请帮助
『鈴風……正在呼唤你。他……会在那个地方等着。请帮助他』
これが、彼女の最期の言葉。こう口走って倒れたのだ。
ドクドクと赤黒い血を流して倒れるこの女性から目が離せない。顕になった背中。何故か薄着で、ざっくりと割れたような傷……いや、待て、何かに切り付けられたにしては傷が粗い。そして、事切れたであろうその身体にも容赦なく雨が降り注ぐその光景を、俺は黙って見ている他無かった。
通行人が次々と足を止め、早くも人だかりができそうになっていた。しかし、傷や通行人以上に俺はある事がどうしようもなく気になっていた。
「フレイア、最後、なんて言った。中国語で、なんて言った?」
「……请帮助他?」
「それ、なんて意味だ」
「彼を助けてってことですの。『他』が彼で、『请帮助』が助けてですの」
リャンは……お前は、そんな事を言ってたのか。《助けて》って言っていたのかよ。初めて出会ったあの時から……!
傘を握る手に力がこもるのが分かった。唇を噛み締める。
「近くの公衆電話は……! 今すぐ行かないとッ」
公衆電話を調べようと握り直した俺の携帯がタイミングを見計らったかのように鳴り響く。お気に入りのミュージシャンの楽曲、『戦慄』が流れる。我ながら最悪の選曲だ。
電話の相手は、セギさんだった。こんな時になんだよ……!
【暁人くん! 今すぐ戻ってきてくれないかな、いや、戻って来い。早急に】
唐突に告げられたのは帰還命令。
こっちの状況など知らないはずなのに何故か彼の声もまた緊迫していた。まさかもうリャンのことを掴んだのか……? なら話は早い。
「先に俺だけで行きます! 誰かに俺の武器を持ってきてもらってもいいですか?」
【ちょいちょいちょい、待ってくれ。どこに行くんだよ】
「何処って……」
【君には今からB隊と中国に飛んでもらうんだよ? メルデスたちが先行してくれてるから】
おかしい……何故だ? まだ此処を発った筈が無い。飛行機の時間もまだある上に、彼女はリャンを助けてくれと言ったんだぞ……!
「行けません。何かの間違いだと思いますよ! それに俺は今すぐ行かなきゃいけな……」
「ちょっと……ッ! 避けて!」
電話越しに反論した矢先だった。ぐいと服の裾を掴まれ、バランスを崩した俺は引き倒された。
刹那。
真っ黒な影が鼻先を掠めた。その後漂うのは異臭。腐ったような、鼻をつく匂い。そして、何よりこれは……!
「嘘だろ……」
思わず言葉が漏れる。俺と同時にコケたフレイアの手が震えていた。目の前の光景は彼女にとってかなりショッキングだったに違いない。きっと、初めて見たのだろう。
それよりは幾分、俺の方が冷静だった。なぜなら俺は見たことがあったから。
死んだはずの女の身体から吹き出すどす黒い霧のようなオーラ。そこから次々と、まるで地獄から這い出てきた亡者のように生けるものとは到底思えない者共が出現する。
それは人に限らない。大小様々な動物も赤い目を光らせながら集まった野次馬を蹴散らすように襲っていた。道路を走っていた車は急ブレーキをかけ、劈くような音が響き渡る。硝子などが割れる音、そして何より、人々の悲鳴……。
「フレイア、武器あるかッ?」
「な、ナイフくらいしか無いんですの……銃弾はお持ちですの? それなら拳銃も……」
「あるわけないだろ!」
クソっ……。一緒にいるのが他のやつなら此処を任せて俺一人で行けるが、フレイアには無理だ。それに俺はこの状況に女の子ひとりを置き去りに出来るような精神を生憎持ち合わせていない。でも、武器がなきゃ……
【どうしたんだよ……! 暁人くん、状況を説明してよ!】
「鬼化です! 今すぐ誰かを……ッ? まずい!」
兎に角誰かを呼ばなければならない。セギさんの話だとA隊は出払っているようだ。だがB隊はまだ残っているなら!
しかし、それを言い終わる前に俺は携帯を投げた。いや、投げざるを得なかった。目の前で倒れていた筈の女が生気のない目でこちらを見ていたから。めいいっぱい投げつけたそれは脳天に直撃して相手がよろめいた。
雨で濡れるなんてこの際気にしていられるわけない。その隙に傘を閉じ、身体の正面に構えた。フレイアを片手で制しながらジリジリと後退する。
今の時期の冷たい雨は俺の体温をどんどん奪ってゆく。
携帯を投げつけた程度で鬼は死なない。いや、浄化されない。
「あの、ナイフ……」
「自分で持て! 自分の身くらい自分で守れ! ……来るぞ」
女が地を蹴った。赤く染まった水溜まりから飛沫が上がる。そしてその直後には俺の目と鼻の先まで急接近していた。
こうなったら傘で応戦する他ない。いつも持ち歩かされているあの刀よりも重く、重心も全く違うから振るいにくい。敵の顎を砕くように繰り出した一閃も余計なテイクバックが必要なせいで難なくよけられるどころか、手元に引き戻すまでに再び仕掛けられてしまう。
「クソっ!」
そうこうしている間にも、新たに殺された人々が鬼化してゆく。
適当に逃げ込める場所を探すが、屋内はかえって危険だと教わった事がある。鬼化した奴らを引き込んでしまえば更に犠牲者も、敵も倍になる。そうなってしまえば袋のネズミだ。
一般人であろう人々の中にいた異能力者も向こうの方で応戦してくれているのが見えるが、果たしてそうもつのだろうか……。逆にあれが敵に回ってしまえば……どうしようもないぞ!
その時、視界の斜め上からやってくる黒い影。
……またかよ! 死肉に集まったところをやられたのかは知らないが、少し明るいからはっきりとはしていないものの、確かに赤い目をしたカラスが俺たちに突っ込んでくる。
ナイフを片手に俺の後ろで縮こまるフレイアに叫んだ。
「伏せてろ!」
手を持ち替えて、傘の柄の部分で小さな襲撃者を思い切り殴打する。遠心力によって加速され鈍器と化した傘の柄は十分な凶器となり、カラスは砂となって消えた。
だが、目の前のこの女等はそうもいかない。
誰か、頼む……!
来てくれ!
「──ッ……!」
チッ、流石はサーカスの団員だ。普通の人間よりも不規則な動きをする。街路樹の上に逃げたり、ガードレールを踏み台にしてかかと落としを仕掛けてくる。人間離れした身のこなし……ッ、そうか! 菊川たちを襲った奴らの中にいたのは……
浮かんだ絶望感を振り払うように傘の柄をもう一度しっかり握り直す。鬼化していない彼らにも菊川たちは敵わなかった……なのに、この目の前にいる此奴を俺は果たして退けられるのか?
「み、見てください……!」
「情けない声出してんじゃねぇッ……って、言うのも酷か」
女の猛攻がピタリと止んだ。
帆が敗れ、ぐにゃぐにゃに曲がった傘を持つ手が震え始める。落ち着け、俺……! ビビっててどうする。今フレイアを守れるのは俺しか居ねぇんだぞ!
自らに喝を入れるものの、やはり頭に浮かぶのは焦りと恐怖が大半だ。
見渡す限り、この通りで生存しているのは俺たちだけだ。あの見知らぬ能力者も虚ろな目をこっちに向けてフラフラと立っていた。完全に囲まれている。逃げ道は背後の細い路地だけ。
「フレイア、お前だけでも逃げろ」
「でも……」
「万一行き止まりだったらどうするんだよ! 共倒れよりはマシだろ!」
声が震えているのが悔しい所だが、これは本心だ。誰かが確実にこの状況を伝えなきゃいけない。リャンを助けに行けない事に胸が裂けそうだがフレイアさえアジトに辿り着けば誰かが救ってくれるかもしれない。
睨み合う俺と、血塗れの女。なんだか変だな。周りの鬼化した奴らを統率しているかのようだ。今までこんなことあったか? 少し不気味だ。前の第一の鬼でさえこんなこと無かった筈だ。
ドゥルルルルルルルルルルルルルルルル
「な、何の音ですの……!」
突然轟音がビルの間をこだまする、これはエンジン音……?
それに反応したように、女が跳躍する。それに続いて一斉に襲いかかる動く大小の骸。様々な形の影が、俺たちめがけて……
「どいたどいたァアアアアアア!」
耳を劈くような衝撃音とともに聞こえるくぐもった声。
同時に背後から俺たちの頭上を掠めたのは大きな二輪の鉄の塊。跳ね上げた泥水が降り注ぐ。そして、それは襲いかかろうと跳躍した女の身体をくの字に曲げて吹き飛ばした。反対車線のビルの壁にめり込むように叩きつけられる。
そして、歩道のタイルが着地によって大きく抉れ、その車体が奴らと俺たちの間に入った。
乗っていたのは二人の男。二人とも長身で、服の隙間からは肌ではなく包帯が見えるところも多々あった。
「よっ、アキト」
肩幅が広めの方の男がヘルメットを脱いだ。白い歯、そして赤い髪が現れる。背中には二振りの刀を背負っていた。
「遅くなってごめんね」
手足の長い細身の男もヘルメットを脱いだ。茶色がかった髪がふわりと躍動し、優しそうな双眸が俺たちに笑いかける。
「大丈夫……なのか」
二人の姿を見たのはかなり久しぶりだった。思わずありきたりなセリフが口からこぼれる。
「うん。神威もね」
その瞬間、タツヤの隙だらけの背中に飛びかかろうとした犬が砂に変わり、直後にはターーンという銃声が聞こえた。
どこから撃ってるんだ……? こんなにタイムラグがあるってことは、相当遠い場所か……または高い場所……。
「神威はオレ達ほど鍛えれてないからよ、まだギブスしてやんの。だから、一ブロック向こうのセントラルビルに置いてきたんだぜ」
ニカッと笑うタツヤ。だが、そういう彼だって首元から肩にかけて包帯をしているのが分かるし、隣にいる菊川だって頭にぐるりと包帯を巻き、綺麗に整った顔の右頬には大きなガーゼが覆っている。そんな状態で雨の中ここまで……。
「ほらよ、アキト。お前のだ」
後部座席のサイドに突き立てられていた棒状のモノと、シートを開けたところから取り出した、ずっしりと重いモノを受け取る。
「腕の見せ所だよ、アキト」
「わかってる。じゃあ俺が突っ込むから二人はフレイアを……」
「あ? なぁに馬鹿なこと言ってんだよ」
俺と向かい合うタツヤの肩の向こうでは、神威の狙撃で弾幕がはられ、敵が蹴散らされ始めているものの数が多すぎる。それに、この二人に無理をさせる訳には……
「お前は、行かなきゃいけない所あるんだろ。待ってる奴がいるんだろ?」
俺の心を見透かしたかのようにタツヤが言い放つ。
……っ、タツヤお前、いつもはあんなにタラシで面倒くさがりな癖にこんな時だけそんな真剣な顔するなよ。
「ああ。そうだ。行かなきゃいけない所がある。待ってる奴がいる」
「そうと決まれば……はい、フレイアちゃん。君もアキトと行ってほしい」
菊川が服のポケットから取り出したのは6発分の銃弾。殺傷能力はあまり高くないものの軽量で微妙な手ブレにも左右されにくいタイプのものだ。
彼は黙りこくっているフレイアの小さな右手にそれを硬く握らせた。
「どうして……ですの? 私が何故、今まで銃弾を一発分しか持たせて頂いていなかったかご存知ないんですの?」
「知ってる。でも、神威が大丈夫だって言っていたよ? 照準の合わせ方があっていないだけだって。勿論、君の訓練する姿を見て言っていたんだよ。責任は僕らが取るから心配しなくていい。アキトを助けてやってくれるかい?」
フレイアに優しく微笑む菊川。フレイアの顔がみるみる赤くなる。やっぱり菊川、お前ずるいぞ。
俺は手元に目線を落とした。鞘に包まれた少し短めの刀と、ホルスターに収められた自動式の拳銃。あんなに前は持つのさえ嫌だったのに、今はすごく頼もしく思えた。
そして何より、これを届けてくれた彼らが……。
「あっちゃー、アイツまだ動くのかよ。あれが親玉だろ、流石にしぶといぜ」
タツヤの視線の先には、大きく抉れたビルの壁とそこからはい出てくる女の姿があった。衣服はほとんど破れ、手足は有り得ない方向にひん曲がっているが確かに俺たちをじっと見ている。
そして、再び彼女の身体からどす黒いオーラが発せられる。
「さ、アキト、フレイア、もう行きなよ。僕らに此処は任せて」
「今回の鬼は今までとは少し違うんだ、何故か統率が取れているようなそんな動きをする。気をつけて」
「おい、アキト。人の心配はいいからとっとと行けっての。あっちにはもう一人助っ人用意してやってるから楽しみにしてろよ?」
「え?」
背中から刀を引き抜きつつ不敵な笑みを浮かべるタツヤ。助っ人……? 誰の事だ。
「いいから早く行きなよ。エンジン温まってるよ」
そう言いながら、菊川が俺たちにヘルメットを被せる。
「わかった。ありがとな、二人とも……いや、三人とも」
戸惑うフレイアを後部座席に乗せ、エンジンをふかす。雨に濡れて冷たくなった彼女の腕が俺を包んだ。少しくすぐったい。
バイクで飛ばせばあの場所まではほんの数分だ。アクセルを全開にして神威の弾幕のバリアーから飛び出した。後ろのフレイアが小さく悲鳴をあげる。
サイドミラーを横目で見ると、大きな火柱が立っているのが見えた。あの能力者か……。だが、俺はあいつらを信じるしかない。いや、信じている。信じなきゃいけないんだよ、本城暁人。
「飛ばすぞ」
公式に教習所へは通っていないが、それでもこうして扱いが分かるのは昔やっていたゲームのおかげ。こんな時じゃ無ければもっと風を切る感覚を楽しみながら颯爽と走りたいが、今はただただ前を、そして、その先にある目的地を見据えてこの鉄の馬に身を任せる。白い排ガスが追いかけてくる。雨に濡れた身体に吹き付ける冷たい風は急激な体温の低下を招くだろう。
「寒くないか、フレイア」
「だ、大丈夫ですの、私は。私に出来ることをするんですの」
だが、俺たちは凍えずに済んでいる。さっきまで震えていたフレイアがしっかりと俺の胴体に手を回していた。
チラリと見ると、フルフェイスのシールドの奥で、紫色の大きな瞳が決意の焔を燃やしている。俺は一人ほくそ笑んだ。やっぱりお前は、そういう目が似合う。ふとその時、もう一人の少女の顔が浮かんだ。彼女もまた黒く大きな瞳で、強い想いを秘めている。
「まだですの?」
「あぁ、もうすぐ見えてくる。あと少し……ん、ん? アイツは……!」
土手沿いの道。左下に見える川は増水し濁流と化している。古いアスファルトに溜まった雨水を大きく吹き上げながら走る俺たちの前方に見たことのある人物が、雨ざらしの中じっと立っていた。
3メートル程手前でバイクを停めた。バイクから降りた俺はその人物と対峙する。
「何しに来たんだ」
「あなた、言ったじゃん。『誰か、頼む……!
来てくれ!』って」
久々に彼女と交わした言葉。彼女の真っ直ぐな目に嘘は無かった。お前には聞こえたんだな。俺の《声》が。
『話を、聞いてあげれば良いのですよ。此処で』
終焉の鬼の言葉が再生された。どんな手を使ったか知らないけれど、きっと俺とコイツは何処かでリリーを介して繋がっている。
「アナタが助っ人ですの?」
フレイアの問いかけに小さく頷くこだま。手にはしっかりと、刀の鞘が握られていた。
「いいのか、こだま。メルデスとの約束があるんだろ」
「良くないよ。でも、私はこうしたいっておもったの。あなたがどこかに行ってしまいそうだから。このままあなたと離れるのは嫌だと思ったから」
何処までも真っ直ぐな瞳。歪みも淀みもない、鉄板のような硬い意志だった。
「じゃあ、行こう」
ジーパンのベルト部分に拳銃とその替え玉、そして右手には刀がある事を確かめて公園の広場を見つめる。雨で霞む中に存在感を放つ、派手な色のテント。全く変わらない場所にあるそれは、俺の友の家。
思っていたよりも静かで、いやむしろ、雨の打ち付ける音しか聞こえてこない。不気味な感覚に、背中を嫌な液体が流れたような気がする。
リャン、待ってろ。
俺ができることを、お前のために俺ができる全てを……!




