行方知れずの男、此処にあり
「ひっ、ひぃいいい! ごめんなさいぃ」
「ぁあん? 謝るくれぇならてめぇ財布置いてけや。なぁ!」
バキッと鈍い音が響き渡る。直後、暴力を行使した赤髪の仲間らしき男達の高笑いが起こった。胸ぐらを掴んで吊るし上げられほぼ無抵抗だった痩せた男の身体が硬いアスファルトを滑る。切れた口の端から赤い血がツーと流れ、その顔は更に恐怖に歪んだ。
そこから始まったのは一方的な暴力の嵐。指輪でゴテゴテになった拳から放たれる打撃は必死に身体を守ろうとする彼の骨を砕く。
だが、そんな彼に手を差し伸べるものなど居ない。道沿いに並ぶ店舗内に人の気配はあるものの、誰も覗こうとすらしない。これが此処での日常であり、身を守る手段なのだ。むしろ、この生活に慣れきった住民は殴られた男に非があるようにさえ感じていた。一般にみかじめ料と呼ばれる金を払わなかったのだから。
と、突然その暴行が止まった。男はこれは好機と四つん這いで逃げようとする。が、甘かった。その背中を踏みつける影。分厚いブーツの底が彼の背中をグリグリと躙る。
「お前ら、甘いわぁ。そんなんやから舐められるんやでぇ」
不気味な笑みを浮かべたその男。耳だけでなく顔にもたくさんの貴金属を装飾したそいつは低い声で取り巻きのような男達を静かに一喝する。最初に細い男を殴った彼も平身低頭で謝罪した。
いかにもガラの悪いボス級の男。金と言うよりは黄色に染めた頭をわしゃわしゃと掻きながら、地面に磔にされた男を見下ろす。
「見ときぃ。やるなら、こんくらいしたらんとなぁ……」
刹那、男の手に灯る青い光。時折バチッバチィッと閃光が迸った。首だけを回してそれを見た男は絶望する。この界隈で彼を知らない者など居ない。首筋から頬にかけて入れ込まれた黒い稲妻の刺青は彼のトレードマークであり、通り名を示す。
「『電撃屋』に楯突こうなんざ思わんことやな」
凶悪な笑顔は雷電の合図。プラズマ光が薄暗い曇り空の街中に炸裂した。
「痛いやろけど、死なへん電圧にしたるから安心しぃや。これに懲りて次からは……」
「ちょ、兄貴ッ」
初めに殴った赤髪が自らに陶酔する電撃屋の言葉を遮った。決めゼリフを遮断された彼はその赤髪をギロりと睨んだ。
「ぁん? どういうつもりや貴様ァ」
指先から刹那で放たれた電槍が彼を貫いた。一瞬で黒い焦げに包まれたその男はその場に崩れ落ちた。肉が焦げる不快な匂いが漂う。取り巻きの男達はその光景に腰を抜かしたのか、何も言えない。その場から、動けない。
「てめェこそ何のつもりだ。此処は“銀狼会”のシマじゃねぇのか」
静寂の中にカチ、と硬く乾いた音が響く。黒く不気味に光るそれは、電撃屋の側頭部でその時を待っていた。ゴリッとその銃口がこめかみに食い込む。息を飲んでそれを見る男達。下手な事をすれば、彼の生命は無い。確実に。その銃は言わずと知れた、『砂漠の鷲』の異名を持つ暴銃。牛をも一発で死に至らしめる高火力は人間の頭くらい、棒で殴ったスイカのように脳漿を飛散させる。
そんな危険物を持つその人物。
ファー付きのジャンパーコートを羽織り、その中には真紅のシャツ。それだけ見ればただのゴロツキだが、左頬から左眼にかけて残る切り傷の痕。それが異様な存在感と威圧感を放つ。鋭く尖った視線が電撃屋を貫いた。
「オタク誰や。自分らに構ったら痛い目見るえ?」
「てめェこそ、痛い目見るぞ。今まで一度も勝ったことねぇだろ、オレに。『電気屋さん』よォ」
その瞬間、電撃屋が、キレた。
電気の槍が銃を突きつける男に一気に襲いかかる。光の速度で進むそれは確実に男のいた場所を蜂の巣にする。が、手応えはない。
「なんの手品じゃワレェぇぇえ!」
逆鱗に触れられた彼は正気を失い、闇雲に雷撃を発生させた。しかし、突然の襲撃者には全く通じていない。むしろ、一度は大きく開いた筈のその距離が、どんどん縮まっていく。
「アニキっ! 無理ですッ。ありゃ、岸野充や!」
「ハァッ?」
その名前が出た直後。酷く鈍い音と共に電撃屋の大柄な身体が電柱へと引き付けられていった。正確には、吹き飛ばされた。完全に動力を失った肢体がダラりと垂れ下がる。
地上では、手刀を中段に構えたままの姿勢で静止する彼の姿があった。岸野充。その人だった。
「散れ、ゴロツキ共。そのバカ『電気屋』の手当でもしてやるんだな」
岸野は低く唸る。その後の取り巻き達の行動は火を見るより明らかであった。
ひとつ溜息をついた彼は服についたホコリを払って空を見上げた。雨と言うよりも雪が降り出しそうな黒雲。忌々しく舌打ちをした彼は愛銃をコートの内側に仕舞いつつ道沿いの店舗のひとつの二階部分をじっと見た。そこから少し顔を出したのは、先程の痩せた男。深々と頭を下げ、再びその奥へと引っ込んでいった。
「あのジジィは何してやがんだ……」
「口の悪さは変わらんようですね。達者そうで何よりです」
岸野の背後にいつの間にか男がたっていた。だが、岸野は別段驚いた様子も無い。そこにいるのは初めから判っていたらしい。やけに訛りのある話し方をする男はゆっくりと彼に近づいてきた。男は真っ白なロングコートに身を包み、髪を灰色に染めている。歳は岸野とそう変わらない、三十前後といったところであろうか。にこやかなその甘い容姿はある種の妖艶さを纏っている。
「迎えに来んのが遅せェんだよ」
この男が気に入らないのか、岸野は開口一番に悪態をついた。さらに露骨に嫌そうな顔もされているが、男はそれを歯牙にもかけない。目を細くしたまま穏やかに話し続ける。普通なら岸野のような風貌の男を前にこうも整然としていられないが、それはつまり、その容姿とは裏腹に彼が同じ世界の人間だと暗示していた。
「無理言わんとって貰えます? もう此処は実質ウチらの管理離れてるんや」
「何だ、あのジジィがとうとう死んで“銀狼会”も終わっちまったか」
「……もし、『せや』言うたら、戻ってきはりますか。若旦那」
彼の言葉に反応した岸野が眉をぴくりと痙攣させる。そして両者の間にピリピリとした緊張感が流れ始めた。暫く睨み合うふたり。そんな中、彼らの頭上に綿雪が降り始めた。白い塊は吐息がかかるだけでしゅわりと消え果てる。この地方特有の牡丹雪だった。
「五年前、オレを見捨てといてよく言えるな」
「冗談やて……そない怖い顔せんとってください。さっきの話は大体冗談や。組長が会いたい仰ってますさかい、来てもらいまひょか」
「気が変わったから嫌だ、と言ったら?」
挑戦的な岸野の目線。その手は既にコートの内を探っている。しかし、訛りのある関西弁を話すこの男も全く負けてはいない。むしろその顔には先程よりも何やら楽しそうな笑みが浮かんでいた。
「ワテが相性悪い相手やてよう分かってはるやろ。それとも、あの頃よりもっとええもん手に入れはったんやろか?」
「……チッ、食えねぇ野郎だな。苦爪野郎」
暫しの沈黙の後、観念したかのように岸野の方から男に歩み寄っていった。岸野も相当な高身長だが、それに負けず劣らぬその男。
「またそないなこと言うて。『瓜』やなくて『爪』や言いましたやろ。苦爪善治言う名前あるんですから」
態ととは知っていても、彼、苦爪善治は苦笑いをしながらその名前を訂正する。そして、何故かホッとしたように顔を綻ばせた。
コツコツコツと二人分の足音が路地裏へと消えてゆく。
彼らが去った後のその通りは何事も無かったかのように静まり返った。しんしんと降る大粒の雪がひび割れたアスファルトに染み入るように溶けていく。
この日は12月18日。岸野が失踪してから五日後、メルデスが彼の捜索を指示する一週間前のことである。
その後彼が案内されたのは寂れた雑居ビルのような建物。いや、案内されたというよりは、岸野自身で歩んでいったにも等しい。その場所のことを彼は知っていた。
そして、なんの迷いもなく階段を上がってすぐ、二階部分の錆びた扉を開けた。ギィッという音とともに赤いサビが肩口に降りかかる。するとすぐまた扉になっていて、それは木で出来ている。金属の取っ手には目もくれず、右上あたりの板に手をあてがった。すると、機械的な音とともにそれが左右に開く。そしてやっと視界が開ける。彼の目当ての人物は、その部屋の奥に居た。
背を向ける彼の髪には白髪が混じり、地味な色の和服を着ている。その左右に控えるのは見るからに屈強そうな、そして、暴力的な空気が滲み出た男達。よく見れば部屋の調度品は黒や赤、金などを基調としており全体的な雰囲気も物々しい。棚の上に並べられた陶磁器だけが白い光をぼんやりと浮き上がらせていた。さほど広くはない、二十畳程の空間に充満する煙草や香水の匂いが混じった熱気は慣れないものからすればほんの数分で耐えられなくなるに違いない。
「えらい遅うなってすんません」
あとから遅れて入ってきた苦爪がそっと扉に鍵をかけた。
「組長、充はんが戻りました」
白髪頭の男の返事は無い。ゆらりと煙管の先から白煙が上がった。彼を守るように立つ男達からは見慣れない人間に向けてなのか、只事ではないオーラが出ているのがひしひしと分かる。だが、その睨み合いも長くは続かない。この場にいる誰よりも苛立っていたのは、やはりこの男だった。
如何にもダルそうに首筋を掻きながら、老人の背中に声をかける。
「オイ、ジジィ。とっととコイツらにブツ仕舞わせろ」
「誰に向かって口利ィてんだァッ!」
怖いものを知らないような岸野の言い草。それにすぐさま顔色を変えたのは老人の真横に仕えるスキンヘッドの巨漢だった。顔を赤く高揚させたかと思えば、懐から短刀を引き抜く。それを見た他の男たちもまた、ここぞとばかりに物騒な物を各々取り出す。いや、単に顕にしただけと言うべきか。
「御館様になんちゅう言い様や! 此処で丁寧に切り刻んだるわぁああ!」
「もぉええ。お前らは黙っときぃ。儂が呼んだんや。茶でも用意させぇ」
部屋に鉛玉や血飛沫が散るのは耐え難かったのだろうか。嗄れた声が彼らの間に入る。渋々、各々の得物を下ろした男達は元立っていた場所へすごすごと後退する。彼らにとってこの老人の言うことは絶対。それが、掟である。何故ならこの男は“銀狼会”のトップ、彼らの此処での父親であり鏡。第五代組長、縹川 彩善なのだから。
彼が率いるこの“銀狼会”はこの国の言葉では『極道』と呼ばれる集団。もっとワールドワイド的な言い方をすればマフィア。世界中に同じような組織が数多あるが、これらは二つの意味で大きく二分できる。ひとつには、単純にその規模。大小様々あるが、“銀狼会”はその中でも大きい方に属していた。その大小は構成員の数では無い。占有する土地と、その力の強さである。『日出処國の狼』と方々で呼ばれ、他組織からも畏れられる存在なのだ。
そしてもうひとつの意味は、彼らが畏れられる因子でもある要素。異能力者による集団であるか否か。無論、“銀狼会”は前者だ。力と仁義が全ての彼らの社会の中では普通の世界とは違い異能力者は重宝される。そういう訳でこちら側の道に足を踏み入れる者は後を絶たない。ミュートロギアもこういう点を鑑みれば同類と見なされても仕方ないのかもしれないが、そもそも歴史が違う彼らを混同するのもおかしな話ではあろう。
「ホンマに来てくれるなんて思わんかったわ。よう帰ってきてくれたな、充」
「チッ。まだ死んでなかったのかよクソジジィ。あんなヤツらにシマぶんどられるなんて、随分堕ちたモンだな」
だが、その掟は岸野には何も響かない。その態度を周囲は理解できないらしいが、彩善はさもそれが当たり前かのように岸野に接する。旧友というより、むしろ親子のような無遠慮さが感じられる会話。だが、その言葉のチョイスは全くもって親子のそれとは掛け離れているが。
「まぁ、そっち座れ。もうじき茶が入るよって」
ギシ……と椅子を軋ませながら老人が立ち上がる。深くシワの刻まれた頬や目元。だが、スラリと通った鼻筋は若かりし頃の雰囲気を今にも残す。そして、彼がゆっくりと右手にあるソファーに沈み込み、岸野を促した。素直に応じた岸野も同じように身を預けた。
「ひとつ言っておくが、オレは此処に戻るつもりはねぇ。用件だけ聞いたら帰る」
「なんや、愛想あらへんなぁ。えらい苦労して足運んでくれたんやろ。そない足ドロドロにしよってからに……。あ、煙草やるか?」
「テメェらがあんな『電気屋』如きをのさばらせてる所為だ。クソッタレ」
コートの裾でサッと脚元を隠したのを誤魔化すためなのか、岸野は懐から煙草を取り出す。すると、先程の苦爪がそっと近づいてきて咥えたその先にライターで火をつけた。そして、岸野に反論を試みる。
「一時、なんやウチらへの抑止力が弱まりましてなぁ。それであのみみっちい輩が調子乗りよったんですわ。丁度、五年前やろか……」
「……昔話は要らねぇよ」
五年前、という言葉に対する岸野の反応は非常に硬い。それ以上何も言わせまいとするのか苦爪の言葉を遮った。
すると、彼の真横から白い腕がスッと伸びてきた。絹のように滑らかな肌。コトン、と湯呑みを机に二つ並べた彼女は衣擦れの音とともにしゃがみ込んだ。非常に丁寧な手つきで緑茶を注いでいく。白い湯気とともに立ち上る香りは岸野を多少ばかり落ち着かせたに違いない。
その女性は彩善に合わせているのか、薄青色、正確には瓶覗の生地に金刺繍の葵が咲く着物姿である。ほっそりとした顔に大人しそうに少し下がった目尻。黒い髪は手入れが行き届いており、黒真珠のように輝いていた。こんな殺伐とした場所には似つかわしくないなかなかの上玉に岸野も少しばかり目を奪われる。
「彩と申します。どうぞ、よろしゅうに」
彼女の声もまた慎ましく、それでいて川のせせらぎのような穏やかさを内包している。育ちの良い、これぞ大和撫子と呼ぶべき女性だ。
「また新しい女連れ込んだのか、ジジィ。ったく、その元気が何処から湧いてくんのか……」
岸野が此処に来て初めて笑顔を見せる。どうも、この老人は昔から女癖が悪かったようだ。そして彼は出された飲み物にようやく手をつけた。彩善も岸野の笑みにつられて声を立てて笑った。だが、暫くすると彼がシワだらけの人差し指を左右に振る。
「まぁ、確かに彩は女としても申し分あらへんけどなぁ、それだけやあらへんで。なぁ、彩」
「この殿方に見せても宜しいんですか?」
「ええよ。此奴は儂の倅みたいなもんやさかい」
「分かりました。では」
すると彩は結い上げた髪を纏める椿の簪をスッと引き抜いた。サラサラの絹のような黒髪がふわりと舞う。そして、差し出された彩善の手に自らの手を重ねた。刹那、蒼光が周囲を照らす。元々細い岸野の瞳が大きく見開かれる。それくらい、驚くべきことが起きた。
「美しいやろ、充。これが彩のほんまの姿や」
あまりの事に岸野も声が出ない。異能力による超常現象など吐いて捨てるほど見てきた彼だが、こんなことは初めてだった。瞬間移動や発火能力なんかがただの子供騙しのようにさえ感じられる。どんな身体変化の使い手でも、これが出来る者など見たことも聞いたこともない。
それ程に怪しく、不思議で、妖艶しかった。
「刀……だと?」
鍔のない片刃刀。青白い光が内から滲み出る、この世のものとは思えない代物。傷一つない刀身、そのハバキの下には何かが浮かび上がっている。大きな鱗の生えた蛇のような身体、長い髭の生えた頭部。手元から鋒に向かって昇天するかの如き力強さと全てを浄化するような清らかさを兼ね備えたそれは龍だった。その姿形が刻み込まれているのだ。屈強そうな男達もまたその姿に見とれていた。
「『國護乃時雨』て言うらしいわ。ほんで、お前はんに聞かせたい話っちゅうんは、コレや」
「どういうことだ」
岸野は落ち着きを取り戻しつつ問い詰める。
「彩はお前はんらが闘っとるらしい奴らの事、知っとるらしいわ」
「本気で言ってンのか、ジジィ」
「あぁ、聞きたいか?」
「ったりめェだ……ッ」
そして、岸野の身体が前に倒れる。だがそれは彼が話を聞くために身を乗り出したのではない。物理的に、彼の意図に反してだ。
緩んだ口元から落下した煙草が半分ほど残ったお茶の中に落ちてジュッと音を立てる。そのまま彼は床に雪崩込んだ。手足が震え、苦悶の声が漏れる。
「ジ、ジィ……。彩善ッ、てめェッ……」
「悪ぅ思わんとってくれ、充。こうする他あらへん思たんや」
苦しみに耐える岸野を見下す彩善が目を細める。白内障に侵された右眼が冷たい光を放つ。そして、蒼く光る刀を携えた彼は言葉を続けた。落ち着き払った低い声で。
「……メルデスっちゅう男に会うためにはなぁ」




