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あのね、

 

 パチ、と開いた眼。瞼に隠れていた不思議な色の瞳が白い天井を向いている。赤にも青にも、その間の紫にも見える神秘的な輝きは暫くぼうっと一点を見つめていたが、その男の覚醒と共に薄暗い景色に順応を果たす。銀色の前髪が頬からはらりと落ちた。


 身体がやけに暖かい。布団の温もりはまだ彼を手放したくないらしい。視線を左に傾けると、水垢の残るグラスがポツンと置かれているテーブルが目に入った。さらに、その奥には空の煙草の箱と吸殻の山。

 双子の妹が来たのは、確か三日の夕刻だったと思い出した。


 それからどれ程経ったのだろうか、とレンは首を(もた)げた。ほんの少し隙間がある白い仕切りのカーテン。

 じっと目を凝らすと、その隙間から見えた時計の短針は【1】を指している。約八時間……彼にしては長い睡眠だった。大きな手術の後という事を考えればもっと寝ても良い様に思われるが、こればかりは半分職業病と言って良いだろう。


 真夜中と分かったのは良かったが、寝直すのもそれはそれで面倒に感じられた。身体の力を抜いたレンは再び天井を仰ぐ。蛍光灯の上に、薄らと蜘蛛の巣が張っているのが見えた。年末が慌ただしかった事でグレンの大掃除も手が回りきらなかったらしい。


 疲れも大半が取れた今、思考の覚醒は早い。ここまでの視界に違和感を認めた。


 オルガナは目隠しのカーテンを閉めて出て行ったと彼は記憶している。だが、それが今開いていた。でなければ時計は見えない。これ迄に彼女には再三注意した。それもあって今や、オルガナだけでは無く、看護師達も含めて気を使っている筈。


 熟睡している間にそれを知らない人間が来ていたとしか考えられない。

 眠くないとはいえ、もう少し温もっていたいところだった。渋々身体を起こそうと身動ぎする。しかし、何故か上手く布団をのけられなかった。

 オルガナが何か置いて行ったのかと視線を右へずらす。



「……は?」



 夢でも見ているのかと思った彼は、放心する。全ての動きが静止した。ゆっくり、ゆっくりと瞬きをするがその幻は消えなかった。顔を傾けると、その少女特有の甘い香りがふわりと香る。



「おい、こだま」



 動揺を押し殺して呻るが、小さな背中に反応はない。薄暗闇の中でくすんだ杏子色の髪を白い頬に掛けたまま、安らかな寝息を立てている。その寝顔は昔とさほど変わっていない。



「何でこんな所で寝てるんだよ……」



 独り言ちるレン。彼女が入ってきた事に気付けなかったのは自分の落ち度だとしても、何を思ってこだまが此処に、それも、レンと同じ布団に入っているのか。

 見た目には若いが、レンも既に二十九歳。二ヶ月もすれば三十代に突入する、成熟した一人の男だ。対して、こだまはまだ高校二年。レンにその気は毛頭ないにせよ、倫理的にかなり際どい状況だ。どうすべきか途方に暮れる。


 その時、こだまが寝返りをうった。顔と顔がかなりの至近距離まで近づく。この状況に耐え兼ねたレンはガバッと身を起こしてそれを避けた。



「ん……」



 喉の奥から声を漏らしたこだま。瞼がゆっくりと開く。クリクリとした黒い瞳がレンを覗き込んだ。



「何でここで寝てるんだ」



 妙な汗を背中に感じつつ、レンは訊ねる。

 こだまは暫く寝ぼけ眼で彼を見つめていたが、ハタと目を伏せ、唇を動かした。



「眠くなっちゃったから」


「何か俺に用があったのか」



 彼女は、レンが跳ね起きた事でめくれてしまった掛け布団を肩に引き寄せた。視線は逸らしたままだ。

 レンは眠りにつく前に考えていた事を思い出した。きっと、そういう事だろうと腹を括る。



「あのね、レン。メルデスと話がしたいの」



 やっぱり、と嘆息した。昨日の夕方に考えていた様に言えばいい、そう思っているのに彼の口は素直に動かなかった。なんと言えばいい、真実を話しても良いのか、いや、話すべきだろう、しかし……ひたすら逡巡する。

 なかなか言葉が出ないレン。すると、こだまは唇を噛み締め、要求を変えた。



「メルデスに、会わせて欲しいの」


「会ってどうする」


「……」



 責めるつもりも、頭ごなしに駄目だと言うつもりもなかったのだが少し口調が強くなってしまった。表情は影になってしまって見えないが、沈黙がレンに訴える。

 レンもまた、顔を伏せた。無菌室で眠るメルデスへ問いかける。だが、いつまで経っても返事は無い。大役を請負ってしまった、と胃が痛む。医者としての仕事だと割り切っていたつもりなのに冷静では居られなかった。本人へ病を告げた時以上の重圧を感じざるを得ない。

 それでも彼は、腹を決める。



「本当の事を言おうと思う。お前が、泣いたり喚いたりしないなら」



 意を決して宣言した彼を、こだまは見上げた。顎を引き、頭を振った。



「泣かない。喚かない」



 声が震えていた。それでも彼女はレンの目を真っ直ぐ見ていた。こだまはもう、右も左も分からない子供ではない。レンが渋る理由を彼女なりに見つけているのだろう。それを覚悟した上で、聞きたいと願った。だからこそ、レンもそれに応えなければいけない。



「メルデスは今眠ってる」


「いつになったら起きるの?」


「……ずっと、起きないかも知れない。声を聞くことも、もう出来ないかもしれない」



 告げてから、自分は酷な事を言ったと後悔した。泣くな、迄は言わなくても良かったかもしれないと。レンを見上げるこだまの目が潤み、涙を一杯に溜めている。

 それでも彼女は、それを零すまいと必死に堪えた。



「やっぱり、メルデスは遠くに行っちゃうんだね」


「誰だっていずれ、そうなる」



 レンの白くて大きな手が長い杏子色の髪に触れた。彼女を慰める術がこれしか思い当たらなかったからだ。鉢の小さな頭を優しく撫でる。



「泣きたけりゃ泣け。見なかったことにしてやる」



 思いがけないレンの言葉に目を丸くしたこだま。その鼻筋に彗星が横切った。

 高校生にしては華奢な身体がモゾモゾと動く。距離を置いたレンの腰の辺りに擦り寄り、布団を引き上げた。むず痒い気持ちを抑え、彼もそれを手伝ってやる。


 グズグズと鼻をすする音が薄暗い医務室に響いた。時折、嗚咽が混ざる。レンは、その薄闇の奥でメルデスが苦笑いしている様に感じた。お前の所為だぞ、と心の中で毒づく。



「レン、手……握っていい?」



 鼻声がさらにくぐもって聞こえる。甘えるな、と突き放す方が辛い。布団の外で組んでいた右手をため息混じりにそっと差し込んだ。少し湿った小さな手がキュッと掴んでくる。

 こんな風に甘えてくるこだまの姿は随分と前に見納めたつもりだった、と突然郷愁めいた気分に襲われた。



「覚えてるか、こだま。アイツが居ない時もこうやって転がり込んで来ただろ」


「うん、覚えてる。ぜんそくの薬、苦かった」


「でも治っただろ」



 五年越しの文句に、レンは苦笑した。


 アイツ、とは勿論メルデスの事である。彼を支持する若手の団員らと共に、組織の改革を進めていたのが丁度五年ほど前だ。レンやオルガナもまた、それを援護する立場に居た。

 その頃のこだまはと言えば、ミュートロギアに居場所が無かった。組織という意味でも、物理的な場所という意味でも。達哉や神威といった古参の子供たちとは時折遊んでいたらしいが、周囲はそれを良しとしなかった。何せ、ネメシスから突然やって来た男が連れて来た──ただの()()()少女だったのだから。

 さらに言えば、異能という少数派(イレギュラー)には厚遇をする一方で、歳の割に身体が小さく、さらに、知能の発達も遅れていた弱者(イレギュラー)に対する態度は真逆だった。


 忙しく飛び回ることもままあったメルデス。彼が面倒を見れない時はレンやオルガナがこっそり自室に匿った。特に、当時からこの医務室を与えられていたレンの元へは度々訪れていた。

 ──今でも医務室のベッドを勝手に使おうとするのはその頃の名残なのだとすれば行動原理は理解できる。



「メルデスに、何を話したかったんだ」



 間を持たせたかった、というのは建前だ。柄じゃないと思いながらも、布団の端からはみ出た杏子色を空いていた左手で包むように撫でた。



「よく、分からなくなっちゃったの」


「何が」


「いっぱい」



 彼女の言葉のチョイスに首を捻る。詳細に踏み込もうとしたレンを遮る様に、手を握るこだまが力んだ。彼女の中でも上手く整理が出来ていないからだったが、それでレンも思い留まった。

 自分が聞くべきではない。結果的に耳に入ったとしても、それは彼女がメルデスを前にしての方が良かろうと。



「どうしても会いたいなら、会わせてやる。朝になったら一緒に連れて行ってやるよ」



 それまで待てるか、と問うレンに、こだまはまた強く手を握ることで応えた。そして、少し遅れて「うん」と返事をした。

 朝の検査までまだ五時間ほどある。だが、こだまの手はレンの手を離れそうにない。

 気付いてみれば、もう、啜り泣く声も鼻をすする音も聞こえなくなっていた。それに替える様に、スゥスゥと微かな吐息が聞こえる。

 動かなくなった寝具の膨らみに目を細めた彼は、観念したように布団をかぶり直した。布団がいつもよりもずっと温かい。



「ねぇ、レン」


「なんだ。寝てなかったのかよ」



 こだまのくぐもった声はとても近い。レンはやれやれと思いつつも続く言葉を待った。



「キスしたら赤ちゃんできるってほんと?」



 まさかの発言に再び布団を跳ね除けそうになったレン。

 だが、グッと堪えた。動悸を抑え込む。自分はこだまの年齢を間違えて覚えているのかと考察したが、高校二年という認識で間違っていないと結論付けた。そしてメルデスが「保体の成績は体育の実技が良すぎてお咎め無しだったんだよ」と苦笑していたのを思い出した。こだまの事だ、座学の中でも特に眠くなる保健体育の授業をまともに聞いている筈がない。

 むしろ、その様なガセネタを吹き込んだのは何処のどいつだ、と医者としては若干憤った。この年齢でまともな性知識が無いのは致命的で──現在進行形のこの状況もその所為だと思えば納得せざるを得ないのかもしれない、と妙に合点もいった。



「はぁ? んなわけねぇだろ。誰だ、そんな事言った奴」


「……レンが言ったの」



 顔は見えないが、キョトンとしたこだまの物言いにレンは硬直した。そして思い出す。あぁ、と低く唸った。

 メルデスは欧州の生まれで、やたらと頬などにキスをするのが当たり前だった。文化的な差異ではあるが、このミュートロギア本部は日本にあるという事もあり圧倒的に日本人が多い。レンもメルデスの様な文化には抵抗があった。そこで、日本人のこだまがその真似をしないようにと思ってそう言ったのだった。あの時のこだまはまだ小学生だった。間違った事はしていない。だが、まさかこの歳になるまでそれを信じ込んでいたのは大きな誤算だった。

 過去の自らが招いた現在に、盛大なため息が漏れる。



「あれは嘘だ。安心しろ」


「レンでも、嘘つくんだね」



 彼女は何気なく言ったのだろうが、今のレンの心には深く刺さった。そんな嘘だけなら、どれだけ良いだろうと目頭を押さえた。



「──大人、だからな。ほら、早く寝ろ」


「うん。おやすみ、レン」



 暫くすると、寝息がスースーと聞こえてきた。今度こそは寝たらしい。眠れないレンは追憶に(ふけ)る。抱きかかえれば腕の中にすっぽり収まりそうだったこだまも、随分と大きくなった。父性とまではいかないが、この五年での彼女の成長は彼の人生の中に色濃く刻まれている。


 再び静まり返った病室。二人分の呼吸音が重奏する。この空間だけが五年前にタイムスリップしたような錯覚と共に、レンはその瞳を閉じた。




 そして、朝が訪れる。小鳥の囀りも、眩い朝日も不在の医務室。人工の白色光が少女の卵のような頬を照らした。午前五時。この部屋の主であるレンが普段目覚める時間に自動で点灯するように設定されている。



「起きたか、こだま」


「んん……」



 手を伸ばしたが、寄り添ってくれていた筈の温もりはもう無かった。薄らと目を開く。見慣れた顔に安堵したこだまは「おはよう」と含羞はにかんだ。

 ベッドの横の小さな椅子に腰掛けた銀髪の男。昨日まであった顎の髭は綺麗さっぱり無くなっていて、ストライプのワイシャツの上には白衣を羽織っていた。やはり眠れなかった彼は数時間前に布団を抜け出し、身支度を整えていたのだった。



「レン、折り紙上手だね」


「欲しいならくれてやるから、とっとと顔洗え。行くんだろ、メルデスの所に」



 黒い吸殻の山や汚れたコップが片付けられた後のテーブルの上には、色とりどりの折鶴が横たわっていた。彼にとっては読書に肩を並べる趣味のひとつである。常に手先の鋭い感覚を要求されるレン。それに対する手慣らしという意味合いもある。ほんの少しのズレも歪みもない鶴達をガサガサと掻き集め、こだまの足元に置いていた缶の中に仕舞った。


 こだまはコクコクと首を縦に振り、するりとシーツから滑り降りた。ここで初めて、レンはこだまが日中の普段着で寝ていた事に気付いた。それも、彼女が一番気に入っている赤いワンピース。皺だらけのそれをパンパンと払って洗面台の方に駆けていく。

 レンはその間に寝床を整えた。ふわりと浮かせた掛け布団からは、こだまが去年あたりから使い始めたパフュームの香りがした。少し珍しい、杏の香りをベースにした甘酸っぱい匂い。高校生になった彼女にメルデスが贈った物だったと記憶している。勿体ぶって普段は使わないのだが。

 更に、ペラリとめくった枕の下からは白いリボンとヘアゴムが出てきた。



「準備出来たよ!」


「これは要らないのか」


「いる!」



 えへへ、と笑いながらそれを受け取り「ちょっと待ってね」と言うと再び鏡の前に走った。カーテンを開けながらそれを横目で眺めるレン。あの頃は鏡どころか流しにも手が届かなかったのに──。



 早朝のミュートロギアはやはり人が疎らだ。夜勤明けの管制部門の団員や、転送装置の点検を行う技術者らの姿位しかない。そんな中を並んで歩く二人。レンは思っていたよりもこだまが元気そうで安心していた。空元気とも取れるが、少し顔が浮腫むくんでいることを除けばいつものこだまだった。


 レンの部屋があるのと同じ階、それの突き当たりにある磨り硝子の扉が彼等を迎えた。白い文字で【SEGREGA(隔離)TION ROOM(病室)】と書かれている。

 レンと同様に看護師たちの朝も早い。宿直を終えた者と、これから仕事に入る者の間で引き継ぎを行っていたが、責任者トップの姿を認めると「おはようございます」と声を揃えた。そして、その後ろを歩く少女をマジマジと見る。



「此奴が来たことは内緒にしとけ。いいな」



 口に指をあてて箝口令を敷くレン。若いふたりの女はやや激しめに首を縦に振った。

 こだまは緊張してきたのか、レンの白衣を少し掴んだ。消毒のアルコールの匂いが鼻について落ち着かない。だが、彼は構わずにどんどん奥へ進んでいく。そして、更に突き当たった所にガラス張りの部屋があった。二重構造になっている。



「ここで消毒をして、そこの服を着て入るぞ」


「う、うん」



 使い捨ての白いマスクを手渡しながら、レンはこだまを促した。彼女も言われるがままに手順をこなす。割烹着のような特殊な作業着は少しばかり大きかったがやむを得ない。五分ほどかけて、漸くレンは扉を開いた。

 見慣れない場所に戸惑いながらもレンについて行く。


 そして遂に、緑色のカーテンの奥でベッドが見えた。駆け寄りたい衝動をぐっと堪える。



「俺が居ない方がいいなら席を外すが、どうする」



 気がつけば、レンが振り返っていた。不思議な色の瞳がこだまを見据える。チラリと見えてしまった物々しい機械類に、若干怖気付いてしまったこだまは、一人で会うのが少し怖くなった。



「ここに居て」


「分かった」



 レンは静かに頷くと、彼女の肩を押して中へと促した。

 柵つきのベッドに彼は居た。金色の短い髪も、白い肌もいつもの彼と変わらない。こだまの鼓動が速くなる。それをぎゅっと押さえ付け、彼女は目の前の現実を黒い瞳に焼き付ける。

 いつも微笑んでいた口元には酸素マスクが付けられて、その管の先は大きな機械に繋がっていた。さらに、その機械は他にもたくさんの管を伸ばし、彼の首元や胸元、腕などに突き刺さっているように見えた。



「ショックだろうが、これが今のメルデスだ」


「もっと……近くに行っていい?」


「あぁ。機械にさえ触らなかったら問題無い」



 そのくらいの分別はあるだろうと思いながらも、口をついて出てしまう。こだまは「うん」と答え、レンの手を引きながら恐る恐る近付いて行く。

 近くで見ても、彼はただ単に眠っているだけにしか見えなかった。昔のように揺すったり、布団に飛び込んだりすれば碧い瞳を開けてくれるのではないかと思う程に。

 枕元には引き出し付きの棚があり、その上には彼の眼鏡がポツンと置かれていた。度の強いレンズが奥の景色を大きく歪めている。

 その前には既に小さな丸椅子が置かれていた。こだまはそこに腰掛ける。



「メルデス、私だよ、こだまだよ」



 マスク越しの、少しくぐもった声で彼の名を呼ぶ。

 勿論、それに応える声は無い。だが、規則的な電子音は昔その腕の中で聞いたリズムによく似ていた。

 小さな手を彼の手に重ねる。良い時も悪い時も、何かあれば優しく包んでくれた筈なのに今はピクリとも動かない。



「あのね、メルデス。私ね、神威くんに告白されたの」



 目を細めながら、静かに彼に話し掛ける。レンは耳を疑ったが、沈黙を貫いた。



「それでね、私、どうしたらいいのか分からないの」



 そんな事、メルデスに意識があったとしても言葉を詰まらせるだろう──とレンはあの時深く聞かなかった事に胸を撫で下ろした。色恋沙汰など、その有無に関してもメルデスが口にした事は無い。お互いの人生の大部分はそれぞれしか知らない事だ。



「私も好きだよ。神威くんの事。それに、レンの事もオルガナの事もユーヒの事も……メルデスの事も大好き」



 同じ空間で名を呼ばれ、気恥ずかしくなったレン。やはり部屋を出ればよかったとビニール製の帽子越しに頭を掻いた。そんな事もお構い無しに、こだまは相槌すら無いメルデスへ話し掛け続けた。



「でもね、何回も何回も考えても、なんだか、神威くんが言ってくれた『好き』と私の『好き』が違う気がするの。これって、私が変なのかな」



 重ねた指を彼の手の甲にそっと這わせる。微かに胸が呼吸と共に上下するのを見て、再び目を細めた。そんな彼女の首元には、いつの日かのロケットがキラリと光っていた。それをこだまは左手でぎゅっと握りしめる。

 傍らで見ていたレンは、それに見覚えがあった。

 ネメシスの牢獄で初めて会った時から、彼が身に付けていた。故郷から肌身離さず持ってきたのだとメルデスは言っていた。



「私はどうしたらいいの? 神威くんは、何も言わなくていいって言うの。でも、本当にそれでいいのかもわからない。神威くんは私を守るって言ってくれるの。なのに、私はこんなのでいいの?」



 何となく、レンは彼女の苦悩が理解出来た気がした。全てとは言えない。寧ろその端点を掴んだに過ぎないだろう。だが、彼女の素直過ぎる気持ちが彼女にとって痛い所を啄いているのだろう、と推察できた。

 半ば自問するようなこだまの問いかけに、ベッドに横たわった彼は答えない。しかし、それを見つめる小さな背中をただ傍観するのも心苦しかった。



「いいんじゃないか。それで」



 恋愛相談なんか、真っ平御免だと平生の彼なら言うだろう。臨床心理など専門外だと耳も貸さないかもしれない。恋路のアドバイスをしようなどという説教めいた思想というよりは、今の彼女が少しでも苦しみから解かれるのならと言葉を紡いだ。

 驚いた顔のこだまが振り返る。

 レンはもうひとつ椅子を持ち出して寄り添うように座った。



「お前を守りたいって言う男が居るなら、守らせておけばいい。それはソイツの勝手だ。本当にお前の事を想うなら、見返りなんて考えない」



 ──そうだろ、メルデス。

 こだまが重ねたその上から、レンの手が被さる。レンはメルデスを真っ直ぐに見つめた。



「じゃあ、私……」


「今まで通り接してやればいいんじゃないか。寧ろ、突き放されたら男は傷つく」



 縋るようなこだまの視線を感じながらも、レンはそれに目を合わせようとしなかった。唯ひたすらに眠り続ける彼の顔をじっと見る──俺にこういう事は向いていないから早く起きろ馬鹿野郎、と心の中で訴えた。



「そろそろ検査の時間だ。お前は部屋に戻れ」



 壁に掛けられた時計をチラと見たレンはその視線を変えることなくこだまに告げる。名残惜しそうな目を見たくなかった。彼女に意地の悪い事をしているような気がしたというのが一つの理由だった。



「また来てもいい?」


「此処に来るのはこれで最後にしてくれ。近々、他の病室に移す筈だ。そうなったら……何時でも会ってやれ」


「分かった」



 案の定、彼女の声は強く握りしめた鈴を振った時のような音だった。微かにこだまの手が動いたのを感じたレンも、細い指を拳の中に仕舞った。



「またね、メルデス。これ以上遠くへ行かないでね」


「……俺が行かせねぇよ。安心しろ、こだま。俺を誰だと思ってる」


「えへへっ、そうだね。レン、メルデスをよろしくね!」



 レンは──どっちのセリフだ──とマスクの下で苦笑いをした。『こだまの事を宜しく』と酸素マスクの下の口角が上がったように見えた。

 こだまは立ち上がる前、メルデスの手の甲に軽い口付けをした。昨夜の質問はそういう事か、とレンは得心した。

 ──実際の所はそうでは無いが。



「この事は内緒だからな」


「うん」



 彼女は力強く頷いた。「戻り方は分かるな」と確かめたレンに、もう一つかぶりを振った。小さな背中が緑のカーテンの奥へ消えていく。

 空になった椅子を見つめ、それから、彼はメルデスに向き直った。実の所、看護師たちがやって来る検査の時間まではもう暫く時間がある。



「大きくなったな、アイツ。そう思うだろ、メルデス」



 手術の前後は、一人の医療人として向き合っていたが今は違う。ここに居るのは患者と医者ではなく、メルデスとレンだった。



「昔は事ある毎にピーピー泣いて、お前の背中ばっかり追いかけてた」



 バタン、と扉が閉まる音を聞いた。こだまが無菌室の外扉から出て行った音だった。



「贅沢な悩みだよなぁ。お前も俺も、オルガナも……揃いも揃って馬鹿ばっかりだったお陰だと思うんだが、どうだ、メルデス。これでもお前は贖罪を続けたいのか?」



 もし、彼の言葉を誰かが聞いていたとしても何の話か理解出来る者は少なかろう。それでいいのだ。ポケットを漁った彼は、何かをメルデスの眼鏡の横に置いた。



「自己犠牲は、もうこの位にしてくれ。お前は十分に償った筈だ」



 いつだっただろうか、本城暁人に此処(ミュートロギア)に居る意味を問われた時、彼は恩返しだと答えた。あれは、半分真実で半分嘘だ。メルデスがどう思っていたかは定かでないが、確かにレンは彼に対して強い情を持っていたことを認める。そうでなければ、こんな事はしない、と。

 一人の医師として、患者を治療するのは当たり前だ。だが、時にはそうしない方が良いと判断する事も実際にあった。それは、医療スタッフや患者の家族──そして何より、本人の意思を尊重して決めていた。だが、今度ばかりは彼が決めた。絶対に死なせない、と。


 生命維持装置の緑のランプがゆっくりと明滅を繰り返す。これが無ければ、確実に目の前の友人の鼓動は止まる。生きているというより、生かされている様な状況。彼がもし口を利けたならば、そんな事はしないでくれと言うような気がした──いや、現にそう言われたことがあった。



「絶対に死なせないからな、メルデス。お前がすべき事は生命を擲つ事じゃない。見届ける事だ。そして、その後はお前の人生を生きろ。自分のために生きろ」



 然し、レンの我儘(エゴ)が彼を生かしたのだった。彼は「文句は目覚めてから何とでも言え」と続けた。青とも赤とも取れる不思議な瞳を伏せる。


 壁を隔てた先から、カタカタという音が聞こえ始めた。レンが指名した看護師らが準備を始めた音である。バイタルチェックに加えて、胸の傷の状態等も確認する予定になっている。ここから、レンの長い一日が始まる。彼の患者はメルデスだけでは無いのだ。



「グズグズするな。迅速且つ的確に終わらせてくぞ」



 ガラガラと機材を持ち込んできた数名に、彼は矢継ぎ早に指示を飛ばし始めた。もう、先程までのレンでは無い。ここに居るのは、他人に弱みを見せることなどない、堅物で、天賦の才を持つ一人の医者だ。


 メルデスの眼鏡が置かれた棚。その上には、青緑色の翼を持つ鶴が静かに横たわっていた。羽は閉じられたままだった。

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