不穏
コンコンコン
ドアをノックする音。慌ただしい室内ではそんな物音は無かったものと扱われてしまった。扉の外の少女は意を決してその重い扉を開く。
部屋の奥の大きな時計は、とうに日付が変わってしまったことを知らせていた。部屋の隅のソファーには仮眠をとる緑色の髪の男の姿があれば、部屋の中心の大きな机に地図を広げ、たくさんの赤いバツ印を黙々とつける女もいる。
パソコンに向かい合っていたメガネの男がその侵入者に気づいて顔を上げた。彼女が何故ここにいるのか……彼自身呼んだ覚えもなければ、ここまで入ってきてやっと気付くほどに目の前の処理に追われていたのだ。ぽかんとした顔で数秒見つめ合う。
先に切り出したのは少女の方だった。
「メルデス、ちょっといいかな」
少女は至って控えめに、そう訊ねた。彼の車椅子の側まで歩み寄り、椅子を引いてきてちょこんと腰掛けた。そこで漸くメルデスも気づいた。
彼女が手に何かを持っている。
「いいけど……もうこんな時間だよ、こだま。今まで起きていたのかい?」
「ううん。寝てたけど……リリーがどうしてもって言うから」
“リリー”
その言葉に、彼は、そして、彼の周りにいた大人達も皆、意識をこだまの言葉に集中させる。
彼女はその空気に気づいているのかいないのか。手の中で刀の鞘をコロコロと転がしながらメルデスの許可を待った。
今の彼女は杏色の髪を下ろし、寝間着を着ている。だが、寝る事と食べる事が至福の彼女の筈なのに、何を伝えに来たのだろうか。こんな夜中に。
「話してくれ、彼女が何か言っていたのかい?」
「うん。クレイス、操られてるって。今は探しても無駄だって」
「ならば、どうしろと、言うのだ」
カチリと赤いペンの蓋を閉め、オルガナはこだまに向き直る。時計の秒針の音が響く。
「分からない。でも、なんだか嫌なことが起きそうな気がするの。とても嫌なこと。なんとなくだけど」
まただ。こだまは、この『なんとなく』という言葉をよく使う。かなり確信のこもった、真剣な瞳で。黒いクリクリとした目がメルデスをじっと見つめる。『アナタなら信じてくれるよね』 そう訴えかけるように。
そんなこだまの頭を、メルデスはそっと撫でた。髪に添わせるように、愛おしそうに。『解ってるよ』と言うように。
「気をつけてね、メルデス。リリーが、今動いている鬼が一体だけじゃないかもしれないって言ってた」
こだまのその言葉に、部屋の中が戦慄する。机に伏せて仮眠を取ろうとしていた岸野もその言葉に身を起こす。メルデスも緊張した面持ちである。それもそうだ。始祖の鬼の心臓を宿すクレイス姫が攫われ、さらに、その敵が単独ではない……。それは、人員不足という別な問題をも抱えるミュートロギアにとってはこれ以上無い死活問題だ。
「だから、メルデス、私も戦わせて。もう見てるだけは嫌なの。皆が怪我して帰って来るの見てるの……嫌なの。それに……」
「こだま。それだけじゃないだろう」
メルデスは諭すような口調でこだまの言葉を遮る。その瞳はこだまの握る空っぽの鞘を見つめていた。
「姉に会えるかもしれないからだろう? アキトくんを助けたあの夜みたいに。終焉の鬼が君に何を言ったか知らないけど、当分、天雨美姫は慎重になる筈だ。内偵からもそういう動向があると報告も入っている。君の気持ちはありがたいよ。でも、少し考えさせてくれないか? 今、君をまた危険な目に晒すのは避けたいんだ」
───違う!
こだまは心の中で地団駄を踏んだ。全くそんなことは無い、と言えば真っ赤な嘘だが、彼女は今、別の動機でメルデスに話をしに来たのだ。だが、それを伝えたくても彼女は頭の中でそれを上手く処理できなかった。反論したかったのに。
だが、メルデスの気持ちを無視するのも心が痛んだ。
(大事な人に、何か大変な事が起きてしまいそうなの、何かわからないし、誰なのかもわかんないけど……私の大事な人が何処かに行っちゃうの! だから!)
「考えておくよ、こだま。だからもうおやすみ? 明日も学校がある。僕らも少し休もう。こんなんじゃ、何かが起きた時に動けないからね」
必死に訴えるこだまの視線も、今日という今日はメルデスに伝わらなかった。レンに「あまり無理をするな」と言われている身体に鞭打ってここ数日、特に昨日の夕方から活動していたのが祟ったのだろう。彼は、それどころでは無かった。
しかし彼はそれを悟られるまいと、こだまに笑顔を向けた。必死の笑顔だった。
こだまは、もう何も言えなくなる。
こだまも薄々感じていた。最近、彼が見せる笑顔が少し変わってきたことを。
「メルデス、死なないで」
ふと浮かんだ言葉がそれだった。彼女は彼の身体のことを知らない。特に、メルデスはこだまに悟られるのを避けていた。だが、彼女の直感がそう言わせたに違いない。
彼は暫く面食らっていたが、「勿論だよ」と、目を細めた。
こだまがいなくなった部屋に再び沈黙が訪れる。
「今回ばかりは、僕のとんだ誤算だった。鬼が現れるとばかり思っていたんだ。まさか生身の人間が絡んでくるとはね……」
「それは俺も同感だ、メルデス。あのバリッサって女みたいな輩だけじゃねぇっつーこったな」
メルデスの言葉は誰かに対して発せられたものではなかったようだが、眉間を抑える岸野が同意した。そう、今回の件は、メルデスの知能を以てしても予測不能の事態であり、それ故にここまで大事になっている。
メルデスの顔色が悪いのは、それだけでは無いが。
「さ、自分たちの部屋に戻ろうか」
パソコンをパタリと閉じて、机から離れる。メルデスはそのままソファーで眠るセギの傍らへ。起きる気配がないことを悟ると、ひざ掛けにしていた毛布を彼の肩にかけてやる。
その様子を見ていた岸野が大欠伸をした。そして次の瞬間にはその場から消えていた。普段、アジト内ではわざわざ空間移動をする事は無いが、相当疲れていたのだろう。歩くのも憚られて能力を使ったらしい。
「ご苦労、メルデス。ゆっくり、休め」
眠いのか、眠くないのか、疲れているのか、疲れていないのか。それすらも表情に出ていないオルガナもメルデスを労ってから部屋をあとにする。
指揮官室は、イビキをかきながら眠るセギと、疲れた顔のメルデス二人きりになった。
彼は車椅子を操って部屋の奥の方の暗闇へと消えて行く。それと同時に消灯され、短針がⅢを指した大時計がボーンと一つ鐘を鳴らした。
□◆□
――バシュッ、バシュバシュバシュッ
これは、模擬銃の発砲音である。銃自体は本物だが、通常よりも火薬が少なくさらにその弾頭は熱可塑性樹脂で出来ているこの弾は、万一被弾しても火傷とアザくらいで済むという、訓練にはもってこいの代物である。不本意ながらと言えど、俺もこれにお世話になっている。
さて、ひとつ疑問に持ってほしいのが……何故発砲音はするのに、着弾音がしないのか。
「……夜裂、何がしたいんだ」
撃っているのは、俺じゃない。
目の前にいるこの少女。ゆるくウェーブした赤毛。まつげの長い瞳の色は紫で、今は少し腫れている。
名前は、夜裂フレイア。一つ歳下の、秀才少女。語学に堪能で、学歴が華々しい彼女は今、窮地に立たされていた。自らが警護していたクレイス姫は何者かに連れ去られ、更に、助けに来た菊川らは負傷。それだけでも彼女の心は押し潰されそうだった筈だが、更に追い打ちをかけたのが、最も慕う人間からの余りにも酷い言葉の暴力であった。
防音のなされたこの部屋の中での音は、外には聞こえない。そもそも、今日は此処を使う人は誰一人居ないし、外の訓練場も然り。
手持ち無沙汰な俺は、その辺に回収し忘れている新しい模擬弾を見つけ、手の中で転がしていた。
「やっぱり……当たりませんの」
そう呟いて肩を落とした彼女は撃つのをやめた。取り出した弾倉はすっかり空になっていて、6m程離れた先にある的の人形の足元に銃弾は散乱している。そして、俺とフレイアの足元には薬莢がゴロゴロと散らばっていた。
模擬銃を棚に丁寧に戻した彼女は、長椅子の……何故か俺のすぐ隣にそっと腰を下ろした。手の中の弾をスっとポケットの中に入れる。後で片付ければいいや。
隣のフレイアの口から、吐息……否、大きな溜め息が漏れる。
《無能は、要らない》
彼女に手が触れた時に聞こえた、あの声が脳内に響く。
彼女をここまで追い詰めるこの深層意識は、どこから来たのだろう。
「私、此処に居る意味がないんですの」
唐突に独白を始めたフレイアは、何故か少し笑っていた。とても寂しそうに。
顔を上げた彼女は、自らが狙った的をじっと見つめる。銃弾が穿った穴は見当たらず、それどころか、かすり傷ひとつない。
「これから私はどうなるのでしょうね……此処にはもう、いられないのでしょうか」
足元の薬莢を蹴ると、カランカランと軽快な音を立て、空薬莢を溜める溝の中へと転がり落ちていく。
よく見ると、フレイアの手が小刻みに震えていた。何かに怯えているように。
「あんまり、オルガナの言ったことは真に受けない方がいいぞ? あんな事思ってるのは、あの人くらいだ。メルデスさんも姉貴もそんなこと思ってな……」
「そんなことありませんッ!」
彼女は突如声を荒らげた。目に涙が浮かび、唇を思い切り噛み締めている。まずいな、地雷踏んだ……?
俺は女子に対してこういうことしか言えないらしい。
この数日で女子を二人も泣かせるなんて……。
「お父様も、お母様も、同じ事を仰いました」
「え……」
フレイアの……両親も?
あの《声》は、まさか……。
「射撃も出来ない、格闘技も、剣術もままならない。それどころか! 自分の異能でさえも満足に操れない! そんな私に微笑んでくれる家族なんて、居ませんでした」
フレイアの異能……初めて会ったあの時のアレか。高エネルギー放出系の能力。威力は凄まじかったが、確かに的は外していた。
だとしても、自分の娘をそんなふうに扱う親なんて……。逆に、普通なら我が子をそんな危険な所に送り出すようなことなんてしたがらない筈なのにどうして……。
「もしかして、家族も、此処の人間なのか?」
コク、と彼女は頷いた。
「此処とは別の支部の、司令官でしたの」
『でした』か。つまり……今はもう、居ないという事か。その娘は心に傷を抱えたまま、今後も生き続けなければならない……悲劇だ。
「私は祖母の所に預けられ、学業に専念しました。それから何年かして……二年前、私が大学を首席で卒業したその年に、両親が国連に抑えられたと聞きました。表向きでは拘留中だそうですが、セギさんによれば……国連の裏データベース上では死んだとされていました。恐らく、それが事実でしょう」
きっと、フレイアは……親に認められたかったんだろう。必死で語学を学んで、飛び級で大学を出て……《有能》だと認めて貰おうとしたその矢先の出来事。
《無能は、要らない》
そして、この言葉だけが、彼女の中で未だに留まり続けている。彼女の心を蝕み続けているのか。
「それから暫くして、メルデスさんが私の元へいらっしゃったのです。『外交官』として、一緒に働かないか、と」
そしてそこで、オルガナに出会った……のか。
「初めてお会いした時、お姉様は何処か寂しそうで、孤独な感じがしました。でも、かえってそれがお姉様の強さのように見えて……何者も寄せ付けない、そんな空気感に惹かれたのです。それに! あの方は私にこう言って下さったのです。『誰かの為になれば、その時点でお前は有能だ。お前には、期待している』と」
先程まで険しかったフレイアの表情が柔らかくなっていた。記憶を懐かしみ、愛おしむように、目を細めていた。
誰にも認められず孤独だったフレイアが、初めて認められた。彼女にとって、何ものにも変え難い喜びだっただろう。
「なのに、私はそんなお姉様の期待を裏切ってしまった」
彼女にかける言葉が、見つからない。「そんなことは無い」と励ますべきなのか? 「一緒に強くなろう」と肩を持つべきなのか?
彼女は何を求めているんだ。俺は何をすればいい。
考えても考えても、答えは出なかった。いや、頭で考えれば考える程……逆に頭の中が混乱してしまう気がした。
何でこんな俺なんかに、赤裸々に自分のことを話すんだよ。出逢って数週間の俺に。
「所詮私は、未完成品ですの。完璧にはどう足掻いてもなれない。何度的に向き合っても、何度相手に挑んでも、同年代は愚か、歳下にも歯が立たなくて。それを埋めたいがためにした勉強も、結局、その欠陥を埋めてくれることなんかなかった。私はもうこれ以上無理ですの……」
一息に話し終えた彼女は上半身を折り曲げて頭を抱え、蹲った。頭や背中なんかを撫でてやれば良いんじゃないか、そんな気もしたが、俺の身体はその脳内の思考に反して口を動かしていた。
「あぁ、その通りだな」
鳩に豆鉄砲を食らわせたら、きっとこんな顔をするんだろうな。目を大きく見開いたフレイアが、俺の顔を見る。
俺自身も驚いていた。ほんとに、俺が喋ってるのか?
自分でもわからないなにかに突き動かされて、唇が、声帯が、俺の声で言葉を紡ぎ出していく。
「完璧になんてなれないよ。それに、お前がどれだけ勉強して、いい成績とって、大学出て、沢山の国の人と喋れるようになったところで、欠陥を埋めることは出来ない」
我ながら、酷い事を言っている。分かってる。しかし、この少女は大きな思い違いをしている気がしたのだ。
―――「気安くファーストネームで呼ばないで頂戴。自分より低レベルな男には威厳をもって接することにしてるの」
―――「まさか、クレアが休んでるのもその所為だったりするのかな」
「ほら、いつもみたいに言ってご覧なさいよ、『無能に言われたくないわ。私は有能で完璧ですから』ってね」
……彼女の言葉、そして、学校でたまたま聞いてしまった、女子生徒らとのやりとり。そこから導かれるもの。
「いいか、フレイア。誰しも欠陥はあるんだよ。お前にも、俺にも、オルガナにも。だけど、それを埋めるのは自分自身じゃない。他の誰かだ。お前が持っていないものを持ってる誰かがきっと、助けてくれる。これは珍しいことでも何でもない。お前は《無能》なんかじゃないぞ、《普通》だ」
勢い余って、名前で呼んでしまったが、それ以上に、フレイアは俺の口から飛び出た言葉に目を丸くしていた。言ってしまってから気恥しい気持ちで一杯になったが、間違った事を言ったとは思わない。
有能と無能を測る物差しなんて、世界中何処を探したって無い。旧時代の偉人の言葉にこんなものがある。
『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』
そう、誰もが上でもなく下でもなく、有能でも無能でもなく、《普通》なんだ。
逆に、すべてを完璧にこなせる人間がもし仮に居れば……そいつ程孤独な奴は居ないだろう。
「それに、『無理』って言ったらほんとに何も出来なくなるぞ。出来るって思った瞬間に、自然と身体が動いてくれる」
これは経験則だ。第一の鬼と死闘を繰り広げたあの夜、心のどこかで『無理だ』と思っていた俺は案の定バリッサの攻撃を真正面から食らう羽目になった。だが、レンや、岸野、オルガナ、それに、心恵さん達大人に背中を押される形だったけれど奴に再び立ち向かう事が出来た。
戦うことに積極的になれという意味ではない。俺自身、今でも戦うことを出来れば避けたいと思ってる。でも、目の前の彼女に諦めて欲しくなかった。何もかも否定して自分の殻に閉じ籠って欲しくなかった。
異能力の所為で人との関わりを拒んだ俺と、心の傷の所為で己の殻に引っ込んでしまったフレイア。
彼女を見ていると何処か、自分を見ているみたいで……。得体の知れない不安のようなものが俺を襲ったのは間違いない。
俺のチンケな言葉が彼女にどう伝わったかは定かじゃないが、俺の言いたいことは言った。あとは、フレイア、お前次第だ。
「《普通》……普通ですか」
「フレイア……いや、夜裂。お前はまじめすぎるんだよ」
───俺に似て。
「たまにはお前の気持ち、誰かにぶつけた方がいいぞ。自分だけで考えて解決しようとしてもどうしようもない事だってあるんだから。どうしても押し通したい事があるなら、押し通せばいい」
「間違ってることを『間違ってる』って、言ってくれる人がいる間にね」
バッと振り返る。女の声。フレイアではない。もっと大人びた、優しい声。
心恵さんだ。目尻を下げて悪戯っぽく笑う彼女は、背後の扉の側に立っていた。いつから、居たのだろう。気づかなかった。
手には鍵を下げている。
「ふふ、いいムードの所、悪いわねぇ。でも、消灯の時間よ? さっさと部屋に戻って寝なさーい。二人とも、それぞれの部屋に戻るのよ? まだ未成年なんだから」
ん……?
何かが、変だぞ。とんだ誤解を生んでいるような……背筋が凍る。隣からも不穏な空気がジリジリと湧き上がっているような気がする。
「ほらほら、ラブラブイチャイチャタイムは終わりよ? さ、彼氏くん、彼女を部屋までエスコートかしらん?」
ベッチィイイイイイイイ!
「オブゥッ!」
どんどんエスカレートした心恵さんの冗談に、お隣の火山が大爆発して、何故か俺がビンタを喰らった。
理不尽だ!
「こ、こんな性欲の塊の獣みたいなものと同じにしないで下さいましッ! こんな男と有能……清き少女が付き合うなど不浄極まりないですわッ!」
性欲の塊の獣は俺じゃなくてタツヤの方だ。つーか、今お前は多くの男子高校生を敵に回したぞ?
顔だけじゃなく、耳の先っぽまでマグマの如く真っ赤にした彼女は肩を怒らせながら射撃室を飛び出して行ってしまった。
小さな背中が腕を大きく振って遠ざかっていく。
「あの、心恵さん。そういうんじゃないですからね、俺たち」
「あらそう? なんだ、つまらないわね。まぁでも、アキトくん、あなたやるじゃない。もしや、相当な隠れタラシ?」
彼女は、何を言っているんだ。意図を汲み取れない俺のスペック不足か、それとも彼女が想像の斜め上を突き進んでいるのか。
「いずれにせよ、あの子のあんな顔初めて見たわ」
まるで、実の子供を見つめるような優しい目で心恵さんは笑っていた。なんだか懐かしい気持ちに掻き立てられる。そう、母さんもあんな目でよく俺に笑いかけてくれたっけ。
「若いっていいわねぇ……あなた達子どもはそうやって成長していくのね。最も、こんな状況下じゃそんな悠長なこと言っていられないのかもしれないけれど。……さ、早く寝ましょ。子どもは早寝早起きしなきゃダメなのよ?」
そう言って、心恵さんが射撃室の電気を消す。真っ暗になった。明かりは、彼女の手元の小さな懐中電灯だけ。広い訓練場の中を歩く俺たちの足音がやけに響く。
あ、拾った弾、戻すの忘れてた。
私服のズボンのポケットの中。その硬い感触に気づいた時にはもう遅かった。仕方ないか。またここに来る時にでも持ってこよう。
廊下は薄暗かったが、真っ暗という訳では無い。時折、ドアの隙間から光の漏れる部屋もある。部屋まで送ろうか、と言う心恵さんの好意的な提案もあったが、丁寧に断って別れた。一人とぼとぼと歩く。
無機質で、自らの姿がうっすらと移り込む壁。俺だけど俺じゃない誰かがやはり俺を追いかけてくる。
でも、数日前とは違って……彼は、少し俺に歩幅を合わせてくれているような、そんな気がした。俺の亡霊は、結局俺の一部だから。真面目すぎる俺自身だから。さっきフレイアに言った言葉の半分は、こいつに向けて言ったようなものでもある。
今少し、彼が隣で笑ったような気がした。
□◆□
昨日の朝と同様に、肌寒い朝だった。眩しい朝日に手のひらをかざすと指の隙間から光線が漏れる。
クレイスの一件でアジト内は今朝も少し慌ただしかったが、学生は取り敢えず学校に行くようにとのお達しがあった。神威たちは未だ目が覚めていないらしい。食堂でも、登校の時の転送装置の中でもその姿を見ていない。
「……あれ、リャン?」
「アキト、おはよう」
「何してるんだ?」
校門の前で待っていたのは、体育教師だけではなかった。同じ制服に身を包んだリャンだった。正確に言えば、制服と、筋肉質の腕に抱き包まれている。こんな寒い中、半袖かよ……。姉貴が暑苦しいと避けるのもご最もだ。
「サワヤマ先生とお話してタ」
「本城ぉおおおー! リャンフォンがもう帰るって本当かァッ? なんてことだ、こんなに今日は陰り無き青空……それなのに、オレの心の中は土砂降りだぞォ! お前と共に流した青春の汗は忘れないぞ、リャンフォン! オレたちは、この広い空の下で繋がっているからな!」
貴方は一体誰ですか。教師じゃないんですか。多分そのセリフは生徒同士の……。まぁ、良いか。
普段からスポ根マンガの読みすぎの様な発言を繰り返す佐和山先生だし仕方あるまい。抱きつかれているリャンは絶妙な困り顔だ。脇をすり抜けて校舎に向かう女子生徒が汚物を見るような目で見ているのに気付いているのだろうか。
涙か鼻水か……よく分からない液体で顔をベトベトにした彼からリャンを引き離す。
そう言えば、リャンは……いや、やめておこう。クレイスの事を訊くのは。野暮というものだろう。
「行こうか、リャン。佐和山先生、失礼致します」
「サワヤマ先生、どうかお元気デ!」
リャンお得意の天使の微笑が炸裂した。
彼のこの顔を見れるのも、最後か……いや、そんな事ない。そんなはずが無いと願いたい。
ふと空を見上げた。先程、佐和山先生は陰り無き青空と言ったが、北西の空に怪しい暗闇が見えた。
やだなぁ……。明日には晴れるだろうか。リャンはいいと言っていたが、空港まで見送りに行くという約束をしたのに。出来れば青空に飛び立つ彼に手を振りたいから。
俺の曇り空に光を差し込んでくれたのは彼だから。




