閑話~重奏~
ツンと鼻につく、このむせ返るような匂いは火薬。
気を抜けば跳ね上がりそうになる腕をしっかりと押さえつける彼は、真っ直ぐに的を見据えている。だが、突如その集中は破裂した。
「狙いが、甘い」
引っぱたかれた後頭部を擦りながら立ち上がった彼は、ズレた白いニット帽を被り直す。彼の民族性から来る黒い肌には、他の人と同じように透明な汗のしずくが伝う。
「最近、少し、気合が、足りない。やる気が、無いなら、出ろ」
「いや……大丈夫です」
「ならば、あと、五十回だ」
「……はい」
黒い布で目を覆った女が指示した言葉に周囲がどよめいた。目が隠れているというのに、彼女が軽く振り返っただけでサッ……と静まり返ったが。
オルガナは、神威が狙う的の方をじっと見た。
人の形をした板。点数がふられ、同心円状に広がる的。その中でも頭蓋と左胸に相当する部分、そこだけに穴が空いている。
だが、驚いた事にその穴は二つであるのに、その辺りに落ちたひしゃげた銃弾は三十を超えてしまいそうな程。
彼は、一度穿った穴に、再び銃弾を通している。しかも、狙撃銃ではなく……拳銃でそれをしている。
だが、的に向き合うこの二人からそれに満足する空気は見て取れない。むしろ、どこか落胆した様子だった。
確かに、木屑の燃えカスは沢山落ちているし、穴の直径も銃弾に対してはふた周りほど大きい。
白いニット帽の彼は瞳を閉じ、大きく深呼吸をしたあと、新たな的を用意して位置についた。そして、黙々と模擬弾を射撃する。
そんな光景を真横で見ていた心恵は、自分の的を見直した。
もちろん自分は狙撃の専門では無いし、むしろ、歩兵部隊で後方支援をとる、半安全地帯の人間だ。強襲部隊ながら、看護師免許のある彼女は時に救護班にもまわる。
しかし、だからといって狙撃や銃撃の技術がいらない訳でもない。前線での怪我人を救護する為には前線に飛び出さなければならないし、移送中の周辺警戒も彼女の仕事だ。
「心恵さん、手を、止めない」
「あ、ごめんなさいね」
オルガナに注意を受け、気を引き締め直す。
齢33歳。左手の薬指に付けた指輪は、銃を扱ったり、傷の手当なんかをするには邪魔だということで周囲からも外すように言われたが、もう抜けなくなっていた。
身体の一部かのように、ずっと心恵に寄り添ってきた。
オルガナの「やめ」の指示で、その日の射撃訓練は終了する。
気がつけば13時を回っていた。
「お疲れ様、神威くん」
「お疲れ様です」
明るく温かな光に包まれた食堂は、同じように訓練を終えた人々で少々汗臭い。火薬と汗の混じった、不慣れなものには不快を感じさせるそれだったが、誰も嫌そうな顔はしていなかった。むしろ、清々しい表情をしている。
一人でぼうっとしていた神威に声をかけたのは心恵だった。冷たく冷えたりんごジュースを手渡す。彼女の手にも同じものが握られていた。
「オルガナ、ほんとスパルタよね。まぁそれだけ、神威くんへの期待が大きいんじゃないかしら」
ストローに口をつけてジュースを啜る神威は、一見するとまだ小柄で幼さが残る。だが、身長は夏に比べて10センチ弱伸び、少し大人びてきた。
「ほんの少しの事が、物事を大きく変えてしまう。たった一人のミスが人を殺すこともある……オルガナさん、そう言ってたから」
変声期なのか、少し掠れ気味の彼の声がそう答えた。
そしてその言葉に、心恵はゆっくりと目を細める。その眼差しは、どこか遠くを見ていた。
左手の指輪をゆっくり撫でる。
「私の旦那も、拳銃使うの得意だったわ。調子に乗って、ホルスターに仕舞う時、クルって回すのよ。ナルシストよね」
唐突に語り出した心恵を、神威は不思議そうに見つめた。
「でも彼ね、強襲部隊でも狙撃部隊でもなくて、密偵隊だったの。身体変化系の異能でね……でも、三年前」
神威は、彼女の手がグッと力むのを見逃さなかった。彼女の中に何が渦巻いているのか、危ういものなのか、ただの追憶なのか……定かではないが、元から無口な神威の脳裏に良さげな言葉は浮かばない。
「ネメシスに捕えられたのよ。任務中にね……」
彼に、心恵の悲しい目を直視する勇気は無かった。
自分が映り込むりんごジュースの水面に目を落とす。
「なんで僕に、そんな話……するんですか」
「どうしてと言われたら絶対にこうっていう理由はないわ。でも、どこかアナタが彼に似てるからかも知れない」
ごめんなさいね、こんなオバサンが気持ち悪いわよね……と、苦笑してみせた心恵に、なんの反応も返せなかった神威。
彼はなんとなく、ただそれだけじゃない気がしていたから。彼女が時折見せる、行き場のない母性を……敏感に感じ取っていたから。
「そう言えば、神威くんって……異能を使ってる所を見たことないわね」
神威の困惑を気遣った心恵は話題を変えた。だが、その話題にも神威は明るい顔をしなかった。むしろ、焦ったように瞳孔が開く。
「……言っちゃいけないことになってるから。ごめんなさい」
やっと絞りだした言葉がそれだった。
思わぬ反応に瞳をぱちくりさせる心恵。だが、すぐに声を立てて笑いだした。
「そう……やっぱりアナタ、面白いわねホント。ポーカーフェイスのようでいて、意外と純粋だし」
彼の肩をバシバシと叩きながら、スクッと立ち上がる心恵。もう、なにか吹っ切れていた。ストローが刺さっているにも関わらず、りんごジュースをグラスから直接流し込んだ。
厨房の方へはけようとした心恵だったが、何かを思い出したかのように振り返る。
ギョッとする神威に囁く。
「あんまりモタモタしてたら……私がうっかり能力使っちゃうわよ?」
悪戯っぽく舌を見せた心恵は、今度こそ颯爽と立ち去った。
そして、そこに残されたのは無表情のまま、飲みかけのりんごジュースに手を伸ばす神威ひとりだった。
彼が飲み終えたあとのストローは、先端が潰れていた。
□◆□
「どうっすか、勉強は? 千鶴パイセン」
「なぁ、その呼び方ほんまなんなん? キモイわ」
時刻は神威らが話をしていた時点から六時間以上経過した夕時。少し遅めの夕食をとる人、ゲームに興じる子供。まだ活気がある。
そんな食堂で、赤い髪の青年が質素な黒い服に身を包んだ黒髪の女性に声をかけた。困った顔はするものの、女性の方も強くは拒まない。
それを好機と、赤髪の彼は隣の席に腰を下ろす。
「達哉は勉強せんでええん? 将来何になるんか知らんけど」
彼女は手を止めない。
「誤字はっけーん」
「やかましわ! 理系に何がわかるねん」
「物理とか?」
ヘラヘラと笑う彼に嘆息する千鶴。ついにその手が止まった。
黒く薄汚れた消しゴムを強く紙に押し当てる。
「私かって、分かってる。多分これ無駄になるって……なんとなく分かる」
「ちょ、突然何を言ってるんすか」
少し力を入れると、ノートはいとも簡単に破れてしまった。
困惑する達哉を置き去りに、千鶴は開いていた参考書を全て閉じ、その場を去ろうとする。
「あんたにそんなんされても、何もときめかへんで」
だが、それを達哉は静止めた。捲りあげたシャツの袖から伸びた白い腕を手袋越しに掴む。
「アキトが戻ってこれば、鬼も倒せてどうにかなるっすよ。だから……」
彼の慰めのような、励ましのような言葉。だが、彼の目を一瞥した千鶴の瞳は冷えきっていた。
ほんのり紅く色づいた唇が動く。
「それ、本気でゆうとる?」
彼らの周りは閑散としていて、彼女のはなった言葉に気を止める影はひとつもなかった。
「……何を見てきたんすか」
「言えへんわアホ」
「まさか、ネメシスに深入りしようとしてるんすか。それが、千鶴パイセンの目的に手っ取り早く近づく方法だって思ってるんすか」
畳み掛ける達哉。
その目は、いつもの遊び人の目ではない。そんな事は許さない、そういう意志を込めた目だった。
だがそれは千鶴も負けていない。元来の気質なのか、強気な目が一層細められ、力強さを増す。
「何も知らんのに、そういうのようないわ。ほんまアホやな」
「……それだから関西の人は怖いって言われるんすよ? バカって言われた方が傷つかないっす」
「あんたの目的は知らん。なんで此処におんのか。でも、そっちかって一緒やろ。あんたに私の目的はわからへん」
千鶴は掴まれた手を振りほどこうとするも、達哉の方が腕力は優に勝る。
悔しそうに彼女は達哉を睨んだ。何故、こんなにも自分に構ってくるのか分からない。達哉のお節介のような関わりを理解できない。
「例え、パイセンが思ってるような事になっても、此処にいた方がいいってオレは思うっすよ」
「はぁ? ほんま、何言ってるか……わからへん」
「なんでやねん、ドアホ! あれ、これイントネーションあってるっすか?……ちょ、そんな怖い顔しないで欲しいっす」
真面目な話がしたいのか、巫山戯たいのか。
言葉を重ねる度に真意がわからなくなる。
「あんたさ、ほんまようわからん。何抱えとるん?」
千鶴は忍だ。幼い頃から、己の心を御し、他者の心を読み、時に情を捨てる……そう叩き込まれてきた。達哉のようなあっけらかんとした、人の心に擦り寄ってくるような相手はその中身が見えやすかった、筈なのに。
彼女の問に、達哉は動きを止めた。一瞬、隙が出来た。緩んだ手から抜け落ちる千鶴の腕。
「どないしたん」
突然の変化に焦ったのは、千鶴の方だった。
だが、達哉はすぐに元の間抜け面を貼り付ける。口角を上げ、白い歯をニッと見せた。
「教えるんで、この後オレの部屋きます?」
「……性欲の塊め。誰が行くか、あほ!」
心配した自分が馬鹿らしい。
千鶴は達哉を振り返ることもなく、ツカツカと足早にその場を去った。
机上に忘れ去られた一欠片の消しゴムから哀愁が漂う。それを達哉は手袋をしたままつまみ上げた。
手中でコロコロと転がる感触。
「何も抱えてなんてないっすよ、千鶴パイセン。オレは、何も」
□◆□
「メルデスぅうう!」
バーンと開け放たれた指揮官室の思い扉。
幸いな事に、今日は目当ての彼しか部屋の中には居ない。オルガナやレンが居れば小言を言われているところだった。
杏色のポニーテールをブンブンと揺らしながら奥の作業机へ駆け寄るのは白いニットチュニックに身を包んだこだまだった。
独り、書類を読みふけっていたメルデスが顔を上げる。
その気配は入ってくる前から分かっていたものの、人懐こいその笑顔を見ると、自然と彼の口角も上がった。
「聞いて! 来年、ちゃんと三年生になれるよ!」
「ははは、そうだね。よく頑張ったねえ」
手早く手元の資料をまとめた彼は身を乗り出し、彼女が持ってきた【追試結果表】をマジマジと眺める。
今までのこだまでは有り得ないような点数が並ぶ。
特に、数学は半分以上獲得している。大きな進歩だった。
「チキンとケーキ……アキトに食べさせてもらわなきゃ!」
「うん。その為にも早く彼には帰ってきてもらわないとね」
「ほんっと、そのとーりだよ! アキトのバーカバーカバーカ」
こだまは、彼がネメシスに捕えられていることを知らないだろう。混乱を避けるためにも一部の人間にしか知ることの出来ない情報として、メルデスが敷いた箝口令がある。
「じゃあ、僕からご褒美をあげようか」
「メルデスから? なになに? おかし?」
ニッコリ微笑んだ彼は、首を横に振る。落胆の表情を見せたこだまに、そっと手招きした。
机を回り込んでメルデスの横へピッタリとつくこだま。
丸い瞳が不思議そうに彼の目を見つめる。
「向こう向いてご覧?」
「えー」
不満そうな声を漏らしながらも、彼女の顔は笑っていた。
首元に触れた冷たい感触に、一瞬身を仰け反らせる。
パタン、と引き出しを閉じる音とともに、メルデスが「いいよ」と声をかけた。振り返るこだま。目の前に現れたのはメルデスではなく、嬉しそうな自分の顔。その首元には、水晶をモチーフにした金色のロケットがゆらりと揺れていた。
「これ、あげるよ。大事にしてくれるかな?」
突然の事に言葉を失うこだま。
暫くして、大きくかぶりを振った。
胸元を左手でそっと押さえ、まるで、その無機物から声を聞いているかのように瞳を閉じる。
「メルデス、あのね」
そんな仕草をしたまま、こだまは鈴の鳴るような声で彼の名を呼んだ。
言葉を必死で紡ごうとする時、彼女はいつも指を絡ませ遊ばせる。今もそうだった。メルデスは敢えて声は出さず、相槌だけで彼女の言葉を待った。
「あのね、その……最近ね、アキトが夢の中に来るの。夢の中に来てね、それで、どこか遠くに行くの」
ほう、とメルデスが顎に手を置いた。所詮は夢だ。しかし、こうやって彼女がメルデスに訴える時は何かが起きていた。ある種の予知夢、または、直感。
「アキトくんが危ない目に遭いそうなのかな?」
そして何かが起こる時、大抵それは悪い方向に転じた。最近では、メルデスがバリッサに撃たれるという事が起きている。その事象自体を感じているのではないのだが、確実に、こだまの感覚は未来を見ている。
だからこそ、今度もそうなのだと彼は踏んだ。
だが、こだまがその問に示した答えはノーだった。首の動きにつられてポニーテールがゆさゆさと揺れる。
「アキトは、こっちに来ちゃいけないの」
先程まで、幼稚な罵声を浴びせかけていた彼女とは思えないその言葉に眉を寄せるメルデス。
「寂しい? アキトくんが居なくて」
「わかんない」
即答だった。
───わからない。
それが彼女の答えだった。
「だって、遠くに行くだけ。いなくならない。みきてぃ……ううん。お姉ちゃんと一緒。取り返せばいいんだもん」
小さな拳が腰のあたりで震えているのを、メルデスはそっと包み込んだ。大きな温もりに、黒い瞳を丸くするこだま。そっと彼は笑いかける。
何千回、いや、もしかしたら何万回も見てきた優しい笑顔。
「だから、もしもメルデスがどこか遠くに行っちゃっても、私探しに行く」
「それは嬉しいな」
複雑な心境を悟られまいと、貼り付けた笑み。綻びを見せないように、目と目を合わせる。
「でもね、ホントは誰にもどこかに行って欲しくないの。アキトもメルデスも、みんな。だって、悲しいから」
「そうだね……」
とても素直で、素朴な感情だった。
───悲しい。
喜怒哀楽という、人間が持つ四大感情の一角を担う【哀】。普通ならば、メルデスが口にした【寂】も【哀】だが、彼女はあえてその言葉を使わなかった。
すると、こだまは何かスイッチが切り替わったかのようにパッチリした瞳を輝かせ、大きく見開いた。
突発的な彼女の感情の変化に、メルデスはもう慣れっこだった。
少し感傷的になりかけていた自分を振り払うように、「どうしたの?」と声をかける。
三日月のような笑みを浮かべたこだまは、貰ったばかりのロケットから手を離し、右手を包むメルデスの手を握り返した。
「おもち、貰ってきてあげるね! メルデスもおもち好きだよね!」
加減というものを知らないこだまの握力に顔を顰めつつも、「好きだよ」と……顎を引く。
それを見たこだまはとても満足そうだった。
「ったく、目も当ててられねぇな」
突然割り込んできたのは、非常に不機嫌な男の声。
「あれぇ、レン、いたの?」
「イチャコラしやがって……ガキはガキらしく訓練場で鬼ごっこでもしてろ」
「あ、知ってるよ! えっとねぇ、しっと! レン、しっとしてるんだよね!」
「しーっと、しーっと!」
と連呼し始めたこだま。扉のところで腕を組み佇んでいるレンの頬がじわりじわりと歪む。細く整えた眉が顔の中心へと寄っていく。
「はっ倒すぞ……!」
腕まくりさえし始めたレン。メルデスが微笑みながら彼を宥めた。
「レンは意地悪するからおもちあげないもんね!」
「してねぇだろうが」
「するもん! ベット貸してくれないもん……」
しゅんとした顔でメルデスを見つめたこだま。勿論、対するメルデスは困り顔で、レンのイライラは収束どころか発散もせず、増大を続けていた。
「そんな顔してメルデスに縋っても無駄だからな!」
「いいもんねいいもんね! オルガナに後でお尻ペンペンしてもらうもんね!」
「されるような筋合いはねぇよ!」
「あるもん! レンでしょ? オルガナのお酒とったの」
こだまのジト目が誇らしげに細められる。
一瞬、全機能を停止させたレンの敗北は明らかだった。震える口で突然笑みを作った彼。
普段全く笑わないその顔は、筋肉が痙攣してピクピクと動き続けている。
「てめぇか……棚からくすねたネズミは」
「私じゃないよ、タツヤだよ。タツヤがとってきて私に飲ませてくれて、それからオルガナにとられたの」
こんなにも見事に崩れ落ちるのか、というくらい……ダイナマイトで解体されるビルのように崩れたレンの身体は、指揮官室の赤いカーペットにへたりこんだ。
「えーと、そんな顔されても、僕は何も言ってあげれないよ?」
先刻、レンがこだまに投げつけた言葉がそっくりそのまま彼の元へ返される。
こだまはニヤニヤとしながらその真横を軽い足取りで横切り、部屋をあとにした。医務室の方へ駆けていく足音が聞こえる。
メルデスもまた、意地の悪そうな笑みを浮かべてレンの姿を静観していた。刻一刻と迫る、オルガナの気配を感じ取りながら。




