帰ってきた者、消えた者
「……で、ここにこれを持ってきたら因数分解出来るから」
「したくない」
「したくないじゃない。やれ」
「やだ」
「やだじゃない」
「やだぁ!」
俺は見事にガックリ項垂れた。勢い余ってテーブルに前頭部を強打する。これで俺は二重の意味で頭の痛い事態である。
目前に山積するは大小様々なテキストと参考書。一部は俺のモノ、こう言ってはなんだが愛読書である。基本的に、勉強はその努力をあまり裏切らない。生まれ持った才能であったりはあまり関係が無い。スポーツなんかはなかなか厳しい所があるが、勉強はどれだけ本気で打ち込むか、そしてそれが出来る環境があるかによって大きく左右される。
さて、長々と前置きをしたが、つまり何を言いたいかと言うと……
「こだま、やらねぇと終わんないぞ? それどころか……」
「やだぁあああああああああああああああああああああ」
俺の向かい側、机を挟んですぐの所にピンクのようなオレンジのような……杏色のポニーテールの少女に前述したことの中、『どれだけ本気で打ち込むか』という点が非常に欠落しているのだ。
おかげで留年目前。現状、来週の追試で取り敢えず成績表に1が付くことを回避するのが応急処置的な目標である。
日程は12月25日。これもまた彼女を億劫にしている要因の一つなのだが……ツケが回ったんだ。仕方ない。
「おっ、今日も頑張ってるじゃん! 関心だねぇ」
俺の肩を優しく叩く手があった。振り返れば輝くイケメンスマイルが炸裂している。彼、菊川大輝のもう片方の手にはスポーツ飲料、そして肩にはタオルがかかっていて訓練終わりだと察する。すると、彼の後ろから同じ様な格好をした栁達哉と神威も続く。
「やっぱり、ダイキにやってもらえばよかったぁ」
頬を膨らまし、椅子にふんぞり返るこだま。不貞腐れたいのはこっちだ。菊川も苦笑いをしてこだまを宥める。
「またそんなこと言ってんのかー。アキトはデリケートだからンな事言ったら拗ねるぜ? あ、保健体育ならオレが教えるけど……」
「タツヤ、残念ながら保体は体育の成績があまりにもいいってんで配慮されてるんだと」
変な所でしゃしゃり出てきた達哉を一応制する。
「チェッ、つまんねぇなぁー。でも、クリスマスに追試とかまじウケるよな。じゃあアレだな、追試終わったらアキトにチキンとケーキ奢ってもらえよ」
「チキンと……ケーキッ?」
待て待て待て待て! 俺はそんなこと一度も言ってないし、なんで俺がこいつに褒美をやらねばなら……
「私やるね。アキト、私やるよ」
くりくりとした丸い瞳。わんこと形容するのも悪くないが、頭に生えた二本の長い耳……のように見えるリボンのお陰でウサギみたいだ。
第二の鬼の騒動の後、怪我から復帰したメルデスに開口一番頼み込まれたこの仕事。辞めたつもりだったのに、大人達は諦めて居なかったらしい。その上、何故か再びこだまが俺を指名したという噂まである。そして、勉強場所はどういう訳かこのいい匂いが常に漂う食堂の隅っこに変わった。
「あ、あぁ……はぁ」
そしてもうひとつ変わったこと。それは、あのこだまが俺の名前を覚えたという事。たまに一瞬躊躇ってから言うこともあるのを鑑みると、ガチめに名前を覚えられていなかったらしい。むず痒い気もするけど何はともあれ覚えてもらえて良かったということにしよう。だが、目の前の問題とこれは別問題。
妙にやる気の出たこだま。それは良いことだ。然しながら、この家庭教師は歩合制も併せ持った雇用環境だが此奴に飯を奢るとなればそれは一瞬にしてマイナスに転ずる。そうでなくても、俺が割っちまったフレイアのコンタクト、それの請求書に目を剥いたというのに……。アイツ、まさかこの為にメアド交換を要求してきたとは。そりゃ、あの状況じゃ弁償しなきゃいけないのはわかるけどさぁ……。
俺の財布が泣いてるぜ。
「冴えない顔ですね? 疲れた脳には糖分補給ですよ!」
「すげぇ! オレらも食っていいっすか」
「タツヤさんもダイキさんも神威くんも召し上がれ!」
思考が真冬に突入しようとした俺の背後からふわりと香った春のような香り。正確には甘い香り。香ばしくて、思わず深呼吸したくなるようなそんな匂い。誘発された唾液の雪解け水が口内を満たした時、腹が減っていたんだとようやく気づいた。
「スノーボールクッキー?」
「アキトさん意外と甘党なんですか? 正解ですよ〜」
クッキーを持ってきてくれた、いや、焼いてくれた彼女が俺に微笑みかける。女神と言うよりは天使……否、聖母マリアと形容すべきその笑顔。そんなグレンさんの色白の頬にかかる栗色の髪が揺れる。っと、いけない。ぼーっとしていると食いっぱぐれるというのは世界の掟。負けじと手を伸ばして小さな丸い菓子を頬張る。口に含んだ瞬間に鼻を突き抜けた小麦とアーモンドプードルの上品な薫り。そして遅れて、まぶされた粉砂糖が舌の上でジュワッと溶けた。昔姉貴が作ってくれたのは食感がハードクッキーだったが、コレは噛むと間もなくその形状を崩壊させるようなホロホロ食感。絶品だ……! こだまは何やら体をくねくねさせてるし、無言を貫く神威も表情を少し綻ばせている。きっと岸野もコレに心を奪われ……
「そういえば、また今日も岸野さんいらっしゃらないですね」
俺が口に出そうとした事を代弁したのは菊川。そう、話題の彼、岸野充が数日前から姿を見せない。別に何の用事もないが『お手伝い』でも見ないため一部の人々の間ではちょっとした注目なのだ。何か秘密裏に動いている、という噂もあるが……。
「ミツルさん、たまにあるんですよ。でも……今回はちょっと長いですね。またメルデスさん達にも聞いてみようと思います。晩御飯の時とか忙しいのでミツルさんがいてくれた方が大助かりなのですよ」
今の、録音しておいたら良かった。本人が聞いていたら鼻血を出して卒倒するであろう発言……高く売れたかもしれない。まぁタツヤじゃねぇからそんなゲスい事しないけど。たぶん。
「来週末はクリスマスなので買い出しもお願いしたいのですがね……」
「あ、グレンさん。それ今禁句っす」
腕組みをして溜息をつきながらそんなことを言った彼女を止めるのが少し遅かった。大喜びでクッキーを頬張っていたこだまの小柄な身体とテンションが崩落したのは言うまでもない。
□◆□
───同時刻、訓練場奥、強化室。
汗を流しながら話をする男が二人と、女が一人。銀色の長髪の一人は既にその他のメニューを終え、いかにもだるそうに小さなダンベルを片手で上下させている。普段は白衣を着ている彼だが今はタンクトップ一枚というラフな姿。
もう一人の男は腹筋台に寝そべり、半身をゆっくりとたたんだり開いたりしている。額から流れる汗を拭うために眼鏡を外した。翠色の瞳に金色の髪。黒いスーツが板についた彼もまた動きやすく露出の高い衣服に身を包んでいた。色白の肌が今日は血色よく薄く赤くなっている。
そして最後に、再び銀髪の人物。彼女はいつも通りの迷彩のズボンと薄い黒の半袖。鍛え上げられた腕の筋肉はその場にいる誰よりも逞しい。彼女が使うランニングマシン、走行距離は40キロメートルとあるが全く息を切らしている様子がない。
「随分、と……鈍ってしまったようだねぇ。かなりキツいよ」
「フン、あまり、無理は、するな。レンと、比べれば、幾分、マシ、だからな」
「うっせぇぞ。妹の分際で……」
「戯け。兄だと、言う、ならば、私に、勝って、からに、しろ」
オルガナはそう呟くと手元の速度計のツマミを三段階も上げた。それを見ていたレンはどっと後ろに倒れて仰向けになった。そう、彼女に体力で勝てる者など皆無に等しいのだ。いや、彼女を倒した相手のせいでここまでストイックになっているとも言えるのだが。
いつもの兄妹喧嘩が勃発しようとしたその時。少し湿気たその部屋へ新たな人物が現れる。全体的に黒い服を纏ったOL風の女性。肩にかかった黒いストレートの髪。かけている眼鏡も黒縁。この場には何とも似合わない彼女が三人に一礼をする。
「御無沙汰してました」
凛とした声。少しばかり旧関西風の訛りのある話し方。汗を拭き終えたメルデスが眼鏡を掛け直し、笑顔になった。
彼女がすっと面を上げる。しかしそこに居たのはさっきの女性では無い。全体に黒っぽい服は変わらないが、OL風の服ではない。体にピタリと沿うような、それでいて襟元が和服のように重ね合わせているパンツスタイル。さらに、長い黒髪は編み込まれひとつに纏められている。先程まで眼鏡の奥に見えていた芯のある視線は変わっていないが、眼鏡も消えていた。
「待ってたよ。おかえり、望月」
「セギさんにお訊きしたら此方だと言わはりました。基本的にご報告することはセギさんにお伝えしたので、帰還のご挨拶だけ」
改まった口調でスラスラと話す彼女。確かに少し大人びていて声も低めであるが、どこか少しあどけない風貌が目尻などに残る。彼女は、望月千鶴。此処に居るということは、無論ミュートロギアの一員であり、先刻の通り異能である。
そそくさとその場を立ち去ろうとした千鶴をメルデスが呼び止める。
「まぁ、待ちたまえよ。何か言いたいことがあったんじゃないかい?」
やっぱりか、というように素直に立ち止まった千鶴は彼に向き直る。
「……修行が足りませんね、私もまだ」
少し自嘲気味に笑顔を返した彼女は手頃な長椅子の端に腰を下ろす。
彼女の話に興味があるのか、オルガナもランニングマシンを止めて水を口に含んだ。しばしの静寂が流れる。
そして、遂に千鶴の少し薄めの唇がぴくりと動く。
「父に会いました。いえ……正確には、姿を見ました」
「そうか」
「驚きませんね」
「分かりきっていたことさ。だからこそ、君もこの仕事を請けたんだろう?」
やはりこの男には敵わない、そう千鶴は再確認した。全てを見通した上で話す。初めてあった頃からそうだったが、成長した今、更にそれを感じる機会が増えたように思われる。
「おっと、だからといって君にまた行ってもらうことは無いよ? 今のところはね」
「……なんでですか」
そして彼は思考を先回りする。言葉を巧みに使って、彼なりの境界線をきっちりと引いて回る。千鶴は言わんとしたことを先に否定されたことで少し不満を覚えつつも、上に立つ人間としての彼の器量はやはり本物だと認めざるを得なかった。
「当たり前、だろう。今回は、前任が、怪我を、負って、しまった、為の、代役に、過ぎない。そして、私欲的な、行動は、規律を、そして、自らを、乱す」
オルガナらしい言葉だった。その言葉には一切の迷いも漬け込む隙も、譲歩もない。
「そう、ですね……」
重々承知していた。彼女も子供ではない。大人とは言えないものの、立派に独り立ちした思考。そっと服の端を掴んで耐えた。千鶴は今度こそ部屋を出ようと踵を返す。と、そこにレンが思い立ったように声を掛けた。
「そういや、まさかと思うが岸野が警察内にいたとか無いよな?」
「へ?」
「ここ数日、岸野の姿を見ないんだ。まぁ、彼の事だからそれは無いと思うんだけど……僕としてもそろそろ心配でね」
「いえ、セギさんへ伝えた報告を見てもらえたら分かりますが、そんなことは無かったです。万一ネメシスの最深部にでも居れば話は別ですが。じゃあ、私はこの辺で」
それだけ言うと、千鶴は部屋を出た。スライド式の軽い戸がピシャリと閉まる。小窓から見えた小さくなる後ろ姿は疲労が滲んでいた。彼女が請け負った仕事。それは、簡単に言うところの密偵。肉体そのものの外見を変化させる能力──『肉体変化』。本来、この危険な役職は成人済みの能力者に担われてきたが、全国的にミュートロギアに属する人数は減少。その要因は鬼との戦闘と言うよりはむしろ、ネメシスによる強行な能力者摘発にある。半年ほど前、ミュートロギア本部に残った唯一の適性人物が任務中の怪我によって一時離脱を迫られ、未成年の千鶴に回ってきたのだ。
しかしその彼も回復し、こうして千鶴は此処に呼び戻された。
「あの、低脳は、何処で、油を、売って、居る……」
握力強化用のハンドグリップを軽々と握り潰しながらオルガナが呟く。敢えて誰も、その表面に記載された数字が『60キロ』だということには口を出さない。
「まぁ、確実に僕の観測範囲は超えちゃってるからねぇ。いや、若しくは……」
「なんだ、メルデス。心当たりがあるのか?」
メルデスは首を横に振った。
「いや、もしそうだったとしても彼は無事だ。大丈夫だよ、きっと」
明らかに何か思う所があるようだが、それを口にするのを彼は拒んだ。「そろそろ終わろうか」と笑顔で話題を変える。銀髪の二人もそれ以上は訊かなかった。メルデスがこういう態度をとる時は絶対にペラペラとお喋りをしないのを分かっている。秘密主義の彼。それに助けられているのは岸野だけではない、彼ら、オルガナとレンも同じ事だった。
「あと一週間戻らなかったら何か手を打とう。それ迄は彼の判断に委ねようじゃないか。きっと、クリスマス迄には戻ってくるさ」
クリスマス……なんと、平和で皮肉な響きだろうか。
第二の鬼を退けてから約一ヶ月。『罪人が鬼になる』という仮説は偽であることが証明されたが、旧時代から存在する聖典が深く関わるとされるのは未だ変わらない。その宗教最大の祭事。信者であるか否かを問わず人々は騒ぎ立てる。子供たちは心を踊らせる。
しかし、メルデスは分かっていた。だからと言って彼等にできることは何も無い。依然として『鬼』あるいは『天雨美姫』との闘いはミュートロギアによる悪事としてしか世間には広がらない。だから、そんなことで自嘲しているくらいならばこの日を心待ちにする子供たちに何を贈るか考える方が幾分かマシである。
「こだま、何が欲しいって言うと思う?」
「は? まだあげるのか。もう高二だぞ」
「ははは、それもそうか」
クシャリと笑ったメルデス。その脳裏には贈り物を受け取るこだまの笑顔が浮かび上がっていた。




