は世界を赤く染める。息を呑んだ。こんなにも美しい景色があったのか。
男の子が俺の小指を引っ張った。言葉は分からなかったが、言いたい事は何だか理解出来た。
屈んでやると、彼は俺の背中……ではなく、肩に跨った。俺の理解の更にその先を要求していたらしい。だるさはあるが、事もなく持ち上がる。彼は思っていた以上に軽かった。
肩車で視線が高くなった彼は嬉しそうにしている。頭の上から「Oh my God!」などと叫ぶ声が聞こえた。
確かに、凄い景色だ。切り立った山々が南北に連なる。更に手前には足元と同じ緑も疎らな赤茶けた岩肌が剥き出しになっていて、それもまた朝日を照り返して輝いている。そして、薄らと伸びた雲はピンクの様な、オレンジのような、複雑な色のコントラストを持っていた。こだまの髪を思い出す……。
まさか、俺達実は死んで天国に居るとか言うオチじゃないだろうな?
「見とれてる場合やありまへんで」
「え、あぁ、はい」
そんな俺の馬鹿げた思考を此方へ引き戻すような尖った声がすぐ側を通り過ぎて行った。
見下ろすと、緩やかな坂道の先に低平地が広がっているようだった。そしてその中に寂れた街がひっそりと佇む。土煙に霞み、それはまるで、気まぐれに姿を見せるゴーストタウンの様だ。
頭上は「Vroom Vroom!」と言っているが……この街の名前か? いや、まさかな。車のエンジン音みたいだ。目を上に向けてみると、街の方を指差してまた同じ言葉を繰り返している。ええい、どっちでもいいや。兎に角、子供達の塊に置いていかれないように再び歩き出した。
肩の上の彼の陽気な声を聞きつけたのか、ライラ達から離れた数名の女児が俺に接近してくる。これ、人生初のモテ期ってやつか? キャッキャと笑い声を立てながら駆けてきた。
既に少しライラ達から離されている。特にトネリコは少年三人程と駆け出していた。こんな時どう言えばいいんだろうか。
「Vroom Vroom Vroom!」
「Got you! You are it!」
頭の上の声と重なる様に最後にやってきた肌の黒い女の子がいたずらっぽい目付きで俺の腰の辺りをタッチしてきた。歳はこの男の子よりも少し上くらいだろうか。何を言っているのかもうさっぱりわからん。しかも、駆け寄ってきたはずの数人は蜘蛛の子を散らすように逃げて行く。善治が忌々しげに睨んでいるのも気にしていない。
ブロンドヘアの女の子が振り返りながら何かを叫んで寄越した。
「Try to get me!」
とらいとぅーげっと。あぁ、成程。鬼ごっこの最中か。それで、何故か俺は巻き込まれて鬼になったと。
仕方ないか。丁度急ぎたかった所だからな。軽く小走り程度だが、俺は駆け出す。振り落とされないように髪を掴む彼は甲高い声でまた「Vroom Vroom」と言っている。
少女達に追いつく頃には、街はもうスグそこまで来ていた。
【口語訳コーナー】※筆者独自に意訳している部分もあります
Billy, go back with me and him
訳:ビリー、此奴を連れて帰るぞ
I see
訳:はい
Close your mouth, Collin! ......Follow me
訳:黙って、コリン!……着いてきて
Vroom Vroom Vroom!
訳:ブーンブーンブーン!(幼児言葉で車の走る音)
Got you! You are it!
訳:捕まえた! あなたが鬼よ!
Try to get me!
訳:捕まえてごらん!




