病
銀の引戸をそっと滑らせる。薄暗かったが、手前側の蛍光灯が白く発光した。
「……入るぞ」
彼女が歩く度に銀色の髪が揺れる。少し泥のついたブーツで敷居を跨ぎ、部屋の奥へと向かって行った。ひっそりと静まり返った中に響くのはコツコツと規則的な足音のリズム。
全体的に白い印象のある部屋。薬品や、少し塩素の混在したアルコールの匂い、それに混ざって微かに香る煙草とハーブの匂い。この部屋の主を乗せない背もたれ付きのワークチェアが整頓された机に独りで向き合っている。床を見れば、雑に掛けられていたのであろう白衣がクシャリと潰れていた。
そっと拾い上げ、軽くシワを伸ばして背もたれにふわりと掛けた。
それで一瞬立ち止まったが、黒い布で目隠しをした女のその後の足取りはブレない。突き進んだ先には白いカーテンで仕切られた空間があった。ピタ、とその手前で立ち止まり、ほんの少し躊躇う素振りを見せた。だが意を決して隙間に白い手を伸ばす。
「レン……少し、いいか」
この女性──オルガナは囁くように声を掛ける。彼女からすれば双子の弟にあたる男の名を呼んだ。
オルガナ同様に銀色の長髪を持つ彼は仰向けになって身体を休めて居るようであった。色白だが、ハッキリ筋の見える腕を上げ、目元を隠している。
その傍らには、黒い巻紙の風変わりな煙草が灰皿の上に何本も棄てられていた。オルガナはそれを一瞥したが、いつもの様に彼を注意しない。眉根を寄せて少し溜息をつくと、その仕切られた空間に身体を滑り込ませた。
「大丈夫か」
彼女の口から出る言葉が他人を案ずるは珍しい。だが、レンは何の反応も示さない。
熟睡していると判断したオルガナは、仕方ないか、と肩を竦めて回れ右で引き返そうとした。
「勝手に入るんじゃねぇ。何回も言わせんな」
「すまない。起こしたか」
首を回してオルガナはレンを見遣る。体勢は先程と全く変わっていない。そして、彼女は寝台の脇に置かれた小さな丸椅子に腰掛けた。こうして近くに寄って見ると、レンにしては珍しく短い髭が生えていた。あまり手入れが出来ていないらしい。いつも通りの苦情も、今日は力がない。
「別に。寝付いてもすぐ目が覚めるから」
白いベッドに沈み込ませた身体を彼は軽くよじった。ガサガサと掛け布団が音を立てる。
随分と声が沈んでいる。もう少し寝ていろ、とオルガナは告げたが、それ以上は何も言わなかった。しかし、レンはそれを無視して身体を起こす。大きな手で額から目の辺りをゆっくりと擦り、深く息を吐いた。白銀の髪の隙間から薄らと眼が覗く。普段と比べて腫れぼったく、半分も開いていない。
「何か用か?」
妹──と彼は主張する──のオルガナの方をチラと見たその目の下には大きな隈が縁どっている。
「峠は、超えた、そうだな」
「あぁ。なんとかな」
レンの焦点の定まらない瞳は赤や青、紫が混ざった様な不思議な色をしていた。何となく、彼の思う事を察したオルガナは「待ってろ」と言って暫し姿を消す。
戸棚を開ける音がしたかと思うと、蛇口をひねる音、そして、コポコポという音が続いた。再び仕切りの中に入ってきたオルガナの手には水の入ったガラスのコップが握られている。
相変わらずの無表情で、彼女はそれをレンに手渡した。
縁に口を付けた彼の喉仏が上下に揺れる。半分だけ飲むと、灰皿の隣にコトンと置いた。
「そっちも……色々あったらしいな」
「否定は、しない。詳しい、事は、また、話す」
大きく息を吸ったレンの顔に、ほんの少し血の気が戻る。腕、そして、脚を組んだオルガナは思案顔で黙ってしまった。
レンは最初の眠りにつく少し前に、彼女からの伝言として小さな紙切れを受け取っていた。彼女の字では無かったが、外部の人間が流入した事、二人の救出が失敗に終わった事が書かれていた。
彼は唇を噛む。ネメシスが使う手錠の事は良く知っている。直に見た事もある。だからこそ、今回のセギの案に強く反対しなかった。だが、失敗した。彼を責めてはいけないと分かっていても、胸に溜まる何かはある。
「今日、何日だ」
「一月三日の、夕刻だ。セギも、そろそろ、謁見を、終える」
まさかこのタイミングで彼の名前が出るとも思わなかったレン。ほんの少し声が上擦った。
「セギ? 謁見って、何処に行ったんだ」
まだ、この情報は彼に伝わっていなかったらしい。口が滑ったと思いつつも、オルガナは素直に答えた。
「エルドレアだ。メルデス、からの、書簡を、持って……セギが、自ら、申し出た」
レンは少し驚いたように目を見開いたが「そうか」とつれない返事を返すだけにとどまった。
メルデスを救う為、レンは十数時間もの間メスを握り続けた。さらに、その容態が安定する迄は彼の傍をほとんど離れることも無く、レンがこの自室兼医務室へ戻ったのは二日の昼前。おざなりに食事をとることはあったが、それ以外は何もせずに此処で体を休めていた。身体の怠さは否めないが、それ以上に張り詰めた神経が彼を深く眠らせてくれないのだ。
「この後、会議でもあるのか」
残りの水を飲み干したレンは煙草に手を伸ばしつつ、オルガナに訊ねた。小言を言おうかと迷ったが、オルガナはグッと堪えることにする。彼はそんな視線に気付かないのかライターで先を炙り、一服を果たした。煙がゆらりと線を引く。
「ああ。その前に、少し、様子を、見に来た、だけだ」
──柄にもないことを。と、お互いに思ったが口には出さない。オルガナは脚を組み替え、レンは灰を落とすことで誤魔化した。黒い吸殻の上に白い雪が積もる。
「てっきり、メルデスの容態を聴きに来たのかと思った。違うのか?」
煮え切らない会話に、レンが先手を打った。血の繋がった妹の事をよく知る彼だからこその発言。ホッと息を吐いたオルガナは首肯した。
やっぱりな、と目を細める。ハーブを利かせた独自調合の煙草の香りに包まれながら、脳内を整理した。
「右側の肺を殆ど摘出した。菊川の奴、相当殺意が強かったんだろう。刃を捻っていやがった」
まだ鮮やかに残る手術の光景を思い起こしながら話すレン。そっとオルガナを見遣るが、反応があまり無い。彼女の表情筋が動くことがあまり無いことはいつもの事。構わず続ける。
「正直、それ以上に出血が酷くてな。脳がダメージを受けている可能性が高い」
「何らかの、障害が、予想、されるのか」
オルガナなりに相槌を打ったつもりだったのだが、レンは顔を暗くした。
「目覚めるかどうかも、分からねぇ」
そう言ったレンの声が震えているようにオルガナは感じた。
───目覚めるかどうかも分からない。
彼が生きているならばそれで良い、と誰もが口を揃えて言うだろう。彼女も勿論、手術が成功したと聞いた時は胸を撫で下ろした。
だが、現実へ目を向ければ、本音では彼を頼りたかったと言わざるを得ない。
長い前髪の間を覗くと、レンが眉間に皺を寄せている。彼女はこの表情が意味する感情を知っていた。
「メルデス……あの野郎。あれだけ、危ない事はするなって言ったのに」
「レン、灰が、落ちるぞ」
彼への怒りに視界が狭まったレンを宥めるつもりで教えてやったオルガナ。
「死にに行くようなマネしやがって……。唯でさえ長くねぇんだぞ」
雑に灰を落としながら口走った言葉を聞き逃さなかった。と言うよりは、この様な言葉を待っていたに近いだろうか。彼女が此処へ来た真の目的。それは、彼の秘密を知る為。
「その事、だが。そろそろ、本当の、事を、言ったら、どうだ」
オルガナに向き直ろうとした、そのままの姿勢でフリーズしたレン。目だけが、縋るようにオルガナを捉えていた。今のは無かった事にしてくれ、と言いたげな視線。だが、彼女は畳み掛ける。
「メルデスは、病気、なのだろう。何の、病だ。こうなった、今、隠す、必要も、無い、だろう」
逃げられない。レンは直感した。先程オルガナがエルドレアの名前を出したあたりから何となくそんな気はしていた。これまで以上の協力を仰ぐとなれば、相応の説明を求められるに違いない。
否、それ以上に、メルデスと共にいる時間が長かったオルガナが知りたがるのは仕方が無いだろう。きっと、彼は何ともないと笑顔を見せていたのだろうが、オルガナも大人だ。何かがある事は強く確信していたに違いない。
「分かった」
観念した様に、彼は瞼を閉じた。指先で煙草を挟んだまま、頭を搔く。少し長く間をとるレン。
そして遂に、その唇が真実を紡ぐ。
「“癌”だ」
──癌。またの名を、悪性腫瘍。
それが、メルデスの病だった。日本語でほんの二文字。だが、それは重くのしかかる。
「何時から……」
鈍器で殴られた様な衝撃に耐えながら、オルガナは出来るだけ冷静にその事実を受け止めようと努力した。
「四年前だ。三年前に一度切ったが、転移の方が早くてな。終いには俺でも切れねえ所にまで進行した」
「そんなに、前から……」
少なくとも、彼女が違和感を感じ始めたのは去年に入ってからだった。時折顔を歪めたり、身体をさするような仕草を目にしていたが、メルデスは「何でもない」の一点張りだった。
「その話をメルデスにした時、あいつ、なんて言ったと思う」
レンの瞳は、真っ直ぐ前を見ていた。だが、脳裏では当時のメルデスが彼に笑いかけていた。不敵な笑みで。
「『仕方ないね』って。笑ってたよ。こいつは馬鹿かって素直に思った。余命宣告までしたってのに」
「ああ。相当な、馬鹿者だ」
何故か、その光景がオルガナにも想像出来た。全てを俯瞰したような物言いが如何にもメルデスらしい。そして、自己犠牲を何とも思わないその思考に若干の歯痒さと憤りを覚える。
レンは短くなった煙草の火を剃り消した。もう、箱は空だった。
「……俺の計算じゃ、メルデスはもってあと半年だ」
「半年、か」
勿論、必ず半年で死ぬという訳では無い。その可能性があると言うだけだ。だが、もしその半年を今のままの彼が迎えれば……。
「これから、どうなる。私たちは。ミュートロギアは」
オルガナは記憶の中の彼に問う。返事をする事など有り得ないと分かっていても、問わずには居られなかった。あの碧い眼が見ていた世界を自分にも見せてはくれないかと切に願った。
「メルデスの事だ。絶対に何かまだ俺達に隠している事がある」
オルガナはその言葉に激しく同意した。セギが託されたという手紙の内容も気になる。
何の用意もなしに彼が生命を擲つような真似はしないだろう。
その時、レンが徐にベッドから降りた。スリッパを履いた彼は一瞬バランスを崩しかけたが、片割れがそれを支えた。体格は多少違えど、サラサラとした美しい銀髪や肌の質などは本当に瓜二つ。
「無理を、するな、レン。何処へ、行く気、だ」
息がかかる程近くから聞こえたその声。抱き留められた背中が温かい。
「会議があるんだろ、俺も行く」
だが、彼が己の脚で自立するよりもオルガナが動くほうが早い。レンの身体をひょいと抱え上げ、ベッドへ強制送還した。彼女の鍛え抜かれた体にはこの程度の事は容易い。
「何しやがる」
「誰が、会議に、出ろと、言った」
「だからって、お前一人で……」
若干雑に投げられた彼は不機嫌になる。何より、双子の妹に投げられたのだ。兄としてのプライドも不貞腐れた。
「医者が、そんな、状態で、何を、する。こんな事を、言って、いられるのも、今の内、だ」
掛け布団越しに彼をベッドへ押さえ付けたオルガナ。姉として今は弟を休ませようという計らいだった。
「これから、忙しく、なるぞ。今度は、私達が、あの子を、守る、番だろう。メルデスが、守った、希望を、絶やしては、いけない」
そう言って、彼女は二人だけの空間から足早に去る。シャァッ、とカーテンが閉ざされる。レンはそれをただ見ているしか出来なかった。大きく深呼吸をした彼は天井を仰いだ。メルデスと二人で隠し続けてきた事を、数年越しで口にした途端に身体の何処かが少し軽くなったような気がした。
オルガナが残した言葉を脳内で反芻するレン。
そう言えば、こだまはどうしているのだろうか、と思い起こす。病は別にして、今の彼の事を言えばどうなるか。それを思えばやはり陰鬱だった。
いずれは会わせてやらないといけないだろう。彼と話が出来る事はもう無いかもしれないと伝えないといけないだろう。だが、少なくとも、菊川の名前は出さない方がいい。彼の病魔よりも、ひた隠しにしなければならない事がある。
こだまにたくさんの隠し事をしてきた。時にはそれを塗り隠す嘘もついてきた。然しそれはこれからも変わらないだろう、とレンは確信する。
もしも、奇跡が起きて彼が目覚めた時、変わらぬ笑顔で二人が見つめあえたら──たったそれだけの想いだった。
だが、その思考も唐突に訪れた睡魔に阻害された。霞む光。布団へ潜り込む衣擦れの音さえ何故か心地よい。
彼はいつしか、無意識の世界へと誘われていったのである。
□◆□
「なぁなぁ、神威」
二段ベッドの下段、白いマットレスに身を沈めた赤い髪の男がルームメイトの少年に話しかけた。紺のスウェットに、黒の短パンというラフなスタイルの男の腕には奇妙な吸盤が浮かんでいる。さらに、投げ出した脚にはテーピングが巻かれていた。
肉離れと診断された右太股だが、元から回復の早いタイプであり、治癒能力での治療も受けている事もあって、今週中には殆ど治る予定だそうだ。
そんな彼──栁達哉を一瞥した少年は仏頂面のまま「何?」と応答する。
「いや、やっぱいいや」
つれない態度に、達哉は言葉を飲み込んだ。
室内だというのに白いニット帽を深く被った少年は机に向き合い、真新しい拳銃を解体していた。黒いボディーはグロック、そして、整備済みで奥に置かれているのは茶色いグリップに長めの銃身を持つコルトパイソンだ。
神威は学校での戦いの際、愛用していた二丁を何れも放棄してしまっていた。全く同じ型とは言えなかったものの、新品が武器庫に残っていたのは幸いだった。
前の銃もそうだったが、彼は自らの手に馴染むようにオリジナルの改造を加える。戦闘の場面だけでなく、メンテナンスなども大人達から頼まれる程、その手の技術にも定評があるのだ。レンのコルトガバメントなども整備したことがある。
大きめの嘆息を漏らした神威。黒い手をはたと止めた。作業用のマスクを外し、小さく伸びをした。
「返事は貰ってない」
「あれ、なんで分かったの」
頭の後ろで手を組み、天井──と言っても上段のベッドの底──を見つめていた達哉は顔をそちらに向ける。赤茶色の混ざった瞳に映る神威が面倒くさそうに振り向いた。「どうせそんな事だろうとおもった」と除菌シートで手をゴシゴシと擦っている。
「あれから話してたんじゃ無かったのか、こだまと」
あれから、と言うのは鬼の襲撃から脱出して此処へ帰還した後の事。神威はコクと頷いた。
「返事は要らないって言った。ただ、それだけ」
「えっ」
驚きを隠せなかった達哉。身体を軽く起こし、神威の顔を覗きこんだ。だが、彼はそれを避けるように顔を背けた。黒くなったウエットティッシュを汚れを内側にして畳んだかと思うと、ゴミ箱に突っ込んだ。そして、椅子から降り、彼もまたベッドへ倒れ込む。ヒョロりと長い手足を投げ出した。
達哉が寝そべるのとは反対の壁に備え付けられたそれにも二階部分がある。そう、たった二人なのに、この部屋には四人分の寝具がある。元は此処にもう一人の同居人が居たからだ。だが、その同居人は今、消息を絶っている。
「良いのかよ、神威」
「何が」
「何がじゃ無いだろ」
神威の口調が冷たい。少しムキになってしまった、と達哉は少し口を噤んだ。
二人で使うには少々広すぎる部屋は、静寂が肌寒い。時計の音でも有れば良かったものを、デジタルの時計しかない。よって、秒針がカチカチと響くことは無い。消息不明の同居人──菊川大輝がそれを嫌ったからである。
「ボクは、それで良いから」
「そうは言ったって……」
赤いジャージの神威はガサゴソと音を立てたかと思えば、背を向けてしまった。
あれから三日も経っているが、神威がこだまと話をしているのを見たことが無い。達哉だけでは無い、あの場を目撃してしまった同級生等も二人の結末を気にしている。尤も、一般人の生徒達はそれ以上に気を揉む事がある為、口にしないだけだった。
指名手配者となった同級生達の中には気を病んで体調を崩す者も居るという。
「タツヤも分かってる癖に」
「だからって諦める必要は無いだろ」
背中越しに神威は反論を寄越した。達哉もすぐさま反駁する。お節介だとは思いながらも、幼馴染として放っておけなかった。
「諦めた訳じゃない。片想いのままでいいってだけ」
「それ、辛くないのか」
「さあ」
男にしては華奢な背中を見詰めながら、達哉は考える。他人の恋路に人一倍敏感な彼は、この複雑な状況を俯瞰しているつもりだった。だからといって神威にこれ以上言える事が無いのも自覚している。所詮は他人。幼い頃から共に此処で成長して来た、云わば家族同然と言ってもいい彼等だが、必ず何処かで線引きが必要だ。
潮時だ、と達哉は自分に言い聞かせた。
「なぁ、神威」
「何?」
「お前ほんっと、不器用だな」
達哉はゲラゲラと声を上げて笑った。馬鹿にされた神威は体を傾け、笑い転げる赤髪を睨む。だが、その視線を無視する達哉は腹を抱えてベッドで暴れていた。何がそこまで可笑しいのか分からない。
だが、何か言い返さなければ鬱陶しい腹の虫が収まらなかった。白い壁を睨み付けて反撃の言葉を考える。
「そう言うタツヤも不器用な癖に。このチキン野郎」
「うるせー!」
神威にしては珍しい罵言に、達哉はニッと笑った。そして、神威の背後に忍び寄る。彼の気配を消す技術は磨き抜かれている。あの縹川彩善には見破られてしまったが、猛者揃いの銀狼会の大半の意識を掻い潜っていた程だ。神威が気付くコンマ数秒前にはもうその手を伸ばしていた。
「ひゃっ、あはっひぃっ、や、やめっ……やめろっ!」
声変わり中の掠れた声が抵抗するも、達哉は悪戯っぽい笑みをやめない。
「歳上に生意気いいやがって、こんにゃろお! こだまには『先輩』付けてなんでオレには付けてないんだよぉ。このシャイボーイめ。イザという時だけカッコつけやがって」
「うるさいっ、いひぃっ、やめ、ギブっギブギブ!」
壁に押し付けられるように動きを封じられた神威の脇腹をこれでもかと云うくらい擽り倒す達哉。小学生くらいまではこうして三人で遊んでいたものだったと昔が思い出された。
お互い、随分大きくなってしまったらしい。ベッドが大きな音を立てて軋む。
暴れる神威の白いニット帽がズレ落ちた。彼の瞳とおなじ、黒い髪が露わになる。笑い疲れたのか肩で息をし始めたのを見計らって、達哉は手を離した。ゼェゼェと荒く呼吸する神威。
「はっはっは、オレに背中向けるなんざ百年早いんだよ」
ニット帽を拾い上げ、弄ぶ達哉を悔しそうに睨みあげた神威は「うー」と唸り、ゴロンと仰向けになった。その足元をチラと見た達哉は或事に気がついた。気の所為かもしれない、とも思いながら口にする。
「お前、また背が伸びたか?」
特に他意は無かったのだが、指摘された彼の眼が一瞬泳いだように達哉は感じた。
神威は元から小柄で、成長期が来たのも平均より遅かった。去年の夏でやっと160センチに届いたばかりだったように記憶している。しかし、二メートル弱あるベッドに大の字になった神威の姿は一週間前と比べて、突然大きくなったように感じられたのだ。
「……成長期だから」
「いや、知ってるけどさ。まさか、オレよりでかくなるんじゃ無いだろうな?」
「悪い?」
やっと息が落ち着いた神威は余裕が出来たのか、不敵に微笑み返した。達哉は179センチほどある。先月の計測では神威は167センチでまだまだ両者には差があった。
その肌の色からして日本以外の血を持つことは明らかだが、かと言って達哉は彼に体格で負けるのは妙に擽ったく思えた。
「それは困るから、オレ、明日から毎日牛乳飲むわ」
「骨が太くなって終わりじゃない?」
「だぁかぁらぁ、そういう所が生意気だって……」
すぐさま馬乗りになった達哉が両手を構え、神威が慌てて脇腹をガードしたその時。部屋の戸が荒く叩かれた。「なんすかー」と達哉が声を上げた。彼は一切、入室を許可するような事は言った覚えがないのだが鍵がかかっていないドアがスライドされる。
「なにしとん」
男が男の上に馬乗りになっている。上の男は今にもその手を伸ばそうとしていて、下の男は──誤解している彼女から見れば──腕をクロスさせて胸元を守っているように見えた。
黒い髪をお下げにし、細身のパンツスタイルの若い女、望月千鶴は元から少し気の強そうな目をしている。だが、今は汚物を見るように細められていた。
「ウチの可愛い神威くんにまで手ぇ出して……」
「いや、パイセン。違っ」
「天誅ぅううう!」
千鶴の流れるような動きから、鋭い手刀が達哉のツンツン頭を襲う。逃げようにも完治していない脚に加え、狭い二段ベッドの下段の空間。チョップをモロに食らった達哉は「あぅ」と頭を抱え、涙目で蹲った。
その手からニット帽を奪還した神威はまた深く被り直す。
「千鶴先輩、何か用ですか」
ガミガミと小言を並べ立てる千鶴。その姿はまるで子供を叱る母、もしくは、犬も食わない夫婦喧嘩……。と言っても、神威自身はそんな家庭環境では無かったのだが、このミュートロギアで見聞きした事の中で勝手に推測したに過ぎない。流石に不憫になったのか、神威が落ち着けと言わんばかりに水を差した。
「男にまで手を出し始めたこの女たらしの所為で忘れるところやったわ」
大袈裟に額に手を当てて頭痛のジェスチャーをして見せた千鶴に「だから違うって言ってるっす!」と喚く達哉だが、華麗にスルーされている。
一息ついた千鶴は急に真面目な顔になった。
「セギさんが謁見を終えはったらしいわ。それも踏まえて話したい事があるんやって」
「成程。場所は」
「指揮官室やって。ウチは呼ばれてへんから行かんけど、後で話聞かせて」
神威はコクと頷き、了を示す。達哉も不貞腐れた顔で「うす」と応答した。
それを確認した千鶴は腰に手を当てて達哉をひと睨みしたあと、そそくさと部屋を出て行った。
「ぁあああああ。誤解がまた増えた」
その背中を見送った達哉は項垂れた。
「自業自得」
「うるせー」
神威としては、誤解される事しかしていないのだから当たり前だろうとしか思えなかった。自分とはひと味違う不器用さに苦笑する。
松葉杖を手に取った達哉を見て、彼も腰を上げた。
男二人が肩を並べて小さな戸を潜る。銀色の廊下を並んで歩く。壁は二人の姿をハッキリと写し込んだ。
ある扉に差し掛かると、その足元には一輪の白百合が横たわっていた。ミュートロギアの古くからの慣わしだ。亡くなったメンバーの生活していた部屋の前に一輪だけ花を手向ける。少し先を見てみると、同様の部屋がもうひとつあった。
神威と達哉は顔を見合わせる。何故なら、このフロア一帯は殆どが彼らの同級生、同年代が暮らしているからだ。
「ダイキはきっとまだ生きてるよな。一発殴らねーと気が済まない」
「うん」
二人の部屋の前には何も置いていない。手向ける相手は居ない、それが彼らの認識だった。
ほんの少し立ち止まり、手を合わせた。特に神威は、長く瞼を閉じていた。




