歪な天秤
白髪混じりの老人が一人、冷たい廊下を小走りで奥へと進んでいた。アンティーク調のランプが細々と灯され、木の香りを放つ床面を暖かい色に染め上げる。
彼は突然方向を変え、階段にたどり着く。人の手垢が染み込み赤い光沢を放つ手すりを掴んで大急ぎで駆け上がる。その足元は室内にも関わらず土足であった。そして、彼のシワが深く入った右手には銀色の鍵が握られている。
穏やかそうに見える顔立ちの彼の額には大粒の汗が浮かんでいた。
「鬼ごっこはもういいでしょう。貴方を守るあの女はもう葬りましたから」
背後から何者かがその男の背を捉えた。獣のような爪に引き裂かれる背中。暗い鳶色のニットベストがパックリと割れる。
しかし、奇妙な事に流血が一滴もない。
襲撃者の表情が歪む。黒い瞳が睨む先で老人のシルエットは煙を上げながら縮小し、遂には一枚の紙切れになった。
「チッ……小癪な」
チャリ、という音とともに地に落ちた銀の鍵。タグには「美術室」とあった。それを男は黒光りする革靴で踏み付けた。金属は変形し、プラスチック製のプレートは粉々に砕けた。
苛立つ彼──第三の鬼である速水尊が掴んだ手すりがグシャリと歪んだ。まるで、発泡スチロールで作った模型かのように、いとも容易く。
こんな時、彼はいつも誰かに蔑まれ見下されているように感じる。否、実際にそれを経験したからこその幻想が彼を虐めるのだった。
「予定外の事ばかりだ。それがいちばん気に食わないね」
その幻影を振り払うように、窮屈だったジャケットのボタンを引きちぎって全開にした。濃青色のネクタイがゆらりと揺れる。
そして彼は精神を研ぎ澄ます。
中庭で聞こえるガラガラという音、バラバラと不揃いな大人数の足音。咽び泣く声と、恐怖に震える吐息。強化された彼の聴覚に様々なサウンドが一挙に詰め掛けた。しかし、その中でも確かに見つけた。二人分の足音。彼の足の下の方からだった。
「何方もフェイクとは……舐められたもんだねぇ」
彼は決して異能力を持って生まれた訳では無い。よって、先に出現した他の鬼とは異なり超常的な力を飛躍させることは無かった。だが、始祖の鬼による強化は人間そのものが持つ力さえも大きく高める。
そもそも彼は、本当にごく普通の人間だった。一般の家庭に生まれ、一般の公立学校で義務教育を終え、高くも低くもない偏差値の高等学校へ。なにか飛び抜けた才能とやらを感じたことは無い。唯一あるとすれば、ある種の諦めの悪さと負けん気の強さ、我慢強さだった。
そして尊は高校卒業と同時に警察学校を経て機動隊に入った。幼い頃から憧れた刑事という仕事を夢見て。だが、そこからが彼の本当の地獄だったのは言うまでもない。学歴とツテが物を言う階級社会。
──振り下ろした拳が地を割った。蜘蛛の巣状に広がるヒビ。たちまちに尊の足元の床は下の階の天井を巻き込んで崩落した。ビルの解体現場のような破壊音が狭い廊下に反響する。
「折角のスーツが……くふっ、ふふはははは」
木片やコンクリート片の山の頂上で、尊は服に覆いかぶさった白い砂埃を叩いて落とした。怪我ひとつ負っていない。むしろ、彼は優越に微笑んでいた。自らが手にした力の強大さに酔っているとでも言えるだろうか。
そんな彼はふと窓の外の景色に目をやった。歩み寄れば、美しい赤茶のレンガが積まれたアンティークな装いの壁面が向こう側に見える。スガガガッ、という掃射音がそのさらに向こう側から回り込んできた。あちらでは戦闘が始まったらしい。脳裏をよぎるのは幼馴染である一人の女。自分たちの会話に水を差したむさくるしい男を庇った哀れな女。冷笑が浮かぶ。
「お嬢の手間を増やしたかなぁ。ま、彼奴も産まれながらにして何でも持っていたタイプの人間だ。ここらで一つ苦労を知ればいいさ」
目を細め、鼻をフンと鳴らした。
その時、彼が立つ数メートル先のガラス窓が派手に割れる音がした。少し驚いたように振り返る。
「あーあー。派手な音がすると思って来てみたら……創立200年の文化財級の建物ッスよ? スーツどころの話じゃないっす」
「刺客かな? まさか、外から回ってくるなんて思わなかったなぁ……それに、その様子だと暫くこっちを観察していたらしい。感心するよ」
「そりゃどうも」
身体ごと向き直った尊は、得体の知れないものを見るような視線で外からの侵入者を眺め回す。赤い髪に挑発的な目線。下にいた学生達とおなじ白シャツとネクタイだが、そのネクタイはだらしなく緩められ、胸元は少し大きめに開襟されていた。捲し上げた制服の袖から伸びる逞しい腕が持つ短刀。足元はどういう訳か裸足である。彼以外の姿はない。
「その手足、異能か。異能という存在はそのものが不快だけど、それは特に気色が悪い」
彼は達哉の腕に浮かぶ吸盤を一瞥し、鼻で笑った。そして、黒のジャケットを脱ぎ捨てる。
「イヤミのつもりだろうけど、もうそれは慣れっこっす」
しかし、達哉も負けていない。ニヤリと笑い、刀を尊へ向ける。両者の緊張が高まる。
達哉は重心を爪先に寄せ、腰を落とす。飛び出す準備は万全だった。
「揃いも揃って、何故君たちはそんなチンケな武器に拘るのか分からないね。剣道をしていた身だけど、現実問題あんなもの役には立たないさ。見ただろ、下で俺達にいいように使われてる国家の犬の成れの果てを」
手を大きく広げ、雄弁する尊。随分と色々なものを見下しているようだ。達哉は何処か不快な気分を感じざるを得ない。
「実にいい気分だったよ。腐り切った組織をざっくり斬り捨ててやったんだ。正義の天秤の傾くがままにね……!」
そして、尊が動く。タメなど一切無く、なのに、爆発的な加速度を生み出す。予備動作無しの攻撃は敵にも準備時間を与えない。
「まじかよッ」
迫り来る大爪と達哉の刀が切り結ぶ。一瞬飛び散った閃光。
さらに、もう片方の腕が彼を襲う。
本来、双刀使いの達哉。故にこのようなリーチの短い刀でも充分な戦闘力を有していたが、今はそうではない。神威ほど用意周到ではなかった。
二方向からの攻撃は受けきれない。
そして彼は、切り結ぶ点を支えにめいいっぱい跳躍する。空を切る爪を避け、空中で体をひねり、左の掌と両足の踵に移した吸盤で天井に張り付いた。
「クモみたいな動きをするんだねぇ。驚いたよ。少しは憂さ晴らしの相手になってくれそうだ」
満更でもない顔で振り返る尊。息ひとつ上がっていない。
対する達哉は右脚、それも大腿部の痛みに顔を顰めていた。周囲の筋肉が軽く痙攣している。
(このタイミングで攣るとかダサすぎるだろ!)
尊に悟られぬよう、心の中で自らを叱る。こむら返りを起こしている時に無理に動かさない方がいいのは百も承知だ。しかし、鬼は待ってはくれない。
ガラガラという不気味な音。音源を見た達哉の額に汗が滲む。
天井を蹴り、廊下の対面側の壁に飛び移った。彼が今さっきまで貼り付いていたその場所に、巨大な鉄筋が突き刺さった。それは、尊が片手で投げたもの。達哉の動きを興味深そうに観察し、続けざまにコンクリート片を投擲する。先程の鉄骨より小さく軽い。しかし、速さは格段に違う。
「ッ!」
痛む太腿を庇う暇もなく次の跳躍、そして、ストンと着地した床面には木片が矢のように降り注ぐ。彼は刀を振るいそれらを弾いた。
回避しかしない──正確には、回避しかできない達哉を見る尊。その手を止めた。
「なぜ攻めてこない。つまらないなぁ」
心底残念そうな嘆息。だが、そもそも達哉の目的は鬼の撃破ではない。夕妃が言っていた通り、被害を最小限にしてここから脱出すること。
そして、その為にも地下の電源の在処を知っている教頭とそれに同行する千鶴の安全を確保すること。それが彼のミッションだ。
束の間の休息に一つ息をついた。
「あぁ、そうか。そう言えばお前や妙な術を使う女の目的は時間稼ぎだったか。ははは」
「今更遅いっすよ。それに、絶対にオレがここでアンタを止める」
ようやく合点がいったような顔をする尊。自嘲気味に頬を引き攣らせ、声を上げて笑った。
意外な展開にどう反応すべきかと眉を顰める達哉。今までの鬼は単独で攻めてきた上に、それなりの策略があった。あの第一の鬼も戦闘狂の気があるとは聞いていたが、それでもあのメルデスを出し抜いたあたりは相当の知能犯でもあると言える。だが、目の前のこの男は違う。まるで子供のような幼稚さがある。
(話あわせてやれば勝手に自滅してくれるタイプじゃねーか、これ)
足の攣りは未だに止まらない。むしろ、酷くなっている。少なくともこれを解消出来るまで引き伸ばすことが出来れば上手く誘導にのせて立ち振る舞えるのでは。そういう考えだった。
「これだから俺は……はははは、あははは」
「一言言わせて貰うっすよ、お兄さん。なんかさぁ、頭弱いッスよね」
呆れた達哉が放った一言。しかしそれは完全に裏目に出た。
尊が静止する。黒い瞳の周りが赤く血走り、毛が逆立つ。先刻とは比べ物にならないような暗黒な何かが彼を取り巻く。
軽口を叩いた口が乾く感じがする。
「今、何つった……この、異端の害獣が……!」
「おっと、マズった」
気づいた時にはもう遅かった。迫るのは異質な右手と狂気に染まる顔。上半身を仰け反らせ、咄嗟に避ける。その時、パチッというような音が微かに右足から聞こえた。
だが、気を取られていては確実に死が待っている。全力で横へ飛び、できるだけ尊と正対関係を保とうとする達哉。
彼の上を飛び去った尊。廊下のフローリングを割り、削り取りながらブレーキをかけた。カッと見開いた目が達哉を睨む。
(或る意味、目的は達成できた気もするけど……こりゃあ命がいくつあっても足りねーってか、アキトはこんな相手とやり合ってたのかよ)
軽く右足を摩りつつ、尊のほんの僅かな動作も見逃さぬよう意識を研ぎ澄ました。
「巫山戯んな……何が学歴だ、何が頭の出来だ。そんなことを言って上層部にのさばる輩こそ屑だ、害虫だ。そして、異能力だとかいう訳の分からない力を産まれながらに持つお前らも同罪だ……! 正義の天秤は常に力無きものに傾く!」
ブツブツと呪詛のように言葉を連ねる尊。その台詞に段々と状況を呑み込めてきた達哉。
目の前の彼の根幹にあるのは【嫉妬】と【憎悪】。【力】を求める【歪んだ信念】。彼の理想はきっと初めは曲がっていなかった筈だ。しかし、世に蔓延る才能や特権という現実が彼の幼い理想に圧をかけた。
だが、達哉の脳裏に同情の文字はない。
「でも今や、アンタもその【屑】の一員になってるっすよ」
「何?」
「異能だって人間っすよ。それを蔑んでるのはアンタだ。それに自分の手を見ればいいんじゃないっすか?」
彼を更に怒りに狂わせるように、自分へ興味を向けさせるように。淡々と言葉を選ぶ達哉。少し踏ん張っただけでも激痛が走る大腿部に、もう期待は持てない。だが、出来るだけその最期の時を延ばすために。
「五月蝿い黙れ……黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ!」
癇癪を起こした子供のように同じ言葉を叫び、頭を搔く。激しい慟哭と喘ぎが交互に訪れる。まるで、違法薬物に犯されたように。
「……丁度いい、真下のヤツらの前で八つ裂きにしてやるよ」
「なッ?」
低く唸るような尊の言葉。
──刹那。彼が床へ突き立てた拳を中心に大きな亀裂が生まれた。それは、三メートルほど離れた達哉の足元にまで及ぶ。先刻、彼が言ったようにこの学舎は建設されてから二百年を優に超える。更には、尊が破壊した瓦礫がこのフロアに既に重圧をかけている。この階が崩落するのに三秒もかからなかった。
「八つ裂きも何も、これだけで死ぬって……!」
ただで死ぬつもりは無い。いや、彼は死ねない。尊は言った。この真下に誰かが居ると。この真下にはスポットなど無い。とすれば、必然とそこにいる人物は絞られる。
落下する身体。頭を守りつつ、回避策を瞬時に探る。
ちょうどその時、自分めがけて降ってくる赤茶けた鉄骨が見えた。やるしかない、彼は決意する。インナーマッスルを最大限に捻り、体勢を整える。体をできるだけ大きく広げて空気抵抗を増やす。それにより、達哉の身体はその鉄骨へ近づいていく。
届いた。彼の指先がそれに触れた。勿論、その指には吸盤がいくつも発生させられている。そして、彼は指先の感覚を頼りにその鉄骨の上端まで上り詰めた。
正しくそのタイミングで、激しい衝撃がしがみつく彼を襲う。
□◆□
時はほんの少し巻き戻る。
廊下をふたつの足音が駆け抜けた。
「ダミーが両方やられました。きっと、こちらを追って来ると思います」
後ろを走る千鶴が呟く。教頭の白髪混じりの頭が振り返った。そして、ピタリと足が止まる。
「ここが地下へ降りられる場所のひとつだ」
「図書館……? 此処は二階じゃないんですか」
年相応に掠れた声が指さした先には重厚感のある扉。木製のそれは小さな隙間から中の心地よいカビの匂いを漂わせていた。小さな窓が嵌められており、中が覗ける。
人の気配はない。
二人がかりでそれをこじ開け、一歩踏み込んだ。蝶番が悲しく鳴く。
バタンと大きな音を立てぬよう、慎重に閉める。先程彼らがのぞき込んだガラス──しかし、それは内側から見ると鏡になっていた。いわゆるマジックミラーというもの。千鶴は凛々しい自分の瞳をマジマジと見つめる。
遠い記憶の誰かにそっくりの目だった。
その時、彼らが居る上の階で何やら大きな物音、否、物音と呼ぶには大き過ぎる破壊音が響いた。
「望月さん、ちょっとこっちに」
部屋の奥、そこにあるのは貸出カウンターだった。年季の入った一枚板の天板が赤く温かな光を孕む。その内側には利用者からは見えないように幾つも引き出しがあり、それぞれに鍵がかかったものまで備え付けられている。教頭を真似て千鶴もその管理人の領地へと足を踏み入れた。彼が目配せしたそこには、特に何も無い。
疑問を口にしようとした千鶴の思考を先回りするように、彼はおもむろに前述の鍵付きの三段棚に触れる。ポケットから出した小さな鍵を先ず真ん中に、次に下に、最後に上に差し込み半時計に回す。
すると、ズズズズズという重い音が千鶴の足の下から聞こえる。
「開かずの倉庫はこのずっと下だ」
教頭は破壊音が何度も響く上の階をしきりに気にしながら告げる。息を呑む千鶴の目線の先、カウンターが奥にズレて元々それに覆われていた場所に空間が出来ていた。黒い口を開けて千鶴達を待ち構えているかのようだった。薄らだが階段のようなものも見える。
いつの間にか飛び出していた引き出しの中からマニュアルのようなものを手に取った彼は二段ほどその階段を降りたところで振り返る。そのシワだらけの手を差し出した。
だが、千鶴は首を横に振った。そして、制服の上に羽織っていた薄茶色のコートを脱ぎ捨てる。
「先生、行ってください。もしもの事が有ればここで私が食い止めます」
「いや、しかし!」
「少しでも時間を稼がなあかん、そうでしょう。先生のさっきの言葉やと、他にもそこに通じる入口がある……先生はそっちから座標に向かってください。転送装置の起動が確認できたら私もすぐに退きます」
そう早口で言い切った千鶴の目は、一度も彼自身の目と合わなかった。教頭はその行動に目を細める。若い頃、いや、つい最近までも幾度となく目にしてきた光景。生徒指導の経験がまさかこんな所にまで及ぶとは到底思ってもいなかったが、彼は直感する。彼女の言葉の中の偽を。
だが、反論出来なかった。彼自身、マニュアルを握る手のひらはインクが滲むのではないかと思うほどに湿っていた上、そのマニュアルも初めて目にするものだ。うまく起動させられる自信などない。自分の手に委ねられたモノの大きさに腰が震える。
「必ず、生きて戻るんだよ。望月さん」
「はい!」
千鶴の返事が何故そうも明るいのか、彼には理解出来なかった。どうして死を目の前にして、力強く笑っていられるのか。あの赤髪の青年や杏色の髪の少女もまた同じ表情をしていた。
不安と疑問を心中に抱きつつ、彼はその暗い階段を壁を頼りに降り始めた。
ズズズと音を立てつつ閉じる床。それを見つめながら、千鶴は大きく深呼吸した。全身の細胞が波打つのが分かる。そう、この感覚だ。彼女の里が炎に包まれたあの日から暫く忘れていた、手のひらの感覚。握った黒い刃がやけに冷たい。
自身の手に、彼女の生命を賭ける。
その時、彼女の肩に白いものが舞い落ちた。それは粉末状で、黒光りするクナイと呼ばれる武器にもパラパラと降り積もる。
「白い粉……?」
そして、彼女は直感的にカウンターの下へと体を滑り込ませた。その直後、図書室という空間そのものが崩落する。シャンデリアは天井にぶら下がったままで地面に叩きつけられ、大きな本棚が押し潰され、それを免れたものも連鎖しながら倒れる。幼子のドミノ遊びに終焉が訪れたかのように。
全く想定できなかった訳では無い。何せ、相手はただの人間ではない。扉を開けて侵入する等といった常識は通用しない。すると思う方が馬鹿らしい。
爆風と落下物の衝撃が吹き荒れるその部屋。じっと耐える千鶴。
しばらくするとその嵐も止む。
束の間の静けさ。ハラハラと紙屑の落ちる音。
「派手なことしよって……」
毒づく千鶴。そろりとカウンターの裏から抜け出した。そこに広がっていたのは変わり果てた空間。大きなコンクリートの塊や、鉄骨なんかが無造作に横たわっている。小さな欠片がコロコロと転がる音が時々響いた。
酷い粉塵で視界が悪い。
だがその時、新たな衝撃波が彼女を襲う。青いネクタイの長身の男が突然降ってきた。彼が着地するとその点を中心にして同心円状に風圧が発生した。
「さぁ、続きを始めようか?」
晴れた粉塵。その先には一人の男。穏やかそうな顔を装っている、と千鶴は直感した。赤く血走った瞳や額に浮かんだ青い血管。何より、破壊衝動を隠し切れていない。万一、千鶴がその道の素人だったとしてもすぐに見抜ける程に彼は荒ぶっていた。
その彼は遂に千鶴の姿を視界に収める。
「また妙な瞞しか? それとも……いや、何れにせよ処分する事に変わりはないが、あの老人はどこにしたんだ。放ってきたのか、それとも隠したのか?」
この男は馬鹿なのだろうか、と千鶴は率直な感情を抱いた。それはまさに、先に交戦した達哉と同様。そんな事、尋ねたところで答えない上に、この図書室をピンポイントで狙ってきたのだから視覚以外が効くに決まっている。愚問以外の何物でもない。
「それは自分の手で確かめたらええねん」
だが、千鶴は直感的に相手を煽るのを避ける。達哉の失敗を知っている筈もないが、二の轍を踏まなかったのは彼女の運が引き寄せた幸いだっただろう。
ジリと一歩後ずさる千鶴。此処からこの男を遠ざけるのが賢明だが、果たしてうまく誘導できるのか。自分の動きに対する敵の動きを探ろうと態と腰周りで黒く光る刃をチラつかせた。
尊の視線が小さく揺れる。
(単純やな。かかりよった)
心の中でしめたとばかりに舌を出す。
「威勢のいいお嬢さんだねぇ。その喋り方といい、あの伝説の伊賀流とか言うやつかい?」
「あんなんと一緒にせんとって。甲賀の忍舐めたアカンで」
あんなのと言うが、別に軽視してる訳でもない。ただ、自らの部族に誇りがあるだけだ。
「全く、何奴も此奴も。生意気な女が一番嫌いだ」
心底面倒くさそうな尊の台詞。その大きな手の形が歪み、ゴツゴツと膨れ上がる。さらに、指先の爪が鋭く尖り伸びる。
機動性の悪い制服に顔を顰める千鶴も軽く身を屈めた。両手に握る刃を裏拳へと持ち直す。
地を蹴る小さな音。先に仕掛けたのは千鶴だ。
身軽さはあのこだまを彷彿とさせる。風のように走り抜けた千鶴は尊に肉薄する。首元のチョーカーがモチーフをキラリと光らせた。彼女のエモノが狙う先は……
「容赦ないねぇ。この野蛮女」
黒い軌道は尊の左の眼球を斜め下から抉り出すように駆け抜けていた。寸でのところで彼の爪が刃先を弾く。カシャンカシャン、と乾いた音と共に吹き飛ばされたクナイを見送る。だがその一撃だけで終わる千鶴では無い。弾かれ跳ね上がった右手では無く、左手は既に体側に巻かれている。体格差がある相手だ。真っ向勝負でやっていけるなんて甘い幻想は抱いていない。フッと息を吐くと同時に左手からクナイを飛び出させた。
(貰った……!)
カッという硬い音。顔を歪める尊が繰り出した腕を蹴り、半ば転がるように距離をとる。そして、両手を引く仕草をすると瓦礫の隙間に転がったエモノが彼女の右手に、そして、赤黒い尾を引くそれも左手に帰ってくる。一思いに振るうと、ビチャッと飛沫が撥ねると共に球体の何かが地を転がった。
「はっ、あっ、アァアアアアアアアアアアア!」
野太い絶叫。唾液が汚く飛び散る。
千鶴は休まず次の手を打つ。左の眼球を抜き取られ半分の視界になった敵。千鶴は自分から見て右手に駆け出した。瓦礫が転がる空間だが、この程度の足場の悪さは全くハンディキャップでない。
「痛みはあるんやな」
「殺ス、殺ス、殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す」
「今更そんなに連呼せんでもええっちゅうねん……え、いや、待って、う、嘘やろ!」
呟いてから、いや、そうではないと千鶴は思い直す。男から噴出するどす黒いオーラ。彼女が知らされている情報では、それは鬼を呼び込むという。再び懐に飛び込もうと駆けていた脚を止めて正対する。
やはり、そのオーラからは次々と手足が二本ずつ生えた死体が躍り出てきた。勿論見知らぬ顔。少しは、やりやすい。
(けど、多対一は……あんま得意ちゃうんよな)
背中に嫌なものを感じて止まない千鶴。唇を噛んだ。さらに悪いことは重なった。直感的に飛び退き、壁にクナイを突き立てて天井際に張り付く。彼女がいた場所が黒く炭化している。
「あれ、驚いたなぁ。警視庁公安部のエリート様が『発火能力』だったなんて。アハハッアハッ、ハハハッ」
再び、熱線が千鶴を襲う。その発生源にはネイビーのスーツを着た眼鏡の男。彼女のセーラー服の襟が炎を掠めてしまう。
「やば……っ」
尊を囲むように千鶴を睨みあげる六つの影。皆一様に大人しい色のスーツを着ていた。
地面を転がって鎮火させた彼女。頬や膝が擦り切れるのも厭っていられない。そして、悔しくも、千鶴は彼らに平伏し見上げるような体勢にならざるを得なかった。そんな彼女の頭上に男の足が降ってくる。そして、腹部を蹴りあげられる。くぐもった呻きとともに窓際まで吹き飛ばされた。
「俺の手を煩わせるな、女」
「女性差別反対やで」
「ふん、上で戦った吸盤男の元にでもとっとと逝け」
吸盤男──その単語が指し示すであろう人物は、千鶴の中で一人しか思い当たらない。赤い髪のおちゃらけた青年の横顔が脳裏に浮かんだ。
(達哉……上で、戦っとったんか)
教頭と話をしている間に上から聞こえた破壊音を思い出す。そっと唇を噛んだ。
そんな千鶴を右目だけで見下ろす尊。抉れた左目には真っ黒い闇が広がっている。千鶴は暁人のような力を持たず、故に、尊の目元の傷は癒え始めている。
口元に嘲笑を浮かべた彼の背後から生気の宿らない双眸を紅く光らせた男達が飛び出した。
彼女の感覚的に、十分ほどは稼いだつもりだ。戦いには死が付き物で、仲間の生は誰かの死によって成り立っている。自分がその後者になる準備は出来ていた。
(母さん、迎えてくれるかな)
彼女はそっとスカートのポケットに手を伸ばす。そこには、いつも携帯電話と生徒手帳を入れている。勿論その生徒手帳には、セギ特製の仕掛けがある。
「達哉、ウチも行くわ」
「勝手に、殺してんじゃねぇええええ!」
その時、燃え上がるような赤い髪が視界を横切った。
ボロボロの制服は男物で、回転するように敵を切り伏せた彼は靴を履いていない。ほんの三秒ほどで二体を砂に変え、更に間髪入れずにもう一体。相手の胴と足が違う方向に吹き飛んだ。
「達哉……ッ?」
「ほう……生きてたんだ」
脇差ほどの刀を振るう彼は尊をキッと睨む。背後に襲いかかってきていたスーツ姿を振り向きもせずに一刀両断。右肩から左脇腹までが大きく裂けて力尽きる。
そして男は千鶴と鬼の間に降り立った。
「女の前で八つ裂きにされに来たのかな?」
「パイセン虐めてんじゃねぇ!」
左脚に体重を預けるような立ち方をしている達哉。手首を返し、逆手に持った刀の腹を尊に見せつける。自爆装置の制御を解除しかけた千鶴もここぞとばかりに立ち上がる。
「達哉、あの男も面倒やけど……その後ろの藍色は『発火能力』や。気ぃつけなや」
「パイセンは下がっててください……オレがやる」
刀を持たない左手で制した達哉。その声は、千鶴が知る彼のものとは少し違う、落ち着き払ったようなもの。「何アホなこと言うてるん」といつもなら遮ってしまいそうなのに、今日ばかりはそんな言葉も出なかった。
向けられた背中は制服が破れて血が滲んでいる。
「いい格好でもしたいのかな?」
「なんとでも言えばいい、オレは本気っすよ」
「健気な化物も居たもんだ」
二人の男が衝突しようとした、その時だった。耳をつんざく高音と、胃の内容物が全て吐瀉されそうな程の圧力に晒された彼ら。ステンドグラス調の天窓や、千鶴らの背後にある大窓がクモの巣状になったあと、粉々に砕ける。
更に、大量の瓦礫で脆くなった二階のフロアが、丁度尊ら鬼と達哉達を分断するように崩落した。
「何やこれ!」
「知らないっすけど……」
千鶴の肩を抱きながら立ち上がった彼。千鶴は、その耳に二つの異様な音を捉えていた。一つは、地鳴りのような、だが、それにしては甲高い音が混じる。そう、それはまるで空の覇者が物悲しく鳴いているような音。そしてもう一つ、ミシミシという、彼女達の頭上や周囲から聞こえる音。
「お嬢かな……? 全く、えらく大層な玩具を与えられたらしい」
「あかん、他も崩れるで!」
「逃げられると思っているのかな?」
そう、彼等を隔てた大穴があれど尊には障害物でもなんでもない。さらに、紅蓮の炎が足場を気にする二人に迫る。
千鶴は奥歯を噛み締めた。すると、身体がふわりと浮いて地面を転がる。そして、次の瞬間。少し目線が高くなった。抱かれた腰が温かい。斜め上を見ると、ワイヤーに繋がれた杭が天井の隅に差し込まれ、手元に目を戻すと達哉のズボンのベルト、その金具から伸びていた。
男子全員に支給されているそれは、一度使えば二度と使えない。単発降下用の強化ワイヤーだ。持っていた刀で壁との接続を切り、鈍になってしまったそれを投げ捨てた。これで、彼は奥の手を使ってしまったことになる。左手で千鶴を、右腕で二人分の体重を支える彼は丸腰だった。
「達哉、刀手放してどないするんよ!」
「迎えが来てるっす」
そう言われた彼女は、ハッと外を見た。風が強い。やけに強い。北向きのその窓は対面する校舎側に向いていて、彼女が聞いた一つ目の異音の正体が近づいて来ていた。しかしその予想進路は、この窓枠から少し距離がある。
「竜巻……夕妃先生? いや、なんかちゃうような」
「行くっすよ! パイセン、一発ドカンとオナシャス」
そう言った達哉は、ウインクと共に彼女のスカートのポケットを啄いた。成程、と千鶴は頷き、彼のおかげで空いた両手で黒い手帳のようなものを取り出す。あとは制御装置を外すだけだった。
下にいる男の手から放たれる火炎。そこに投げ込まれた手帳。尊が左眼を大きく見開いたのが見えた瞬間───爆風と轟音が彼等を吹き飛ばした。
達哉が窓枠を蹴った推進力も併さり、彼ら二人の姿は薄く発光する風の渦の中に包み込まれていった。




