Prolog the 4th
作品でも、現実世界でもあけましておめでとうございます。
では、第四章開幕です。
──現地時刻。一月一日、正午頃。
カン、カン、カン、カンと硬い音が響く。ピンヒールが突き刺す地面はかなり薄い橙色の合成樹脂に被われていた。モデルのような歩き方をする彼女は、その容姿もまた非常に整っている。
長い脚と、凹凸のハッキリしたボディーラインに、赤く塗った唇と対照的な白い肌。黄金に手が届きそうな琥珀の瞳は、真新しい建造物の内部を物珍しそうに眺め回していた。両脇に白い壁が続く廊下。彼女の左側、北向きの窓からは灰色の空と、対照的な白い大地が広がる。さらに、右側には等間隔に扉がついていた。ネームプレートの幾つかは未だに空白である。
帯刀した彼女が歩く度に、ベルトの金具が音を立てた。
彼女の名は、サディ・シュート。国連軍の総合特殊部隊で中将──来春から大将の称号を持つ軍人。今では軍の重要なポジションを担う彼女だが、その齢はたったの二十一。さらに、傭兵上がりという異色の経歴を持つ。
加えて彼女はこの度、一国一城の主と言うのは大袈裟かもしれないが、この施設と特殊部隊を与えられた。その名も異能力応用制圧精鋭隊、通称【PACs】。上層部からの命令はただ一つ。
「好きに使え、か。あの男……相当の切れ者らしい」
「シュート中将!」
ふふ、とほくそ笑んでいた彼女の背中を追ってきた男が呼び止めた。上下の青い制服は下士官クラスである事を示し、胸元のバッジは彼がそのトップの曹長である事を示す。サディからすればかなり位が低い。立ち止まったサディに小走りで近づいた彼は、丁度三歩分程の間を空けて足を止め、敬礼する。
サディもまた、それに砕けた敬礼を返し「楽にしろ」と指示した。
腕を下ろした彼は、さらにもう一歩近づいた。
「御報告です。全ての異能力者の移送が完了致しました」
「そうか。御苦労だったな」
「はっ」
三十代後半のように見える彼は畏まって頭を下げた。少し陥没した目は青い色をしている。
「ところで、死体は上がりそうか?」
「それは……」
腕を組んだ彼女の立ち姿は、さらに威圧感を与える。サディとしては、今の所そんな気はサラサラないのだが、下々からすれば畏怖に値するようだ。
「あの男が属していた島国のマフィア。ぎ……何と言ったかな」
「銀狼会でしょうか」
「それだ。中々しぶとい奴が多いと聞く。結局、組長の首も取れなかったのだろう?」
「は、はい……」
どんどん声が小さくなる曹長。彼らが直に銀狼会と交戦した訳では無いが、周囲の小さなヤクザを買収するのに暗躍した身としては肩身が狭いのも仕方あるまい。
サディは目を細めた。曹長の前へ一歩進み出る。彼らの距離はもう殆ど無い。彼女の黄色い瞳が彼を舐め回した。シュルシュルと蛇が巻き付くように、冷たい感触が背筋を撫でたように彼は思い、鳥肌が立つ。
「其方はこちらで何とかする予定だ。一先ず全隊を撤退させる。お前達も試作品の試乗ばかりで飽きているだろうが、もう暫く耐えてくれ」
「はっ……」
「下がって良いぞ」
一刻も早くこの場を離れたい。顔にも出せないその恐怖が彼を急き立てる。ぎこちない敬礼を済ませると、足早に元来た道を引き返して行った。
その背中を見送るサディ。眉をひそめて小首を傾げていた。
「アンタ、相当怖がられてるんだねぇ。ワザと?」
「まさか。部下には日頃の感謝と敬意を持って接しているよ」
いつの間にか、妙な出で立ちの男が斜め後ろに立っていた。地味な色の半袖のTシャツに、細身のジーンズパンツ。腰には赤いチェックのシャツを巻き付けているというラフすぎる格好。さらに、黒い髪はボサボサで、目が見えない程前髪を伸ばしている。彼は白い壁に背を預け、ニシシと薄気味悪い笑みを浮かべていた。
振り返ったサディはヤレヤレと肩を竦めてみせる。
「まぁ、あの様子では尉官止まりだろうな。佐官クラスの男達のように爪を研いでいるような方が私は好みだ」
「へー。こんな早々にアンタの男の趣味が聞けるとは思ってなかったよ、サディ・シュート」
「勘違いをしてもらっては困るな、ダラス.D.デイビス。それを屈服させるのが趣味なだけだ」
深みのある女声がハハと笑うのにつられ、ダラス.D.デイビスと呼ばれた彼も笑った。暫く笑いあった二人。少し落ち着いたところでダラスが口を開く。
「ファーストネームだけにしてよ、サディ。オレさ、ファミリーネームで呼ばれんの嫌いなの」
「それは失礼したな。以後気をつけよう」
先程の曹長とはうってかわり、ダラスの口調はあまりにも砕けている。だが、それを気にする様子もないサディはむしろ、コレを好ましくさえ思っていた。
「思っていたよりもお前とは馬が合うらしい。この後の仕事も上手く行きそうだな」
満足げな彼女の言葉に、ダラスは相変わらずニタニタとしている。「本当に意外だったよ」と目を細めるサディ。
このダラスという男。彼が操るのは重力。正しくは、重力加速度を任意の空間や、任意の物質に対して操作出来る。ランク付けはあの本城夕妃と同じくSランク。過去に、家族全員をその能力を以て圧殺したという経歴を持ち、相当の癖物だと聞いていただけにサディは拍子抜けした気分である。
「なぁなぁ、オレ、今すげぇ暇なんだけど」
「それは申し訳ない。もう暫し待ってくれ。先にちょっとした検査を受けてもらいたいのだよ」
「検査ぁ? 三十路のオッサン捕まえて、糖尿病がどうのとか言いたいの?」
ケラケラと笑うダラス。そう、こんな調子の彼だが、歳は菅谷やメルデスと同じ。つい最近三十一歳になったばかり。その態度や口調、見た目からはそう見えないが、彼曰く「自由気ままに生きてれば歳は取らない」と語る。
「まさか。知り合いの研究者がサンプルを欲しがっているだけだ。どうしても嫌だと言うのならば構わんが」
「別に?」
ダラスの冗談を笑ったサディ。手袋をした手を顔の前で振り、否定した後、事情を大まかに説明した。そして、ダラスの間髪入れない承諾に満足げに微笑む。
「それは良かった。部下に呼びに行かせるから、それ迄待っていてくれ。そうだな、部屋に何か用意させよう。何がいい?」
「いや、別にいいよ。その代わり、適当にウロつかせて貰う」
「そうか。構わんが、くれぐれも進入禁止区域には入らないでくれ。面倒事は避けたいのでな」
はいはい、と浮ついた返事で肩を竦めたダラス。その態度はあたかも彼らが旧知の中のようである。全くそんなことは無いのだが。さらに言えば、両者の年齢は約一周り違う。
「ひとつ、私から質問をしても良いか?」
「いいよ?」
ジーンズのポケットに手を突っ込み「どこ行こっかなー」などと言っていた彼。ユラユラと身体を揺らしながらサディの方を向き直す。
「これは単なる、私の興味の範疇だが……あの時、どうしてコチラ側についた?」
あの時、と言うのは勿論ネメシスの事務所での事だろう。上機嫌だったダラスの表情が若干強ばる。だが、それでも彼は頬を引き攣らせるように笑っていた。
「言ったじゃん。オレさ、気分屋なの」
手を広げ、大袈裟に弁舌するダラス。
「五年前にネメシスに残ったのだって、他に行くとこないし、行ったところで楽しくないかも知んないでしょ? 唯それだけ」
「……成程。それは、賢明な判断だったな」
彼は、その時。サディの口調──またはそれが含む何かが変わったのを聞き逃さなかった。だが、それを顔に出さないのが彼でもあった。
「でしょ? オレ、基本的に非合理なの嫌いだし」
「奇遇だな。私もだよ。本当に気が合うな。その五年前の事も後々聞かせてくれ」
元の空気感に戻ったサディ。ダラスは拭い切れない違和感を心に留めつつ「そうだねぇ」と頭を掻いた。
「では、私はこれから行く所があるのでな。今度は茶でも飲みながら話をしよう」
「オッケー」
さっきの曹長の真似だろうか。ダラスは細長い腕を上げ、手を額に近づけて敬礼して見せた。ただ、敬礼と言っても本人にはサラサラその気は無い。そういう仕草をしたと言うだけである。
それが分かっていながらも、サディも敬礼を返し、悠然と立ち去っていく。
背筋を伸ばし立ち去る姿はやはり美しい。
「てか、アイツらに失望したってのが本音なんだけどねー。特に……ま、いっか」
だが、ダラスはそんな物には興味が無いというように、背を向けて歩き出した。その呟きを聞いていた者は恐らくいないだろう。
草臥れた革のブーツで闊歩するダラスの姿が、通路の奥へと吸い込まれるように消えた。
□◆□
大きな双球を抱え上げるように腕を組む茜は、外の轟音を聞き流しながら、過去に思いを馳せていた。サディがスラスラと並べ立てた事はどれも事実だ。
ごく一般の家庭に生まれた茜。身体の異変は幼い頃、彼女が二歳になった頃から認められた。テーブルの奥にある物を取ろうとしたその手先がリボン状に解けて伸びた。彼女がそれを異常だと思うには幼過ぎた。大抵の場合、異能があると分かった時点で悲しい事だが子供を手放す親が多い。
だが、非常に幸運な事に彼女の親はそうでは無かった。
それまでの人生に於いて異能をひた隠しに出来ていたのも両親の加護があってこそである。周囲に溶け込む術を共に考え、彼女に教え、普通の暮らしが出来るように手を取った。
高校生の頃、不慮の事故により死別してしまったが、自暴自棄にならず社会に脚を踏み込めたのも彼らが茜に遺した愛情に他ならない。
「降りろ」
女の背中をグイと突いたのは、短機関銃の銃口だった。追憶を邪魔された彼女は小柄な身体に不釣り合いな大きな胸を抱えて背後に噛み付いた。
「言われなくても降りるわよ」
「生意気な小娘だ。異能力者だからって、調子乗るんじゃねぇぞ」
両者の不機嫌があからさまに衝突しあう。地に足を下ろした彼女──元ネメシスの輪堂茜は吹き付ける強風に足を踏ん張る。真っ白の大地から巻き上がった粉雪が素肌に叩きつけた。
陸自での寒中訓練を思い出す様な広い大地に気が滅入る。黒い細身のジャケットではさすがの茜も少々肌寒い。
高校卒業後、彼女は予てから憧れていた陸上自衛隊へ入隊した。本来、異能が入隊出来ないその組織に入れたのも両親が色々な準備をしてくれていたからだった。
だがそれも長くは続かなかった。
ちょっとした油断が仇となり、制御剤──異能力を抑える薬──の使用が表沙汰になった。長期遠征での出来事だった。思い出したくも無い。背中を預け合っていた仲間の視線も、全てを失った後のことも。彼女の手元に残ったのは、両親が残してくれた独りには広すぎる家と、弾が一発だけ込められたかつての愛銃だった。
生きる価値がない、激しい罵詈雑言や暴力の後そう言い放った上官の意思だった。
「これこれ、レアルド中尉。彼女はもっと丁重に扱っておやりなさい」
ヘリコプターから降りた茜を十名ほどの男女が待ち構えていた。そして、彼女は絶句する。背後の男への苛立ちさえも掻き消えるほどの感情に支配された。
それは、恐怖。過去が不意に彼女を襲う。
最も正面に立つ男は、茜と同じく日本人だった。ファー付きの分厚いコートに身を包む。胸元には赤いリボン付きのバッジと、腕にはUNAの腕章。雪原には似合わない、黒い顔で彼は微笑んでいた。
「陸曹長……ッ?」
「その呼び方はよしてくれるかね。この私が四年前と同じ階級だと思うか? 答えは否だ。よく生きていたね」
震える茜に近づく彼──名を、久慈山利彰という。彼女が日本の陸上自衛隊に居た頃は確かに陸曹長という階級にいた。それも、茜の隊の直属の上司として。
彼こそ、任を解かれ、追放処分となった茜に拳銃を送り付けた張本人である。苦虫を噛み潰したような顔で歩み寄ってくる。しかし、途端に笑顔を見せた。
「お前には感謝しなくては。あの時は昇進話があぶくになって酒が進んだが、お前という存在に関わった事で大尉にまで取り立てて頂いたのだよ」
茜は、彼の言うことが理解出来なかった。隠し切れない動悸だけではない。自分という存在と今の状況の関連性が見えてこない。確かに、国際連合軍であるUNAには毎年数名の隊員が出入りする。しかし、やはり何かがおかしい。
「あまり話すと中将様に怒られるのでこの辺にしようか」
その疑問を言葉に出来ないままに、久慈山は口を閉ざしてしまう。さらに、彼は茜の肩に手を置いて囁く。肩が大きくビクッと揺れる。
「ようこそ輪堂茜。異能力応用制圧精鋭隊、第二部隊──通称FREAKSへ」
「な、何よそれ……」
「いずれ分かるさ。強いて言うならば、君をお手本とした特装部隊だよ」
茜が必死に絞り出せたのは、それだけだった。萎縮する彼女の肩を抱きエスコートする久慈山。彼の部下だと思われる男女の視線が冷たく刺さる。
行きたくない、ネメシスへ戻りたい。そう心が叫んでいるのに、この男には逆らえない。足が一歩二歩と前へ出てしまう。レアルド中尉と呼ばれた男も、部下と思われる女に銃を預けてそれに続く。茜を囲い込むように、周囲も陣形をとった。
今ここで、能力を使ってこの男を絞め上げれば……そんな反抗心さえも起きない。上司に対する絶対服従、ちょっとした不協和音さえも許されない集団主義の地獄。互いが互いを監視し合うようなあの生活が奥にそびえる建物から茜に手招きをしていた。
その建造物は、まるで乳白色のブロックを幾つも切り取ったような形をしている。上の階に行くほど大きな窓が嵌められ、いくつかの棟は渡り廊下で繋がれていた。
その中央には一つだけ異質な建物があった。天を突き刺さんばかりに伸びたそれだけは円筒状で、基幹施設だろうと見て取れる。
「ダラスさん……」
彼女は、手前の建物の三階部分に見慣れた男の横顔を見た。
皆はどうなってしまったのだろうか。ほんの数時間前まで一緒に居たはずなのに、恋しさのようなものが募りに募る。しかし、無慈悲にも彼女が行く先は地下のオフィスでは無い。
あの場所はもうない。
気がつくと、彼女はある扉の前に立たされていた。木で作られた、温かみのある板にドアノブが生えている。
「さぁ、ここが輪堂特別顧問の個室だ」
「特別顧問?」
「そうさ。君は兵士の中でも少しばかり特別扱いされる事になっている。それも全て、サディ・シュート中将の計らいだよ。君も、あの御方に感謝しなさい」
久慈山に促されるまま、部屋の奥へと押し込まれる茜。新築のアパートのような、そんな臭いがする。生活に必要なものは一式揃っているように見える。簡素なベッドにデスクセット、簡単な本棚の横にはドレッサーが備え付けられていた。
見ようによっては極めて普通の部屋だ。だが、少し高めに取り付けられた窓には鉄格子が嵌められ、何処か牢獄の様にも感じられる。
ふと見上げた壁には紺色のような、深緑のような色のジャケットが吊り下げられていた。
「ここでの制服さ。今後、外に出る時はそれを着て出る事」
茜の視線を察した彼はそう告げた。すっかり閉口してしまった茜に微笑みかける。
「長旅で疲れただろう。宵には晩餐会も予定されているから参加するといい。いや、こう言うと来ないか。必ず出席するように。どうしても出てこなければ迎えを寄越すぞ」
何処までも高圧的な態度を崩さない久慈山。何がおかしいのか、実に愉快そうに頬を歪めたまま部屋を後にした。雑に扉が閉ざされる音が悲しく響く。
独り、四畳程の部屋に取り残され立ち尽くす茜。
「なんで……なんで、こんな……」
ヘナヘナとそこにへたり混んだ茜の頬を、温かい物が伝う。白い肌を這った水脈は顎からぽたぽたと水滴を落とす。土足のまま上がり込んだ板目調の床面が濡れた。胸を押さえ、せり上がる何かをぐっと堪える。
「菅谷先輩。何故……私では、私達では足手まといですか」
異能力者である自分に差し伸べられた手の数は数えられるほどしかない。その中でも既に他界した茜の両親と肩を並べるほど温かかったのは菅谷の手だった、彼女はそう思っている。冷え症だからと、真夏でも長袖を着る彼の大きな手は何時だって温もっていた。
──コンコンコンッ。
ハッと顔を上げる。音源は斜め上の窓。鉄格子に手を差し込み、ガラスを叩く手。
まさか──そんなことは無いと思いながらも、涙を拭い、机に飛び乗った。磨りガラスの向こうに人影が見える。窓は内側から開けられる。
廊下に人がいるかどうかは分からないが、音を聞かれることがないようにそっとスライドさせた。
「あぁ、やっぱりか」
「旭、さん?」
「どうした輪堂ちゃん。鼻が赤いぜ?」
そこから見えたのは、彼女が期待した顔ではなかった。
男は、茜の部屋の外に備えられた室外機の上に乗っていた。酒やけした声が茜に囁いてくる。白いワイシャツに赤いネクタイの彼、旭大輔は茜の泣き腫らした顔を見て、何があったんだと訊ねた。
狐につままれたような顔をしていた茜だったが、やっとの事で我が身に起きたことを話す。彼もまた、菅谷と共に彼女を引き抜きに行く際に同席していた為、事情は知っている。
静かに耳を傾けた。
「成程な。そりゃあ辛いだろうよ」
「旭さんを責める訳じゃ無いです。でも……!」
「別に責めてくれたっていいんだぜ、輪堂ちゃん。結局俺は自分を優先したんだからな。そうじゃなけりゃ、ダラスの気も変わらなかっただろうよ」
茜が言わんとした事を悟った彼は、黒い瞳を茜に向けた。あの時、サディの言葉を聞いても尚、抵抗の意思を見せていれば、あの場から脱出できたかもしれない。旭はそれを重々承知していた。
「処で、その久慈山って男が言った『PACs』なんだがな。少し分かった事がある」
突如、話を変えた旭。
彼は茜よりも数時間早くこの施設に到着していた。彼もまた個室が与えられた上に自由にして良いと言われた為、施設内外を視察していたのだった。
「今年から試験導入された国連軍の極秘部隊らしい。それは別にいいんだが、大事なのはこっからだ」
茜は声を発することなく、相槌を打つ。
とんでもない事に巻き込まれている、そう確信している旭は深い溜息をついた。娘の事と天秤にかけることは出来ない迄も、酷く恐ろしい事の当事者となる為のトリガーを引いてしまったのは自分だ、と。
「異能を軍事利用しようとしているらしい。それも、人工的に異能を行使することで」
彼女の中で、久慈山の言葉が再生される。自分を手本とした部隊……。ハッとした茜は顔を上げた。旭は深刻そうに頷いていた。
「実は、ティナも探したんだが、アイツは地下に連れていかれたよ。白衣を着た連中にな」
ティナの異能は、紙に書いた文字からその物体を作り出す。ありふれた発火能力や水流操作などと比べれば、所謂、具現化系統の能力というのは非常に稀である。旭の言うことが正しければ、彼は実験体として連れていかれたことになる。
茜は身震いした。
「輪堂ちゃんも気をつけた方がいい。俺も後から採血をするだの言われてるが、それだけでは済まないかもしれねぇ」
「どうしたらいいんですか」
「すまんが、それはなんとも言えねぇ。ケースバイケースだ。恐らく、殺してくることは無いだろうがな」
ティナの事も勿論心配だったが、我が身もまた更なる断崖絶壁の淵へと立たされたのだ。
「ダラスは自分でどうにかするだろうが、残りの二人にも知らせておかねぇと……」
「トネリコとライラ、ですか」
「あぁ。見てねぇか?」
「いいえ。そう言えば、途中経由地でも見かけなかった……」
「そうか。まぁどうにかしてみる」
各々別のヘリに押し込まれていた彼らは、あの二人に起こった事を知らない。
立ち去る素振りをした旭の顔を、茜は無意識に追っていた。情けないとは思いながらも、行かないで欲しいと目で訴えた。酒や煙草に溺れ、人妻がどうのと熱弁し、セクハラ紛いのちょっかいを掛けてくる旭だが、あの菅谷が認めたネメシスの中核であった事に変わりはなかった。そして、今頼れる相手は彼しかいない。
「おいおい、そんな目で見るんじゃねえよ。最初は落胆した顔してた癖に。オジサンが変な妄想しちまうだろ?」
小皺が目立つ顔をクシャリとさせた旭。茜の淡い期待はお見通しだったらしい。「そんな訳ないじゃないですか!」と慌てた茜に苦笑する。
「菅谷はきっと大丈夫だ」
「そうだといいですが……」
「そう気を落とすなよ、輪堂ちゃん。先ずは自分の心配してな」
遂に、旭が立ち上がる。赤いネクタイについたタイピンが僅かな日光を弾いてキラリと光った。未だに曇ったままの茜の顔。眩しさに目を細める。
「紙面上はネメシスが無くなっちまったが、俺達が居る、此処で息してる。そうだろ?」
これでは背を向けられないと、旭の中の何かが疼いた。そして、彼は気づく。五年前に生き別れた娘に彼女を重ねているのだと。あの時は寧ろ、ネメシスを優先したが故の離別だった。実の所、指輪をしていた頃でさえ娘と接する事が極端に少なかった。
自分はあの頃と何も変わっていないのだと、自虐的に微笑した。
「今の所、俺達の行動もそこまで制限されちゃいない。あの女がどう出るか解らねぇが、それ迄はこっちも勝手にさせてもらおうじゃねぇの」
「そう、ですね」
「じゃあ、輪堂ちゃん。幸運を」
「旭さんもお気をつけて」
茜の視界から中年男が姿を消す。ザク、と固い雪が砕ける音がした。
足元の冷たさにくしゃみをした旭。徐ろに面をあげる。厚い雲の割れ目から白光が差し込んでいた。その少し下、建物の最上階の窓からの視線と彼のそれが搗ち合う。
背後で窓が閉じる音がするのを待って、彼は低い声を唸らせた。
「何もかも失ったオッサンだと思っちゃ困るぜ、サディ・シュート」
その声は届くはずも無いが、旭が居る中庭を見下ろしていた若き将軍はほくそ笑んだ。
踵を返したその背中を見送る彼女の心中は妙に昂っていた。この状況で足掻こうとする冴えない中年男を嘲笑うのか、または、彼女達がこれから始めようとする事への大きな期待か。
「せいぜい、抗えるものなら抗ってご覧。ネメシスの諸君」
薄暗い廊下。窓枠に身を預ける彼女の美しい顔には満面の笑みが浮かんでいた。




