曇天のち降雨
「んじゃあ、リャン。明日、絶対手振りにいくからな。見といてくれよ?」
「イイってば〜」
この期に及んでまだ遠慮するリャンを軽く小突く。
でも、やっぱりなんか残念だな。廊下をすれ違う生徒達、彼らもやっとリャンに慣れてきた所だったのに。初めはあんなに距離を置く人が多かったが、最近はちょくちょく声をかけてくる人も増えた。
リャンの人懐っこい性格はことごとく受け入れられた。ついでに運動も得意となれば……あの佐和山先生に可愛がられるのも仕方ないだろう。
「アキトはやっぱり、イイ人デス。アキトの夢、応援してマス!」
「ん、ありがと」
ガチャン、と下駄箱を開けて中の靴を取り出す。踵を踏む癖があるせいで履きづらい。もたついているうちに、リャンが先に昇降口から出ていってしまう。生徒達の談笑する声が響く。
外に出たリャンの辮髪が大きく靡いた。
「降りそうだな。風が強い」
校舎と校舎の間から見える空が薄汚れている。リャンも空を見上げていた。その視線の先にほんの少しだけある雲の隙間から、暗雲に飛び込もうとする飛行機が見えていた。
「ボクも、アキトみたいなりたいデス」
「リャン……?」
俺の呼びかけには答えずに、一人歩き出してしまう。どうか、したのだろうか。
「どうした?」
「何でもないデス。ただ、アキトなら……ウウン、やっぱりやめときマス」
どうしたんだ。何でそんな意味深な……。何も言えずにいる俺に彼は向き直った。頬に笑窪を作り、右手を差し出す。
「次あった時、言いマス! それまで、アキトはそのままのアキトでいてくだサイネ」
「あ、あぁ。お前も、そのままでいろよ。また会いに行くから。リャンにも、風太にも」
俺とリャンの右手が触れ合った。
刹那
「……──ッ?」
あの時と、同じだ。
《声》が響いた。
《请帮助》
ただ、あの時と違ったのは、その直後に起きたある変化。
俺の脳内が悲鳴をあげる。痛い……。発作を起こしたクレイスに触れた時と、同じ……!
「どうかシタ?」
顔を覗き込んでくる彼の目を、直視できない。崩れ落ちそうになる膝をどうにか踏ん張った。元々得意じゃない笑顔を作る。
口角を上げ、歯を見せた。
「何でもない。くしゃみが出そうだっただけだから」
と、わざと鼻を啜ってみせる。彼は心底不思議そうな目で俺を見てくる。
まさか、いや、そんな筈ない……父親の鬼の影響が、まさかリャンにまで? あの《声》は俺に、何を伝えているんだ!
「哎、鈴風!」
校門の方から声が掛かる。流暢な発音……リャンの家に行った時にも出会った、サーカスの女性団員だった。笑顔で手招きをしている彼女は、沢山のダンボール箱を壁に立て掛けていた。
今から、荷造りか。
「梓萌サンだ、ボク行かなきゃ」
伸ばした手はリャンに届かない。引っ込めた手にヒンヤリとした感覚。ポツリポツリと地面が、俺が、濡れ始めた。
元気でな、リャン。
父親の事は、俺がしっかりカタを付けてやる。
□◆□
「メルデス……メルデスッ!」
瞼の奥から、透き通った緑色の瞳が現れる。彼の白い肌にその瞳の色はよく映える。だが、その薄めの涙袋の下には黒いクマがうっすらと残っていた。
彼は重い身体をゆっくりと起こして声の主の方へ目を向ける。手探りで何かを探す彼の手の中に、男はメガネを握らせた。彼がいつも付けているものである。
「ああ、セギ? よく眠れたかい。もしや僕は寝坊をしたのかな?」
「いや、まぁ、遅いっちゃ遅いけどさぁ。本当はもう少し寝ていてほしいくらいなんだよ? ただ……そうも言っていられないようなものを見つけてしまったんだよね。これ、見てくれ」
セギは予め立ち上げていたパソコンをメルデスが見やすいように置いて、一つのファイルを開いた。
少し薄暗い映像ではあるものの、沢山の人々が行き来しているところを撮影しているようだ。大きな荷物を持った人が目立つ。
「空港かい?」
「ご明察。暫くこの3-Aの柱の辺りをしっかり見ていてくれるかな」
「……ん?」
メルデスの気づきと共に、セギが映像を止めた。カーソルを動かして該当の箇所を拡大、鮮明化していく。セギが自ら開発した画像解析システムは元となる画質の良さと相まってそのシルエットを詳細に浮き彫りにしていく。だが、彼の技術ではどうしようも無い最大の欠陥があった。
「顔が、映っている物はなかったのかい?」
「うん。残念ながら。流石、コソコソと色んなことしてるだけあるねぇ。相当慣れてる」
セギは忌々しく呟いた。画面に大きく表示される二つの背中。一つは大柄な男で、殆どの髪を剃りあげて頭の頂点あたりで三つ編みにしている。そしてもう一つは……
「一昨日のこだまとリリーの言葉は本当のようだね」
「ん?」
「あぁ、君は寝てたから知らないだろうけど、一昨日の晩、こだまが指揮官室に来たんだ。リリーの言葉を伝えるために。正直、リリーの言うことを全て信じるのには気が引けていたんだけど、これではっきりした。クレイス姫は、操られている可能性が高い」
男の右隣。頭一つ分小さな背丈の華奢な後ろ姿。帽子をかぶって隠しているものの、首元から金色の髪が垣間見えている。
「何処へ向かった?」
メルデスは布団から下りながらそう訊ねる。そのくらいは自分で出来ることを知っていたセギだが、反射的に彼に肩を貸した。
そして問に答える。
「まだ飛んでない。乱気流の影響で、空港に足止めされてるらしいよ? ZNA航空C-36U6便 中国北京国際空港行 8:36発だ」
「今、何時だい……。おや、かなり寝過ごしてるじゃないか。もっと早く起こしてくれたまえよ……。で、彼らは本当に三時間も足止めを?」
「多分ね。ただ、雨雲の様子を見ている限りもうじき飛べるようになる可能性があるけどー?」
「いや、そうじゃないな……」
寝間着姿のままのメルデスを車椅子に座らせたセギは彼の否定に首を傾げる。メルデスは何かを考え込んでいるようだ。
「今すぐ行こう」
「え、空港? 一応、偵察隊は出したけど?」
「いいや、中国さ。若しかすると……」
彼は知っていた。ネメシスにいた時代にも王青鸞には手を焼かされた苦い思い出があったから。多くの裏組織と通じていて、その時々に応じて援助を受けつつ、対価を支払う。それが奴のやり方であった。
特に今回は、とても強力なバックがいることが確かだ。それも、鬼の存在を知っている、または、鬼自身の。メルデスの本能のようなものがそう告げていたのだ。ならば、クレイスを操って連れて行けたという話も頷ける。
「別ルートで逃走したってこと?」
「ああ、そうだ。そう言えば、アキトくんは?」
「多分、クレイス捜索に出てくれてる筈だよー」
「そうか……じゃあ、僕とオルガナでA隊を率いて先に向かうから、アキトくんはB隊と後から来てもらおう。着替えたらすぐ行くと彼らに伝えてくれるかい? 先行隊で奴の潜伏先を洗っておくから。あ、杖取ってくれる?」
現代的なデザインの杖。壁に立てかけてあったそれを、セギは渋々といった様子で手渡した。どう見ても全快ではないメルデス。メルデスのようには透き通っていないものの、確かに緑がかったセギの瞳が心配そうな視線を彼に送る。
実は昨日。一昨日の騒動への対応がかなりの負荷になったらしく、レンが絶対安静を命じていた。どんな症状だったかはレンしか知らないが、部屋から出ることも禁止されるということに相当悪い状態だったことは容易に想像がつく。
フラフラと杖を頼りに立ち上がるメルデス。彼をここまで突き動かすのは何であるか、詳しく聞いた者は居るのだろうか。少なくともセギは聞いたことがなかった。
だからと言って、行くなとも言えなかった。メルデスの力が無ければ、ミュートロギア、人間に勝ち目はないから。
「前も言ったけどさぁ、無理すんなよ、メルデス?」
「はは、みんな心配しすぎさ。こだまも、レンも、君も。僕は大丈夫」
□◆□
「12:58発って言ってたけどなぁ……これ、飛べんのか?」
厚く黒い雲を睨みつけながら堪らずに呟いた。傘に打ち付ける雨音は止むことを知らない。それどころか、もっと強くなっている気もした。触れるだけで体温を奪ってゆく冷たい雨。靴に染み込んでしまって冷たくて仕方が無い。
すれ違う人たちも皆それぞれに傘をさしている。赤、青、白、黒、緑……晩秋に咲いた花のように通りを賑わせていた。
車道を走る大型のワゴン車が大きな水しぶきを上げて対向車線を横切った。
こんな日は、あの夜のことを思い出してしまう。下腹部にそっと手を触れる。実は、まだ手術痕がうっすらと残っている。あの日から、俺の人生は大きく狂った。俺を見つめていた彼女の赤い瞳は未だに脳裏から離れることは無い。
こだまの、姉。政府子飼いの暗殺者。彼女は今何処で何を想って居るのだろうか。
「ん?」
先程ワゴン車が通り過ぎた対向車線の歩道。見覚えのある後ろ姿に足が止まる。道路にしゃがみこんでいるのは……アイツに間違いない。どうしたんだ。腹でも壊したか、それとも何かを見つけた?
5m先の信号が青に変わったばかりだった。走り、水たまりを跳ね上げながら渡る。
やはり彼女だ。赤いウェーブの効いた髪。彼女は女子らしいピンク色の傘をさしていた。
「フレイア、どうした……っつーか、お前、その服なんだよ……ッ?」
不覚だった。髪型と雰囲気だけで彼女と判断するまでは良かったが、いつもと違う服を着ている事に全く気づいていなかった。目のやり場に困って黒い空を仰ぐ。
タツヤ用語で言うところの絶対領域なる所が今にも見えてしまいそうな丈の短いスカート。こだまもよくパンチラなるものをしているが、彼女のワンピースよりも危険度が高いように見える。黒いタイツを履いてはいるが、そういう問題ではないのだ。特に今は、目を細め、地面をじっと凝視してしゃがみ込んでるし……!
ついでに言えば、雨に濡れた服が体にひっついていてボディーラインを無駄に引き立たせているようにも見える。
「ばっ、なっ、何見てるんですの!」
「なんも見てねぇよッ。何探してるんだって聞こうとしただけだ!」
俺に気づいたフレイア。バッと胸を隠しながら立ち上がるが……いや、俺が見てたのはそっちじゃない。って、ううん、見てない。俺は何も見ていないぞ……ッ。それにお前、大して隠すほどの胸も……
「何か、失礼な事を考えていますの?」
「考えてない!」
調子が狂うなぁ……全く。また顔に出ていたらしい。細い目で睨みつけるフレイアの顔が恐ろしい。深呼吸をして表情を引き締め、改めて尋ねる。
「で、なんか探してたのか?」
「……コンタクト、落としましたの」
「目、悪いんだ」
「いけませんの? め、眼鏡があまり似合わないとか、そういうんじゃないんですのよ! 断じて!」
はぁ。眼鏡の話を振った気はしないが、要するにあまり似合わないんだな。その言い方だと。んまぁ、フレイアの目はかなり大きいし、まつ毛も長くてキリッとしてるから眼鏡はしない方が似合っていそうだ。目を細めてるあたり近視だろうけど、そうなると目が少し小さく見えるからな。
「い、一緒に探してくださいます?」
「あぁ……えーっと」
携帯の時計を見ると、リャンを見送る時間まではまだそれなりにあった。仕方ないな、探すくらいなら手伝うか。地下鉄の駅が近い事もあってそれなりに人通りのある場所だ。早いこと見つけた方がいいに決まってる。
「いいけど。コンタクトってハード? ソフト?」
「こんな時に外れるんだから、ハードに決まってますでしょう! 貴方はバカですか」
「だから、そういう言い方が良くな……」
パリッ
俺の足元で、妙な音がした。彼女に歩み寄ろうとした瞬間の出来事。硬いものを踏んでしまったような、それでいて、ナニかを壊してしまったような……!
片足をあげてその裏を見る。キラリと光る小さな欠片がシリコン製の靴裏に刺さり、よくよく見ると俺の足があった辺りには薄く小さい円形の残骸が残されていた。やっちまった。
「わ、悪い」
「さ、最っ低ですの! この前少し貴方の株が上がりましたのに、最低水準の一歩手前まで暴落いたしましたの! 泡が弾けましたのよ!」
株に例えて俺を罵りつつ、傘を挿したまま器用に片手で俺の腹を殴ってくる。最低水準の一歩手前ってことは、最低はいつだ……オルガナの一件か? どんだけオルガナ大好きなんだよ。
べしべしと殴ってくるものの、痛くも痒くもないので怒りが収まるまでじっとしていたが、彼女の怒りが収まる前に体力が尽きたらしい。運動音痴にも程があるだろ。
それよりも通り過ぎていく人々の冷たい視線の方が俺には痛いね。
「ぜぇぜぇ、兎に角、はぁはぁ、許しませんの! 弁償して頂きますからねっ!」
「はぁ」
我が家は皆視力には困らない家庭だったおかげでコンタクトレンズとやらの値段を知らないが……大した値段にはならないだろう。所詮あれだけの質量のガラス細工だろ?
「雨も強いし前見えてないんじゃ危ないだろ、アジトに戻ったらどうだ」
「い、嫌ですの! 自分の撒いた種は自分でどうにか致しますの。私ができる範囲でなら、何でもするんですの!」
「なるほどな、んじゃあ、風邪ひかない程度に頑張れよ」
「貴方はどうするんですの」
「俺はだな……」
ポケットから携帯を再び取り出す。時間を確認するためだ。探す手間が俺の破壊により消滅したからな。別に問題は無いが地下鉄の時間が気になったのだ。だが、その時。カラン、と小さな音を立てて何かが落ちた。携帯と一緒に入っていたのか?
しかしその疑問は見ればすぐに解決した。フレイアがすかさず拾い上げた物。小さなプラスチックと金属でできた、弾丸。
一昨日の夜に拾ったやつだ。
「これ、どうしたんですの」
「返そうと思って忘れてた」
「盗みは犯罪ですのよ」
ジト目で俺の顔を凝視するフレイア。コンタクトが無いせいで一層目を細くしている。
雨脚が強くなってきた。雨にさえも責め立てられてるのか?
まぁそもそも。なんでわざわざそんな物盗み出さなきゃいけねーんだよ。万一何かあっても模擬弾じゃ致死傷は愚か、火傷くらいしか与えられない。持っているだけ無駄だ。もっと言えば、今の俺はそれを射出するための銃すら持ち合わせてないからな。友人との別れ際に得物は不要だ。
「盗んでねぇよ! つーか、俺は今から空港に行くんだ。あんまりそんなの持っていくのまずいし持っててくれるか?」
「共犯者にするおつもりですの?」
「だから盗んでないっ!」
全く。この優等生さんは融通が効かないのなんの……。可愛い顔してそんなこと言ってるから同年代に好かれないんだぜ?
「仕方ないですわね。一旦私が預かりますの。でも何故、空港に?」
「君も会ったことあるだろうけど、留学生のリャンフォンが今日発つんだ、日本を。だから見送りくらいしな……ッ?」
その時。突然背後から傘を持っていない方の腕を掴まれた。流石に俺も驚いて振り返る。片目が良く見えていないフレイアも至近距離にその人物が来てやっと驚いたようだ。
掴まれた腕が痛くなるほどの強い力。その人物はこんな雨の中なのに傘もさしていない。露出した肌という肌は俺たちと同じ黄色人種系の色だったものが、青白く変色していた。俺たちを縋るように見つめる瞳も黒色。俺は、この人物に見覚えがあった。
「あなた、確か……」
「鈴風……正在呼唤你。他……会在那个地方等着。请帮助他」
俺にはわからない異国の言葉でそう口走った彼女は力尽きたように俺にもたれかかってきた。受け止めた身体は冷たくて……だが、背中に回した俺の手には生暖かいものが触れる。
あまりの衝撃に、彼女には悪いことをするようだが傘を手放して飛び退いてしまった。
柔らかいマネキン人形のように倒れ込む身体。舗装の上の水たまりが飛沫をあげ、みるみるうちに赤くなる。
そんな光景を何も言えずに見ていた。
「梓萌さん……? フレイア、なんて言ったか分かるか?」
彼女は、リャンに手招きをしたあの女性だ。あのサーカス唯一の女性団員。
俺はフレイアの言葉を待った。とてつもなく嫌な予感を感じつつ。
「リャンフォンが貴方を待っている。あの場所で待っている。彼を助けて下さい……っておっしゃいましたの」
震える声で、しかし、はっきりと。フレイアは丁寧に彼女の最期の言葉を変換した。俺の中で何かが弾けた。




